【再録】エミーとユーゴ


     ◇ ◇ ◇

 医務室にいなさい、とその看護師は言った。
「ここならあなたの仕事があります。下手に出歩かれて、トラブルを引き起こされてはかないませんから」
「わかったよ、バティン。……と、アンドラスは呼んでいたから、俺もそれに倣うけど、いいかな」 
「ご勝手に。設備の説明も必要ありませんね? 簡単な処置ならば独断でしていただいて結構です。ただし急患はすぐに呼びなさい。いいですね」
「ああ。ソロモンと、キミかユフィールを呼ぶよ。もしソロモンが捕まらなかった場合は、携帯フォトンを準備する」
 先回りして頷けば、バティンは少々不満そうに眉根を寄せた。俺の物分りのよすぎる態度は、時々彼女を苛立たせるらしい。ガキはガキらしく、ギャーギャー煩い方がいいんですよと彼女は言う。それでも、変に同情せず、『アンドラス』に接するのと変わらない彼女の態度はありがたかった。
「さて……」
 暇だ。バティンから任された整理仕事は終わってしまったし、お目付け役のはずのフラウロスは開始二日目で早々に姿を消してしまった。ソロモンたちが出かけているものの、今日はユフィールがついているというし、多分俺の出番はないだろう(当然、それを見越してバティンはここに俺を残らせたのだ)。
 差し込む朝日の柔らかさが気を緩ませる。
 患者も来ないし検体もいない。今俺ができることは何もない――ただ一つを除いて。実行すべく意識を内側に傾ける。
(アンドラス)
 そう自分の中に呼びかけるのは、彼の存在をはっきりと認識したとき以来だ。
 しかしあのときと違って、今回は何の返答もない。
(何のつもりだい。キミのことだから、ヴァイガルドに飽きたってことはないんだろ)
 呼びかけるが、アンドラスは沈黙したままだ。この辺りで一度コンタクトがあるだろうと踏んでいた俺はアテが外れて拍子抜ける。気が狂って――というのは冗談で言った言葉だったが、もしかしたら本当にありうるのかもしれない。
 存在はするが、魂に瑕疵を負って出てこられない。
 うーん、どうだろう、と俺は思う。今のところ、その可能性は低い――と言うより、他に考えられうる仮説の方が余程もっともらしい。
 椅子の背をキィと鳴らして腕を組む。
 つまり、俺の意識が引き戻されたこれは、アンドラスによる何かしらの実験だという可能性だ。
 彼は――アンドラスとしての俺は、ここのところ随分と再召喚リジェネレイトの解明に執着していた。手段としての内面の解剖に行き着き、自身も再召喚に成功している――となれば、これも一つ、自分の内面を切り開いている最中なんだろうと考えるのが自然なように俺には思えた。ソロモンたちに迷惑のかかるこのタイミングで、というのが引っかかったが、トリガーをコントロールしきれなかったのかもしれない。いつか実行しようと準備していた計画が、些細な切欠で暴発した。だから予定外のタイミングで『エミー』が目覚めた。
 その結果、自我が崩壊する可能性もないではないが。
 ただ、あの慎重なアンドラスが、自我を完全に失うリスクのある実験を実行可能な段階にまで移すとも思えない。終われば無事に戻ってくる目処はついているんだろう。
 問題は、アンドラスがそうまでして何を知りたかったのか﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅だ。
 ……ふと背後から忍び込んできた気配に、最初は気づかないフリをした方がいいんだろうか、と振り向かなかったが、あまりにもわざとらしくガシャン、かちゃり、と鍵をかける音を立てるから、その気遣いは無用だったかなと振り返る。
「……やあフラウロス、どこか怪我したのかい? あ、それとも借金のカタに内臓摘出するとか? わかった、手伝うよ!」
「しねーよウキウキしてんじゃねーよ! クソ医者の頭の具合は今日もゴキゲンだなぁおい」
