【再録】エミーとユーゴ


ユーゴ


 俺は別に、あだ名で呼ばれることには寛容だぜ、と言ったグラシャラボラスのことを鼻で笑ったことがある。テメェの名前に誇りはねーのか。追放されて魂までひよっちまったかよと。
 グラシャラボラスは、さして気を悪くした風でもなくニコと人好きのする笑みを浮かべて言った。
「意外だな。お前さんは気にするのか」
 うるせえなと思った。だったら一回、クソうぜえ呪いみてえな名前で呼ばれてみろよと思う。
 そう、あれは間違いなく呪いだった。希望という名のエゴイズムを押し付け、名前という箱に魂を押し込める、俺を縛る﹅﹅﹅﹅枷だ。
「その名前で俺を呼ぶんじゃねーよクソどもが‼」
 何度まとわりつくそれを千切ろうとしたかわからない。
「俺の名前はなあ――ッ」

     ◇ ◇ ◇

「フラウロス、ちょっと付き合ってくれないかい」
「嫌だね」
「いいからいいから」
 アンドラスは相変わらず胡散臭い薄笑いを浮かべながら、返答がまるで聞こえなかったかのように俺の背のベルトを引っ掴んだ。酔いも手伝って些か気の緩んでいた俺は、有無を言わさずバーの椅子から引きずり下ろされる。
 いやテメェ今質問した意味あったか?
 傾けていたジョッキを咄嗟にカウンターに置けたのだけは英断だった。うおっとバランスを崩しそうになりながら体を返してひらりと着地すると、隣で飲んでいやがったガミジンとカスピエルが面白がるような目を向けてくる。えーお誘いよかったやん。羨ましいわあ。うるせー、じゃオメェらが代わりに行ってこいよ。
 無言の会話に目敏く気付いて、アンドラスが律儀に二人に手を振る。
「二人とも、フラウロスを借りていっても?」
「どーぞどーぞ。好きにしたって」
「安心しろよ、フラウロス。残ってる酒は俺が飲んどいてやるからよ」
「オメェら……っ! 後で覚えてやがれ!」
 バーカウンターにしがみつき、背後に引っ張られる力に抵抗しながら喚く。特にガミジンだ、どさくさに紛れて俺の分の酒まで飲もうってのはどういう了見だ。後で飲んだ分の金きっちり請求してやる。
「いやこの酒元々俺が持ってきたやつじゃねえか」
「そんであんたガミジンに金払うてへんやん」
「うるせえ、それはオメェもだろカスピエル! 大体、俺が飲んでんだから俺のだろうが!」
 そんな細かいことよりも。
 俺は元凶の方を振り返る。
「オメェだよオメェ、アンドラス! 俺は行かねーって言ってんだろ!」
「あれ、なんで?」
 アンドラスが引っ張る手を止め、心底不思議そうな顔できょとん、と俺を見つめ返した。その隙に手を払い除ける。元々大した拘束でもない。アンドラスの手は簡単に俺のベルトから離れた。
 ち、と乱れた髪をかき上げる。
「俺にも用事があんだっつーの。つーかオメェも忙しいんじゃなかったのかよ。診療所の方はどうした、サボりか?」
 この男に限ってないだろうが、と思いながら訊く。
 そうだ、そもそもこの男は今日はアジトに居ない予定だったはずだ。他ならぬ本人にそう聞いている。最近どこそこの街でなんとかとかいう病が流行していてね、しばらく診療を手伝うことにしたんだ、俺なら王都の知識も伝えられるからとか何とかで、アジトに詰めていないときはそのどこぞの診療所に駆り出されていたはずだった。でなければ俺とて朝っぱらからこんなところで呑んだくれてはいないのだ。
 アンドラスはああ、と合点のいったような笑みを見せる。
「もしかして、心配してくれてるのかい? 大丈夫、今日は休みなんだ。あらかた地元の医師に引き継ぎも終わってるし、もうしばらくは様子見が必要だけど、週末くらいはちゃんと休んでくれって言われてね……だから安心してくれ!」
「ちげーわ何がどう安心できんだ⁉ あっマジでやめろ」
「でもせやったらさァ」手をぎゅ……と握られて鳥肌を立てている俺の横で、カスピエルがハイハイと挙手する。「それ、アンドラスは休まんでええんか? 今聞いた感じやと、働き詰めだったんやろ」
「そうだな、貴重な休日をこんなクズに費やすこともねえ」
「ガミジン、オメェほんといい加減にしろよ……」
「いい加減にするのはテメェだろ、フラウロス。アンドラスを見習ってちったあ働けよ。そんで溜めてるツケもどうにかしやがれ」
「あ? うるせーな、ねえモンは払えねーのに勝手に払ってもらうつもりでいんのが悪ィんだろうが。酒代程度でうざってーんだよどいつもこいつもぎゃーぎゃーと……ああ、さてはオメェもそのクチかよ?」
「あのなぁ……テメェの立場考えてからモノ言えよ」
「ほんま、よぉいつもそないな口八丁ぺらぺら出てくるなァて感心するわ……で、どないなんアンドラス」
「うん、ありがとうカスピエル。その点は大丈夫だよ」殺伐さを隠そうともしないやり取りもどこ吹く風で、アンドラスは穏やかに笑う。「向こうに詰めっぱなしではいたけど、それほど状況が逼迫していたわけでもなかったし、休息はきちんと取れてるんだ。でも診療所に籠もり切りだったから、久し振りにフィールドワークしたい気分ではあるかなあ」
 ガミジンを威嚇するように睨みつけながら、俺は一瞬アンドラスのその顔を盗み見た。このアンドラスとかいう忌々しい解剖野郎には、マジで喜怒哀楽のどっかが壊れてんのか、自分のことを無痛症だと勘違いしてやがんのか、とにかく明らかに限界を超えているにも関わらず平然を装うことがよくあったからだ。側にいるときにぶっ倒れでもされれば面倒臭くて敵わない。
 けれどその飴色の髪はよれも乱れもせずにツヤツヤと普段の艶を保っていたし、徹夜明けによく見る目の下のくまもなければ目の焦点が合っていないなんてこともない。全体的にぼんやり……してんのはいつものことか。でも疲労が溜まっていないというのはどうやら本当らしい。
「フーン。ほんなら気晴らしに解剖に精出すんもええんかもな。ほら、ちょうどええ検体もおることやし」
「……あ? なんで俺見ながら言いやがる、させねーぞ」
