【再録】あの日とそのあと


十二歳(2)


 ナックルシティが遥か眼下に広がる上空で、キバナは暴れたい衝動を必死に押し殺してリザードンの腕にしがみついていた。吹き荒ぶ風が冷気となって頬に全身に鋭く刺さる。さしものキバナもこの状況で身動きを取る気は全く起きなかった。うっかりリザードンが腕を滑らせれば、下の道路に真っ逆さまだ。
 この弾丸特急が早く速度を緩めることを祈りながら、キバナはたった今目の前で起きたことを反芻していた。
 ただヤツが落としたスプレーボトルを、届けてやるだけのつもりだったのだ。
 チャンピオンとは言ってもダンデはまだわずか十二の子どもだ。それが世の中の悪意の存在なんて知りませんみたいな無防備な顔で菫の髪を揺らしながら、人けのない方に、入り組んだ方に妙に急いで向かうから、おかしいとは思ったのだ。道に迷うにしてもそんな迷い方があるかよ、と。思えば、あのときからダンデは後を尾けられていたのだろう。もしくはキバナと話していたときから、不穏な影は背後に忍び寄っていたのか。
 次にキバナが見たダンデは、知らない大人に袋小路に追い詰められて、キバナを逃すと同時にクサイハナの眠り粉に膝をつき、ガアタクの車に押し込まれていた。
 グッとしがみつく手に力が籠る。リザードンのざらりとした肌の感触に、キバナの指がわずかに沈む。
 今更ながらに理解する。あれはただの喧嘩などではなかった。
 オレさまは、ヤツらにダンデをみすみす誘拐させてしまったのだ。
 しかもこのオレさまの目の前で。

 飛び立ったときとは比べものにならない慎重さでリザードンは砂地へと降り立った。ズン、と地面がリザードンの足裏を受け止め、一陣の風が砂塵を巻き上げる。
「ここは……」
 リザードンの腕から解放され、地面に着地したキバナはズレたバンダナの位置を直しながら辺りを見渡す。砂っぽい空気、遠くに六番道路の遺跡が見える。どこかと思えば隣のラテラルタウンの外れだ。永遠にも思えるフライトで世界の果てまで飛んでしまったかと思ったが、思いのほか遠くには来ていないらしい。
 ばぎゅあ、と背後でリザードンがキバナの気を引くように鳴く。その姿をギッと睨みつける。
「オマエ、人間だったら絶対ビンタしてんだからな……」
 そう口にして初めて、キバナは自分の声が微かに震えていることに気がついた。意識したら鼻の奥までツンと痛くなってくる。膝は骨が抜けてしまったみたいに力が入らずぐにゃぐにゃだ。キバナだってわかっていた、リザードンが何も悪くないことは。リザードンはただ主人の命令を忠実に遂行しただけだ。どうしてあの場から離れたんだと、キバナが責めるのは筋違いの八つ当たりだ。
 ——リザードン、キバナを連れて逃げろ!
 あのとき。
 男たちの肩越しに見たダンデは、リザードンと離れることに一瞬たりとも迷いを見せた様子はなかった。
 だがあの場面、リザードンがいれば切り抜けられたんじゃないのか。グッと握り締めた拳の中で、爪が手の平に痕をつける。もしダンデがキバナに構わなければ、キバナを助けようとしなければ。
「……いや、言ってる場合じゃねえな。助けに……」
 行かないと。言いかけて、もう一度いや、と首を振る。オレさまが今するべきことは、感情に駆られて無策無謀を発揮することではない、とキバナは自分に言い聞かせる。それに戻って探そうにも、男たちはもう既にあの場にはいないだろう。手がかりなしには探せない。
「……誰か、おとなに言わないと。なあリザードン、ナックルに戻してくれ。無理に追ったりはしないから」
 ダンデの大事な相棒の翼を撫でてやりながら、戻ったあとに取るべき行動を思案する。交番でお巡りさんに言うのが先か、いやでも、まずは母さんやリーダーに相談すべきか。大人を通した方が話の信憑性は増す。そしてオレさまが話す相手は、できるだけ信頼できる人間がいい。
 だがリザードンはキバナの懇願を無視し、どころかショルダーバッグを引っ張りあらぬ方向へ行こうとする。
「なんだよ。どこ行くんだ? ……当てがあるのか?」
「ギュア!」
 返ってくるのは、はっきりとした意志。
「……いいぜ。ついてってやるよ。少なくとも、オマエはオマエの主人よりは賢そうだ」