「アハハ、おかげさまでね」
 そこには器用に窓からするりと侵入してきたフラウロスがいた。俺は広げたカルテを棚にしまって鍵をかける。彼は俺の世話をしたくないがために朝から姿を消していたと思っていた。それもバティンが少しばかり不機嫌だった一因だ。『少し』なのは、俺のことに目敏く気づいたのがフラウロスだと聞いて少し態度を緩和させたためだ。
「キミ、脱走したんじゃあなかったのか」
 フラウロスが返事の代わりに無言でその手の中にあるものを振る。とろりと中の液体が揺れるそれは未開封の酒瓶だ。この短時間で街に買いに行ってきたとは考えにくかったから、大方アジトの倉庫から拝借したんだろう。あとでフォカロルに怒られないといいけど、と思う。多分無理だけど。
「だからバレねーようにここに来たんだろうが」
「俺目当てじゃないんだ? 『アンドラス』が悲しむ」
「ギャハハ、アイツがそんなかわいらしいタマかよ! つかテメェは今アイツじゃねーんだろ」フラウロスは、俺とは目を合わせないままドカッとベッドの一つに座り、酒瓶を乱暴に開封しながら言う。「今は『アンドラス』は寝てんだろーが」
「そうだね」
「テメェ、ただのヴィータのくせに随分と落ち着いてるぜ。ずっとこのままだったらどうすんだよ」
 ああ、と思った。そのまま行方をくらませていればいいものを、わざわざ戻ってきたのはそれを探りたかったのか。丁度いい、仕事もないことだし。話相手としては上々だ。
 安心感を与えようとして笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ。この現象は一時的なものさ。『アンドラス』は死んでない」
「なんでわかる」
「キミには、アンドラスが軍団を放り出して逃げ出すような奴に見えたかい? ああ見えて、妙に義理堅くて責任感の強い奴だ。少なくとも、軍団を放り出して自ら死ぬようなことはないさ」あ、それに、と付け加える。「それに、こんなに解剖に向いた環境を手放そうとも思わない。だろ?」
「ハ。どうだか」
 あれ、と思った。これで軍団のみんなには納得を得られたし、彼にだって「ギャハハ、そりゃそーだな!」とウケるとばかり思っていた。
 なのに酒をラッパ飲みなんかして口元を拭う彼はひどく不機嫌そうだ。
 首を捻ってから、はたと思い至る。
 俺と彼との関係性について。
「ああ、もしかして、彼が解剖を捨ててまで逃げ出したい何かがあったんじゃあないかと思ってる?」
 そしてその原因が、自分ではないかと。
 聞けば今度は図星だったのか、フラウロスはふいとそっぽを向いてしまった。横顔の歪むさまは、彼にしては珍しく少し弱ったような表情にも見えて思わずまじまじと眺めてしまう。「心配しなくても、キミにひどいことをされたという認識はアンドラスにはないよ。アンドラスは、間違いなくキミに好意を寄せていたと思うけど」一応フォローを入れると「うるせー! そういうんじゃねーよ!」と吐き捨てられる。
 『アンドラス』は、彼と肉体関係を持っていた。その関係は別に誰かに従わされてのものではなく、ただ純粋に彼自身が望んで持っていたものだ。俺はそれを知っている。それは俺がアンドラスが必ず戻ってくるだろうと考える理由の一つでもあったし、ましてフラウロスが危惧する必要なんて全然ない。
 大丈夫だよ、と繰り返し告げる。
「彼も実験の結果が出たら戻ってくると思うから」
「はぁー? 実験?」それは初耳だ、とばかりにフラウロスが片眉を跳ね上げる。「これが何の実験だってんだよ」
「ああ……それがわからないんだよね」もっともな疑問に、俺も首を捻る。「多分、もし自分がエミーだったら、どうしたか……という思考実験をしてるんだと思うんだけど」
「いや記憶は共有してんだろーが! ならテメェが知らなきゃおかしいはずだ」