「まあフラウロスを解剖したいのは山々なんだけど」アンドラスもさらりと問題発言を挟みながら続ける。「今回は幻獣に用があってね。……ね、フラウロス、いつもどおり報酬は弾むよ? また酒場にツケすぎて出禁を食らってただろう」
 うっとりとした口調で囁かれ、思わずうぐ、と口籠った。実際、アンドラスが示す報酬は破格だったし、それで数日間金を払え払えと鬱陶しくつきまとわれずに振る舞えるのは楽ではあった。それに幻獣を殺すだけなら造作もない。労働を提供する価値はあった。
 しかし同時に、金で簡単に釣れる、という認識を残すのは不本意だ。この男はまだその兆しを見せないが、中にはこっちが大人しく言うことを聞くと見るや否や途端舐め腐った態度を取りやがる連中が一定以上はいるものだった。そういう野郎には大抵ボコって立場をわからせるのだが、この男に対しては同じ軍団の所属という建前上、暴力に訴えるのは少しばかり都合が悪かった。やってもいいが後が面倒だ――それに案外、アンドラスと共にする時間は嫌いじゃあなかった。
 少なくとも地雷に踏み込まれない限りは。
 だから拳を振り上げる前に、ここらで一発きっぱり断ってやった方がいいのかもしれない。俺は口を開く。「行ったりーやフラウロス、あんたどうせ用事なんかないんやろ? ここで俺らと管巻いてるよりよっぽど有意義ちゃうんか」オメェはマジで黙ってろよこの前三馬鹿で泥酔しすぎてクソヴィータの名前呼んで号泣してやがったこと本人にバラすぞ。
 しかし三対一ではさすがに分が悪かった。ガミジンとカスピエルは既にもう俺がいないかのように飲み直す酒を注いでいるし、アンドラスはと言えば、いやあ、久し振りに触るキミの毛並みはいいなあなどと言いながらわしゃわしゃと俺の頭を撫でている。いや撫でんな。これで気持ちよくなきゃあマジで叩きのめしてる。
 髪を梳く指の動きにむずかるように眉間に皺を寄せながら、語りかけられるアンドラスの言葉を聞く。
「それにね、フラウロス。報酬以外の面でもキミにとって悪い話じゃあないよ。ここのところストレスが溜まってただろ。暴れて発散するには丁度いいと思うんだ」
 あん? と一瞬動きが止まった。今度は俺が首を傾げる番だった。ストレスなんざ溜めてねえ。そう抗議する前に「「ストレスゥ?」」と訝しがるような横槍が入る。「いやこいつにそんなん無いやろ」「あったとしても口から酒流しこみゃ秒で忘れる」「せやでそんなんフォカロルが今日は説教勘弁しといたるわ言うくらいありえへん」テメェらいい加減殴るぞ。
 とにかく、俺にはわけのわかんねえ発散なんぞ不要だ。
 更に撫でようとする手を振り切ってその旨を伝えると、アンドラスはガキ臭さの抜けない顔で「そうだった?」と不思議そうに小首を傾げる。
「でもキミ、この前の休みのときはいつもより乱暴だったじゃないか。いつもああだと、こっちの身が保たないんだけど」
 こいつ、何を。
 手を伸ばしてその口を塞ぐ前に、ぶは、とガミジンがスカした面で飲んでいた酒を盛大に吹き出した。ぼとぼとと色のついた液体が負け犬野郎の腹と太腿を汚す。「うわきたな! やめーや自分!」「いや……今のは俺悪くねェだろ。おいフラウロステメェ」「せや自分アンドラスに何しとんの? 場合によってはちゃんとイポス辺りに言うて……」
「うるせえ、何でもいいだろ! おい行くぞ、アンドラス!」
「アハハ、キミが乗り気になってくれて嬉しいよ」
 じゃあね、ちなみにさっきのは戦闘訓練のことだよ、とアンドラスがしれっと去り際に二人に向かって笑いかけるが俺だけはそれを嘘だと知っている。ひらりと翻された裾を横目で追いながら、一瞬、ハメられただろうか、と思った。こいつの掌の上で、まんまと転がされただろうか。けれどまるで計算など思いもつかないだろう涼しげな面に、はにかむような微笑を浮かべているのを見ていると、どうでもいいような気もしてくる。まあ、舐められてねえならそれでいい。根掘り葉掘り訊かれるのが面倒で、アンドラスの手を引っ掴んで食堂を飛び出す。
 それに、仮に計算だったとしても、釣られてやんのも悪くねーか、と思い始めている自分もいる。
 こういうの、ヴィータどもは何と呼んでいたんだったか。

     ◇ ◇ ◇

 雪解けたばかりの森は突如訪れた暖かさにどこか浮かれて仕留める幻獣には事欠かない。特に四つ足の獣の形をしたものが豊作だ。なるべく内臓を傷つけないように、それから体を損傷させないように。うるさく並べ立てられる要望通りに幻獣を始末するのも、今ではすっかり板に付いてしまった。
 死体から蛇腹剣を引き寄せ、血を払いながらアンドラスを振り返る。
「オラ、これでいーかよ」
「ああ、やっぱりキミがいると助かるよ! 俺はどうも、こういう速攻の戦闘には向かないからな」
 そう言うアンドラスは俺の方には見向きもせずに死体の側にしゃがみ込み、夢中でそれを覗き込んでいる。おいおいその態度はねーだろきっちり礼を寄越しな……と絡もうかとも思ったが口にしなかったのは水を差すのが憚られたからだ。屈んだアンドラスの背中からはウキウキと踊り出さんばかりにぶち上がったテンションが伝わってきて、俺は黙って正面に回って同じ目線にしゃがみこむ。吸い寄せられるように幻獣を観察するアンドラスの目が、いつも俺を追いかけてくるときかそれ以上に輝いている。その下に転がっているのはお世辞にもきれいとは言えない幻獣の死体だ。だらんと力の抜けた四肢が乾いた地面に投げ出され、鋭い牙の間からは舌が飛び出し見開かれた目はすっかり生気を失っている。そんないいモンかこれ。相変わらずわけわかんねーな。そうは思うがどうも邪魔をする気にもなれない。なーんか嫌なんだよな、と考えて原因に思い当たる。多分アレだ――この前解剖中のコイツにちょっかいを掛けたとき、手の滑ったコイツに変な液体をぶっかけられたのがまだ尾を引いてるからだ。
 思い出し、ちょっとじり……と後ずさって距離を空ける。
