【再録】ヤツらの交際事情について




「アンドロマリウス」
「ひぃえっあああ⁉︎」
 ぬっと背後から音もなく生えてきた影に、思わず三センチくらい飛び上がってしまった。悲鳴と共に、腕いっぱいに抱えていた本をどさどさと取り落としてしまう。一つは足の甲に落として何とか接地面を減らした。結構な分厚さで痛い。そんなことより本が汚れてしまう。あああ、と嘆きながら慌ててそれらを拾い上げた。気配を消して近づくの、やめてほしい。
 でも本を拾うのを手伝ってくれるあたり、悪い人ではないのだ。ただちょっと、間が悪いのと、笑顔が怖いのと、冗談が笑えないだけで。
「で」
 背もたれのない丸椅子を二つ引いて、私は突然の来訪者に腰掛けるように勧めた。
「どうしたんですか、アンドラスさん」
 ゆったりとした午睡の時間だった。まどろむような春の陽気が、直接陽の光の差し込まないこの図書室の隅まで行き渡っているようだった。今は私たち二人しかいなくて静かだ。
 椅子に掛けたアンドラスさんは、「驚かせてすまないね」とあんまり悪びれずに前置いて、温度のない声で私に尋ねる。
「うん、実は紙の長期保存の方法についての情報が欲しくて。そういう本はあるかな」小首を傾げる。「臓器の保存なら自信はあるんだけど、羊皮紙はそういうわけにもいかないだろ? ホルマリンとか、注入できればいいんだけどな」
「ひえ……」
 なんか怖い言葉が聞こえた気がするぅ……と震えながら、私はわかりましたと頷いて、心当たりのある書架の方へふらふらと向かう。技術書や理論の本は理系のメギドたちのように専門ではなかったが(私の好きなのは空想小説だ)、この図書室にある蔵書の内容はある程度頭に入っていた。本当は、一覧にまとめて早見をできるようにするのがいいのだろうけれど、まだそこまで手は回っていない。分類ごとに棚に整理するのがやっとだ。
 それに、どうしても内容を探すとなると人の記憶が介在した方が手が早い。
「そうですね、物の保存技術についてはこれとこれ……あ、あと防虫に関してと、蔵書家の人のエッセイですけどこっちにも確か参考になりそうな記述が……」
 そうして四冊ほど見繕って差し出すと、興味深げについてきていたアンドラスさんがありがとうと受け取って席に戻った。男の人にしては細い手が、まず目次の辺りで止まり、それから物凄い速さでページをめくっていく。視線が流れるように左から右へ。その様子を、もう片方の椅子に腰掛けて眺める。
 アジトには色々な境遇のメギドたちがいるから、本を読む人もあまり読まない人もいる。読めないけど読みたい人たちには最近マルファスさんが精力的に文字を教えたりもしているけど、アンドラスさんはエルプシャフト語が読める人なんだな、と思う。しかも相当慣れている。お医者様だからそれはそうか。それにしたって、専門ではないだろうにページを読み込む速度が速い。
 熱心に文字を貪る彼の横顔で、青緑色のピアスが光る。
 本当は、穏やかな気性の人なんだろうなと思う。ただちょーっと、解剖に関して押しが強いだけで。
 たっぷり紅茶を淹れる時間分くらい、静寂が流れる
 パタン、と一つ本を閉じた音で、私ははっと我に返った。いけない、つい見つめてしまっていた。気まずく視線を彷徨わせていると、ニコリと笑うアンドラスさんと目が合う。
 ひえ。
「そうだ、アンドロマリウス。折角だから、キミの意見も聞いてもいいかな」
 ま、まだ何かあるんですかぁ……という言葉はすんでのところで飲み込んだ。弱音ばっかりではいけない。頼られているのだ、しっかりしなきゃ。
「な……何ですか……?」
「絶対に他人に見つかりたくないものがあるんだけど、探されているから隠さなきゃいけなくてさ。そういうとき、キミならどう隠す?」
「隠す……。お宝、とかですか……?」
「うん? まあ、そんなところかな」言ってアンドラスさんは、二冊目に手を伸ばしながら屈託なく笑う。「俺にとっては何よりも価値のあるお宝さ。額縁に入れて飾っておきたいくらい」
 まあ、それをするとすぐに燃やされそうなんだけどね、と続けられる。
 ええ。
 燃やすって、物騒だ。
 けれどその言葉は、容易に私の想像力を駆り立てもした。もし大事なもの——例えば私が崇拝している作家の、新刊だとか——を探し出されて燃やされるとなったら、全力で隠し通さなければならない。
 命に代えても、だ。
「例えば机の中に鍵をかけていれておくとか……」私ならどうするだろう、と必死に考える。「あっ、枕の下に入れておく、とかですかね……⁉︎」
 それなら、寝ている間でも誰にも盗られはしない。でもそれは物によるのかもしれない——枕の下に隠せるものなのか、とか。夜な夜な見返してニコニコする必要があるものなのか、とか。
 ……とそこまで考えてから、これじゃあ私が大事なものを枕の下に隠してるってことが丸わかりじゃないか、と気づいてさっと血の気が引く。
「あああ、今のは忘れてください……!」
「うん? どうして?」
 けれどアンドラスさんは、その情報を悪用するなんて考えもしなような顔で本を読みながら器用に首を傾げた。本当に、いい人なんだろうなあと思う。ただちょっと、言ってることとやってることが怖いだけで。