「アハハ、流石にキミは話が早いな! そうなんだよ、俺の記憶に残ってるはずなんだ――けど考えようとすると、靄がかかったみたいにうまくいかなくてね。そこだけきれいに持っていったみたい」
「……流石に嘘臭えぜ」
「そうかもね。でも、俺には証明のしようがないから、信じてもらうしかないな」
「……。じゃ、それが終わんねえと、テメェは元に戻んねえってワケだ」
「そういうこと。無理に元に戻しても、また試したいと思うだろうね、彼は」
「ほんっと、面倒臭えヤローだぜ」
 舌打ちをしながら、フラウロスは名残惜しそうに酒瓶を振る。いつの間にか中身は空になってしまっていた。そんなに飲むと体に悪いんじゃないか、と口にしようかどうか逡巡して、エミーが言うべきことでもないか、と口を噤む。
 代わりの問いはするりと口を突いて出た。
「でも、キミはそんな彼が好きなんだろ?」
 ぱち、と金色の瞳と視線がかち合った。
 その目が剣呑に細められる。
「……セックスしてるってだけだろーが」
 否定とも取れる言葉だったが、本質は多分違う、と思った。明確な肯定を避けただけだ。ただし声音でそれをテメェに教える義理はない、と言外に突きつけられている。きっとアンドラス相手には取らない態度だった。滲むのは警戒。距離を取られている。俺が平時のアンドラスではないから。
 椅子から立ち上がり、ベッドにかける彼の隣に腰を下ろした。彼は動かない。間には人ひとり分の距離。
 指でシーツを手繰り寄せて握る。
「つれないな。そんなに『エミー』には興味ないかい」
「ああ、ないね」
「俺がアンドラスの一部でも? 追放メギドは魂が融合している。だとすれば、自認にかかわらず、俺もアンドラスだということになるのかもしれないよ……キミだってそうだっただろ、フラウロス」
いいや﹅﹅﹅
 俺はその力強い否定が、どちらにかかっているのか判断ができなかった。エミーがアンドラスではないということだろうか――それとも、フラウロスはそうではなかった?
 訊けば、フン、と嘲笑が一つ返ってくる。
「知るかよ。『アンドラス』でもねえテメェに、どうして教える必要がある」
 先程から覚える、この心臓部の痛みは何だろう。
 俺は思わず目を伏せる。
 彼は『エミー』には興味ない。
 そうらしいよ、アンドラス。
 なのに今更、俺の人格に何を求めるんだ。
「……アンドラスも馬鹿だな」
 気づけばポツリとそう漏らしていた。
「あ?」
「今更、俺と彼の区別なんてつけられるわけない。だろ?」
「……。ま、それもそうか?」
 フラウロスが何事か考えて一つ頷いた後、シーツを握っていた手、その上からそっと手が重ねられた。うん? と首を傾げる間もなく、するりと甲を撫でられ、頬に軽くキスされる。人ひとり分あった彼との距離は、いつの間にかなくなっている。
「えーと? フラウロス?」
 暗に説明を求めるが、彼は聞こえなかったかのようにするりと俺の懐に入り込んでくる。思わず逃げた腰を手繰り寄せられ、向かい合う形になると、無理に二人分の体重がかかったベッドがギシリと軋んだ。
 鼻先を微かに酒の臭いのする吐息が掠める。
「いやキミ、俺に興味ないんじゃなかったのか?」
「でも区別つかねーんだろ? 別に中身にキョーミはねーが、ヤんのには支障なくね? テメェの中身が今『エミー』だろうが、『アンドラス』だろうが」随分とひどいことを言いながら、悪びれもせずに俺の服に手をかけようとする。「せっかくだし一回くらい抱かせろよ」
「……アハハ! キミらしいね。いいよ、やろう」
 興味ないと言い放った相手に、くるりと手のひらを返してセックスを乞うなんてひどい男だ。しかし俺は何だか楽しい気持ちになってきていた。彼のあっけっからんとした、自分の欲望に正直なところが好ましい、と思う。きっとアンドラスもそう思ったんだろう。靴を脱ぎ去り、ベッドの上に膝立ちになってフラウロスの肩に両手を回す。エミーとしても抵抗はなかった。フラウロスは素直に乗ってきた俺に少し意外そうに瞬いた後、きゅっと目を細めて俺を見上げて笑う。わるい顔だ。でも悪さなら、今の俺も同じようなものだろうか。