 と、アンドラスがすっと刃を入れ、その幻獣の体を開き始めた。見た目が犬に近いその検体を、裏返して胸の辺りにメスで一直線の線を引く。それから斜め線を、前足側は肩に、後ろ足側は腹をぐるりと囲うように二本ずつ。その手付きに澱みはない。「ここでやっちまっていーのかよ」俺は思わず口を開いた。いつもは死体を持って帰っているはずだった。そっちの方がなんだか知らないが設備の種類が豊富らしいし、記録も保存も楽だからだ。しかしアンドラスは「いいんだ」と気にせずさくさくと手際よく腑分けを進めていく。そう言えば、単に気晴らししてえ気分なんだって言ってたか。「ちょっとこの前の戦闘で気になることがあって、中身を見たかっただけだから……ああ……やっぱり。この種はフォトン受容器官の位置が違うんだ。ってことは……」とぶつぶつと一人の世界に入ってしまう。相変わらず、皮膚の下から覗いているグロい内臓だの血臭だのは気にならないらしい。これが気晴らしになるのはまったく理屈がわからなかったが、別に今更わかろうとも思わなかった。そういうなのだ。それ以上の理解は必要がない。興味を失って立ち上がる。
「ねえ、フラウロス」
 振り返って、俺を見上げるその目と目が合った。
 甘えたような声に、一瞬、いつかの夜の問いかけが重なる。
 キミ、人に『恋』をしたことがあるかい。
「…………」
 アホか、と思う。あるわけねーだろ、そんなもん。そう言ってあの夜は笑い飛ばした。下らねえことを、よりにもよって追放メギドに、このヴィータの皮を被った化け物に、に聞くな。少なくとも、この男含め他のどのヴィータに対してもそんなクソみてえな感情は生来抱いたことがない。
 ただ――気持ちが波立たないと言えば嘘になる。
 やり場のない手で剣の柄を撫でる。満足に解剖を果たしたための恍惚とした表情、僅かに上擦った声、興奮を隠しもしない吐息。血で濡れた刃物を拭い、若干の几帳面さを見せて鞄にしまう動作。まざまざと蘇る、シーツに押し付けた手の、握り返す感触。その一つ一つが、理由もなく俺の神経をざわめかせる。
 最初はただ好奇心で抱いただけだ――そんなことは誰とだってしてる。ただの気晴らしで、ついでに金銭面でも何かと便利で都合のいい相手ってだけだ。だけだった﹅﹅﹅。だが最近どうにも調子がおかしい。
 今日だって、本心からコイツに付き合うのが嫌ならついてこないことだってできたはずだった。アジトで煽られたとは言え広間を出てソッコーでバックレれば誰も俺を責めはしない。なのにこの行為に慣れさえしてしまっている俺は明らかに他の人間に向けるものとは別種の感情を目の前にコイツに抱いている。ここで目を逸らすのは恐らく悪手だ。
 俺は慎重に、自分の手の中にある感情を吟味する。放っておいても害はないか?
 それともこれは、俺自信を縛るものか。
「……ねえ、フラウロス?」
「………………。何だよ」
「キミのポケットにこの膵臓入りそうかな?」
「……ハ? いや直で入れるわけねーだろボケナス」
「ああ! それなら大丈夫だよ、ちゃんと保存用の皮を持ってきたから。これはすごくてね、セーレがいつも冒険に使っているらしいんだけど、これで包んでおくと生物とかが腐りにくくて……」
「聞いてねーから」

 なおもなんとか持って帰れないかと悪戦苦闘するアンドラスに鞄に入らない分を諦めさせて、ついでに後でウァプラの野郎辺りに口煩く難癖つけられないよう適当に死体を埋め、顔を上げれば日もだいぶ傾きかけていた。鮮やかな夕陽に少し汗ばんだ額を照らされながら、アンドラスがふと思い出したように振り返る。
「しかし、街から随分離れてしまったね。ポータルキーがあるのはこの辺だとあの街だけだし……今夜は森で野宿かなあ。簡単な防腐処理のキットを持ってきててよかったよ」
「ハ⁉ ……ゲッ」
 言われて俺も反射的に来た道を振り返った。アンドラスの言葉のとおり、確かに視界には昼過ぎに出立した街の姿は影も見えない。抜けてきた森の薄暗がりがぽっかり口を開けて広がっているだけだ。しくじった。何も考えずに暴れていたからまったく気づかなかった。
 俺の舌打ちを聞きつけたアンドラスが愉快そうに笑う。
「アハハ、気付いてなかった? キミ、どんどん先に行くからてっきりそれでいいんだと思ってた」
「オメェがあっちのも向こうのもって言うからだろーが⁉」
 そうだ、だから景気よく暴れてやったんじゃねーか。剣を振り回して「オラオラ!」と気持ちよく幻獣共をぶっ殺していたことはスッと横に置き、どうしてくれんだ、街に戻ったらオメェだけ帰して遊びに繰り出す計画がパーじゃねーかと食ってかかるがアンドラスは堪えた様子もなく「うーん、そうだねどうしようか」とぼんやり首を傾けるばかりだ。「俺は野宿でも構わないけど、キミはその格好だと寒そうだしねえ。添い寝しようか?」ちょっと嬉しそうにしてんじゃねーこの野郎。
「あ」と、そのとき不意にアンドラスが声を上げた。いざとなったらコイツの白衣剥ぎ取るか……という考えを中断して視線を辿ると、今度は反対側の夕焼け空に、微かに何筋か白い煙が立ち上っているのが見える。飯の煮炊きの煙だ。麓に集落があるんだろう。ここから歩けない距離じゃあない。
「あっちに街があるみたいだ。丁度いい、今夜はあそこに泊まろうか」
「……ああ。ああ?」
 適当な返事なんてするもんじゃない。後悔はすぐ訪れた。
 ぱっと見、そこそこ栄えた街だった。明るい橙の屋根の群れをぐるりと囲む外壁は小規模ながらもしっかりした造りに見えたし、開放的に開かれた門から出入りする人間の顔には生活を脅かされている恐怖や疲労は見えない。あの規模なら暮らすのに必要な大抵の店は揃っているだろう。しょぼくても酒場には困らなさそうだ。
 しかし歯に繊維の詰まったような妙な引っ掛かりを覚える。
 森との距離、周囲の植生、周辺でなだらかな線を描いている丘の様子、外壁の造り、街の尖塔――一見わかりにくいが、あれは街中に時刻を知らせる時計台のはずだ――どれもこれも、何だか見覚えがある、ような気がする。
 どころか、あれは俺のよく知った街じゃあねえか?
