【再録】エミーとユーゴ


彼の世界


 夢の内容は現実に強く影響されるとリリムは言う。
「例えば……こっちの世界で心配事が多いと…………夢の中でも、ちょっと怖いな、嫌だな……って思ってることとか、見ちゃう……」
「ああ、専門家的にも正しいんだ、それ」
 それはアンドラスもデビルマルコシアスの騒ぎのときに下したことのある指摘だった。彼女が悪夢を見るのは、彼女の精神がストレスに晒され、不安定になっていることが悪夢という形で表れ出ているのではないか、と。
「ちなみに、現実が夢に直接影響される、ということはないと考えていいのかい。気持ちの問題はあるにしてもさ」
「うん……夢の中で起こったことで、こっちの世界が変わることはない、かな……ただ、夢見の力で現実から夢に入ると、その人の体は夢の中の出来事の影響を……受けちゃう……」
「へえ」
 リリムたち夢見の人間は、近くにいる生物の夢を感知するだけでなく、その力で他人の夢に入り込むことができるらしい。それはアンドラスにとっては未知の領域だった。訥々と語るリリムの言葉は、非常に興味深く響く。
 それはそれとして。
「ところで、リリム?」
 アンドラスは首を傾げる。
 今は夕食後の余暇の時間で、ここはアンドラスの自室だ。普段ならこの時間、リリムはアガリアレプトやサキュバスと共に過ごしているだろうに、リリムは今アンドラスの自室にいて、アンドラスが入れた紅茶をじっ……と眺めている。あれ、紅茶は嫌いだっただろうか。
「どうしてそんな話を俺にしてくれるんだ? 俺、何かひどい夢でも見てるのか」
「……覚えて、ないの……」
 何を、とは聞かなかった。つまり、俺が何かしら不快な内容の夢を見ていて、彼女はそれを心配してこうして来てくれたのだ。
 恐る恐るカップに手を伸ばしながら、ためらいがちにリリムは言う。
「いい夢に…………変えることも、できるけど…………」
「……いや。それには及ばないさ」少し考えて、アンドラスは答えた。「俺が覚えていないなら、さしたる影響はないし。それに、夢が現実に影響を与えることはないんだろう?」
「そう……だけど……」
 リリムは歯切れ悪く頷くものの、その表情から困惑はまったく消えず、おろ……おろ……と口に出すべき言葉を吟味している。このままでいいのだろうか、アンドラスに何か悪影響が出るのではないか、または現実世界での困りごとがあるんじゃないだろうか――そんな懸念からだろう。このまま帰せば彼女の方がアンドラスの夢に悩まされてしまいそうだ。俺がこの不安を取り除いてやるべきか、とアンドラスもううんと頭を悩ませる。
 一番いいのは、リリムを心配させるような夢を見ないようにすることだろう。しかしアンドラスには自分の夢の内容をコントロールする術がない。現実世界での心配事なんかにも心当たりがなく、生憎と対処のしようがない。次にいいのがリリムに頼んで夢の内容を変えてもらうことだが、自分の知らない夢の内容を、それがどんなものかわからないまま変えてしまうのはどうにももったいないような気もする。
 ……そうだ。
「その夢見の力というのは、夢の記憶を留めておくこともできるのか? つまり、俺が起きたときその内容を覚えていれば、それを変えたいかもキミに相談できると思うんだけど」
「……できる、と思う……けど……」
「うん? それでもまずいかい。そんなに不安にさせるなんて、一体どんな夢だったんだ? 怖い夢?」
 ふうふうと紅茶に息を吹きかけ冷ましていたリリムは、その質問きり固まってしまった。そんなに答えにくい質問だっただろうか。
 仕方なく、数十秒ほど待つ。
「あなたが…………どう感じるか、わからない、私は……怖い、と思うけど……」
「俺にとっては、そう怖い夢でもないかも?」何だろう。もしかして幻獣解剖し放題の夢とかかな。一般的に生物を解体する行為はグロテスクと感じる人間もいて、あまり好ましい感情を抱かれないが、アンドラスにとってはこれ以上なく楽しい夢だ。それなら全然変えなくていい。