 そう思いながら、彼からのキスを受け入れようとしたのだが。
「あ?」
 目の前にあったのは、訝しげなフラウロスの顔だ。
 それとその口を塞ぐ自分の右手。
 もご……と手元から抗議の視線が刺さるが、誰よりも驚いているのは俺だ。
「ええと……ちょっと待ってくれないか、フラウロス」
「んだよ、エミーお坊ちゃんはこーゆーのハジメテだったか?」
「いや……」
 心臓が嫌な感じに軋んだ。
 けれど俺には別にフラウロスとするのにそこまで嫌悪感はない。体の感覚は知っているし、気持ちがいいのもわかってる。アンドラスが好きなことは俺も好きだ。
 なのに手が動いてしまったのは何故だろう。
 まるで俺の意志とは反しているみたいに。
「……いや、フラウロス、やめよう。やっぱりダメみたいだ」
「はァ~? んなもん今更、うおっ」言い募ろうとするフラウロスが素早く俺の側から飛び退いた。彼を切るつもりで一閃した縄鏢が空を切る。おっと、外したか。「いや危ねーだろテメェ!」
「アハハ、反射神経はさすがだね。前に乱暴してきた男はこれで素直に刺されてくれてぽっくり眠ってくれたのに」
「それ死んでんじゃねーか!」
「大丈夫、睡眠薬だったし」
 量も間違えなかったし、死んでないと思うよ。多分……と説明するも、フラウロスはすっかりふてくされてしまって、床に転がった酒瓶をころんと蹴ってから医務室の扉に手をかける。
 二人の距離はすっかり元に戻っていた。
「んだよ、『アンドラス』も『エミー』も変わんねえんじゃなかったのかよ⁉」
「そうだね」
 俺は頷く。
 俺たちの魂は同一だ。
 でも。
「アンドラスはそうは思ってないんだよ、きっと」
「は~?」
「『エミー』に、キミと寝てほしくないんだ」
「いや意味わかんねーっつーの!」
 フラウロスはそんな風に悪態をついて医務室を去ろうとしたが、唐突にくるりと振り返り、大股で歩み寄ってきた。ベッドに座り込む俺の肩を掴んで屈む。
 唇に触れるやわらかい感触。
 今度は避ける暇がなかった。
「……じゃ、『アンドラス』に言っとけ」
 呆然としている俺を置いてきぼりにして、彼は何事もなかったかのように、じゃーな、と手をひらひらと振りながら去っていった。
「テメェに俺取られたくなきゃ、さっさと目ェ覚ませってな!」

「……あーあ」
 一人残された医務室で、ばたりとベッドに倒れ込む。
 見上げる医務室の天井は窓からの陽の光を柔らかく反射している。それに反して、ついつい視線が行くのは光の届かないじめじめとした隅の方だ。
「……お前の好きなものは、俺も好きなんだよ、アンドラス」
 いつだってそうだったじゃないか。犬をバラバラにして高揚していたこと、解剖に異様な執着を見せていたこと、それらはすべてアンドラスの魂と融合していたためだと、そう言ったのはキミじゃあないか。
 今更この感情が果たしてどちらのものなのかなんて、判別なんてつくわけがない。
 ため息を一つ吐く。恨む気持ちはなかった。生まれたときから一緒なのだ、自分自身と切り離せるものじゃない。それに、所詮俺はアンドラスの見ている夢のようなものだった。架空の人格。本物はもうとっくにアンドラスで、俺はその一部なんだから虚しさなんて感じなくてもいい。
 それでも、どこかもったいなさを感じる。
「……こんな実験、今更無意味だ」

     ◇ ◇ ◇

「その感情を、表す言葉があるかないか、の違いはあるんじゃないでしょうか~」
 といつか言ったのはユフィールだ。