 リザードンは、まるでオマエのそれが本心からではないことを知っているぞと言わんばかりにフンと一つ鼻を鳴らし、くるりとキバナに背を向けた。賢い個体だな、とキバナは思う。あのダンデの手持ちなのだから当然か。
 ダンデの方向音痴はともかく、彼のバトルにおける戦術展開は到底侮れるものではないことをキバナは既に知っていた。ログで何度も見た立ち回りは、力押しのように見えてその実綿密に計算されている。ワンパチの人懐っこさの裏に、オノノクスの牙を隠したような男だと思う。
 何より。
 砂嵐の明けたその向こうで、怜悧に光る金の瞳。
 キバナには誰よりも近くでその輝きを見た自負がある。

 リザードンがスンスンと鼻を鳴らしながらキバナを引っ張っていったのは、道路脇に張られた寂れたテントの前だった。ここって、確か化石研究の人たちが使ってるとこじゃなかったっけ、と首を傾げると同時にテントから出てきた人物にキバナは思わず仰天した。
 陽を浴びたのは浅黒い肌に合うカチッとしたスリーピースのスーツ、砂利を踏む艶やかな革のストレートチップ。
「ろ……ローズ……さん⁉︎」
 一介のジムトレーナーであるキバナですら名前を知っているその男は、リーグ委員の一人であるローズその人だ。
 しかしこの殺風景な吹き晒しの砂地ではその姿は明らかに浮いていた。何をどう間違えたらガラル一でかい会社の社長がラーメン屋ののれんをくぐるみたいにこんな荒地のテントから出てくるんだ。人違いだろうか、とキバナが目を擦っているうちに、テントから出てきたその人物が、ローズの姿とローズの声でキバナに話しかけてくる。
「おや、きみは確か……キバナくん。ナックルジムの」
「あ⁉︎ いや、はいそうですけど」
「これはこれは、奇遇ですねえ!」
 キバナは自分の名前を覚えられていたことに軽い衝撃を覚える。決勝でダンデとやり合ったとはいえ、リーグ委員なんて実際はポケモンバトルより興行の成功にしか興味がないものとばかり思っていたからだ。いや、この人は元々トレーナーだったか、と思い直す。
 いや、今はそれよりももっと大事な話がある。
「いえ、実は工場の建設予定地を探していましてね。ここがいいんじゃないかと」「あの」「考えていたんですけどねただやはりこのあたりの台地は発掘調査の余地がまだまだあるそうで」「ローズさん、あの!」「基礎を掘って史料が出ると片端から保護手続きを取らないといけないのですよね流石にスケジュールが……。……? おや。そっちはダンデくんのリザードンでは?」
「! そ、そうなんです、ダンデが」
 ようやくこちらに注意を払ったローズの言葉を奪うようにキバナは勢い込んで一部始終を話した。ダンデが不審な男たちに囲まれていたこと。キバナを逃して、自分自身は連れていかれてしまったこと。
「なるほど、誘拐……ですか」
 中々に衝撃的な報せであるはずなのに、ローズは特に取り乱す様子もなく。ふむ、と頷いてみせただけだった。キバナは内心もどかしく地団駄を踏む。そんな、とぼけたツラしてる場合かよおっさん。あげくスマホを確認して「ああ、ダンデくんからメッセージが来てましたね。ほら」ときらりと光る歯と画面を見せてくる。
 と、その画面に着信が入った。ローズが応じる。
「——はい、わたくしですよ。……ああ、こちらでも把握しています。要求額は? ……わかりました。一応準備だけはしておいてもらえるかな? 警察にはこちらから連絡しましょう。このことはまだ公表しないように。経理部には、得意先への緊急の融資の話とでも言っておきなさい」
 ローズの口調は常に一定の温度を保ち、熱くなるということがなかった。それが逆にキバナを不安にさせる。本当に、一大事だとわかっているのだろうか。
 しかし、とりあえずキバナは役割を果たしたのだ。
 もう子どもの自分にできることはない。あとは大人に任せておけばいい。
「ええ。いいですか、無用な混乱は避けるように。社内でも最小人員で対応してくださいね」
 ……そのはずだ。
 キバナはじっと地面に視線を落とした。本当に、これでできることはすべてだろうか。何か腹落ちのしない感情が、キバナの思考の底に澱のように留まっていた。オレさまは、他人任せにしようとしているのではないか。いや、何もかも自分一人で解決できるものじゃない。ダンデの安全を守ろうとするなら、警察に任せるのが一番だ……。
 ……本当に、それでいいのか?