「やっぱり、夢の内容は知っておきたいな。心配しなくても、これまで何度も見ているんだからもう一度くらいは大丈夫さ。それに、俺にとっては楽しい夢かもしれないんだろ?」
「うん……………………」
 それでも困り顔をするリリムに、あまり無理強いするのもよくないなと考え「嫌なら無理にとは言わないよ」と付け加える。「気が向いたときでいいから」。それでその日の集まりは解散になった。
 紅茶は半分ほど残されていた。今度は冷ましてから出してやろうと思った。


◇ ◇ ◇

 金属の焼けついたような色の空が目に飛び込んできて、アンドラスは自分がメギドラルの大地に手足を広げて横たわっていることに気がついた。
 視界がいつもより鮮やかで、その代わり手先の感覚がいつもより鈍い。見るとグローブから覗く指先には、本来の鋭い爪の代わりにやわらかい色味の肉と爪というには心もとないチップのようなものがついている。視界の端で揺れる橙の髪。ヴィータの幼体を取っているのだ。アンドラスは自然とその模倣の仕方を自分が知っていることに少し驚いた。それと、自分がその形を無意識に取っていることと。
 しかしその鈍い感覚でも、耳や肌は戦闘の気配を敏感に拾い上げる。頭上でフォトンの噴出する気配、力と力の激突する音、傷ついた悲鳴や勢いづいた勝鬨。
 ここは戦争の只中だ。
 上体を起こしたアンドラスの目の前に、火球が迫る。
「……!」
「う、おっ……!」
 咄嗟に顔をかばおうと腕を差し出した。全身黒焦げになるよりマシだという咄嗟の判断。しかし腕は焼かれず、火球は直前で霧散した。
 恐ろしいほどの熱が前髪を炙る。
 その向こう。
 かき消えた炎の先で、薄い鈍色の髪のヴィータ体をしたメギドと目が合った。
 金の目をした、精悍な体を持つメギド。
 目にした瞬間、アンドラスの血がざわっ﹅﹅﹅と騒ぐ。
「……あっぶねー。おい、ガキ! すっこんでろ!」
 今の火球は、どうやらあれが放ったらしい。そのメギドが怒鳴った言葉を聞いて、アンドラスはきょろきょろと左右を見回した。他に意識のあるメギドはいない。転がっているメギドたちは、どれも気を失っているか死んでいるかのどっちかだ。どうやら今のは自分に向けられた言葉らしい。
 あとついでに、隠れる場所なんかもない。
 そのことを確認し、振り向いて声を張り上げる。
「悪いけど! この辺りに、巻き込まれないように避難できる場所がないみたいだ……! キミの側にくっついててもいいかな? その方が巻き込まれなさそうだ!」
 言いながら、駆け寄ってぎゅっとそのヴィータ体の脚部にくっついた。アンドラスの頭はそのメギドの腰くらいの位置で、幼い手足だとしがみつく動作さえ不便に感じる。ヴィータ体なんて何がいいんだろう。
 だが無用にフォトンを使わないためには致し方ないことだ、ともアンドラスは無意識に知っている。
 一方、くっつかれた方のメギドは鬱陶しそうに足を振ってなんとかアンドラスを振り落とそうと悪態をついていた。ブンブンと軽いアンドラスのヴィータ体がそれに合わせて振り回される。おお、とアンドラスは思う。ちょっと楽しい。
「おい、邪魔だっつってんだよ! テメェ焼くぞ!」
「いいのかい? 俺は見てのとおり非戦期間バナルマ中の身だよ……そんな俺に手を出せば、協定破りになる」
「オイオイ、一丁前に脅しかよ! だが残念だったな、中央の連中の取り決めなんざ知らねーよ。大体、こんなとこで野良のクソバナルマ焼こうが誰も気づかねーだろーが!」
「……なるほど」
 ああ、運が悪かったな、と思った。普通、バナルマに手を出すメギドはいないものだと思ってたが、中には気にしないメギドもいるだろう。そんなのに当たった自分は運が悪い。
「じゃ殺すといい。抵抗しないから」
 言って手を離すと薄い鈍色の髪をしたメギドはそこでようやくアンドラスを一つの個体と認識したのか、気絶して転がっているメギドたちを焼く手を止めてアンドラスの頭の天辺から爪先までを呆れたように眺め回した。
 金の瞳が訝しげに細められる。
「んだよ……マジで生まれ立てじゃねーか。幼護士どこだよ」
「まだいないよ」