 近づくにつれ、過去の息遣いを感じる。肺に吸い込む空気が、段々と埃っぽくカビ臭いものに変わる。二十五年住んだ街だ。忘れようはずもない。
 ――どうしてお前はそうなんだ、ユーゴ。
 魂に塗りたくられた泥のような記憶が蘇る。
 足は完全に止まってしまった。
「フラウロス?」
「……やっぱ行かねえ」
「うん?」
 アンドラスがぱちくりと瞬いた。それはコイツが物凄く驚いたときの仕草で、例えば俺が解剖を手酷く拒否ったときだとかによく見る類の表情だ。いや普通断るだろ。この場合も俺の返答が予想外だったからだろう。
 何が原因だろうか、彼は何を嫌がっているんだろうか。アンドラスはゆっくりと自分の中で考えを咀嚼してから、ああ、と合点のいったように頷く。
「キミ、あの街でも酒代ツケてるのかい! それとも、臓器を狙う連中に追われてるのかな?」
「そうじゃねーよ! いやツケてはいるけどよ」
「……」いるんだ……と口の中でアンドラスが呟いた気配があった。「まあ、でも、キミはそんなこと気にしないよね……何、貢がせるだけ貢がせて捨てた女性がいるとか?」
「それはあの街じゃねーな」
「じゃあ何」
 あくまで事務的に質問をよこすアンドラスをちら、と見やって舌打ちする。
 あの街に滞在する。その決定を覆すなら、相応の理由を告げなければ納得は得られないだろう。いつも軍団でやっているように。
 多分、言えばアンドラスは「わかった」と言う。キミが嫌なら、やめておこうと。だがクソみてえな理由を自分から口にするのも忌まわしかった。大体、アンドラスも悪い。ここまであからさまに嫌がってんだから察しろよ、と思う。
 空では燃え落ちた陽の欠片が、遠く山の端を染めている。周囲は既に夜の薄暗さにひたろうとしている。
「……何か事情があるにしても、野宿よりマシじゃないか? それにキミ、酒代の一つや二つ踏み倒したって今更だろう」
「じゃテメェ一人で行けよ。俺はごめんだ」
 頑なに言い張る俺に、アンドラスは苦笑して「キミ一人を放り出すほど薄情に見えるかい」と言う。テメェが心配してるのはどうせ検体として俺がダメにならないかで、俺自身じゃねーだろと突き放すように言えば「まあね」と特に傷ついた顔も見せずに返事をするだけだ。クソ、何なんだ。
「とにかく、俺は絶対行かねーぞ!」
 うーん……とアンドラスも少し思案する様子を見せた。ここで折れないと言うことは、コイツも宿に泊まりたい気持ちはあるんだろう。平行線だ。これ以上は譲歩の余地がない。
「……気持ちは、わかったけど」
 アンドラスがゆっくりと口を開く。俺との距離を一歩詰める。俺は少し、警戒をして歩を広げる。
「それは、例えば」
 気付いたときには、キスができるほどの距離にいた。
 胸に手を置かれ、甘く囁かれる声。
 人差し指で唐突にくいと緩められる胸元。
 夕闇の中で琥珀色の瞳が挑発的に笑う。
「もし俺が、今夜はどうしてもキミにベッドの上で抱かれたい気分だって言っても……覆らないかい」
「…………………………………………………………」
 不覚にも、思わず奥歯を食い縛った。俺に色仕掛けとはいい度胸だ。引き剥がして肩を揺さぶる。
「どこでナニ覚えてきてんだこのクソガキ……オイ、バルパイモンのどっちだ」
「フフ、ちょっとはグラついたかい、うれしいなあ。……ちなみに選択肢はその二人だけなのか? もしかしたらインキュバス辺りかもしれないじゃないか」
「それはねーだろ」
 それはない。……つーことはサキュバスか?
