【再録】ヤツらの交際事情について



 春とはいえ石造のアジトの夜は少し冷える。ヴィネ様の部屋には二人分のブランケットを届け、ソロモン様の部屋にはホットミルクを。ついでにグリマルキンの縄張りの近くに満タンのミルク皿を置いてきたから、明日にはなくなっていることだろう。明日の朝はそれの回収から始まり、食卓を整え、食事当番が準備している間に朝食の時間を滞在中のメギドたちに知らせるところからだ。ソロモン王の軍団の執事の朝は早い。
 さて、談話室で眠ってしまっているメギドがいないか顔を覗かせてから部屋に戻ろう——と向かっていた廊下の途中で、落とし物を発見した。
 丸めた雑巾のように廊下に落ちて熟睡しているフラウロスを。
「すかー……」
「……おやおや」
 立ち止まって、少し考えてから、気配の一切を消して近づき低くカンテラを掲げてみると、灯りに照らされた彼の顔が僅かに赤みを帯びているのがわかる。酒を飲んでいるのだろう。それにしたって、こんなところで就寝とは不用心だ。だらしなく見えてその実警戒心の強い男だと思っていたが、こんな人の往来のある場所で無警戒に寝入る性格だっただろうか。
 ただ、恐らく見つけたのが私でなければ起きていたのだろうな、とも思う。気配を消すのは執事の基本スキルだ。
 そしてアジトの景観を守るのが、執事の仕事でもある。放っておいてもいいのでは、という悪魔の囁きをスッと横に置き、私は片手を空けて人を運ぶ体制を整えた。
 何とかは風邪引かないと言いますが……。
 という暴言も心の中に優雅に畳んで仕舞い込む。
 何せ執事なので。
「ほら、フラウロス、起きてください。こんなところで寝ていては、節操のない殺人鬼に狙われてしまいますよ。せめてどこか部屋に……」
「……んん……」そういって身動ぎはするものの、起きる気配はない。余程安眠しているのだろうか。眉根を寄せる寝顔は歳に合わず幼い顔立ちで、こうしていればかわいらしいものなのになと思う。黙って、あの狡猾な笑みを浮かべていなければ、だ。まあ彼が生きている限り、トーポが逆立ちしたって見られない光景だ。スイと屈んで腕を回し、フラウロスは抱え上げようとする。
「んー……んだよ、寝かせろよアンドラス……」
「…………」
 わずか一秒固まった。
 フラウロスの口から漏れるにしては、意外な名前だったからだ。アンドラス? 辺りを見回すが、当然彼はここにはいない。だったら何故。らしくなく逡巡してしまう。
 こういう反応自体は、他のメギドでもたまにあることだ——うつらうつらと舟を漕ぐ体を抱えて運ぼうとして、愛おしく誰かの名前が呼ばれることは。大抵が、家族であったり、親しい者の名前であったり。けれどフラウロスにとってのアンドラスがそれに該当するのか、私は寡聞にして知らない。
 確かに彼らは接点があるだろう、同じ王を戴く軍団の仲間であるし、よく追いかけあってはソロモン様に叱られている——そう、追う人間と追われる人間の関係だ。脳内のアンドラスが、アハハと楽しそうに笑いながら解剖バサミをシャキリと鳴らす。
 その二人が、例えば寝食を共にしたり。
 例えば、朝の寝室に差し込むすっと透き通った光や、夜のランプが纏う密やかな空気に笑い合うような、ささやかな日常を共にすることが?
「…………」
 ふぅ、と止めていた息を吐く。
 益体もなく考え込んでしまった。彼らの関係がどのようなものであっても、私には関係のないことだった。主がそう望むのでない限り、執事は詮索をする立場にない。知るべきを知り、知らざるべきとは適切に距離を置いて仕事に徹するだけだ。
 問題は、執事としてフラウロスをどこに送り届けるのが一番配慮が行き届いているか、だが。
 ……アンドラスの部屋に届けた方がいいのだろうか?
「弱りましたね……」
 言いながら素早くフラウロスの全身を確認する。ここに来る前は一体どこにいたのだろうか。服はいつも通りの普段着だ、少ない布面積からは何の痕跡も見出せないが、少し汗で湿っている気もする。……いや、グローブをしていない。ふと、親指の何かで切ったような怪我と、手の平が黒く汚れているのを見つける。どうやらインクのようだった。書いた直後の書類を触ればこのような跡もつくだろう。
 ……フラウロスが自室で書き物を?