 頭でわかってはいるけれど、だってソロモンさんの冒険で一緒になったときに嬉しそうに死んじゃった幻獣を切り開いていたり、夜中に解剖室からアハハハハと不気味な笑い声が聞こえたりするイメージがこびりついていてその払拭に私は必死だ。だって怖いものは怖い。
「なるほど、鍵をね」けれどアンドラスさんは、そんな奇抜な行動を取るような人とはとても思えない穏やかな仕草で、ページをめくりながら思案げに呟く。「悪くない。ただ、鍵開けの技術はあったような気がするな……この前仕舞っていた琥珀も盗られちゃったし。枕の下も、俺の場合はすぐに見つかっちゃいそうだ。ああ、いや、でも有用な情報だよ。ありがとう、アンドロマリウス」
「いや、それ私全然役に立ってないですよね⁉︎」
 椅子を蹴って思わず突っ込んでいた。図書室に響いた自分の大声にハッと口を塞ぐが、そうだ、今は私たち二人しかいないんだったと胸を撫で下ろす。図書室で大声は厳禁だ。
 しかし気づけば頑張って追い払おうとしていた頭の中の怖いイメージが吹き飛んでいた。どう聞いたって形ばかりの礼であることが明らかで、こんなひどいこともない。相談を受けた以上、少しくらいは役に立つことをさせてほしいじゃあないか。
「誰から隠したい、とかあるんですか」せめて、と懸命にヒアリングを試みる。「あ、あと、その物の形態にもよると思うんですけど……」
「フラウロスから」アンドラスさんの声はレガートがかかったように耳に心地よくて明瞭だ。「形態は紙一枚。彼が将来解剖させてくれるという念書でね。できれば、毎晩読み返してニコニコしてたいんだけど」
「ひえ」
 やっぱり聞かなきゃよかった。
「そういうのが怖いんですよお……」
「? ……ああ、そっか。ごめんごめん、冗談だよ」
「絶対本気でしたよね⁉︎」
 それ冗談だって言っておけばとりあえず場が収まるって学習してる反応じゃないですかあ! と小声で抗議する。
 どうも調子が狂うのだ。言っていることは恐ろしいのに、こうして喋ってみるとそんなこともないし、けれど私がわかるくらいときどき抜けていることを言う。
 悪い人じゃない、と思う。
 でもやっぱり解剖はまずいんじゃないかしら。
 とりあえず、それが見つからない方がいいのか、はこの際考えないでおこう、と私は一旦湧き出た疑問に蓋をした。フラウロスさんが見つけて破棄してしまった方がいいんじゃあ……とも思うが、考えない、考えない。
 フラウロスさん……なら、よく倉庫から物品を個人的に拝借していたりして、結構どこにでも入り込んでいるイメージがある。アジト内で彼に見つからない安全な場所なんてあるのだろうか。だってこの前子どもたちの貯金箱からもお小遣いを取っていこうしていた人だ。「フラウロスさんが忌避する場所に置いてみるのはどうでしょう……」でもそうだ、あるじゃないか一つ、とっておきの場所が。「例えば、か、解剖部屋とか……」
 アンドラスさんがフラウロスさんを解剖しようとして揉めていたらしいというのは、アジトでは有名な話だ。
 そのとき、フラウロスさんはひどく嫌がったという。
 だから、解剖される恐れのあるそんな部屋には防衛本能で近寄らないんじゃないか、と思った。誰も、アスモデウスさんの寝室に無闇に近づこうとしないのと同じ原理だ。自分の身が危ぶまれる場所には近づかない。
 けれどアンドラスさんは二冊目を置いてアハハと笑った。
「もちろん検討したさ。でも残念ながら、その手はもう使えなくてね」
「そうなんですか?」
「そう。近頃はたまにくるんだよ。寒いし、臭いもきついし、居心地悪いだろうにね。困ったものだよ」
 ……あれ?
 それはちょっとした違和感だった。
(アンドラスさん、嫌がってないんだ……)
 私は直感的にそう思った。仕方のない男だよね、と呟く声には、恋文にサインした最後の一画にできるインクだまりのように温かさが滲み出ていた。
 ああ、と思う。
 ならやっぱり、念書は見つからない方がいいんだ。見つからなければ、多分、アンドラスさんはフラウロスさんとのこの追いかけっこを、できるだけ長く続けられるから。
 ……と、果たしてアンドラスさんは考えているのだろうか。
 本を読み込むのっぺりとした平面的な笑みからは、既に感情の切れ端は掴み取れない。
「でも、やっぱり簡単には思いつかないよな……どうしようか」
「じゃ、じゃあ、こういうのは専門家の人に聞きませんか……お宝の専門家の人に」
「専門家?」本を閉じたアンドラスさんに鸚鵡返しされる。「誰か、いたかな? 宝物を隠すとなると盗賊……ウァレフォルとかオレイとか?」
 言いながら、アンドラスさんが首を捻る。彼らは宝物を隠したことがあるのだろうか、という顔だった。確かに、ウァレフォルさんはああいう気風のいい性格だから「宵越しの金は持つなよ‼︎」と部下の人にも言って一晩のどんちゃん騒ぎで使ってしまいそうだし、オレイさんなんかはもうこの間お宝を目一杯アジトに散らかしていた。
「いえ、なので」
 そっちではなく。不思議そうな顔をするアンドラスさんに、私は首を振って答える。
「見つける方のプロに」
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