【再録】あの日とそのあと
※児童誘拐等犯罪行為のご都合主義描写があります。
※作中、成人が未成年を預かる対応として適切でない描写があります。
ポケモンバトルが好きだ、とダンデは思う。
相手の手を読んで策をぶつけるのは楽しいし、ポケモンたちとうまく意思疎通をはかってベストな攻撃が決まると嬉しい。タイプ相性やレベル差を覆して勝利したときなんかは脳が痺れるくらいに気持ちいい。
けれど、だから誰もが同じようにバトルを楽しめるかというとどうやら世の中そう単純ではないらしい。
今日のワイルドエリアの風は穏やかだった。夕暮れがキバ湖の水面を照らし、遠くに臨む見張り塔からは物悲しいゴースたちの鳴き声が微かな音量で運ばれてくる。
繊細な虫ポケモンたちは怯えて姿を現さないが、ダンデは気にも留めなかった。林に張ったテントの前で、ぐるぐるとカレーをかき混ぜながら一人で唸る。
(……この前も)
鮮烈に記憶に残るのは、自分よりいくつか年上のボーイスカウトの、吐き捨てるような棄権の台詞だ。
——負けるってわかってるバトルを、続けたって意味ないだろ……。 うーん、流石に落ち込むぜ、と木の実を砕いてカレーに放り込みながら、ダンデは首を傾げる。そりゃあ、力量差を配慮せず手加減しなかったことは認めよう。だが勝負である以上、絶対はない——少なくともダンデはそう信じている——そして可能性が一割を切ろうが、一分に満たなかろうが、コートに上がる以上、トレーナーは勝負に背を向けるべきではない。それができないなら、もう一度バトルへの姿勢を見つめ直してみた方がいい。と思う。流石に口にはしなかったが。チャンピオンという立場にいる以上、威圧になってしまうのはダンデの本意ではなかった。
けれどバトルの腕に自信があると誘ってきたのはあちらの方だ。
だからそのつもりで全力で相手をした。
カレー鍋を満たすルーの海でジャガイモが浮き沈みするのをぼんやりと眺める。オレは何か間違っていただろうか。いいや、何も間違いようがない——いつもどおりバトルで勝っただけだ。彼だって、腕は悪くなかった。特に序盤で一体目が一撃受けたあとの、まだ役割があるだろうと交代した判断の速さは賞賛に値するものだった。
だがあの様子では、彼はすっかり戦意を喪失してしまったんじゃあないだろうか。
どうしたら、彼といいバトルができただろう。
(……いや、違うな)
問いの立て方が甘い、とダンデは自省した。そうじゃないだろう、オレ。もやもやと、胸の裡に燻る輪郭のあやふやな己の感情の中を覗き込む。
オレは多分、彼がバトルを途中で諦めてしまったことを問題視しているわけじゃあないんだ。
いや、そう言っては少し語弊があるだろうか。お互い最後までバトルをやり切れるなら、それに越したことはないのだ。だが最終的に、バトルを充実したものとできるか——バトルを経て実力を伸ばせるかどうかは彼自身の問題だ。ダンデは自分の手の届かないところにある荷まで、一緒に背負い込むつもりはなかった。
そう——バトルを充実したものとできるかは、自分自身の問題だ。
どうしたらオレは満足できた?
不意に影が揺れ、ギュア、と背後で鳴き声がした。お玉を片手にしゃがみ込んだダンデの顔を照らしたのは、大きく燃え盛る相棒の尻尾の火だ。
「……心配ないぜ、リザードン。ちゃんとわかってるさ」 ぐるる、と喉を鳴らし、背後からそっと頬を擦り寄せてくる相棒にダンデは苦笑する。気を遣わせてしまった。別に、そこまで気落ちしているわけじゃない。 「ポケモンでも、バトルが苦手な個体もいる」 それはわかるのだ。ポケモンたちでもよくよく観察していると、同じ種類でもその体力や素早さに個体ごとに差があることが見てとれる。だからダンデはその中で、特にバトル向きの性格や能力を持った個体を選んで仲間に誘う。バトルを苦手に感じる個体に、バトルを強要したって酷だろう。 「それとおんなじで、トレーナーでもバトルが苦手な個体もいる……」
それもわかる。だから全員が全員、自分と同じようにバトルを楽しめないことも理解している。
「……でも、同じバトルが得意な個体とは、楽しくバトルできると思ったんだ。だってバトルが好きなんだろ?」
けれど近頃どうにも物足りない。
柔らかい草の上で膝を抱える。ダンデが求めるのは、もっと互いの限界を曝け出して命を削り合うような勝負のスリルだった。思考を引き絞るギリギリの感覚。彼とのバトルにはそれが、なかったとは言わないが、ダンデの胃を満たすには到底足りるものではなかったのだ。
——積まれたカレー皿を片付け、けれどまだ眠る気にもなれず、ダンデは引っ張り出した寝袋を下にごろりと寝転がった。野生のコノハナが頭上を徘徊する気配はあったが虫除けスプレーを惜しみなく使えば近づいてくることもない。スプレーボトルをリュックに引っかけ直す。安物の金具がカランと鳴る。聞こえるのは相棒たちの寝息。広がる夜空は澄み渡って、満天の星が瞬いている。
チャンピオンになって二年目のシーズンも、そろそろ半ばを迎えようとしていた。一年目は波瀾万丈だった——リーグ委員の一人であるローズに、キミはもう少しチャンピオンとしての振る舞いを身につけた方がいいねと勧められてマスタードという男に師事した日々は、ダンデの短い人生においても一際輝いていた。
それと、初の防衛戦となるチャンピオントーナメント。
瞼の裏に、決勝で浴びた熱気を鮮やかに思い出す。
何よりダンデの心を掴んで離さないのは、対峙した相手が見せたこちらを食い千切らんばかりの剥き出しの闘志だ。今でもありありと脳裏に思い描くことができる。
あの、瞳の色。
楽しかったなあ、と思う。
——ダンデちん、人生ねー、楽しんだもん勝ちだから!