 その光景を思い浮かべようとした想像力が限界を迎えて首を捻る。やはり届け先はアンドラスの部屋だろうか。
 しかしあなたが落としたのはこの大人しいフラウロスですか、と届けにいっていいや落としていないよと言われればこんな夜更けの来訪はただの迷惑ではないだろうか。医者の彼はああ見えて多忙な身のはずだ。貴重な睡眠時間を奪うことはしたくなかった。
「……仕方ありませんね」
 一旦フラウロスの上体を壁に凭れさせた。一歩下がって、懐のナイフに手を伸ばす。
 細く深く、肺を冷気で満たすように息を吸って。
 ——斬る。
 ヒュッ、と息を呑む音と共にフラウロスが跳ね起きた。バネのようなしなやかさで飛びずさり、しかし壁にはぶつからず、素早く正確な足捌きで私の間合いから外に出て低く身を屈める。
 廊下の奥の暗がりで、その目が猫のように鋭く光った。
 お見事。
「っぶねー、オイ何しやがんだクソ執事! って……あ……?」
 フラウロスが辺りを見回す。ここがアジトで、まだ夜中で、目の前にはぴんと背筋を伸ばして微動だにしない執事しかおらず、自分が攻撃されていないことをようやく把握したフラウロスは、首を捻りながら戦闘態勢を解いた。ナイフと殺気は気づかれる前にとっくに仕舞い込んでいる。
 そして騒がれる前に説明を。
「言っておきますが、あなたがここで寝こけていたのを私が起こしたのですよ。私に文句を言うのは筋違いではありませんか」
「あー……?」
 フラウロスは気まずげにガシガシと頭をかいた。なんでこんなとこで寝てたんだというスッキリしない顔をしている。どうやらここで寝ていた理由を、本人もわかっていないようだった。
 しかしまあ、多少足元はふらついているが、これなら自力でどこへなりと帰れるだろう。
 そう思って踵を返そうとしたとき、んん……と記憶の引き出しを探っていたフラウロスがハッと何かを思い出したように硬直した。かと思うと、ピリッと苛立ちに毛を逆立てる。
「アイツ……っ」
「アイツ?」打つのはさりげない相槌だ。息をするように自然に差し挟んだ。「アンドラスですか?」
「そーだよっ、サインしねえっつったら無理矢理血判まで押させやがって! しかもいつもより熱心だったのそーゆーことかよ、後でぶんどろうと思ってて忘れてたじゃねーか……!」
 私はそれで、フラウロスがアンドラスの名前を呼んだ理由をとりあえずなんとなくは得心した。親指の怪我と、手の平についたインクの跡も。何の書類かまではわからないが、それにサインするしないで話していて、寝入る直前まで一緒にいたのだろう。それであれば、側に近づいた人間をアンドラスだと誤認してもおかしくはない。
 ない、はずだが。
「…………」
 何かピースを取り落としているような気もする。
 書類にサインをするだけなら、どうしてこんな夜更けに会う必要があったのか。いつもより熱心、とは何のことなのか。この男がこんなところで寝入るくらいに注意力を散漫にさせた出来事は何なのか。
 ……が、それを追求するのは執事としての領分を超えているような気もする。私は賢く口を噤むことを選ぶべきだろう、と思った。優秀な執事として。
 しかし、あと一つくらいなら追求も許されるだろうか。
「……ちなみに、何を書かされたのですか?」
 フラウロスは不機嫌そうにこちらを見たが、拒む様子は見せなかった。やはりいつもより口が滑らかになっている。
「あん? なんか賭け金払えっつー念書だよ……いや……金じゃねーが……」
 それは払うべきでは、という一言は飲み込む。
 フラウロスの、気性に反して考え込みながら唇を指の背で撫でる仕草が、妙に印象に残った。
「体で…………いや」
 ふ、とそこで我に返った顔をした。これ以上私に聞かせる必要はないと気づいたのだろうか、ふいと体を反転させる。
「……部屋戻る。寝る」
「就寝前のミルクはお持ちしなくてもよろしいですか」
「いらねーよ!」
 背中から不機嫌を噴出させるように肩を怒らせ、足音荒く去っていく。これ以上話は聞けなさそうだ。
 やれやれ、と私は首を振った。わからないことだらけだったが、とりあえずアジトの景観を守る当初の目的は達成できたからよしとしよう。
 しかし、フラウロスのあの様子。アンドラスは一体何をしたのだろう。私は少し考えて、脳内に描いていた軍団のメンバーの相関図の、フラウロスとアンドラスの項目をひっそり修正した。

 部屋に戻る途中、もしかしたらフラウロスの帰りを待っていたりはしないだろうかと前を通りすがったアンドラスの部屋からは、予想に反して灯りは漏れていなかった。
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