「フーン……」
 そのメギドが手を止めたことで、アンドラスの方にも相手を観察する余裕が生まれていた。佩いているのは二振りの剣だ。体は細いが全身に戦傷が多いし、雰囲気からしても恐らく好戦的な部類なのだろう。それはすぐ近くに仲間も見当たらず、この死屍累々を一人で築き上げたことからもわかる。
 しかし手当たり次第に殺すタイプでもないのか、鈍色の髪のメギドは思いの外冷静だった。すぐにはアンドラスを殺さず、まるで戦争相手を吟味するかのように冷ややかな視線で観察したかと思うと、ひょいとアンドラスの体を持ち上げた。
 視線が高くなって、浮島との距離が少しだけ近くなる。
「……? 何だい、殺さないの?」
「いや……」
 目を細め、何か考えごとをしている。
 何を考えているんだろう。まさか俺を取って食う算段だろうか。別にそれでもいいが、痛いのと苦しいのはできれば勘弁してほしい。アンドラスがそう思い、「あの」と意向を告げようとしたところで、「おーいフラウロス、こっちは終わったぜ!」と誰かの空気を震わせる呼び声が割って入った。アンドラスはつい、そちらに視線を動かしてしまう。
 遠くから駆け寄ってきた、それはメギドの集団だった。最初に声をかけたメギドを筆頭に、あれよあれよと言う間に十数体のヴィータ体のメギドたちが二人をガヤガヤと取り囲む。どれも目つきが悪くて威圧的だ。ただ、仲間内では親しげな雰囲気も醸し出しているから、印象より物騒な集団ではないんだろう。そしてもう一つ、どうやら接され方を見るに、今アンドラスを抱えているメギドが、この集団のリーダー格のようだった。軍団……にしては小規模だが、このメギドラルで重視されるのは数ではなく力だ。最終的に勝てばそんなのは関係がないんだろう。見たところ、集団はよく統制が取れているように見えた。リーターが優秀なのだろうか。
 その鈍色の髪のメギドは、仲間の方を見もせずに聞く。
「おい、この辺でガキ拾ってるようなデケェ軍団あったかよ」
「あ? んだよフラウロス、そのガキ産んだのか」
「『産んだ』だァ?」
「あーっそれ、なんかヴィータは自分の体内にガキができるらしいよな⁉ あれキモくね⁉」
「そうそう、だからフラウロスもぼこって腹が分裂してよー」
「誰がヴィータだ死ねクソボケ!」
「ぎゃー! 本気で焼くな馬鹿野郎!」
「……ったく」
 リーダー格のメギドは片手で器用に剣を振るい、威嚇で撒いた炎を散らす。アンドラスはその両腕から小脇に移動していた。片腕で抱えられ、ぷらぷらと足を揺らす。
「このガキが戦場ウロウロしてやがったんだよ。戦争してるっつーのに割り込まれちゃたまんねーだろ!」
「でもデケェ軍団ってさあ……他んとこやんのかよ? 俺らの軍団に入れちまえばいーじゃん」
「あ? じゃテメェが面倒見んだろうな」
「いや、俺はガキは……なんかちょっと苦手かも……」
「じゃ黙ってろ」
「子育て旅団探すかァ? アイツら今どこいんだっけ」
「つーかこのガキどうするかとか、本人の前で話すことじゃなくね?」
 誰かの嗜めるような一声で、一斉にぐるりとアンドラスに視線が集中する。
 アンドラスはぼんやりと議論を聞いていたが、おや、と自分に向けられる視線に気づき、足を地につけた。強面のメギドたちを見上げ、求められているだろう回答を出す。
「俺は別に、今はキミたちの戦争の火の粉を浴びないように側にいるだけだよ。危害さえ加えられないなら、置いていってくれて構わないけど」
「……っか~! イイコちゃんかよ!」
「余計なこと気にしてんじゃねーよボウズよぉ!」
 どういう意味だろう。別に何も気にしていないけど。二人を囲んだメギドたちが何とも言えない表情を浮かべるのを目にし、ちらと自分の横に立つメギドに助けを求める。鈍色の髪のメギドは、面白くなさそうにフンと鼻を鳴らす。
「……ガキ。名前は」
「アンドラス。……キミは」
「あン? さっきからアイツらが呼んでんだろ。フラウロスだよ」