「……そのつもりなんだけどなあ」
ゴロリと寝返りを打つ。鼻先で、寝ぼけたドロンチの尻尾がたしん、と跳ねる。
ポケモンバトルが好きだ、とダンデは思う。バトルが好きで、だからもっと充実したバトルをしたいし、強い相手と戦いたい。練り上げた戦略をぶつけ合ってギリギリのスリルに痺れたい。ひりつくようなあの熱気を、ずっと浴びていたいとさえ思う。
そのためにすべきことを、考えなければならない、とダンデは思った。バトルを充実したものとするには、ただ自分が強いだけでは不足があるのだ。自分と同じ熱量で、自分と対等に渡り合える人間を、オレは見つけなければならない。
◇ ◇ ◇
ダンデがナックルシティに戻ったのは、翌る日の昼前のことだった。途中リザードンに引っ張られながら通り過ぎたナックル丘陵の天気は砂嵐で、脱いだジャージの上着をばさっと振れば砂がザッと水のように流れ出る。街の入り口のゲート脇ではダンデと同じくワイルドエリアを抜けてきたトレーナーたちが砂の山を作っていて、その周りで清掃係のヒポポタスたちがキャッキャとそれを片付けていた。その様子を横目に、ダンデはポケモンセンターで手持ちたちを回復し、ついでにトレーナー用のブースでシャワーを借りてさっぱりする。汚れた服はクリーニングサービスに預けた。送り先にシュートの住所を登録する。
一旦シュートに戻ろうか。
荷物の入ったリュックを背負い直し、ダンデは少し悩んで「……どうしようか、ドロンチ」と側でふわふわと浮遊する成竜に声をかけた。
元々今回のワイルドエリアの滞在は、このドロンチの育成を目的としていた。そのためにローズに無理を言って予定を空けてもらっていたから、早めに帰るのが正解だろう。ただ、ローズも今日の予定は出張になっていたような気がして、急いでもあまり意味はないかもしれない。どうしようか。
と、ふとドロンチの透けた腹の向こう側に、ナックルの街並みを歩く見知ったユニフォーム姿を見つけた。
思わず破顔してその名を呼ぶ。
「……キバナくん!」
「……げ、チャンピオン」
名前を呼ばれた少年は、少し及び腰に足を止めた。仮にウールーの群れに放り込んでも見失うはずのないあの背の高さが少し羨ましい、とダンデはドロンチを戻しながら一瞬眺める。その体躯を包むのはナックルジムのユニフォームで、彼は齢十二で既にナックルジムの実力者として名を馳せていた。それを言えば、ダンデはチャンピオンとして名を馳せているのだが。そのことも、キバナがダンデを苦手としている一因かもしれない、とダンデは思う。
露骨に顰められたその顔に、しかしダンデは構わず駆け寄った。キバナが自分のことを苦手に思っていることは知っていたが、彼がバトルを続けるのなら自分たちが継続的に顔を合わせることは免れ得ない。今変に避けても仕方がない。
「奇遇だな! キミはこれからジムに?」
「そうだけど……」
溌剌とした笑顔を見せるダンデとは対照的に、キバナは品定めするようにじっとダンデを観察した。たっぷり一秒の沈黙のあと、不意に目を細めて口元に笑みの形を作る。
(……随分と気のない愛想笑いだ、)
とはダンデは口に出さなかった。喧嘩をしたいわけじゃない。
「キバナでいいよ、チャンピオン」
「……そうか? ならオレもダンデでいいぜ」
あまり乗り気でなさそうなキバナの声音にダンデも調子を合わせたつもりだったが、しかし滲む喜色は抑え切れなかった。言葉の端が弾む。彼こそは、去年のチャンピオントーナメントでダンデを最も追い詰めた男だったからだ。これではしゃぐなという方が無理だ。
そのダンデの浮かれ具合が伝わったのか、少し呆れたように息を吐かれる。
その瞬間、不意に頭をよぎったのは、つい先日バトルで吐かれた言葉だ。
——負けるってわかってるバトルを。
——続けたって意味ないだろ。
(……あ)
ダンデは思わず目の前の少年を凝視してしまった。あの決勝は接戦だった——だが勝負には必ず勝ち負けが存在する。試合はダンデが勝ち、キバナが負けた。
彼は諦めないでくれるだろうか。
(……まだオレに、勝ちたいままでいてくれるだろうか)
固まったまま今度は妙な沈黙を保ち始めたダンデに、キバナは何だよと訝しげに問う。
「……用がないなら、オレさまもう行くけど」
「……! ああ、いや、すまない。前回の決勝のことを思い出していたんだ。キミ、今年も勝ち上がってくるだろう? 楽しみだな、と思って」
「随分と余裕があるようだが」キバナが薄目で笑う。「オレさまが勝ち上がっても、オマエが初っ端から一回戦で負けたら当たんねえんだぜ。ま、オレさまとしてはそっちのが楽でいーけど」
「そ、そうか? やっぱりオレとやるのは嫌か……? いやでも、オレはまたキミとやりたいけどな……」ダンデは少し落胆しながら、しかし視線はそわそわとキバナの腰元に吸い寄せられていた。彼の手元、この前のリーグではなかった新しいボールがぶら下がっていないか? その子、新しいメンバーなんじゃないか?
ダンデはもう、ここで負かして彼が諦めてしまうならそれはそれで仕方ないんじゃないかと思い始めていた。
そんなことよりバトルがしたい。
「いやもう、今からでもバトルしないか? オレもこの前、雪原で新しい仲間を捕まえたんだ、それでできれば試しに誰かと……」
「えっ嫌だけど」
ダンデの推測通り新メンバーを加えていたためにその手の内を晒したくないキバナは、にべもなく答えながら内心首を傾げていた。
コイツ、『オレも』ってなんだ?