「アハハ。で、どうする?」
 脳内でバチンと算盤を弾く。天秤は既にがしゃんと底がつくほどに傾いていた。所詮過去は過去だ。それより目の前の据え膳を取った方が絶対に得だ。
 それに。
「……」
「?」
 既に表情は緩み、いつもの顔に戻ったアンドラスを見る。
 コイツになら知られても問題はない気がした。余計な詮索はしないだろう。俺を縛る枷にはならない。
 それはどちらかと言えば、俺のそうならないでほしい﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅、という祈りの形だったかもしれないが。
 ……いや、というかコイツ野放しにしとくの危なっかしすぎるしな。
 ついていきゃコイツの金で遊べるわけだし。
「……しゃーねえなあ!」
 俺は仕方無しに重い足を上げた。結局コイツの思い通りなんじゃねーか? そうは思うがどこかで安堵している自分がいるのも事実だ。あのまま拒絶を続けていれば、手をあげなかった自信はない。コイツと共にする時間は嫌いじゃないのだ。地雷に踏み込まれない限り。
 だがただ言いなりになるのも収まらない。
「なぁー、前金でキスさせろよ」
「宿に着いたらね!」
 肩に絡みつこうとするが空振る。アンドラスは先程のしおらしさはどこへやら、にこやかなまま背筋を伸ばし、すたすたと街に向かって歩き出した。

     ◇ ◇ ◇

「げえっユーゴ! ユーゴじゃねえか!」
 げえっはこっちのセリフだこのクソボケカスヴィータ。
 街に入った途端出くわした男からの第一声がそれだった。強めに肩を叩かれて上向きだった気分が急降下する。あーあー、そうだこれがイヤだったんだ。つーかげえっとか言うくらいなら知らねーフリしろよバカかコイツ。
 隣でアンドラスがああ、なるほど、と一瞬にして納得した様子を見せていたのも気に障った。街の風景を目にして記憶から無理矢理引き出された過去が体にベタついてまとわりつくのも思った以上に最悪だ。今の俺なら風が吹いたってキレられる。
 しかし俺だって二年前の、この街にいた頃の俺とは違う。なるべく穏当に済ませてやろう、そういう気持ちもなくもないのだ。その街人Aに向き直った。
 口を開く。
「ハ? 喧嘩売ってんのかテメェ。知らねーよそんな奴は、ぎゃーぎゃー名前呼ぶんじゃねえわ失せなゴミカス」
「お前……! そ、その口の悪さで別人は通らねーだろ、いや、相変わらずだな……あっそれより何街を出てやがんだ! お前にゴルド貸してるだろ! こっちは借用書だってあるんだからな、踏み倒すだけ踏み倒して逃げやがって……! お前が出た後なあこっちは大変で……」
 男はそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。俺が首を掴んでその体を持ち上げたからだ。ぐ、と手の中でヴィータの顔が膨らんで赤くなる。
 あー面倒くせえなもう。
「知らねーって言ってるっつーの! なんだ、俺のストーカーか? 警備ケービに突き出すぞ」
「お前っ……、いやっ、警備呼ぶのは状況的には俺の方だろう、がッ……」
「お? いいぜ、呼んでみろよ」
「お……おい、だれか……」
 男の喉からは辛うじて蛙の潰れたような声が出る。誰か親切なヤツはいんのかなーと代わりに見回してやるが夜の暗がりでこちらがよく見えていないのか、何人かが遠巻きに様子を窺っているだけだ。「オラオラ声張れよ、誰も助けてくれねーじゃねーか!」そう言って男の体を揺すってみるが、ぐったりして反応が悪くなってきたから地面に放り出してしまった。殺しは面倒だ。引き際はわきまえてる。
 その転がった体をつつく。
「なーなー、それより俺ら宿探してんだよ、今日どっか部屋空いてねーか? つか安くしろよ。テメェがハコ貸してるとこなら七割引きはいけんだろ」
「お前、今暴力振るった相手によくもまあぬけぬけと……大体、仮に七割引いてもお前に泊まれるような金ないだろ!」
「ああ、それなら心配しないでくれ」
 そこで初めてアンドラスが口を開いた。男は、突然現れた謎の男に驚き、それから俺とアンドラスの面を忙しなく交互に見て目を剥いた。言いたそうなことは大体顔に書いてある。
 おいユーゴなんだこの身なりの良さそうなお坊ちゃんは。
 アンドラスは気にせずに続ける。
「宿代は俺が払うよ」
「アンタ……大丈夫か? コイツは札付きのクズだぞ? 騙されてないか? 脅されてるなら相談に乗るぞ?」
 チッ、と思わず舌打ちが出た。何気安く話しかけてんだ。腕を掴んで引き離そうとするが、アンドラスは動かない。ただ地面に這いつくばった男に微笑んで言う。
「ああ。俺は彼がクズだと知ったうえで、自分の意志で一緒にいるんだ。彼に好意があってね。大丈夫、彼には貸した分を返してもらうアテはあるよ」
「コイツに好意ぃ⁉」
 男は今度こそ引っくり返った。遠い目で夜に揺れる街の灯りを見つめる。
「なんと言うか…………世の中には、変わったヤツもいるもんだな……………………」
「蓼食う虫も好き好きと言うね」
「誰が蓼だ誰が!」
 言いながら、男を足先でつついて宿屋の情報を吐かせ、アンドラスの腕を今度こそ掴んで引き寄せた。男の方は振り返らなかった。もう用済みだ。それより、こんな街の入り口で留まり続けて更に知り合いに絡まれる方が胸糞悪い。
 脇目も振らず、どんどんと街の中心部へと歩いていく。最初の広場を、もう店仕舞いをしている果物屋の前を通りを通って明かりの灯る民家の並びを抜ける。その先にはもう一つ広場があって、宿屋が集まっているのは時計塔をぐるりと回った奥の通りだ。宵の口に煌々とランタンを掲げ出す界隈はそこと酒場街くらいのものだからすぐにわかる。それに勝手知ったる街だ。探す必要もない。時折すれ違う、家路を急ぐ人間、もう既に酒を飲んで出来上がっている人間にガンをつけながら足早に進む。
 立ち止まったのは、しばらくしてアンドラスが微かに抵抗を示したからだ。
「……ねえ、フラウロス。痛いんだけど」
 どうやら掴んだ手に力を込めすぎていたようだった。手離すと、思いの外自分の肩が強張っていたことに気付く。……何を必死になってんだか。フッと大きく息を吐いて、アンドラスに向き直る。
 薄暗がりから向けられる、興味深げな視線。
「……んだよ」
「いいや。この街、キミの生まれ故郷だったのかと思って」
「まー、そんなこともあったかもな」
「キミにもヴィータの子どもの頃があったんだと思うとちょっと感慨深いな……」
「フツーにあんだろ」
 それ以上は話したくない。
 自分の警戒心が振り切れるのを感じる。語尾が刺々しくなったことに、果たしてアンドラスは気付いただろうか。嫌いじゃない、と自覚していた。地雷に踏み込まれない限り。
 だから踏み込んでくれるなよ、と思った。
 その気持ちを感じ取ったどうか知らないが、今度のアンドラスは拒絶を素直に受け取った。わかった、詳しくは聞かないよ、と肩を竦める。