 ——キバナくん。
 強く屈託のない笑顔が、記憶の中から澱んだ思考の薄暗闇を照らす。
 ダンデは迷いを見せなかった。
 理屈じゃないんだ、とキバナは思った。何をすべきか、選び取るべき正解とは別に、自分が在りたい自分のために、オレさまはきっとそうしなければならない。
 静かにその場を去ろうとしたキバナの肩を、通話を終えたローズの手がグッと引き止める。
「待ちなさい」
 静かな声だった。それでもキバナはびくりと震え、ローズの手を思わず払った。
 ローズはそれ以上、無理にキバナを止めようとしなかった。その代わり捉えどころのない笑みを崩さずに訊く。
「どこへ行こうというのですか」
 なんでそんな、わかり切ったことを訊くんだ、とキバナはローズを睨んだ。声変わりしかかった低い声で答える。
「……ダンデのところ」
「きみは彼が今どこにいるかわかるのですか」
「……リザードンならわかるはずだ」
「行ってどうするんですか」
「助ける」
「きみ一人で?」
「……言わんとすることはわかるよ、ローズさん。でも逆に、アンタら大人は何をしてくれるんだ。随分とのんびりしてるじゃないか? 今もアイツが酷い目に遭ってるかもしれないってのに」
「まあ、遭っていない保証はないですね」
 彼、少々人の神経を逆撫でするところがありますからねえ、悪気はないんですけどね、とのんびり嘯くローズに、キバナはそろそろ我慢が限界に達するのを感じていた。
「キバナくん」
 そこへローズが冷や水を浴びせかける。
「実はダンデくんの居場所ならわかりますよ。教えてさしあげましょうか」
「……えっ」
 虚を突かれたキバナは、喉を鳴らして満足げに笑う男をまじまじと見た。それは誘拐したヤツらしか知り得ない情報じゃないのか。このおっさんは誘拐犯とグルなのか?
「ちなみにグルじゃないですよ」
「じゃ……じゃあなんで」
「さて、なんででしょうねえ。ああでも、そのうち我が社が商品展開を頑張って、きみのスマホロトムにも入りますからね、位置情報機能。画期的な機能なのですよ」
 キバナにはローズが何を言っているのかわからなかった。耳に入ったのは、最後に言い放たれた一言だけだ。
「さて、あとは大人に任せて、きみはジムに帰っていなさいね」
「……。なあ、ローズのおっさん」
 目の前の少年の、礼儀をかなぐり捨てたぞんざいな呼びかけに、ローズは目をぱちくりと瞬いて「……おやおや」と肩を竦めるに留めた。口の利き方を、と咎めてもよかったが、今の彼に届きはしないだろう。ローズにもそういう、血気盛んな時期はあった。
 キバナ少年がボールを片手に息を漏らすように笑う。
「オレさまと勝負してくれよ、そうだな、ルールは手早く1on1で。……それでオレさまが勝ったら、ダンデの居場所を教えてくれ」
 ローズは顎髭を撫でながら思案した。髭は最近伸ばし始めたばかりで、ムラがあるのがあまりよろしくない。
「では、わたくしが勝ったら——きみが負けたらきみは何をしてくれます」そのときのローズの中に、少し意地悪な気持ちがなかったといえば嘘になる。「ふむ。しばらくジムトレーナー謹慎、なんてどうでしょう」
「いいよ」
 少年が迷いなく頷いたことを、ローズは内心意外に思った。ローズは知っていたからだ。彼が己のジムトレーナーの地位を確固たるものにするために、日夜どれほど研鑽を積んでいるか。
 彼がどれほど、リーグでの勝利に執着しているか。
 ダイオウドウのボールを手に、うっすらと笑う。
「怖くはないのですか」
「怖くないって言ったらうそだよ」
 告げるキバナ少年の瞳は揺らがない。
「でもダンデは迷わなかったのに、オレさまがここで迷うのはどう考えてもダサいだろ」

          ◇ ◇ ◇