「なんで!」
「あのな」キバナはぐいと一歩距離を詰め、ダンデを威圧するように見下ろす。そうすれば、大抵の相手に本能的に怯えを抱かせることができることを十数年の短い経験で彼は既に理解していた。同年代でキバナより背の高い人間は中々いない。「なんでオレさまがわざわざオマエに手の内を見せないとなんだよ。いいか、前回こそ勝ちは譲ったけどな、今年は絶対にオレさまが勝つからな——」
——一つ、このときのキバナに計算違いがあったとすれば、ダンデが一歩も譲らずぐいと顔を近づけてくる性格だったことくらいだろうか。
にこ、と間近で浮かべられる好戦的な笑み。
「でも理論だけで組んでたら、いざ実践に移したときにこけるぜ」
「今から実践すんだよ! オマエ以外の相手に!」
「ふぅん……? オレに勝つならオレを練習台にした方がよくないか?」
「それは……」キバナは一瞬口籠るが、ハッと我に返ってダンデに噛みつく。「いやそれオレさまもオマエの練習台になっちゃうだろうが!」
「ああ……そうだな!」
ダンデはニコリと笑った。ダンデは別に自分の手の内が明かされようと気にはしなかったが、キバナがそれを気にしている様子には心が弾んだ。少なくとも、バトルはしてくれるつもりでいるようだから。
「フフ、次のトーナメント、楽しみだ……な……?」
不意に、ダンデは視線をわずかに後方に向けた。
けれどそこに広がるのは平穏なナックルの街並みだけだ。煉瓦造りの建物が細々並ぶ街路沿いに、買い物帰りらしい男性二人連れがのんびりと通り過ぎていく。
「……」
「? なんだよ、チャンピオン」
「……。いや……」
首を振って向き直る。誰かに見られている気がした、とわざわざ告げようとは思わなかった。キバナが気づかなかったなら、その方がいいよな、と思う。背後に意識をやりながら、おもむろにスマホロトムを取り出す。
なるべく自然な動作で。
「そうだ、連絡先交換しないか」
「なんで」
「オレがキミと仲良くしたいから……じゃダメか?」
「……オレさま、仲良しごっこは御免だぜチャンピオン。大体、オレさまはオマエが苦手だ。当たり前に勝つ気でいやがる。オレさまなんか歯牙にもかけてねえって顔だ」
言いながら、キバナが「ほら」と憮然とした顔でスマホロトムをダンデの方に向けるものだから、ダンデはフフと息を漏らした。多分、彼はオレ相手に気を張っているだけで、本来はずっと優しくて気遣い上手な男なんだろう。
連絡先を交わす直前、ダンデは素早くローズにメッセージを送信した。今ナックルにいること、誰かに見られていたこと。非常時には救援をお願いしたいこと、だ。それからいつだったか、ローズに入れられた端末の機能がオンになっていることを確認する。確かGPSと言っていた。これでダンデの現在地がわかるらしい。
上の空のダンデの耳にキバナの言葉が通り過ぎていく。
「いいか。今年こそはオマエの喉笛、噛み千切ってやるからな!」
「ああ……楽しみだな!」
「ちゃんと聞いてる? 喜ぶトコじゃねえのよ」
「でも次もオレが勝つぜ」
「そういうとこだよ‼︎ クッソ、なんでオレさまこんなヤツに——」そこで唐突にキバナの言葉が途切れた。くしゃみでも出たのか、とダンデは顔を上げる。
そして思わず生唾を飲んだ。
間近で瞳の碧が深みを帯びるのを見る。
「——いいや。オレさまは、オマエのその惚けた顔の下の実力が本物であることを知っている。世間はまだまだオマエの地位を、運で得たものだと思っているらしいが……」そこでキバナが面白くもなさそうに一つ鼻を鳴らす。「オレさまはオマエを侮らない。全力で勝ちに行くぜ、チャンピオン」
力強い宣戦布告に、思わずスマホロトムを握り締める。
こんなに心躍ることはない。
「ああ——オレも」
ざっと、ついいつもの癖で肩に手をやって払う動作をした。菫の髪と、ないはずの王者のマントが風に翻る。浅くなる呼吸を飲み下し、目を細めて笑う。
「頂上でキミを待ってる。キバナ」
ダンデはなんとかそれだけ言って、キバナの反応も見ずに急いで踵を返した。そうしないとフワンテよろしく破裂してしまいそうだった。ああ、あの肌を焼く闘気、堪らないなあ! カンッ、と金属製の何かが地面に叩きつけられた音をダンデは気にも留めなかった。ほとんど駆ける勢いで外壁に沿って階段をダウンタウンへ。まったく、こんな日にどうして面倒そうなやつまで引っ掛けちゃうのか。
路地を曲がって奥へ、ひと気のない方へ。
ナックルシティといえば、開発が進んでいるのは大まかに分けて三つのエリアだ。ナックル城とその城門を中心とした文化財の集まるエリア、駅を中心として居住区が展開するエリア、そして商業施設が盛んなエリア。その三つは中心部が広く清潔な大通りで結ばれている。
そのためナックル市民は今日では街中に細々と張り巡らされている入り組んだ路地にはあまり足を踏み入れなくなった。住宅が面している街路ならまだしも、その裏側や城壁と岸壁に囲まれて日も差し込まない裏路地であれば尚更訪れる機会はない。ナックルに住む子どもは誰でも、目の届かないところで遊ぶことを忌避した大人たちから「裏路地で迷うと城からあぶれたデスカーンに連れていかれるよ」と教え込まれる。
ダンデが向かったのは城の裏側だった。
アップタウンより少し冷えて湿った空気を肌に感じながら、石畳を早足で進んでいく。速度を上げると、背後からなりふり構わない様子の足音が追ってくる。周囲に人影はない。うまい具合に言いつけを破って遊んでいる子どももいないな、とダンデの目が事務的に確認する。
好都合だ。
目の前に袋小路が迫るのを認め、キュッ、と小気味よくスニーカーにブレーキをかける。
「……で、おにーさんたち。何か用?」