「でも、ちょっと嫉妬はしちゃうかな」
「はァ? いきなり何だよ」
「だって、俺は子どもの頃のキミを知らないから」アンドラスは、そんなに変なことかな、と小首を傾げる。「知らなかった? 俺、キミのことをよく知りたいんだよ。……解剖したいと思うくらいには」
「……それは」
 目を細めて、目の前の男の飴色の髪をした頭の天辺からブーツの爪先までを視線で辿る。
 自分に好意がある、と自称するこの男を。
「それはお互い様だろーが」
 アンドラスはぱちくりと瞬いた。それからゆっくり、問いを口に乗せる。
「キミ、俺の子どもの頃のこと知りたいの?」
「いや、別にィ?」
「じゃ『お互い様』じゃないじゃないか。俺はキミのことなら何でも……」
「オメェはオメェ自身の知らねーことがあるのが落ち着かねえだけだろーが」うるせえな。言い募られることについそう感じて、気づけばぴしゃりと跳ね除けていた。「好奇心を満たすのに人の過去を使ってんじゃねーよ!」
 あ、と思ったときには遅く、言葉はすべて出てしまっていた。ちょっと言い過ぎたか。そっぽを向いた耳に、「……そうだね。そうかも」とどこか淡々とした返答が聞こえる。「悪かったね、詮索して」
 気まずい空気が流れた。すぐ横を、もう一軒行くぞォ! と盛り上がった酔っ払いたちが通り過ぎていく。
 俺は場の雰囲気をごまかすように、後頭部で手を組んでくるくるとその場を回った。
「……あーあ、久し振りに飲み歩いてくっかなー、女でも引っ掛けっか! なぁー、財布貸せよお医者サマ」
「あは、ツケればいいんじゃないかな、いつものことだろ? まあいいけど……はいこれ、今日の報酬分。俺は先に宿に行くよ。……そうだ、フラウロス?」
 その声に、少し躊躇いがあった。「何だよ。まだなんかあんのか」顔を見ないようにして聞くと、少し考えるような間があった後、「……いいや」と静かな声が返ってくる。
「何でもないよ。じゃ、また後で」
 そう言ってアンドラスはくるりと背を向け、迷いなく宿屋の方へと歩いていった。俺も財布をしまいながら踵を返す。強い酒が飲みたい気分だった。もう何も考えず酔ってしまえ。
 しかしどうにも、アンドラスが去り際の一瞬に垣間見せた物言いたげな顔が、脳裏に残滓となって離れない。
「何だアイツ…………あ」
 不意に街にたどり着く直前のやり取りを思い出す。
 ――それは、例えばもし俺が。
 ――今夜はどうしてもキミにベッドの上で抱かれたい気分だって言っても。
「ヤッベ……!」
 バッと振り返るが、既にそこにアンドラスの姿はない。
 ……完全に忘れていた。
「…………あー、いや、ま、まあ? 別に一晩に一人としかヤれねーってわけじゃねーし……」
 おう……と気を取り直す。
 と言うか別に、あれはマジで言ってたんじゃねーだろうし……あんなことで傷つくタマでもねえだろうし。後でテキトーに埋め合わせすりゃ、別にいいだろ。そう言い聞かせて、少し肌寒い夜の街に繰り出した。

     ◇ ◇ ◇

 久し振りに寄った酒場で、だいぶ酒の質が落ちたんじゃねーのかと店主に絡む羽目になったのは散々だった。それともアジトにいるうちに俺の舌が肥えたか。不味いばかりの酒にまったく酔うこともできず、かといって女に耽溺する気分にもなれずただグラスを何杯か傾けて腹に水分を溜めるだけになってしまった。店主はやれ言い掛かりだのツケを払えだのうるせーし。クソ、あのシャルルとかいうクソ領主も何勝手に死んでんだ。生きてたらまたボコってツケチャラにさせんのに。二年前、二度と来る気もねえからと最後に盛大にどんちゃんしたときのツケが結構な額らしく、いつにも増して店主の要求はしつこい。
「つーか折角俺が戻ってきたってんだからもっと歓迎しろよなー、こんくらい奢れって」
「お前みたいな悪魔に戻ってこられたら商売あがったりなんだよユーゴォ‼」
 その叫びを背に、今夜の酒代も当然ツケた。
 宿屋へ着くと、受付カウンターでうとうとしていた主人の頬をぺちぺちと叩いて部屋番号を聞き出す。連れが先に来てるはずなんだがよ、あの学者みてーな白衣着た坊っちゃんだわかんだろ。そう告げれば、突然現れた悪党の姿に怯えていた主人は一転お前があの子の連れ……? と世も末のような顔をする。どいつもこいつもド失礼だな。
「……やっぱ戻ってくんじゃなかったぜ」
 言われた部屋番号を探しながら、廊下で思わず独りごちる。この街では俺はどこへいっても「ユーゴ」だった。中身がメギドだろうと、連中は目の前の男の規格をヴィータの知覚の範囲内でしかはかることができない。
 そうして名前を呼ばれるたび、魂がヴィータという矮小な箱に押し込められる﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅感覚。
 あのままこの街にいたら、と思うとぞっとする。
「……明日早く出立してえって言うか」
 ようやく探し当てた部屋に入ると、アンドラスはまだ起きていた。
 青い夜の闇が染み出すような窓の手前に、簡素なテーブルセットが一組と、ダブルベッドが一つ置かれている部屋だった。その所為で部屋自体は手狭に見えるが、まあ観光地でもないからこんなものだろう。簡素なガウンに着替えたアンドラスはこちらに背を向けてベッドの端に座り、何やら作業をしている。テーブルランプの下に広げられているのはヤツの鞄の中身だ。髪の先が濡れているのは、風呂上がりだからだろうか。振り向いた表情は普段どおり柔和で、別れる前にちょっと諍った名残は微塵も感じさせない。
 その姿を目にした途端、不思議とささくれだった気持ちが収まった。だが代わりに湧き上がる感情がある。
「やあ、フラウロス。早かったじゃないか、楽しめたかい」
「まあな。オメェは寝てねーのかよ」
「ああ。もう少し今日の戦利品を整理してから……っ」
 部屋にずかずかと上がり込み、ベッドに乗り上げて問答無用でアンドラスの体を抱き締めた。湯上がりの肌は背中に冷えた肌には心地よく、薄い布地越しに高めの体温が伝わる。
 あー、と息を漏らす。うなじからは石鹸の匂いがする。
「ちょっと、フラウロス……」
「いいじゃねーか。ええと、何だっけ? どうしても、俺にベッドの上で抱かれたい気分……だったんじゃねーのかよ」
「……なんだ、覚えてたんだ。てっきり忘れてるのかと」
 その言葉に、フン、と鼻を鳴らして応える。まさにそのとおりだと言わない自制は俺にもあった。いや、言ってもよかったが、変に傷つかれたりしたら面倒だ。傷つくような繊細さが、この男にあったらの話だったが。「いや、もし忘れてたらこれは是非脳を解剖させてもらうべきだなと思って」よォしぜってー言わねえでおこう。
 アンドラスがふと何かに気付いたように俺の体を引き剥がし、上半身をまじまじと見下ろす。なんだ、何かついてたか?