 フラウロス、フラウロスね、と口の中で反芻する。不思議と名前を口にすると、フォトンが舌の上で甘く溶けて消えるような感覚があった。名残惜しくて噛み締める。どこか懐かしささえ感じるのは、もしかして彼の世界で会ったことがあるんだろうか。俺たちメギドはみんな彼の世界から生まれる。
「コイツ連れてくぞ。幼護士探して放り込む」
「……うん?」
 そんなことを考えていたからか、一瞬反応が遅れた。
「は⁉ マジ⁉」
「いんじゃね? 俺賛成~!」
「いやガキの面倒なんか見れんのかよフラウロス⁉」
「うるっせえーんだよテメェら! 別にいーだろーが、文句あんなら前出ろ、叩き切ってやるよ……ッ!」
 威勢よく啖呵を切ったフラウロスのボトムスの裾をいの一番にくいと引くと、勢いを削がれたフラウロスが仰け反って地団駄を踏んだ。
「んだよ!」
「いや、正直、俺を連れて行くことがキミたちにメリットがあるとは思わないよ、フラウロス。多分、探せば誰か幼護士になってくれると思うし、捨ておけばいいじゃないか」本気で何故フラウロスが俺を連れて行こうとしているのかわからなくて首を傾げる。「それとも、バナルマを飼う趣味が?」
「ねえよ! ド失礼だなこのクソガキ」
「コイツなんかおもしれーな、やっぱ俺も連れて行くのに一票入れよっかな」
「票? 何だそれ」
「なんか最近流行りらしーぜ、多数決で決めるときの単位らしい。一人一票」
「ふーん? それじゃつえーやつとよえーやつが同じくらい発言権持っちまうんじゃねーの?」
「それが肝らしい」
「わっかんねーな……」
「おい、フラウロス!」
 騒ぎを遮ったのは、輪から少し離れて周囲を見張っていた一人だった。少し焦ったような声音に、全員が一斉に静かになり、ざっと見張りに道を開けながら無言で戦闘態勢に入る。
 その中心で、フラウロスだけが気怠げに顔を上げる。
「なんだ」
「なんか向こうに軍勢が見えてる! 気ィ抜けてんぜ、戦争帰りじゃねーか? 今日なんかあるってナベリウスのやつが言ってたし」
「おっもう一発ヤれんのかよ、ラッキーだな……」
「つーかよ、ヤんなくともその……アーくん押し付けちまえば? 俺らに育てられるよりマシだろ」
「おっそれすっげーいいアイディアじゃねえか! どこの軍団でも俺らよりは教育的にマシだろ」
「そう俺らよりはな」
「オイオイオイ、勝手に決めてんじゃねーよクソども!」
 意外にも、ストップをかけたのはフラウロスだった。再び静まった囁きの中、フラウロスは面倒そうにがしがしと頭をかいて斥候役に問いを投げる。
「ソイツら、所属は」
「知らねえ。不可侵軍じゃねーけど多分マグナ・レギオ」
「中央のクソどもかよ。あー……んー……」
 フラウロスは目を瞑り、眉根を寄せてしばし考えていた。手持ち無沙汰になった片手が無意識にかアンドラスの肩に回り、その体を引き寄せる。自然フラウロスの腿に頬をぴたりとつけるような態勢になりながら、アンドラスは抵抗せずに目を瞑って布の擦れる感触を受け入れる。
 置いていってくれて構わない、とは言ったものの。
 この温かさは手放すには少し惜しい気がした。
 肩に回される手の硬さは戦いを知っている者のそれだ。
 何十ものメギドを一人で相手取る無謀にも見える豪胆さがありながら、そのくせ集団を率いる手腕も持っている。粗暴な言動の裏に、冷静な緻密さを抱えている。アンドラスの内心には既にむくむくと好奇心の種が育っていた。このメギドがメギドラルにありながら何を考えどう感じているのか。仲間にも安易に明かさないその中身に。
 ……できれば、もう少し一緒にいたいなあ。
 果たしてその願いが通じたのかどうか。
「……いや、ソイツらはパス。別のやつ探す。ソイツらは潰して構わねえ」
「は⁉ マジでアーくん連れてく気かよ」
「ギャハハ、情でも移っちまったかァ⁉」
「そうかもな。おいクソガキ、巻き込まれたくなきゃ下がってろよ!」
 そう短く告げたフラウロスは、単純な優しさだけでアンドラスを連れて行くことを決めたわけでは当然なかったろうが、アンドラスにとってはそれでよかった。「ああ」と頷いて彼から離れ、身を翻す。