振り返ったダンデに、息を切らせた男たちがわずかにたじろいだ。ダンデは素早く目を走らせる。相手は二人、どちらも二、三十代に見える。黒っぽいスーツの胸元に大きくRの字が入っているが、何のマークだったかダンデには思い出せない。ただ、腰にボールは幾つかあるものの、手にナイフなんかの凶器の類はない——なら直接自分をこの場で害したいわけではなさそうだ。この前逆恨みで襲われたときは、本当に面倒で大変だったんだぜ。
そのうちの一人が口を開く。
「……悪いが、一緒に来てもらおうかチャンピオン」
威圧的な口調だった。暴力で他人を従えようとする声。ダンデは目を細める。ボールを握る手に力が籠る。
「……悪いと思ってるんなら、最初からしない方がいいんじゃないか」
感情を込めずに言えばチッともう一人が舌打ちをする。その頭上から突如、ガァ、と空を裂く鳴き声が大きな羽ばたきと共に降ってきて、路地に突風が巻き起こる。耳を塞ぐ男たちに対してダンデが瞬きもせずに眺めていると、男たちの背後、路地の入り口に一台のガアタクが着地した。誰がこんなところにタクシーを、と一瞬首を傾げるが、中の座席が空っぽなのを見てダンデは「……なるほど」と納得する。運転手が無言で車を降り、男二人の隣に並んだ。
相手は全部で三人か。
ただ、足にガアタク車両はよくないだろ、と思う。ガアタク組合は確か無許可営業に厳しいから組合に入っていない車両を見分ける術があったはずだ。偽装は一発でバレるよと、教えてやった方がいいだろうか。それとも本当に運転手なのだろうか。それはそれで、身元の特定が容易な状態で誘拐なんかに手を染めない方がいいんじゃないのか。
そう、彼らの目的は恐らくダンデの誘拐だ。
「……いや、目的じゃないか。手段、だなそれは」
オレはいつも、言葉を間違えてよくないな、と独り言ちれば男たちから奇妙なものでも見るような目を向けられ、ダンデは口元だけで苦笑を作る。だってそうだろう、彼らにとって誘拐はあくまで手段に過ぎない。彼らはどうしてオレを攫おうというのだろう。人相を確かめるが、どうも今までバトルをした人間とも、トラブルの解決の際に取り押さえた人間とも合致しない。
ボールを手の中で弄ぶ。
あんまり犯罪行為には手慣れていない、けれど偽装用の車を手配できる程度には組織的な伝手のある相手。
どうしようか、と唇を舐める。
「悪いけど、バトル希望者なら一対一で来てくれないか。……ダブルバトルでも、受けて立つけど、三人はちょっとね」
じり、と後退りながら苦笑する。まあでも、三人相手も悪くないか、とダンデは思い直した。ニダンギルを入れたボールをこっそり袖の奥に隠しながら編成を考える。ワイルドエリアでキテルグマに四方を囲まれたときよりずっと容易い状況だ。どうせなら新戦力を試してやろうとすら思った。新顔が実戦でどこまでやれるか、いい練習になりそうだ。捕まってやるのはそのあとでもいいだろう。
そこまで考え、ダンデがドロンチを出そうとしたとき。
「……おいっ、オマエら何やってんだ⁉︎」
不意に路地に少年の声が響き渡った。背後からの一喝に男たちがびくりと一斉に振り返る。釣られてダンデも、男たちの肩越しに闖入者の姿を視界に捉える。
そして驚愕に目を見開いた。
「キバナくん」思わず名前を呼んだ。「なんで」
こちらをキッと睨みつけるキバナの手には見覚えのあるスプレーボトルが握られていた。ぶら下がった金具が壊れている。それを目にした瞬間、ダンデは青ざめて自分の背負ったリュックに後ろ手に手を伸ばした。
——ない。
手が宙を掻いた。落としたのだ。さっき、連絡先を交換したときに。
だからキバナは、わざわざ落とし物を届けようとダンデを探してここにきた。
キバナをこの場に招き寄せたのはダンデのミスだ。
さっと心臓の裏側が冷たくなる。
まずい、と思った。対峙する男たちに向かってキバナは今まさにボールを構え、ポケモンを出そうとしている。男たちが突然の乱入者に気色ばむのが見える。
ダンデの知る限り、キバナは優秀なポケモントレーナーだ。それも相当に実直な。
だから当然、相手のポケモンがトレーナーを殺すつもりで攻撃する可能性があることを考慮していない。
単なる喧嘩相手に向かう認識で戦わせるのはまずい。
「ダンデ、今助ける——」
「リザードンッ!」
咄嗟にボールを蹴った。リザードンの入ったボールは勢いよく斜めに放物線を描いたかと思うと、綺麗に男たちとキバナの中間に飛んだ。地面にぶつかり、ぽん、とその尻尾がまろび出るのを待たずに叫ぶ。
「キバナを連れて逃げろっ!」
まるでその指示があらかじめわかっていたかのようにバギュア!と一声大きく吠え、リザードンは突進の素早さでキバナの体を攫い上げた。キバナの成長期真っ盛りの体もリザードンの前ではぬいぐるみ同然だ。腕に引っ掛けられる形で空に連れ去られ、キバナが驚きに息を詰まらせる。
さすが相棒、手際がいいぜ。
ぽん、と足下で軽い音がして視線を下げればボールから出されたのはクサイハナだ。視界に毒々しい色の花が見えたのは一瞬で、襲い来る強烈な眠気がダンデの目を霞ませた。遠くからキバナの怒鳴り声が聞こえる。
「ダンデッ、オマエ……っ!」
その声が無事にどんどん離れていくのを耳にして、ダンデは胸を撫で下ろしていた。リザードンに任せておけば大丈夫だ、きっとキバナを安全な場所まで連れていってくれる。オレはオレで、できることを——そこから先は何も考えられなくなる。
体がどさりと地面に落ちて、意識の途切れる寸前にバチリと暗闇に火花を散らしたのは、リザードンに抱えられた直後に苛烈にダンデを睨みつけたキバナの目だ。
なんだかキバナくんは怒っていたが。