「私たちメギドだって、当然感情は持っていますー。ただ、メギドラルではその言語化があまり重視されていませんでした。私たちの社会は『戦争』を軸に存在していますから、それを外れた『個』が抱く特有の感情は、共有の必要がないし、言葉にする必要もない……。その結果、ヴィータ文化よりもこと戦争に関する以外の感情表現の種類が狭くなっている、ということは考えられますねー。極端ですが、『悲しい』という言葉を知らないと、例えば大事なものを喪ったモヤモヤを怒り、戦闘欲としてしか昇華できませんし……」あとは、そうですね~と視線がそらを捉える。「その逆に、純正メギドの中でも、ヴィータ文化の発祥である『美味しい』という言葉を通じて味覚を知覚した方もいらっしゃいますね~」
「なら、ヴィータ特有だと俺たちが思っている感情も、もしかしたらメギドだって抱き得るかもしれないんだよな。もしくは、抱いたことがあっても、それをどう呼んでいいかわからなくて、気付いていないだけかも」
 ありえますねー、と穏やかな医者の彼女はそう言った。
 少し寂しそうな顔をして。
「ただ、追放メギドの皆さんは、もうそれを確かめる術はないんですよねー……」

 参ったなあ、と人混みの中で俺は途方に暮れていた。
 俺がただのヴィータになったことで、アジトの各種当番からは大事を取って外されていたのだが、手持ち無沙汰になりがちな俺を見かねて皆少しずつ簡単な用事を頼んでくれていた。買い出しくらいなら任せてもいいんじゃないか、と言い出してくれたのは誰だったか。ずっと医務室にいても気が詰まるだろう、との提案に、「じゃあ、俺が一緒に行きます!」とついてきてくれたプルソンには感謝しかない。
 結果、見事にはぐれてしまったが。
 広場に出て、人波を右、左と見る。しかし目当ての茶髪は見当たらない。頼まれものの入った紙袋が心なしか重く感じた。でも街中なら大丈夫だろう。また夕刻になればポータルを繋げなおすとマルファスが言ってくれたから、最悪その時間にポータル周辺にいれば合流できるし、まさかこんな街中で幻獣は出てこないだろうし――。
 しかしその予想を裏切って、一際甲高い咆哮が響いた。それと人の悲鳴、破壊音、逃げ惑う足音。一気に剣呑になった空気に当てられ体にピリピリとした緊張が走った。幻獣だ。
 街中なのに、どうして。
 外から侵入したのか? それにしてはやけに中心街に近い。逃げ惑う人波から抜け出しながら、やることを整理する。勿論一人では戦えない。まずはプルソンと合流だ。その後一応ポータルを確認。繋がっていればアジトから応援を呼べるが、なければ自警団に協力してなんとか持ちこたえなければならない。
 いけるか、という自問はすぐに首を振ってかき消す。やるしかない。
 しかし俺はどうやら運がいい方らしい。
 突然、目の端に希望の光が差し込んできたからだ。
 派手な入れ墨の青年の姿を取って。
「! ソロモン!」
 ソロモンの方もこちらを見つけたようで、その顔が綻ぶ。
「アンドラス⁉ ちょうどいい、手伝ってくれ!」
「ああ……!」
 が、すぐにその背中に勢いよく蹴りが入ってソロモンがつんのめる。後ろから来たのはフラウロスだ。
「こンッ……の、ドカスが‼ そいつは今『アンドラス』じゃねーだろうが、どけろッ!」
「そうだった、下がっててくれよ、えーと、エミー、……ッ」
 ソロモンの体が視界から消える。素早く距離を詰めてきた鳥獣型の幻獣の生む風に吹き飛ばされたのだ。「がッ……」と呻く声、激しく壁にぶつかる音。まずい。フラウロスは「クソヴィータッ!」と怒鳴りながら、そちらを一切振り返らず迷いなくその大型の幻獣に斬りかかった。彼の判断は正しい。今背中を向けるのは自殺行為だ。
 けどソロモンの側には誰もいなくなる。
 俺しか。
「ソロモン!」
 咄嗟に駆け寄って、倒れた植木や看板の中から彼を助け起こす。頭を揺らさないよう上体を起こすが呼んでも頬を叩いても反応がない。
「フラウロス! 今のでソロモンが気を失った!」
「はァ……⁉ 何やってんだクソヴィータ!」
 まずいな、と思う。ソロモンの意識を戻さなければ、いくらフラウロスと言えど幻獣とまともにはやりあえない。回復、回復させなければ――縄鏢を取り出そうとして、それが無意味であることを思い出す。