 そう、オレはどうしてか人を怒らせやすいんだよなあ、とダンデはジャージ姿のまま後ろ手を拘束され、廃倉庫の冷たい床に転がされながら唸っていた。
 先ほども、「なんだ身代金目当てなのかけどおにーさんいくらなんでもローズさんの会社を敵に回すのはちょっとリスクとリターンが見合ってないんじゃないか痛」などと進言し乱暴に投げ出されたところだ。
 コンクリートの床に胡座をかいて座り込む。倉庫内はちょっとしたバトルコートが二、三面入るくらいにはだだっ広い。高さも三階建てくらいはあるだろう。ダンデが座り込んでいるのは何もないその端だ。打ちっぱなしの壁に沿って木箱なんかは積まれているが、それ以上に埃が積もっていて日常的に使われている形跡がない。頭上の小窓から差し込む日の中に、幻想的に塵芥が舞っている。
 壁面のうちの一つを覆うシャッターは、その脇の通用口の扉と共に今は固く閉じられている。
「……どうせ誘拐なら、バトルしてからがよかったぜ」
 ぼやいてみる。結局ドロンチを使ってやれないまま、手持ちのボールは取り上げられてしまった。
 だが焦りはなかった。実際、ダンデはそれほど心配してはいなかった。ダンデの端末から発された電波は既に道中のアンテナを介してローズの元へとダンデの位置情報を知らせているはずだ。誘拐犯の連れ歩いているポケモンの中に電気タイプはいなかったし、手持ちと一緒に取り上げられて電源は切られてしまったが、この場所の座標は問題なく送信されているだろう。そしてローズがその気になれば、警察組織の手配などわけもないことだ。
 ならダンデができることは大人しく待つこと、それと救出されるときに、できるだけ危険がないように備えることだけだ。
 ……それにしても。
(すごいぜ。クサイハナの眠り粉は人間が直で浴びるとあんな風になるんだな……)
 ダンデは先程受けた眠り粉の心地を何とか記憶に留めておこうと必死に反芻していた。
 例えば自分がクサイハナ——ラフレシアに進化させるだろうが——をバトルに投入するとして、あの眠り粉がヒトを失神に至らしめるのは大体二呼吸分と見た。ええとカビゴン換算なら大体十秒くらいか。だがその間動きが止まるとも思えない。なら風上から遅効を狙って徐々に流すのがうまいだろうか、夢特性も併せると中々凶悪になりそうだ、ただ気候の操作には相性が悪い——。
 ダンデの思考を遮るように、カタン、と側にロールパンの乗ったトレイが置かれた。見れば一体のバリヤードが、ダンデとの間の空間に両手の五本指を突いている。見えない壁——いや、扉だ。人差し指でチョイ、と覗き窓を開き、細い隙間から囚人の様子をじっと見る。
「お。キミがオレの看守か?」
 話しかけるが返事はない。耳の揺れを見るに、聞こえてはいるようだった。バリヤードはそのまま、部屋の外側の椅子にダンデに背を向けて腰掛ける。
 先程、ダンデを後ろ手に拘束したのもこのバリヤードだった。彼のパントマイムの腕は中々だ。
 それにしても、とダンデは首を傾げる。バリヤードにしては見慣れない様相だった。確かカントー地方の個体だ。タイプは氷ではなくエスパー・フェアリー。
 妙だよな、ダンデは膝を揺らしながら思案する。
 普通、こういう悪事には扱いに慣れた個体を選ぶと思うのだ。悪事にはミスが許されない。だから明確な利害の一致か余程の信頼関係がないと、共同作業は難しい。
 だが地元ガラルの人間で、カントーのバリヤードと長年の信頼関係を構築している人間が果たしてどれほどいるだろうか。いや、今どき遠方との交換でいくらでも出会う手段はある。だがカントーで思い出した。男たちのスーツの胸元にあったRのマーク、あれは向こうの犯罪組織の証じゃあなかったか?