だってキミをオレのゴタゴタに巻き込めないだろ。
※作中、成人が未成年を預かる対応として適切でない描写があります。
十二歳(1)
ポケモンバトルが好きだ、とダンデは思う。
相手の手を読んで策をぶつけるのは楽しいし、ポケモンたちとうまく意思疎通をはかってベストな攻撃が決まると嬉しい。タイプ相性やレベル差を覆して勝利したときなんかは脳が痺れるくらいに気持ちいい。
けれど、だから誰もが同じようにバトルを楽しめるかというとどうやら世の中そう単純ではないらしい。
今日のワイルドエリアの風は穏やかだった。夕暮れがキバ湖の水面を照らし、遠くに臨む見張り塔からは物悲しいゴースたちの鳴き声が微かな音量で運ばれてくる。
繊細な虫ポケモンたちは怯えて姿を現さないが、ダンデは気にも留めなかった。林に張ったテントの前で、ぐるぐるとカレーをかき混ぜながら一人で唸る。
(……この前も)
鮮烈に記憶に残るのは、自分よりいくつか年上のボーイスカウトの、吐き捨てるような棄権の台詞だ。
——負けるってわかってるバトルを、続けたって意味ないだろ……。 うーん、流石に落ち込むぜ、と木の実を砕いてカレーに放り込みながら、ダンデは首を傾げる。そりゃあ、力量差を配慮せず手加減しなかったことは認めよう。だが勝負である以上、絶対はない——少なくともダンデはそう信じている——そして可能性が一割を切ろうが、一分に満たなかろうが、コートに上がる以上、トレーナーは勝負に背を向けるべきではない。それができないなら、もう一度バトルへの姿勢を見つめ直してみた方がいい。と思う。流石に口にはしなかったが。チャンピオンという立場にいる以上、威圧になってしまうのはダンデの本意ではなかった。
けれどバトルの腕に自信があると誘ってきたのはあちらの方だ。
だからそのつもりで全力で相手をした。
カレー鍋を満たすルーの海でジャガイモが浮き沈みするのをぼんやりと眺める。オレは何か間違っていただろうか。いいや、何も間違いようがない——いつもどおりバトルで勝っただけだ。彼だって、腕は悪くなかった。特に序盤で一体目が一撃受けたあとの、まだ役割があるだろうと交代した判断の速さは賞賛に値するものだった。
だがあの様子では、彼はすっかり戦意を喪失してしまったんじゃあないだろうか。
どうしたら、彼といいバトルができただろう。
(……いや、違うな)
問いの立て方が甘い、とダンデは自省した。そうじゃないだろう、オレ。もやもやと、胸の裡に燻る輪郭のあやふやな己の感情の中を覗き込む。
オレは多分、彼がバトルを途中で諦めてしまったことを問題視しているわけじゃあないんだ。
いや、そう言っては少し語弊があるだろうか。お互い最後までバトルをやり切れるなら、それに越したことはないのだ。だが最終的に、バトルを充実したものとできるか——バトルを経て実力を伸ばせるかどうかは彼自身の問題だ。ダンデは自分の手の届かないところにある荷まで、一緒に背負い込むつもりはなかった。
そう——バトルを充実したものとできるかは、自分自身の問題だ。
どうしたらオレは満足できた?
不意に影が揺れ、ギュア、と背後で鳴き声がした。お玉を片手にしゃがみ込んだダンデの顔を照らしたのは、大きく燃え盛る相棒の尻尾の火だ。
「……心配ないぜ、リザードン。ちゃんとわかってるさ」 ぐるる、と喉を鳴らし、背後からそっと頬を擦り寄せてくる相棒にダンデは苦笑する。気を遣わせてしまった。別に、そこまで気落ちしているわけじゃない。 「ポケモンでも、バトルが苦手な個体もいる」 それはわかるのだ。ポケモンたちでもよくよく観察していると、同じ種類でもその体力や素早さに個体ごとに差があることが見てとれる。だからダンデはその中で、特にバトル向きの性格や能力を持った個体を選んで仲間に誘う。バトルを苦手に感じる個体に、バトルを強要したって酷だろう。 「それとおんなじで、トレーナーでもバトルが苦手な個体もいる……」
それもわかる。だから全員が全員、自分と同じようにバトルを楽しめないことも理解している。
「……でも、同じバトルが得意な個体とは、楽しくバトルできると思ったんだ。だってバトルが好きなんだろ?」
けれど近頃どうにも物足りない。
柔らかい草の上で膝を抱える。ダンデが求めるのは、もっと互いの限界を曝け出して命を削り合うような勝負のスリルだった。思考を引き絞るギリギリの感覚。彼とのバトルにはそれが、なかったとは言わないが、ダンデの胃を満たすには到底足りるものではなかったのだ。
——積まれたカレー皿を片付け、けれどまだ眠る気にもなれず、ダンデは引っ張り出した寝袋を下にごろりと寝転がった。野生のコノハナが頭上を徘徊する気配はあったが虫除けスプレーを惜しみなく使えば近づいてくることもない。スプレーボトルをリュックに引っかけ直す。安物の金具がカランと鳴る。聞こえるのは相棒たちの寝息。広がる夜空は澄み渡って、満天の星が瞬いている。
チャンピオンになって二年目のシーズンも、そろそろ半ばを迎えようとしていた。一年目は波瀾万丈だった——リーグ委員の一人であるローズに、キミはもう少しチャンピオンとしての振る舞いを身につけた方がいいねと勧められてマスタードという男に師事した日々は、ダンデの短い人生においても一際輝いていた。
それと、初の防衛戦となるチャンピオントーナメント。
瞼の裏に、決勝で浴びた熱気を鮮やかに思い出す。
何よりダンデの心を掴んで離さないのは、対峙した相手が見せたこちらを食い千切らんばかりの剥き出しの闘志だ。今でもありありと脳裏に思い描くことができる。
あの、瞳の色。
楽しかったなあ、と思う。
——ダンデちん、人生ねー、楽しんだもん勝ちだから!