 今の俺にメギドの力はない。
 今できることは。冷静に戦局を見る。最優先はソロモンの回復、それができなくてもソロモンだけは逃さなければならない。幻獣は幸いここにはまだ一体しか姿を現していない。だったらプルソンと合流できれば……、いや、この騒ぎで向かってはきているだろうが、それを待つのは悪手だろう。誰かソロモンたちと来ているはずの他のメンバーと合流するか、ポータルまで戻って味方を呼ぶか。夕刻まで後少しだ、もう繋がっている可能性は高い、バティンを呼べば何とか――。
「……っ」
 落とした視線に、ずさっと地面を擦る踵が映った。
 見上げると、俺たちをかばうように立つ背中がある。
 その向こうに見える幻獣は凶暴な鳴き声を上げている。
「フラウロス」
「何してる! いいからとっとと逃げやがれ!」
「待ってくれ、逃げるなら俺が足止めになってキミがソロモンを連れた方が成功する確率は上がるだろ。プルソンが来てる。彼の武器は遺物だ、それでなんとか……」
「で? その間にテメェはアイツの餌になるよ~ってか?」フラウロスが幻獣から視線を逸らさず、チッと舌打ちをしながら言う。「どの道ここで戦うのもテメェが食われてから戦うのも大して変わんねーよ! つーかプルソン来てるなら尚更俺が持ち堪えた方がいーだろうが」
 なおも動けない俺に、フラウロスは大きく息を吐き、「……それか、勝算が一つだけあるぜ」とだけ言って足元にカランとなにかを投げてよこした。手のひらに収まるくらいの球体の、凝った造りの容れ物で、中にはぼんやりと光の溜まっているのが見える。
 携帯フォトンだ。
 弾かれたように顔を上げる。
「キミ、これ」
「ちなみに俺がここでそれを使ってもいーが、アレを飼ってたクソはあと二体ほど放してる。ここで使ってもあとがねーんだよ。クソヴィータが目ェ覚ましゃあフォトン搾り取ってやれるんだがな」
 つまり。彼の意図するところを理解する。
「俺に、アンドラスを呼び戻せって?」そしてソロモンを回復させろと。「……随分と大きい賭けだ。キミ、賭けごと弱いんじゃないのか……」
「ばァーか、賭けるのはテメェが失敗する方に﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅だ。これでテメェが負けたら今までの賭けの分チャラにしてもらうからな、ギャハハ!」
「じゃ俺が勝ったらキスしてくれ」
 ヒヒ、考えといてやるよと笑ってフラウロスはソードブレイカーを構えなおす。虚勢ではない。本気で足止めするつもりだ――アンドラスが戻ってくるまで。
 こんなところでフラウロスを失わさせるわけにはいかない。
「アンドラス」
 携帯フォトンを祈るように握り締めて呼びかける。俺に、追放メギドの力が戻れば。
「いいから、早く戻ってくれ……!」
(嫌だよ)
 投げた言葉は、思いの外強い拒絶となって返ってきた。
(せっかくこの状況を運良く作り出せたんだ、もう少し様子を見たい。キミのフラウロスへの感情を観測できれば、少なくともそれが『アンドラスの魂の影響を受けなくても起こり得たかどうか』ということはわかるだろ)
(でもこの実験は不完全だ。キミも薄々わかっているとおりね)
 アンドラスが押し黙る。目の前で応戦しているフラウロスの蛇腹剣が幻獣の翼を捉え、血とともに羽根の幾枚かが飛び散る。
 しかしフラウロスも追撃をする余裕はない。抵抗として振り回された尾にしたたかに打ち付けられ、体勢を整えるので精一杯だ。 
(実験にこだわってる場合じゃないだろ。キミが戻らなきゃ、そのフラウロスも死ぬ)
(…………彼はそんなヘマはしないと思うけどね。とは言え、ソロモンやキミ自身が死ぬのは困るな……)
(戻ってきたら、キミの知りたがってた答えを教えてやる)
(……答え? 実験は失敗だろ?)
