【再録】ヤツらの交際事情について
「キミ、フラウロスに何渡した?」
ノックも疎かに俺の部屋を訪れたその男は、珍しく随分と感情をあらわにしていた。ニコリと向けられた笑みに、ああ、これは相当怒っているな、と口角が上がる。
立ち込める没薬の匂いを手で払う。釜を火から下ろし、窓を開けて日光を入れ換気をし、そばにあった薬瓶を手慰みに撫でる。
「ここに来たということは、大方察しはついているんだろう。答えの分かり切っている問いほど無意味な行為もあるまい。なんだ、都合の悪い情報でも吐かされたか?」
「だいぶね」
「そりゃあいい」
クックッと喉を鳴らす。医者は目を細めて笑ったが、瞳の奥には薄く研いだ氷のような殺意させちらつかせていた。腕を組み、戸口を塞ぐように寄りかかる。ほう、コイツでも暴力による解決をはかろうと考えるのだろうか。だがいくら硬いとはいえ細腕だ、そう大したダメージにはならん。
「悪いけど、話し合いに来たんじゃないんだ」
「ならなんだ。八つ当たりか? 俺を打擲でもするか」
「それで俺の苛立ちが収まるならそうするけど」
肩を竦める。
「俺の感情はそう単純にできているわけでもないみたいでね」
「なら何の用だ。アレを渡したのはおまえか、ああ、とまさかそれだけを確認しにきたわけでもないだろう」
「そうだね……」
アンドラスが、思案しながら指の背で唇を撫でる。
「フラウロスに、仕返しがしたくてさ」
「……ほう?」
「いい薬を見繕ってくれないかなァ。間接的にとはいえあんな薬を盛ってくれたんだ。別にいいだろ、そのくらい」
「俺は薬屋ではないんだがな」
「なのにフラウロスには譲ったの? フラウロスには譲れて俺には譲れない道理があるかい」その問いには断る余地を許さない圧が滲み出ていた。笑みが深まる。「いくらで譲ったんだ? まあ、彼がキャッシュで支払える対価なんて高が知れているし、それこそ自分の体で実験台になるくらいでもしない限り……」
言葉がそこまで差しかかったところで、何かにはたと思い至ったようにアンドラスが唐突に言葉を切った。目を見開き、慄いた様子で俺を凝視してくる。何だ?
部屋の温度がひやりと下がった気がした。
「キミ」
声こそ平坦だが、言葉の裏に激しい動揺が見える。
「フラウロスと、体の約束をした……?」
「は? いや……」
そんなわけないだろあの男の体に興味を示す物好きはおまえくらいのものだこのド変態闇医者め。
と思うがわざわざ口にしてやる義理もないか。
ニンマリと頰が緩んでしまう。
「……だとしたらどうする?」
「……選択肢がいくつかある」
からかうように告げた言葉にいよいよ医者が追い詰められた顔をして、俺と自分を交互に指さす。
「今すぐ彼を解剖してその取引を無効にするか、今すぐキミを解剖して無効にするかの二択だ」
「選択肢と言うにもおこがましい幅の狭さだな」
どうやら医者は珍しく視野狭窄に陥っているようだった。貼りつけた笑みの質感が無地の陶器のようにのっぺりとしてきて、その頭蓋の中で自分のものであるはずだという負けん気と、でもフラウロスなら約束してしまったかもしれないという強い不安が渦巻いているのが見える。
ぎゅ、とその手に縄鏢が握られたのを目にして、俺はやれやれと両手をあげて降参の意志を示した。普段滅多なことでは動じないこの男が焦る様子はいい気味だが、面倒に巻き込まれるつもりはない。
「フン……生憎、あのクズの体など興味がない。どうでもいい。死んでもいらん。どうだ、これで安心したか」
「…………」
「クックックッ……だが、他人に奪われる可能性にそこまで顔色を変えることの意味をわかっているのかおまえは? わかっていることだろうな……なのに取られるなら、それは野放しにしているおまえの落ち度だろう。さっさと自分のものにしてしまえ」
アンドラスが口を開き、激情に任せて何かを言いかけた。やれるものならやっている、自分だってそうしたい、念書だって書いてもらったのだ。
それら全てを飲み込んで、睫毛を伏せて静かに目を閉じる。
「……ヴィータには意思があるよ」
「そうだな」
「薬を混ぜたところで、彼は匂いで気づくだろうし」
「だろうな」
「……無理矢理俺のものにする、とか、そういうつもりはないんだ」声が凪の海の表面のように揺れる。「彼の意志を捻じ曲げてまで俺が独占するとか、それはよくないことだ。違うか?」
フン、と鼻を鳴らす。とんだ善性だ。それで他人に盗られていたら世話はない。
いっそ俺が奪ってやろうか?
一瞬そんな考えが頭をよぎるが、普段のあの男の言動を思い返し、噛み締めて、三秒前の自分の馬鹿げた思いつきを否定する。
いやあんなクズいらん。
「……で、結局フラウロスからの対価は何だったの」
何だ、まだ忘れていなかったのか。
俺は帽子の鍔をくるりと回して、アンドラスから顔を隠す。
「体じゃないのはわかったけど、お金でもないだろ? この間ギャンブルでスったって言ってたし」
「おまえへの投与結果」
その言葉を告げた瞬間の、アンドラスのぽかんとした表情。
堪らず吹き出す。気分は獲物のかかった捕獲網を眺める罠師のそれだ。
「アーッハッハッハ! そう、そうだ、そしてそれはここにきたおまえの様子で随分とわかったな……⁉︎ ご苦労、ご苦労! 昨晩は随分と鳴かされたらしい! ……まあ、当のアイツはまだこないが、想定の範囲内だ。こうしておまえが来たのだ、あの取引は成立としよう……」下ろした釜を再度火にかけ直す。全く、この男のタイミングが悪いものだから中断してしまった。これを煮ておかねばな。「おまえの耐性は軍団でも群を抜くからな、量の調整にちょうどいい……」
「デカラビア」
塗り固めたような平坦な声。
作業台に向かった俺の脇からスッと手が伸びて、机上に並んだ小瓶のうちの一つを掠め取っていった。
振り向くと、背中越しにひらひらと手を振られる。
「これ貰っていくよ。後で代金請求しておいて」
そう言って、アンドラスは返事も聞かずに部屋を出ていった。
全く、愚か者どもめ。
溜め息を吐く。俺の意見は変わらない。
そんなに他人に教えたくないのなら、さっさと独り占めしてしまえ。