【再録】あの日とそのあと
十二歳(3)
「……試合のときも思ってたんだが」
待合室のソファが冷たくて硬くて落ち着かなくて、何かで気を紛らわせなければ我慢できなくなったダンデが唯一同室にいた人間にそう口を開いたのは、事情聴取が一通り終わってからのことだった。
迎えが来るまでここで待っていて構わない、と言われて既に一時間が経過していた。待合室の中は静かだ。時折アクリル張りの壁の向こうで、ブルゾン姿の警官たちが忙しなく廊下を通り過ぎていく。
ダンデが保護者代わりにと指名したローズはまだ現れてはいなかった。後処理が立て込んでいるのかもしれない。それでも、まさかハロンの家族に連絡を取るわけにはいかなかったから、ダンデは大人しくローズの到着を待つことにしていた。久々の連絡が息子の誘拐では、きっと母親をすごく心配させてしまうだろうし、何より家には幼い弟だっているのだ。迎えにくるなんて無理な話で、心労だけかけるのも躊躇われる。こういうとき、ローズさんがいてくれて助かるんだぜ、とダンデは思う。
そして何故か、ダンデの隣にはキバナも座っているのだった。ナックルジムにも連絡が行っているはずだが、というかここはナックルなのでなんだったら迎えに一時間もかかるはずはないのだが、何故だか迎えの来ないダンデに付き合うようにキバナは帰ろうとはしなかった。
かと言ってダンデと積極的に言葉を交わすつもりもないのか、無言のまま手繰るスマホロトムからは視線も外さない。彼が口を開いたのは、パトロール車両に揺られて警察署に連れられてきたときの「……ごめん。悪かった」の二言だけだ。
だからダンデから話しかけた。
「キミ、どうして自分の写真を撮るんだ? さっきも撮ってただろう、ここに来る前にこっそり……でも自分の写真って、例えば美味しいものを食べたときとか、友達と遊んでいて楽しいときとかに記念に撮ってポケ……スタ?に上げるんだよって、ソニアは言ってたんだが」
キバナは最初、無視を決め込もうとしたようだった。クールを装い、すいすいと無言で手元の端末を手繰る。ダンデも負けじとキバナの横顔を覗き込むように見つめ続ける。最初は機嫌が悪いのかと思ったが、どうやらそれだけでもないらしい。彼のぶっきらぼうは、そう演じてるからだよな、とダンデはその観察眼でもって理解していた。彼はオレに入れ込まないようにしているのだ。多分、情に厚い自分を守るために。
何故そこまで頑なになっているのかは、ダンデは知らないし知る気もなかった。変に入れ込めばトーナメントで戦い辛くなる、なんて思っているのかもしれない。そこまで考えて、ダンデは無性に嬉しくなる。彼はまた、今年もトーナメントに上がってくるつもりなのだ。
オレと実際に戦って負けてなお、勝てない勝負だと思っていない。
彼は勝負を諦めていないんだ。
(……?)
不意にちり、と意識の端の焦げつくような感覚があって、ダンデは微かに首を傾げた。嬉しい、彼と戦いたい、——それ以上に胸の内を焦がすこの感情は何だ?
やがて横から注がれる強い視線に根負けしたキバナがハァと大きな溜め息を吐き、ダンデの方に向き直った。じとりとダンデを睨めつける。彼の首の動きに合わせて、黒髪がさらりと揺れて目の端にかかる。
「なんでって。悔しいのを忘れたくねえからだけど」
「悔しい?」
「オマエは知らないのかもな、チャンピオン」口元に浮かべられる皮肉げな笑み。「バトルに負けたらな、すげえ悔しいんだよ。嫌になるくらいにな」
「そっちじゃない。というかそれくらい知ってるぜ」間髪入れず挟まれたダンデの抗議に、キバナの眉がわずかに上がる。意外だ、と表情筋全部で訴えてくるキバナに、ダンデはむっと唇を尖らせるしかない。「みんなして、オレを何だと思ってるんだ? ストリンダーにだって静電気にすら負けるエレズンの時期があるだろう」
「……あのダンデでも、勝てない相手がいる?」
「そりゃあ、いるぜ」
例えば師匠とか。
とは悔しいから口にしなかったが、キバナは「ふぅん」と生返事をし、何とも言えない表情を浮かべた。てっきり「そうかオマエでも勝てない相手がいるとはな」と満面の笑みでも浮かべられるかと思ったダンデは少し面食らう。
どういう感情だそれは、と隣の少年の顔を覗き込んで、ダンデは思わず息を呑んだ。
前を向くキバナの横顔に垣間見たのは、微かな安堵と悔しさだ。
——オレさまが一番に倒したかった。
すぐ逸された瞳の奥にそんな悲鳴を聞いた気がして、ダンデは無意識に体を引く。手をついた座面が深く沈む。
ぶつけられたのは、気を抜けば飲み込まれそうな激情の奔流だ。自然、口の端が吊り上がる。
やっぱりキミ、オレを避けるなんて無理だろう。
「……オレが訊きたいのは」ダンデは口元を強く引き締め直し、浮かれそうになる声音を押し殺す。「キミがあの場面で悔しがる道理がないだろうということだ。今回、キミは見事な立ち回りで二人を同時に相手取って圧倒していた。負けたわけでもない。なのに悔しい?」
「ああ、悔しいね」
今度はキバナが即答する番だった。こちらは隠す必要がないのか、取り繕うわけでもない表情をまっすぐにダンデに向けてくる。すぐ間近から見下ろされ、バチリと絡まった視線に、ダンデの脳裏には初めてキバナと対峙し、その瞳の色に魅入られた試合の記憶が蘇る。