 だが、他地方から来てわざわざ身代金目当てのチャンピオン誘拐なんて悪事に手を染めるのも妙な話だ。組織として進出してきているならもっと安定した継続的なしのぎがあるはずで、こんな後々この地で活動しにくくなる手段で金を工面するのはあまりにも愚策だ。
 んん、とダンデはこんがらがった思考の糸をほぐそうと試みる。彼らはじゃあ、組織としては動いていないんじゃあないか? 確かにここへ来る前からずっと目にする顔ぶれは変わらず三人だ。彼らは独断で動いているんじゃないだろうか。例えば組織を頼れない個人の事情で、急いでお金が必要になったとか。
 ダンデにはそれが最もらしい答えに思えたが、確定するには決め手に欠ける気もした。保留、と頭の中でメモしておく。可能性を絞ると畢竟、想定外の事態も増える。
 思い出されるのはいつかのローズの言葉だ。
 ——いいですか、ダンデくん。大局を見なければなりませんよ。今場に出ているポケモンを倒すだけではなく、相手の残りの手持ち、それに対してどう役割を果たせるか。それを意識する必要があります。
(わかってるんだぜ……)
 だが今、相手の手持ちがすべて見えたとは言い辛い。とりあえず彼らの目的が身代金にあるのなら、金が手に入るまでは無闇にダンデに危害を加えようとはしないだろう。
 となれば、今のダンデの心配事はただ一つ。
「キバナくん、大丈夫かな……」
 泣いたりしてないだろうか。リザードンがうまく守ってくれてるといいけど。

          ◇ ◇ ◇

 それにしても、監禁というのは退屈だった。話し相手と言えば反応のないバリヤードの背中だけだ。
「なあキミ、こんなことに付き合ってたら、トレーナーと一緒にいられなくなっちゃうぜ。彼らが捕まったらキミは保護観察センター預かりだ。いいのかキミはそれで」
 誘拐は、ええと、何罪だったかは忘れたけれど、確実に犯罪だと思う。お巡りさんに捕まっちゃうだろう。彼らポケモンたちにとって、人間の法は知ったことじゃないんだろうか、というのはそれはそうなんだが。
「キミのトレーナーがしてるのが悪いことだって、キミはわかっているのか?」
 ふと見れば、反応を示さないと思っていたバリヤードがぐるりと首をこちらへ回していた。ダンデをじっと見、無表情のまま視線を逸らさない。ふくよかな頬を膨らませて、何もわからないような顔をする。
 けれどわかっているはずだ。
 何故なら誘拐犯たち自身が、これが犯罪であると自覚している。後ろめたさを滲ませていれば、それが手持ちたちに伝わらないはずがない。ポケモンたちは自分たちトレーナーが思うよりもずっと聡く敏感に、トレーナーの感情を感じ取る。
 それでも、バリヤードの表情に一切の迷いはなかった。
「……そうか。わかった。ならオレは何も言わないぜ」
 そういう関係もある、とダンデは引き下がった。トレーナーが道を踏み外したとき、一緒に転がり落ちる道も。
 その覚悟に対して、他人が口を挟む権利はない、とダンデは思った。多分、ダンデたちだってそうだ。リザードンは例えダンデがどんな道を選んだって、それをダンデ自身が望むのならばついてきてくれるだろう。
 ただ。
「…………」
 自分でした怖い想像に、思わずダンデは三角座りの膝に額を押しつけた。そうだ、ダンデが選んだ道ならそれを相棒は否定しない。例えそれが他人を傷つける道であったとしても、多分。
 無論ダンデだって、進んで誰かを傷つけるつもりはない——だがそんなつもりがなくても相手を傷つけ怒らせることは、日常ですら頻繁に起こり得る。
 オレが例えば誰かを傷つけそうになったとき。
 誰かオレを止めてくれるだろうか。
(……ソニア)
 真っ先に思い浮かんだのは、隣町の幼馴染の顔だった。それからヨロイ島の師匠、チャンピオンである自分の面倒を何かと見てくれるローズ、故郷の母とまだ幼い弟。
 大丈夫だ、とダンデは自分に言い聞かせる。オレにはきっとこれからも、オレが道を誤れば正してくれる人がそのとき側にいる。だからきっと、大丈夫だ。

 そのとき、俄かにシャッターの向こう側が騒がしくなった。人の声、ポケモンの咆哮、そしてがしゃんドカンと物がぶつかり壊される音。聞き慣れた響きだ。誰かが外でポケモンバトルをしているのだ。
 けれど一体誰が?