 途中ちらりと振り返って見た背には、炎の色の羽根がどこか神々しく光っていて目を眇める。
 まるで面によって異なる色を反射する石のようだった。このメギドは絶対に俺を飽きさせない、という確信をアンドラスに植え付ける傍らで、フラウロスは歯を見せて獰猛に笑う。
「……やるぞテメェら。吠え面かかせてやりやがれ!」

     ◇ ◇ ◇

「……あれ? フラウロスは?」
「ん? ああ、またどっかその辺フラフラしてんじゃねーの?」
 戦争は快勝だった。
 側面から不意を突くなど卑怯だ、という相手の主張は「戦場で間抜けヅラ晒して歩いてる方が悪ィに決まってンだろバーカ!」の一言で一蹴されてしまった。それはそうだ。このメギドラルでは、どんな方法であれ勝利した者が正義だ。そうして相手の軍を蹂躙し、たんまりとフォトンをぶんどって、フラウロス軍団は悠々と自分たちの領地へと帰ってきていた。領地は周囲のメギドと比較すると手狭らしいが、フラウロスは領地を大きくすることなんかには興味がないのだろう、きっと。
 領地なんざ持ったって面倒なだけじゃねーか、と吐き捨てるフラウロスの様子は容易に想像がついた。多分、聞けばそう言うだろう。だがそれが本心からの言葉なのか、アンドラスにはわからない。喧嘩ができればそれでいいのか、軍団の規模を鑑みて今の領地で満足しているのか。或いはもっと別の考えがあるのか。
 彼の存在は何を『個』として成立しているのか。
 どんちゃん騒ぎをしている集団からそっと離れる。空は穏やかで、地平はいつの間にかうっすらと紫に染まっている。草木の茂った辺りに分け入って、水のほとりを辿り、軍団の騒ぎが聞こえないところまで歩を進めて、ようやくアンドラスはフラウロスの後ろ姿を見つけることができた。
 ガサ、と大きく足音を立てると、木にもたれかかって微動だにしないまま耳だけがぴくりと微かに動く。
 アンドラスは、それを近づいてもいいサインだと判断した。果たして、側に立って「隣、いいかい?」と聞けば少しの間の後「……好きにしろ」と憮然とした返事が返る。
 アンドラスは遠慮なく距離を詰めて座った。
 柔らかい草がアンドラスの尻を受け止めた。さらさらと近くで水の流れる音。生暖かい風が二人の間を吹き抜ける。
 ひとけのないこの場所で、フラウロスは一人で静寂に浸っていたようだった。それもまた、アンドラスにとっては意外だった。お祭り騒ぎは好きそうなのに。
 覗き込んだ横顔は研ぎ澄まされた刃のように怜悧だ。
 だからこそ、余計に気になってしまう。
「どうして俺のこと置いていかなかったの」
 彼がひどく合理主義的であることは、この短い時間でも十分すぎるほどにわかった。しかし、であれば尚更、このメギドが自分を手元に置いておく理由がない。
 これは自虐ではなく単純な疑問。
「ま~たその話かよ」
 フラウロスはフンと鼻を鳴らす。くたりと樹に預けた体はリラックスしているように見えるが決して完全に気を抜いているわけじゃない。
「テメェはもっと賢しいかと思ってたぜ。俺がテメェに利用価値を感じてたら置いていくも何もねーだろ」
「でもそんなものないだろ? 俺を戦力として入れるには、キミの軍団とはカラーが違いすぎる」
「だったらテメェが向く軍団に引き渡す交渉材料にもできっし、囮にもなんだろ。今はどこも戦力を欲しがってんだからよ~」図星を言い当てたかと思ったのに、フラウロスは動じもせずにそう言ってにやりと笑っただけだった。嘘なら思考の回転が早くて厄介だ。ぽんと答えられる程度の真実である可能性もある。けど本当にそうだろうか。フラウロスは、俺の身柄を何かしらに使うことを考えて? 疑念が伝わったのか、彼は「俺がテメェをどうしようが、俺の勝手だろうが」と付け加えた。なるほど、それならわかる。
 このメギドが何か他者に対して小細工を弄するとは思えなかった故の疑問だったが、所有欲や支配欲を満たすための所有、というのであればアンドラスの理解の及ぶ範囲だった。それならわかる。
 そう一人で頷いて質問を引っ込めたアンドラスに、フラウロスは僅かに首を傾げると、無造作に手を伸ばした。