あの日も、彼が巻き起こした砂嵐の中、埋もれもせずに輝く宝石のような光に一瞬目を奪われてしまったのだ。
例えるなら、洞穴の奥で人知れず湧水を湛える泉の碧。彼が奥底に擁する情が深いほど、水面に湧き出る彼の感情はより強い輝きを放つ。
それがわずかに伏せられる。
「……オレさまは、オマエをうまく助けられなかったし、逆に危ない目に遭わせちまった。それが悔しくなくてなんだって言うんだ?」
うん? そこでダンデは我に返る。
「……ちょっと待て。キミの理解は間違ってるぞ」
「……どこが」
「いや、オレが危ない目に遭ってたのは元からだろう。キミが来ようと来まいとオレは捕まってたし、人質に取られたことを言っているならそれこそキミが来なくても警察の踏み込み時にそうなってた。逆にキミが他の二人の相手をしてくれたから、オレは無事に脱出できたんだぜ」
「気休めはよせよ」
ダンデはパチリと瞬いた。本気でそんな風に受け止められる心当たりがない。心外だ。
「気休めなんかじゃないぜ。わざと捕まったんだから、ああいう脅迫も想定してなきゃおかしいだろ」
「……わざと……?」
聞き捨てならないとでも言うようにキバナが目を剥いたので、ダンデはやば、と慌てて口を閉ざした。そうだった、キバナくんは怒るだろうなと黙っていたんだった。
キバナは目の前にいる少年の無謀に、何か言うべきか口の中で言葉を探したようだった。が、結局溜め息一つで済まされる。よかった。
撫で下ろされたダンデの胸に、キバナの人差し指が突きつけられる。
「……だとしても、だ」投げかけられる声は低い。「仮にオマエがあらゆる可能性を計算済みだったとしても、オレさまが無用にオマエを危険に晒した事実に変わりはない。オマエはオレさまがいなくても助かっただろうに」
瞳の碧が一瞬揺れる。きつく絞られたまなじりに、彼の押し込められた怒りを見る。
「……キバナ」
「ローズさんはオマエの居場所を知っていたし、遅かれ早かれ救出の手を打った。現に警察の包囲も整いつつあった。他の二人の相手ったって、オマエだってあの程度勝てたはずだ。……オレさまだけがただ、あの中で役割を果たさない異分子だった」
力強く、しかし平温を装った声で己の無力を語るキバナの顔を、ダンデは思わず凝視した。感心した、と言うと少しおかしいだろうか。キバナがダンデの行動を無謀だと考えたように、ダンデもまた、キバナがあの場に現れたのは、子ども特有の無鉄砲を原理とした行動の結果だと思っていたのだ。
その彼の口から、それを自覚してなお行動に移したと聞くことになるとは思わなかった。
けれど同時に一つの疑問が生じてくる。
それがわかっていたのなら。
「ならなんでオレを助けにきた?」
ダンデはあえて、不躾にその質問をぶつけた。いや、ぶつけずにはいられなかった。
「リザードンは、キミをローズさんのところへ連れていっただろう? そしてローズさんはキミに待つように言ったはずだ。ならそこで、ローズさんが事件を解決するのを待っておけばよかった。キミが危ない橋を渡る必要はなかったんだぜ」
つい先日、ダンデに対して負けるとわかってるバトルを続けたって意味がないと言ったトレーナーがいた。
そうだ、あの場に来ても意味がないと、役に立たないと、行動が結果を生まないとわかっていながら。
「なのになんで、キミはあの場に来たんだ」
「それはオレさまが友達を助けることを止める理由にはならないからだ」
少年の芯の通ったその声は、電撃のようにピシャリとダンデの心臓を打った。
「きっと行っても、役に立たない。意味がない。だから何だ? ……ふざけんなよ」
彼の瞳の碧が、強く揺れるのを見る。
「友達が目の前で攫われてんだぞ。黙って見てられるわけないだろ。……なのに結果はこうだ。最悪だよ。もうぜってえ、オレさまの所為で誰も危険な目に遭わせねえ。全員守れるように、強くなってやる。見てろよ……」
彼の中で、敗北が薪となってごうごうと炎を上げている音を聞く。その熱は、ダンデにまで届いて身体の芯を熱くさせる。
彼は何も諦めるつもりがないのだ。
ならば自分も、とダンデは思った。自分も、もしかして諦めなくてもいいんじゃないか?
満たされたいと願うことを。
だから。
「……なあ」
「……なんだよ」
「『友達』?」 「……あ」
瞬間、キバナがバッと両手で口を覆った。しまった、と歪むその表情がありありと失策を物語っていて、ダンデは少し笑ってしまった。
もうここまできたら誤魔化さなくったっていいだろう!
「オレたち、もう友達ってことでいいか? キバナ」
なのにキバナはゆっくりと首を横に振る。
「……オレさまは、オマエのライバルになりたいんだ」
「もうなってるだろ」
言えばびっくりしたようにキバナの目が見開かれる。
「ライバルか?」
「そうだぜ。オレたち、ライバル、兼、友達だ。だから別に、無理に避けなくったっていい」
例えキバナが嫌だと泣いて喚いても、ダンデはもうそうしようと決めていた。
けれどどうやら心配する必要はなかったらしかった。ダンデの言葉に、キバナは少し考えて、それから嬉しそうに歯を見せた。
「……なら、しゃーねーから、そういうことにしといてやるよ、ダンデ!」