 耳を澄ませると、声が段々と鮮明に聞き取れてくる。
 ——くそ、サイドン……アームハンマーだ!
 ——フライゴン、ドラゴンダイブ!
 その聞き慣れた声は。
「……キバナくん?」
 事態の飲み込めないダンデが呆然と呟くのと、サイドンと絡れ合ったフライゴンがバリバリとシャッターを突き破って倉庫内に転がり込んでくるのがほぼ同時だった。
 破砕されたシャッターの向こうに見えるのは、予想通りジムユニフォームの上からジャージをはためかせたドラゴン使いの少年だ。相手は一人、バリヤードのトレーナー。恐らく三人のリーダー格の男。それが嫌な舌打ちをする。
「チッ……このガキ、強い……!」
「いいから、ダンデ返せよ」
 その低く唸るような声に心地よさを感じながら、ダンデはそちらを一瞥で済ませ素早く周囲に目を走らせた。もし彼らが組織立って動いているのなら、必ず増援が来るはずだと思ったからだ。
 しかし倉庫を破壊される騒ぎになっても、仲間は二人しか出てこない。その二人も下手に参戦すれば邪魔になると判断したのかキバナの背後からボールを片手にジリジリと様子を窺うのみだ。
 というか。
 目の前で繰り広げられる激しいバトルに、ダンデは面白くない気持ちでいっぱいになる。何なんだ、キバナくんもオレとのバトルを断ったくせに、誘拐犯も目が合ったのにバトルせずにオレを誘拐したくせに。
 多分、拘束された鬱憤もあったのだ。ダンデは堪らなくなって、思わず拘束もものともせずに立ち上がって。
 叫んだ。
「いやじゃあオレともバトルしてくれてもよかっただろ⁉︎ 誘拐なんかバトルで勝ってからにしろよ‼︎」
「⁉︎ ……ダンデ⁉︎」
 突然の怒鳴り声に側で壁を作っていたバリヤードがびくりと肩を震わせる。その真横をつのドリルで壊された破片が飛んでいく。
 と、男がダンデに目を留めた。そのまま脇目も振らず駆けてきたかと思うとダンデの腕を強く引く。ついカッとなった激情の余韻と後ろ手の拘束の所為で反応できず、ダンデは「わ、」とバランスを崩す。
「……っ来い!」
「させるかっ、フライゴン!」
 キバナの掛け声と共に倉庫内に吹き荒れたのは砂嵐だ。ビシビシと壁に窓ガラスを礫が傷つける音が響き、視界が灰色に覆われる。男の手の力が緩む気配がある。
「バクガメス、今だ——ダンデの拘束を切れ!」
 キバナが呼んだその名前に、一番目の色を変えたのもダンデだった。バシュッ、と背後に出現した熱と気配に興奮で全身の毛が逆立つ。これまでのキバナの手持ちにはいなかったポケモンだ、そうかナックルで見た新顔はバクガメスだったのか確かに彼の今の手持ちなら物理受けの選択肢が増えるのは——一瞬思考が飛びかけて、危うく言うべきことを言い逃しそうになる。
 そうじゃない。
「待てキバナ——この拘束は物理じゃない、切れない!」
「は⁉︎」
 縄だったら焼き切れただろう、鎖でもバクガメスの硬いドラゴンクローで断ち切れたはずだ。それでダンデは男の手を逃れることができた。
 だがダンデの両手を手錠のように拘束していたのはバリヤードの見えない壁だ。彼は今もどこかでこの拘束を維持し続けている。
 透明な拘束に戸惑う爆発ガメの腹を男が手探りで容赦なく蹴りつけた。響く鋭い悲鳴。来い、と自分の髪が引っ張られるのも構わずダンデは反射的に駆け寄ろうとする。
「っ、バクガメス——」
 だがそれ以上足を動かすことは叶わなかった。
 喉元に冷たく鋭い感触が食い込んだからだ。
 動くなと本能が警鐘を鳴らした。ダンデはヒュッと息を呑んで一瞬硬直し、それから目の動きだけで今まさに何が己の皮膚を突き破らんとしているのかを追う。
 目に入ったのはいつの間にか男が繰り出していたコマタナと、ギラリと凶悪な光を放つ磨き抜かれた銀の刃。
 小柄な刃物ポケモンの手の先が、無表情にダンデの喉を捉えている。