「……さっきから思ってたが……、テメェはどうも物分りがよすぎるな?」
「なにっ……、」
 急にガッと顎を掴まれ上向かされる。
 アンドラスの方は完全に無防備だったため抵抗が遅れる。あー、と眼の前で開かれる口の中の犬歯の先をただ見る。
 食われる、と思った。
 けれどフラウロスの動きは寸前で止まった。
 鼻先が触れ合う。
 出た声は思ったより掠れる。
「……俺を、食べるの。キミの舌には、合わないと思うけど」
「ハ、どーかな。ま、確かにもーちっと育たねえと旨くねーかもな……」
 口を閉じたフラウロスの手がするりと首筋に移動して、アンドラスの後頭部をあやすような手付きでなぞってきた。急にぞわぞわと言語化しにくい感覚が去来して喉を反らす。しいていうなら痺れに近い。フラウロスに触れられた部分から、じんわりと甘い電流が走って、思わずア、と舌を差し出すようにして喘ぐ。
 それを睥睨する、冷え冷えとした視線。
 食われる、という恐れと。
 ……このまま食われるとどうなるだろう、という好奇心と。
 そうなれば、もっとキミのことを知れるだろうか。
 俺がキミの一部になれば。
 そんな夢見心地は、パン! と目の前で猫騙しのように手を叩かれて霧散した。ぱち、と瞬いて驚きを示すアンドラスに、フラウロスは呆れたように口の端を歪める。
「いや、大人しく飲まれてんじゃねーよ! テメェもメギドなら自衛しろよ。相手の個に飲まれんな、俺たちに一番大事なのは『個』だぜ? それを失や死ぬ」
「……知ってるよ」
「いいや、わかって﹅﹅﹅﹅ないね」
 フラウロスはアンドラスの胸に人差し指を突きつける。
「いいか……そうやって、他人に簡単に身を任せんな。テメェは嫌なら逃げていいし、納得いかねえなら納得いくまで説明を求めるべき﹅﹅だ。そんなんだと他人に食われちまうぞ」
 それは、彼の経験則からだったのだろうか。
 言った後、フラウロスは大層気まずそうにして口を噤んだ。視線をウロウロとさまよわせ、当然ながら何も見つからないことを悟ると、不貞腐れたようにごろんとその場に寝転がる。
「……らしくねーこと言ったわ。もう寝ろよ」
「……『寝る』?」
「チッ、知らねーのかよ。オラ、横んなれ。目ェ閉じろ。俺たちメギドは本来は『眠る』なんて行為は必要ねーが……ヴィータ体には必要なんだよ。テメェもヴィータ体取んなら覚えとくこったな」

 腕の中から抜け出して、ねむっているフラウロスを眺める。
 フラウロスは微かな寝息を立てていた。声を掛けても、肩を叩いても反応がない。ふよふよと、呼吸に合わせて不随意運動を繰り返す豹耳を見ながら、随分無防備になるんだな、と思った。こんな行為が必要だなんて、ヴィータ体の致命的な欠陥じゃないだろうか。だからフラウロスは仲間から遠いこの場所にいたのだろうか。
 なのにアンドラスのことは近くに置いている。
 ぺた、としゃがみこんでヴィータ体を見下ろす。
 相変わらず、このメギドの真意がわからなかった。ガキ程度ならどうとでもできると思っているのだろうか。あるいはアンドラスは信頼している? いや、彼がその類の油断を抱くとも思えない。
 彼のヴィータ体に手を伸ばす。
 手に触れた皮膚はさらりとしていて、これまで触れたどんな物質よりもさわり心地がいい。
 ――納得いくまで求めるべきだ。
 そう言われた。先程までうまく抑え込めていた期待は膨らんで、もはやアンドラスの胸に収まりきらないほどにいっぱいになっていた。フラウロスの首元に手を伸ばして触れる。脈はどくどくと波打ってあたたかだ。まるで本物のヴィータみたいだ。アンドラスは本物のヴィータを知らなかったが、フラウロスが器用にそれを模倣してみせていることは意外ではなかった。
 なにせ本来メギドには必要のない睡眠という行為も、こんな風に行っているのだ。この体は、一体どこまで模倣しているんだろう。
 胸に耳を当ててみる。ヴィータの『心臓』は、確かこの辺りだ。とくとくと、フラウロスは目を瞑っているのに皮膚一枚隔てた向こうでは内臓が動いているのがわかる。