「……そのつもりなんだけどなあ」
ゴロリと寝返りを打つ。鼻先で、寝ぼけたドロンチの尻尾がたしん、と跳ねる。
ポケモンバトルが好きだ、とダンデは思う。バトルが好きで、だからもっと充実したバトルをしたいし、強い相手と戦いたい。練り上げた戦略をぶつけ合ってギリギリのスリルに痺れたい。ひりつくようなあの熱気を、ずっと浴びていたいとさえ思う。
そのためにすべきことを、考えなければならない、とダンデは思った。バトルを充実したものとするには、ただ自分が強いだけでは不足があるのだ。自分と同じ熱量で、自分と対等に渡り合える人間を、オレは見つけなければならない。
◇ ◇ ◇
ダンデがナックルシティに戻ったのは、翌る日の昼前のことだった。途中リザードンに引っ張られながら通り過ぎたナックル丘陵の天気は砂嵐で、脱いだジャージの上着をばさっと振れば砂がザッと水のように流れ出る。街の入り口のゲート脇ではダンデと同じくワイルドエリアを抜けてきたトレーナーたちが砂の山を作っていて、その周りで清掃係のヒポポタスたちがキャッキャとそれを片付けていた。その様子を横目に、ダンデはポケモンセンターで手持ちたちを回復し、ついでにトレーナー用のブースでシャワーを借りてさっぱりする。汚れた服はクリーニングサービスに預けた。送り先にシュートの住所を登録する。
一旦シュートに戻ろうか。
荷物の入ったリュックを背負い直し、ダンデは少し悩んで「……どうしようか、ドロンチ」と側でふわふわと浮遊する成竜に声をかけた。
元々今回のワイルドエリアの滞在は、このドロンチの育成を目的としていた。そのためにローズに無理を言って予定を空けてもらっていたから、早めに帰るのが正解だろう。ただ、ローズも今日の予定は出張になっていたような気がして、急いでもあまり意味はないかもしれない。どうしようか。
と、ふとドロンチの透けた腹の向こう側に、ナックルの街並みを歩く見知ったユニフォーム姿を見つけた。
思わず破顔してその名を呼ぶ。
「……キバナくん!」
「……げ、チャンピオン」
名前を呼ばれた少年は、少し及び腰に足を止めた。仮にウールーの群れに放り込んでも見失うはずのないあの背の高さが少し羨ましい、とダンデはドロンチを戻しながら一瞬眺める。その体躯を包むのはナックルジムのユニフォームで、彼は齢十二で既にナックルジムの実力者として名を馳せていた。それを言えば、ダンデはチャンピオンとして名を馳せているのだが。そのことも、キバナがダンデを苦手としている一因かもしれない、とダンデは思う。
露骨に顰められたその顔に、しかしダンデは構わず駆け寄った。キバナが自分のことを苦手に思っていることは知っていたが、彼がバトルを続けるのなら自分たちが継続的に顔を合わせることは免れ得ない。今変に避けても仕方がない。
「奇遇だな! キミはこれからジムに?」
「そうだけど……」
溌剌とした笑顔を見せるダンデとは対照的に、キバナは品定めするようにじっとダンデを観察した。たっぷり一秒の沈黙のあと、不意に目を細めて口元に笑みの形を作る。
(……随分と気のない愛想笑いだ、)
とはダンデは口に出さなかった。喧嘩をしたいわけじゃない。
「キバナでいいよ、チャンピオン」
「……そうか? ならオレもダンデでいいぜ」
あまり乗り気でなさそうなキバナの声音にダンデも調子を合わせたつもりだったが、しかし滲む喜色は抑え切れなかった。言葉の端が弾む。彼こそは、去年のチャンピオントーナメントでダンデを最も追い詰めた男だったからだ。これではしゃぐなという方が無理だ。
そのダンデの浮かれ具合が伝わったのか、少し呆れたように息を吐かれる。
その瞬間、不意に頭をよぎったのは、つい先日バトルで吐かれた言葉だ。
——負けるってわかってるバトルを。
——続けたって意味ないだろ。
(……あ)
ダンデは思わず目の前の少年を凝視してしまった。あの決勝は接戦だった——だが勝負には必ず勝ち負けが存在する。試合はダンデが勝ち、キバナが負けた。
彼は諦めないでくれるだろうか。
(……まだオレに、勝ちたいままでいてくれるだろうか)
固まったまま今度は妙な沈黙を保ち始めたダンデに、キバナは何だよと訝しげに問う。
「……用がないなら、オレさまもう行くけど」
「……! ああ、いや、すまない。前回の決勝のことを思い出していたんだ。キミ、今年も勝ち上がってくるだろう? 楽しみだな、と思って」
「随分と余裕があるようだが」キバナが薄目で笑う。「オレさまが勝ち上がっても、オマエが初っ端から一回戦で負けたら当たんねえんだぜ。ま、オレさまとしてはそっちのが楽でいーけど」
「そ、そうか? やっぱりオレとやるのは嫌か……? いやでも、オレはまたキミとやりたいけどな……」ダンデは少し落胆しながら、しかし視線はそわそわとキバナの腰元に吸い寄せられていた。彼の手元、この前のリーグではなかった新しいボールがぶら下がっていないか? その子、新しいメンバーなんじゃないか?
ダンデはもう、ここで負かして彼が諦めてしまうならそれはそれで仕方ないんじゃないかと思い始めていた。
そんなことよりバトルがしたい。
「いやもう、今からでもバトルしないか? オレもこの前、雪原で新しい仲間を捕まえたんだ、それでできれば試しに誰かと……」
「えっ嫌だけど」
ダンデの推測通り新メンバーを加えていたためにその手の内を晒したくないキバナは、にべもなく答えながら内心首を傾げていた。
コイツ、『オレも』ってなんだ?