「クッ、ソ、まだ砂が……ッおい、動くんじゃねえぞガキ! お友達が細切れになんのは見たくねえだろ!」
「テメェ……ッ」
 色を失くすキバナとは対照的に、ダンデはジッと自分の喉に刃を突きつける個体を見た。この子は訓練されているな、と思う。でも多分、男の手持ちになってまだ日は浅い。
「……おにーさん、身代金は手に入ったのか? 今オレを殺しちゃったら、お金貰えないんじゃないのか」
「ハッ……殺したら、だろ?」
 ようやく視界の晴れたらしい男の返答に、なるほど、とダンデは得心した。確かにいくらか斬ったって、殺さなければ身代金回収の目はあるだろう。だが斬られたダンデが痛がるだけでも、キバナにはきっと牽制になってしまう。
 となるとキバナは動けない。どころかオレを人質に彼に危害を加えられるとなると、今度はオレの我慢がならない。オレがなんとかするしかないか、とダンデは視線を巡らせようとして。
 バチリとコマタナと目が合った。
「……!」
 この子、人を斬れるな。
 目の奥に澱む殺気を捉え、ゾクゾクとダンデの背筋を這ったのは純粋な好奇の感情だ。口の端が釣り上がるのを抑え切れない。これは勝負だ、オレと彼との。
 命を削り合うような。
 思わずグッと拳を握り込んだダンデの耳に、待てよ、と乾いた声が届いた。ハッと視線が吸い寄せられる。
 ダンデが目にしたのは、バクガメスを戻し、引き裂かれそうな怒りと悲痛を滲ませたドラゴン使いの少年の、両手を挙げて降伏を示す姿だ。
「……オレは! ……オレさまは、どうなってもいいから。だから、そいつだけは解放してやってくれよ……」
「……キバナくん」
 キバナはダンデに目を向けると、へなりと力なく笑ってみせる。
「……ダンデ、ごめん……オレさま、結局オマエを……」
「ハッハッハ、ざまァねえな! さっきの勢いはどうしたジムトレーナーさんよ⁉︎ ったくガキがイキがりやがって、どう落とし前つけさせてやろうか……」
 耳障りな男の言葉にも反応せずに手を挙げ項垂れるキバナに、ダンデはこの上ない息苦しさを覚えた。勝負の高揚も一瞬忘れる。
 いやだ。
 キミのそんな顔は見たくない。
 こうしてオレを助けにきたキミが、オレにまだ勝つつもりでいるキミが、そんな顔をしていいわけがない。
「……頭を上げろ、キバナ」
 キバナが弾かれたようにダンデを見た。
 その目をダンデの怒りが刺し貫く。
「——他でもない、キミが諦めるなよ、オレを」
「……ッ」
 瞬間、ダンデはがっと踵で勢いよく背後の男の小指を革靴の上から踏みつけた。息を呑んで激痛に顔を歪める男の手を重心を落として振り解き、同時に閃くコマタナの刃をくぐり抜け、後ろ手のまま隠し持っていた袖のボールを落とすように放って飛び退る。
 さあ、出番だぜ。
「……ニダンギルっ、居合斬り!」
 ガキン! と飛び出した剣と刃とが激突した。
 火花が散る。初撃は拮抗だ。
「いいかキバナ、キミの相手は他の二人だ! 背後に一体潜んでるから気をつけろ!」
「はぁ……⁉︎」
 それだけ告げて、ダンデはキバナを意識的に視界から外した。あとは彼なら何とかするだろう。目の前のバトルに集中する。
 ニダンギルと斬り結んだコマタナは一歩も譲らない。
 踵がじり、と後ろに数ミリ後退るだけだ。
「キミ、強いな……! そこのトレーナーとこんな悪事に手を染めているのはもったいないぜ!」
「馬鹿にすんな、クソガキ……!」
 だがトレーナーの指示が遅い。バトル中に判断に迷いを見せる相手など、ダンデたちの敵ではない。
「ニダンギル! 右から斬り払え!」
 剣を引けばコマタナが更に斬りかかってくるが、ニダンギルの方がリーチが長い。それはトレーナーが補完してやらないといけないところだぜ、と思いながら「まとめてインファイトだ!」と指示を出す。意図を汲んだニダンギルが大きめに振りかぶってインファイトを放った。コマタナを、怪力で男の方へと吹き飛ばす。ガッと重い一撃を食らって気絶したコマタナの体を腹に受け、グア、と男が悲鳴を上げて吹き飛ぶ。