「フラウロス」
 声をかけるのに、彼は眠ったまま起きない。
 アンドラスはドキドキしながら、フォトンを手先に集中し始めた。求めるのは本来の形の手だ――鋭く――獲物を裂くのに最適な形の。
 イメージすると、手だけにメギド体が戻ってきた。
 すっ……と彼の腹に薄く切れ込みを入れる。
 彼はまだ起きない。俺は夢心地で、彼の体内に手を差し入れた。中でピクピクと動いているいくつかの臓物に触れる。彼の腹の中はぬめっていて、温かい。ああ、中はこんな風なんだ。こみ上げる唾液を飲み込む。おれはうっとりとして、その手触りを確かめように指を這わせた――。

     ◇ ◇ ◇

 飛び起きたときには、全身にびっしょりと汗をかいていた。
 見回すと、明かりを消した自室の光景が目に入った。カーテンを透かす月明かりにぼんやりと浮かび上がる石造りの壁と床、それからベッドと机と実験道具と、床に散らかった自分たちの服と。
 広げて見た自分の手のひらはヴィータのものだ。
 息を吸って確認する。ここはメギドラルじゃあない。
 じゃあ。
「今、のは……」
 ――一体どんな夢だったんだ?
 ――やっぱり、夢の内容は知っておきたいな。
 先日のやりとりを思い出し、ああ、これが、と不意に理解する。リリムが手を回してくれたのだ。アンドラスが、覚えておきたいと言ったから。
 この、フラウロスを解剖する夢を。
 ……ということは、俺は毎晩この夢を見ていたのか?
「は。ハハ……」
 引き攣れたような笑いが出た。口の中はからからに渇いていた。確かに、怖い『かもしれない』夢だ、と思った。手にはまだ、彼の血の感触がこびりついて離れない。
 夢であることは自分が一番理解していた。本当は、こんな出来事はなかったし、こんなことはありえない。
 でも、とその夢はアンドラスに一つの可能性を見せる。
 もし、メギドラルでキミに出会っていたら。

 不意にもぞもぞと隣でシーツの中身が動き気配があって、アンドラスは飛び上がらんばかりに驚いた。微かに捲られたシーツの奥から、金の目が覗く。
「……んだよ。まだ夜明けてねーじゃねーか。……何してんだ」
「いや……」
 咄嗟に目を逸らす。下腹部に溜まった熱が、寝る前の行為の所為なのか、それとも今見た夢の影響なのか、アンドラスには判断がつかなかった。
 恐る恐る、フラウロスのその無防備な腹に手を添わせる。そこに刃物を入れた跡は残っていなかった。自分のごくりと唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。
 キミのことを、解剖したいとこんなにも日々願ってる。
 それは俺がヴィータであっても――メギドであっても同じことだ。
 切々と訴えかけたい衝動を飲み込んで笑う。
「結局、食われたのは俺だったな、と思って……」
 フラウロスはその言葉に、わけがわからない……という風に訝しげに眉根を寄せた。それから理解を諦めたのか、「まだ寝てろよ」と面倒そうに言う。がばりと腕の中に抱き込まれて、アンドラスはさしたる抵抗もせずシーツの波に溺れる。
「……ねえ、フラウロス」
「んだよ」
「キミのこと、いつか解剖させてね」
 またそれか、とフラウロスは目を閉じた。「はいはい、気が向いたらな」。でもいつも新鮮に思っているんだ。どんどんキミの知りたい部分が増えてくる。
 きっと、メギドの俺もそう思ったんだ。
 ヴィータと融合する前の俺も。
 そう考えると悪くなかった。その感情は、エミーだけのものではない――アンドラスだけのものでもない。どちらもが持ち得て、そうして今のアンドラスの裡に根付いているのだ。
 彼を知りたい。
 その手段として、彼に触れたいと。
 自覚をすればいてもたってもいられなくて、思わず目の前で眠るフラウロスの唇に軽くキスをした。それだけでなんだか満たされた気分になる。今なら間違いなく断言できる。
 メギドだって、恋をするんだと。
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