「なんで!」
「あのな」キバナはぐいと一歩距離を詰め、ダンデを威圧するように見下ろす。そうすれば、大抵の相手に本能的に怯えを抱かせることができることを十数年の短い経験で彼は既に理解していた。同年代でキバナより背の高い人間は中々いない。「なんでオレさまがわざわざオマエに手の内を見せないとなんだよ。いいか、前回こそ勝ちは譲ったけどな、今年は絶対にオレさまが勝つからな——」
——一つ、このときのキバナに計算違いがあったとすれば、ダンデが一歩も譲らずぐいと顔を近づけてくる性格だったことくらいだろうか。
にこ、と間近で浮かべられる好戦的な笑み。
「でも理論だけで組んでたら、いざ実践に移したときにこけるぜ」
「今から実践すんだよ! オマエ以外の相手に!」
「ふぅん……? オレに勝つならオレを練習台にした方がよくないか?」
「それは……」キバナは一瞬口籠るが、ハッと我に返ってダンデに噛みつく。「いやそれオレさまもオマエの練習台になっちゃうだろうが!」
「ああ……そうだな!」
ダンデはニコリと笑った。ダンデは別に自分の手の内が明かされようと気にはしなかったが、キバナがそれを気にしている様子には心が弾んだ。少なくとも、バトルはしてくれるつもりでいるようだから。
「フフ、次のトーナメント、楽しみだ……な……?」
不意に、ダンデは視線をわずかに後方に向けた。
けれどそこに広がるのは平穏なナックルの街並みだけだ。煉瓦造りの建物が細々並ぶ街路沿いに、買い物帰りらしい男性二人連れがのんびりと通り過ぎていく。
「……」
「? なんだよ、チャンピオン」
「……。いや……」
首を振って向き直る。誰かに見られている気がした、とわざわざ告げようとは思わなかった。キバナが気づかなかったなら、その方がいいよな、と思う。背後に意識をやりながら、おもむろにスマホロトムを取り出す。
なるべく自然な動作で。
「そうだ、連絡先交換しないか」
「なんで」
「オレがキミと仲良くしたいから……じゃダメか?」
「……オレさま、仲良しごっこは御免だぜチャンピオン。大体、オレさまはオマエが苦手だ。当たり前に勝つ気でいやがる。オレさまなんか歯牙にもかけてねえって顔だ」
言いながら、キバナが「ほら」と憮然とした顔でスマホロトムをダンデの方に向けるものだから、ダンデはフフと息を漏らした。多分、彼はオレ相手に気を張っているだけで、本来はずっと優しくて気遣い上手な男なんだろう。
連絡先を交わす直前、ダンデは素早くローズにメッセージを送信した。今ナックルにいること、誰かに見られていたこと。非常時には救援をお願いしたいこと、だ。それからいつだったか、ローズに入れられた端末の機能がオンになっていることを確認する。確かGPSと言っていた。これでダンデの現在地がわかるらしい。
上の空のダンデの耳にキバナの言葉が通り過ぎていく。
「いいか。今年こそはオマエの喉笛、噛み千切ってやるからな!」
「ああ……楽しみだな!」
「ちゃんと聞いてる? 喜ぶトコじゃねえのよ」
「でも次もオレが勝つぜ」
「そういうとこだよ‼︎ クッソ、なんでオレさまこんなヤツに——」そこで唐突にキバナの言葉が途切れた。くしゃみでも出たのか、とダンデは顔を上げる。
そして思わず生唾を飲んだ。
間近で瞳の碧が深みを帯びるのを見る。
「——いいや。オレさまは、オマエのその惚けた顔の下の実力が本物であることを知っている。世間はまだまだオマエの地位を、運で得たものだと思っているらしいが……」そこでキバナが面白くもなさそうに一つ鼻を鳴らす。「オレさまはオマエを侮らない。全力で勝ちに行くぜ、チャンピオン」
力強い宣戦布告に、思わずスマホロトムを握り締める。
こんなに心躍ることはない。
「ああ——オレも」
ざっと、ついいつもの癖で肩に手をやって払う動作をした。菫の髪と、ないはずの王者のマントが風に翻る。浅くなる呼吸を飲み下し、目を細めて笑う。
「頂上でキミを待ってる。キバナ」
ダンデはなんとかそれだけ言って、キバナの反応も見ずに急いで踵を返した。そうしないとフワンテよろしく破裂してしまいそうだった。ああ、あの肌を焼く闘気、堪らないなあ! カンッ、と金属製の何かが地面に叩きつけられた音をダンデは気にも留めなかった。ほとんど駆ける勢いで外壁に沿って階段をダウンタウンへ。まったく、こんな日にどうして面倒そうなやつまで引っ掛けちゃうのか。
路地を曲がって奥へ、ひと気のない方へ。
ナックルシティといえば、開発が進んでいるのは大まかに分けて三つのエリアだ。ナックル城とその城門を中心とした文化財の集まるエリア、駅を中心として居住区が展開するエリア、そして商業施設が盛んなエリア。その三つは中心部が広く清潔な大通りで結ばれている。
そのためナックル市民は今日では街中に細々と張り巡らされている入り組んだ路地にはあまり足を踏み入れなくなった。住宅が面している街路ならまだしも、その裏側や城壁と岸壁に囲まれて日も差し込まない裏路地であれば尚更訪れる機会はない。ナックルに住む子どもは誰でも、目の届かないところで遊ぶことを忌避した大人たちから「裏路地で迷うと城からあぶれたデスカーンに連れていかれるよ」と教え込まれる。
ダンデが向かったのは城の裏側だった。
アップタウンより少し冷えて湿った空気を肌に感じながら、石畳を早足で進んでいく。速度を上げると、背後からなりふり構わない様子の足音が追ってくる。周囲に人影はない。うまい具合に言いつけを破って遊んでいる子どももいないな、とダンデの目が事務的に確認する。
好都合だ。
目の前に袋小路が迫るのを認め、キュッ、と小気味よくスニーカーにブレーキをかける。
「……で、おにーさんたち。何か用?」