 これで勝負あっただろう。
「さて、大人しくしてもらうぜおにーさん」
「くっそ……」
 だが身を起こした男の目はまだ屈していなかった。ギラ、と男の手元に構えられた光るナイフの刃先を見る。
 お、とダンデは目を瞠った。避けられるか? ニダンギルに怪我させないよう加減させるのは難しいんだよな。
 だが男がそのナイフを振るうことはできなかった。
「ギュアァッ‼︎」
 背後から、鳴き声と共に炎が降ってきたからだ。
「ぐわ……ッ!」
「! リザードン!」
 熱と風に煽られ、今度こそ倒れた男の背に、ぎゅむ、とリザードンの片足が乗せられた。キバナが連れてきてくれたのだろう。ダンデは愛しい相棒の首筋に齧りつき、その熱い口の端にキスをする。いつの間にか手の拘束は外れていた。どこかにいたバリアードを倒してきたのだろう。
「無事でよかった。ちゃんとローズさんには報せてくれたな?」
「ばぎゅ!」
 その答えのとおり建物の外からサイレンやウィンディの鳴き声が聞こえてきて、そこでようやくダンデはふぅと息を吐いて肩の力を抜いた。辺りを見回す。取り上げられた他の手持ちの所在と、誘拐犯たちの残戦力の確認に。この騒ぎでも増援が来ないとなると、他にも仲間がいるかも、という警戒はどうやら取り越し苦労だったようだった。無理に手札を読もうとせずに、さっさと脱出しておけばよかったかもしれない。
 そうしたら、キバナをあんな目に遭わせずとも済んだのに——。
 は、と我に返る。そうだキバナは、と顔を上げたダンデの背後で、「……ラスターカノンだ」と冷えた声が響き渡る。
 振り返れば、キバナの前で男二人が膝を突いていた。戦況はキバナの圧勝だ。
(今ので二体倒したか……ボールを見るに、今出てる二体で二人の手持ちはもう残ってないな。あとは——)
「ジュラルドン——。フライゴン」
 ダンデはそのとき、キバナの指先がスッとまっすぐ持ち上がり、二体に指示を出すのを見た。互いの攻撃が当たるかに見えた二体は、だが紙一重の連携で連撃を決める。
 男二人を前にして、一対多数の勝負だというのに同時に手持ち二体に指示を出すキバナの戦いは一対一の戦闘時と何ら遜色がない。
 そしてその表情には、もう先程の弱気は微塵も残ってはいなかった。冷静に——いっそ冷徹に状況を分析し、無駄のない立ち回りを指示していく。トーナメントでは見なかった戦い方だ。彼はもっと、派手に魅せる戦いを好むものとばかり思っていた。
 そんな戦い方もするのか。
 ダンデは、いつの間にか自分がキバナのバトルに魅入られていることに気がついた。
 彼の主力二体が、息もつかせない猛攻で相手のポケモンを圧倒している。ダブルバトルなんて、今はどこの公式戦でも扱われていないルールだ。だが彼の立ち回りは昨日今日で身につけられたものではない。ダンデはキバナの戦いの中にそれを視たのだ。彼のバトルへの執着、その熱量を。
 先程のコマタナとの勝負より、もっとずっと心躍る何かがそこにはあった。
「……オマエらは、オレさまの逆鱗に触れたんだよ……」
 その、ぎらりと光る彼の碧い目の中に燻る純度の高い怒りすら、ゾクゾクとダンデの背骨を震わせる。
 そうだ、彼こそは去年のチャンピオントーナメントでダンデを最も追い詰めた男だ。
 これではしゃぐなという方が無理だ。
(また今年も戦えるかなあ……)
 バトルの決着がつくと同時に、警察の部隊が突入してくる。男たちは拘束され、ダンデたちは無事保護される。その中でふと警官の一人が、誘拐されていたというのに妙に嬉しそうな子どもの表情に首を傾げる。
 ちら、と諌めるようなリザードンの視線も意に介さず、ダンデはフフッと至福の笑みを浮かべた。
 ああ、今から彼と戦うのが待ち遠しい!
2/9ページ
スキ