「……ほかのひとの匂いがしないね」
「あー……、今日はやめてきた」
「……? そうなんだ。それはまた、どうして」
「うるせーな! 気分じゃなかったんだよ」
 だからいいだろ。そう囁いてアンドラスの体を今度は正面から掻き抱いた。医者にしては鍛えているその体は、決して柔らかいばかりではないが抱き心地は悪くないのだ。首筋に甘えるように頬を擦り付けていると、アンドラスの体が腕の中で微かに身動いだ。心臓の音まで聞こえてきそうだ。うわ、動揺してやんの。ウケる。
「オメェもかわいートコあんじゃん」
「……そう、だよ。かわいい俺を放って遊びに行くなんてひどいじゃないか」
「自分で言ってんじゃねーよ!」
 するりとガウンの腰の帯をほどきながら胸元を緩めてやる。指先が肌をなめらかに滑る。揺れるランプの灯に照らされるアンドラスの頬は血色良く赤い。
 普段と違って、アンドラスはこちらの着衣には手をつけず躊躇いがちに微笑むだけだ。
「今夜は俺でいいのかい。『ユーゴ』は人気者だろうに」
「その名で俺を呼ぶんじゃねーよ」
「自分の名前が嫌い?」
「俺のじゃねーっつーの。知らねえヴィータの名前だ」
 腿に乗り上げ、笑いながら言った。だか今はこの男との会話を強く拒絶する気持ちはなかった。街に着いた直後のような、好奇や詮索の視線がなかったからかもしれない。今、アンドラスが透明な瞳の上に浮かべている感情の手触りは柔らかだ。俺がここにいることに少し――そう、ただ安堵をしているような。
 それは声にも表れ出る。
「……フ」
「何だよ」
「いや……」アンドラスは、思わずといった風に漏れ出た声に口を抑えて言い淀んだ。「こんなことを言うと、あまりヴィータとしてはよくないと思うんだけど……」
 はっきりしない物言いだ。苛立って顔を覗き込もうとするが、アンドラスは見られるのを嫌がるように顔を背けてどうしても視線が合わない。
 ほんのり赤い耳だけが見える。
「キミが『ユーゴ』の名を捨てていることが、その……俺にとっては、どうやらひどく……」
 消え入るような声の先は聞かなかった。俺は無言のまま乱暴にアンドラスを押し倒した。アンドラスの体が抵抗せずにベッドに沈む。あらわになったその顔には、いつもの胡散臭い笑みはない。ただ白いシーツに飴色の髪を遊ばせて、切なさの交じった表情で俺を見上げる。
 閉じられる目。心なしかきつく絡められる腕。俺を受け入れる、その直前に。
「……俺にとっては、キミは『フラウロス』だから」
 だからよかった、とかすかにつぶやいた。

     ◇ ◇ ◇

 そんなことを言っていたのに。
「ユーゴ」
 うたた寝をしていてふと、名前を呼ぶ柔らかな声が聞こえた気がした。おお……と返事をしそうになってハッと我に返る。だから、俺はユーゴじゃねえっつってんだろ。アンドラスの野郎、ぜってえ泣かせてやる。
 柔らかな土の地面を押して立ち上がり、草を払って周囲を見渡す。軒先に引っ掛かった陽光がこぼれて鼻先に春のにおいが触れた。アイツどこだ。探すまでもなく、声は背後からしていた。寄りかかっていた民家の壁、その窓枠から室内を覗き込む。
 声の主はこちらに背を向けて椅子に掛けていた。
 青を基調にした部屋の中には三人いる。俺からはっきりと表情が見えるのは、椅子に座ったガキとその側に立つ恐らく親と思しき男だった。その手前で、白衣を着たアンドラスが親子と話しながら手元の資料に何かを書き込んでいる。俺はそこでようやく、どうして今自分がここにいるんだったかを思い出した。今日も街へ診察の様子を見に行くよ、と言ったアンドラスについてきたのだ。俺も行く、と言えばアンドラスは驚いたし、診察中は構えないよと釘を刺された。いや俺をなんだと思ってんだ、お医者様の今日のアガリでタダ飯食いてえだけに決まってんだろーがよと言えば、アンドラスは相変わらずの微笑を浮かべながら、無報酬だけど……でもまあ、いいよ、と頷いた。奢るよと。
 診察室に満ちる消毒液の臭いは嫌いじゃないが好き好んで入り込みたいほどじゃあない。
 ガタ、と微かに窓枠を上げ、肘をついて室内の様子を眺めていると、アンドラスが肩で笑う気配があった。
「じゃ、お薬を出しておこう。この処方箋を後で薬屋さんに持っていくんだよ……朝ご飯と、夕ご飯の後に一つずつだ。キミに飲めるかい」
「もーせんせー、そうやってすぐ子ども扱いするぅー。できるしぃ」
 むくれるガキに、側に居た男が困ったように笑う。アンドラスの背中も愉快そうに震えていた。「いや、お前は子どもだろう……すみません先生……」「フフ、頼もしいお返事だ」そう言ってガキを見守る視線は温かい。
 ケッ、と俺は内心毒づく。甘やかされやがって。
 アンドラスが続ける。
「なら、今度から具合が悪くなったらご両親に早く言うんだよ。キミの元気がないと、お父さんも心配するからね」
「うーん、わかった!」
「ありがとうございます、先生……ほら、お前も」
「ありがとーございました!」
「はい、お大事に、ユーゴくん﹅﹅﹅﹅﹅