振り返ったダンデに、息を切らせた男たちがわずかにたじろいだ。ダンデは素早く目を走らせる。相手は二人、どちらも二、三十代に見える。黒っぽいスーツの胸元に大きくRの字が入っているが、何のマークだったかダンデには思い出せない。ただ、腰にボールは幾つかあるものの、手にナイフなんかの凶器の類はない——なら直接自分をこの場で害したいわけではなさそうだ。この前逆恨みで襲われたときは、本当に面倒で大変だったんだぜ。
そのうちの一人が口を開く。
「……悪いが、一緒に来てもらおうかチャンピオン」
威圧的な口調だった。暴力で他人を従えようとする声。ダンデは目を細める。ボールを握る手に力が籠る。
「……悪いと思ってるんなら、最初からしない方がいいんじゃないか」
感情を込めずに言えばチッともう一人が舌打ちをする。その頭上から突如、ガァ、と空を裂く鳴き声が大きな羽ばたきと共に降ってきて、路地に突風が巻き起こる。耳を塞ぐ男たちに対してダンデが瞬きもせずに眺めていると、男たちの背後、路地の入り口に一台のガアタクが着地した。誰がこんなところにタクシーを、と一瞬首を傾げるが、中の座席が空っぽなのを見てダンデは「……なるほど」と納得する。運転手が無言で車を降り、男二人の隣に並んだ。
相手は全部で三人か。
ただ、足にガアタク車両はよくないだろ、と思う。ガアタク組合は確か無許可営業に厳しいから組合に入っていない車両を見分ける術があったはずだ。偽装は一発でバレるよと、教えてやった方がいいだろうか。それとも本当に運転手なのだろうか。それはそれで、身元の特定が容易な状態で誘拐なんかに手を染めない方がいいんじゃないのか。
そう、彼らの目的は恐らくダンデの誘拐だ。
「……いや、目的じゃないか。手段、だなそれは」
オレはいつも、言葉を間違えてよくないな、と独り言ちれば男たちから奇妙なものでも見るような目を向けられ、ダンデは口元だけで苦笑を作る。だってそうだろう、彼らにとって誘拐はあくまで手段に過ぎない。彼らはどうしてオレを攫おうというのだろう。人相を確かめるが、どうも今までバトルをした人間とも、トラブルの解決の際に取り押さえた人間とも合致しない。
ボールを手の中で弄ぶ。
あんまり犯罪行為には手慣れていない、けれど偽装用の車を手配できる程度には組織的な伝手のある相手。
どうしようか、と唇を舐める。
「悪いけど、バトル希望者なら一対一で来てくれないか。……ダブルバトルでも、受けて立つけど、三人はちょっとね」
じり、と後退りながら苦笑する。まあでも、三人相手も悪くないか、とダンデは思い直した。ニダンギルを入れたボールをこっそり袖の奥に隠しながら編成を考える。ワイルドエリアでキテルグマに四方を囲まれたときよりずっと容易い状況だ。どうせなら新戦力を試してやろうとすら思った。新顔が実戦でどこまでやれるか、いい練習になりそうだ。捕まってやるのはそのあとでもいいだろう。
そこまで考え、ダンデがドロンチを出そうとしたとき。
「……おいっ、オマエら何やってんだ⁉︎」
不意に路地に少年の声が響き渡った。背後からの一喝に男たちがびくりと一斉に振り返る。釣られてダンデも、男たちの肩越しに闖入者の姿を視界に捉える。
そして驚愕に目を見開いた。
「キバナくん」思わず名前を呼んだ。「なんで」
こちらをキッと睨みつけるキバナの手には見覚えのあるスプレーボトルが握られていた。ぶら下がった金具が壊れている。それを目にした瞬間、ダンデは青ざめて自分の背負ったリュックに後ろ手に手を伸ばした。
——ない。
手が宙を掻いた。落としたのだ。さっき、連絡先を交換したときに。
だからキバナは、わざわざ落とし物を届けようとダンデを探してここにきた。
キバナをこの場に招き寄せたのはダンデのミスだ。
さっと心臓の裏側が冷たくなる。
まずい、と思った。対峙する男たちに向かってキバナは今まさにボールを構え、ポケモンを出そうとしている。男たちが突然の乱入者に気色ばむのが見える。
ダンデの知る限り、キバナは優秀なポケモントレーナーだ。それも相当に実直な。
だから当然、相手のポケモンがトレーナーを殺すつもりで攻撃する可能性があることを考慮していない。
単なる喧嘩相手に向かう認識で戦わせるのはまずい。
「ダンデ、今助ける——」
「リザードンッ!」
咄嗟にボールを蹴った。リザードンの入ったボールは勢いよく斜めに放物線を描いたかと思うと、綺麗に男たちとキバナの中間に飛んだ。地面にぶつかり、ぽん、とその尻尾がまろび出るのを待たずに叫ぶ。
「キバナを連れて逃げろっ!」
まるでその指示があらかじめわかっていたかのようにバギュア!と一声大きく吠え、リザードンは突進の素早さでキバナの体を攫い上げた。キバナの成長期真っ盛りの体もリザードンの前ではぬいぐるみ同然だ。腕に引っ掛けられる形で空に連れ去られ、キバナが驚きに息を詰まらせる。
さすが相棒、手際がいいぜ。
ぽん、と足下で軽い音がして視線を下げればボールから出されたのはクサイハナだ。視界に毒々しい色の花が見えたのは一瞬で、襲い来る強烈な眠気がダンデの目を霞ませた。遠くからキバナの怒鳴り声が聞こえる。
「ダンデッ、オマエ……っ!」
その声が無事にどんどん離れていくのを耳にして、ダンデは胸を撫で下ろしていた。リザードンに任せておけば大丈夫だ、きっとキバナを安全な場所まで連れていってくれる。オレはオレで、できることを——そこから先は何も考えられなくなる。
体がどさりと地面に落ちて、意識の途切れる寸前にバチリと暗闇に火花を散らしたのは、リザードンに抱えられた直後に苛烈にダンデを睨みつけたキバナの目だ。
なんだかキバナくんは怒っていたが。
だってキミをオレのゴタゴタに巻き込めないだろ。
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