 そのアンドラスの一言で、ああ、と詰めていた息を吐いた。何のことはない、さっきのガキの名前だったのだ。去り際の親とガキの背中をじっと見る。大方、親があの街近辺の出身なんだろう。つける名前に意味を見出す文化はあの辺りには広くある。よくある名前だ。美しい魂を持つ者ユーゴなんざ。
 だから俺を呼んだわけじゃあない。
 建付けの悪い窓をガタガタと鳴らして引き上げ、よっと窓枠を跨いで侵入した。診察は今ので最後だったのか人の入ってくる気配はない。アンドラスは、背後の侵入者の気配を捉えているだろうにペンでインクを引き伸ばして記録をさらさらと書いている。俺の方を見向きもしない。それがまた、俺の癇に障った。
「オメェがあの名前を呼ぶなよ」
「どうして」
 アンドラスは振り返りもせずに言った。どうして、だと? 俺は診察室の床が汚れるのも構わずずかずかと上がり込み、バン、とその手を机に封じ込めた。
 カルテにびっと意図しない線が引かれ、アンドラスが僅かに眉を顰める。
 それを見てひどく心が踊った。
 けれど次の瞬間には、不快を俺にぶつけても仕方ないと判断したのか、あるいはさほど問題でないと考え直したのか、アンドラスは一つ嘆息していつもどおりの胡散臭い微笑みでもって俺を見上げる。
 その、少しガキ臭さを残した仕草。
「名前を呼ぶなというのは、キミと同じ名前だから?」
 答えなかった。俺の名前はそれじゃあない。
 だが、なんだか知らねえがそれがイラつく。
 パタン、とアンドラスの手の中のペンが置かれた。僅かに机から俺に向き直る。
「……機嫌を損ねてしまったのなら、謝罪しよう。でも、あの夜言ったとおり、俺にとってキミは『フラウロス』だよ。俺がユーゴと呼ぶのはキミじゃあない」訥々と、言い含めるように並べられる言葉。視線はまっすぐで真摯だ。俺が嫌いな類の。「それでもご不満かい」
「ああ、不満だね」
 アンドラスはぱちくりと瞬きをした。俺はその鈍感さにも我慢がならなかった。乱暴に肩を掴み、椅子の背に押し付けるようにして唇を寄せて触れ合わせる。
 至近距離で交わる視線。
 二呼吸ほどの後、アンドラスが意図を察したようにきつく目を瞑った。唇を薄く開く。
 許可を得た俺は存分にその唇を蹂躙した。最初は押し付けるように、熱が移ればそれを喰らうように。舌を差し込むと微かにまぶたが震えるのが見えた。ガン、と傾いた椅子の背が机の角に当たる。俺はアンドラスが「痛い」と言うまで、その体を机に押し付け続けた。体を離せば、唾液に濡れた唇の端が微かに歪められる。
「……するなら、できればそっちでしたいんだけど」
 低い声で言い、後ろに置かれた簡易寝台を指す。「椅子が壊れたら、ここを貸してくれた人に謝らないといけないだろ」。へーへー、今からヤるっつーのに椅子の心配かよ。それがまた苛々して、俺はアンドラスの体を乱暴に担ぎ上げると台へと乱暴に放り出した。間髪入れず重なるようにのしかかる。ぎしりと軋むフレーム。
 啄むようなキスを繰り返すが、アンドラスの表情は硬いままだ。自然、俺のテンションも上がらない。
 ――キミが『ユーゴ』の名を捨てていることが。
 ――俺にとっては、どうやらひどく。
「……あーっクッソ!」
 髪を掻きむしる。そんな顔をさせている原因には心当たりがありすぎるほどにあった。今からコイツを抱くというのに、辛気臭い顔をされていたのでは堪らない。
「……いいか。別に、俺は『ユーゴ』じゃねえが」ぎゅ、と頬を両手で挟んで言い聞かせる。こういう弁解は柄じゃねーのに。「ただオメェが、俺の嫌いな単語を嬉しそうにへらへら口にしてんのがうぜーだけだよッ」
 ぱちり。二回目の瞬きは、程なく大きめの笑い声で掻き消された。「アハハ! キミそれ、むちゃくちゃ言ってるのわかってるかい!」「うるせー! 笑うんじゃねーよ!」塞ぐようにキスをして黙らせる。フラウロスのキスに応じて蕩けるアンドラスの表情は既に柔らかい。
「ん、ぅ……、ふ、ふふ、キミったら欲張りだな……」
「いいだろーが! 俺は俺の好きに生きてんだよ」
「ああ、構わないさ……でも、俺はてっきり、キミは自分の感情をもっとコントロールしてるものだと思っていた」
 誰の所為だよ、と思う。他の誰にだってこんなことはしないんだ、幻獣狩りに付き合ってやって、勝手な期待をかけてあの街にまで行って、かと思えば苛立ちをぶつけてこんな風にかき乱されて。平静でないのは自覚している。
「『感情に振り回されるなんて面倒はゴメン』なんじゃなかったのかい」
「ああ、そうだよ」
 アンドラスを抱きながら、憮然とした答えを返す。こんな感覚は知らなくてよかった。メギドラルにいた頃は、うぜえやつは殴れば済む話だったし、欲しいものは奪えば済む話だったんだ。こんなにも、一人の人間の一挙手一投足に苛立ちを――あるいは充足を覚えたりはしなかった。
 感情に縛られたりは。
「こんな感情、クソくらえだ」
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