エミーはフラウロスのことが好きだよ)
 目を覚まさないソロモンの頬にかかった砂埃を払ってやる。大丈夫だ。縄鏢を取り出す。
(お前が、彼を好きなように)
「チッ、何チンタラしてやがる……いい加減目ェ覚ましがやれ……ッ、アンドラス!」
 ざく、とフラウロスの腹を鋭い刺突が襲った。
 痛みが皮膚を突き破って、フラウロスが顔を歪める。
「……ちょっと辛抱してくれよ」
 その、刺した縄鏢から。
 どくどくとフォトンを流し込むと、弱っていた彼の体の傷が治っていくのがわかる。「ソロモン、もう少しフォトンを回してくれ」。言うと俺の回復で目を覚ましたソロモンが、「わかった!」と力強く指輪を掲げる。
 もう一度だ。フォトンを送りながら、戦意を満たしたままのフラウロスの横顔をちらりと見る。
 久しぶりに見た彼の瞳は、内に種火を灯したような生命力を帯びているようで、思ったよりずっと鼓動が逸る。
 視線に気付いたのか、フラウロスも幻獣から目を逸らさないまま、ニヤリと一瞬口の端を持ち上げる。
「フラウロス、いけるか⁉」
 チッ、しゃーねーな、とフラウロスは剣を構え直した。
「おしクソヴィータ、フォトン回せ! 一気に決めんぞ!」
 フラウロスが一撃を決める。脳天を砕かれ、幻獣は一声高く啼いて絶命した。

 ソロモンたちは、たまたま金持ちの道楽で取引される飼育用の幻獣の調査をしていたらしい。その過程でこの街にたどり着いたところ、問い詰められた飼い主が地下から放してしまったのだという。「村喰らいの奴と同じ手口だった」とはガープの言だ。他の二匹はガープたちやプルソンが街の住人を逃しながら持ち堪えていたから、ソロモンが駆けつけてすぐに仕留めることができた。
 とんでもない事件ではあったけど、そのお陰で、無事に俺も元に戻ることができた――と言ったら、少し虫がよすぎるだろうか。
「ソロモン、すまないね、迷惑を掛けて」
 いや、アンドラスが無事でよかった。と十七歳の青年は心の底から俺の無事を喜んでくれていて、さしもの俺も少しばかりの罪悪感を抱かされた。本当は、こんな風に迷惑をかけるつもりじゃなかった。
 それに、彼にも謝らないと。
「あれ? フラウロスは?」
 振り返ったそこにはう既に気ままな彼の姿はなかった。多分、一足先にアジトに戻ったんだろう。
 けれどもう胸は痛くなかった。
 彼は俺を待っているだろうと知っていたから。

     ◇ ◇ ◇

「……で?」
「うん? なんだい」
「実験だったんだろ、迷惑かけやがって。結果はどうだった」
 アジトの一角にある俺の部屋で、フラウロスが家主よろしくベッドにごろりと寝そべっている。ここは俺の部屋なんだけど……とは抗議するだけ無駄なことはこれまでの経験上よく知っていた。まだ作業もしたいし、まあいいか、と放っておく。最悪一緒に潜り込めばいい。
 それよりも、俺はフラウロスの発言の方におお、と地味に感動していた。あの彼が、俺の実験に興味を向けてくれている。非常に稀な現象だ。彼の問いに答えるべく、椅子をベッドの方に傾ける。
「ああ……! あれかい、あれはね、失敗だったよ」
「そーかよ、そりゃよかっ……は?」ガリガリと腹をかいていたフラウロスの動きが止まる。「いやあっさり言うことかよ、あれだけ騒ぎ起こしといて何失敗してやがる⁉」
「ええと」何から話すべきか、と俺は思考を巡らせる。
 そもそも、実験の方法からして失敗だったのだ。俺たち追放メギドの魂は既に変質してしまっているのだから、今更エミーの魂だけが分離するなんてことはありえない﹅﹅﹅﹅﹅。バルバトスはアクィエルの例を持ち出していたが、そんなのは指輪の支援なしには到底できる芸当ではない。
 だから俺は、物理的に引き剥がすのではなく自分に強く暗示を掛けることによって『エミー』の人格だけ浮かび上がらせられないかと思った。
「……でも、結局同一の魂から引き出すなら、それは『俺が望むエミー像』に過ぎないことを否定できないだろう? だから意味ないなあって、控えてたんだけど……うっかり幻獣討伐中に暗示にかかってしまったのは不本意だったな」そう、迷惑をかけるつもりはなかったのだ。ソロモンには謝っても謝り切れない。一つため息を吐いてから、そういえば、と俺はフラウロスに話を振る。「キミ、どうしてすぐ俺が『アンドラス』じゃないとわかったんだ? 別に、存在としては同一だっただろう?」
「コイツ……っ!」
 フラウロスは信じられねえ、という顔でぱくぱくと何度か口を開閉した後、「……幻獣を警戒してるにしちゃ立ち方がいつもと違ってド素人だったからだよッ!」とだけ怒鳴ってゴロンと俺に背を向けふて寝の体勢に入る。なるほど、相変わらず目がいいなあ。『エミー』はただの医者だものな。俺が幻獣との戦いに積極的に身を投じるようになったのは、ソロモンのもとに来てからだ。
 俺はススッ……とフラウロスの方に寄っていって、ベッドの端に腰掛けた。丸まって壁の方を向いているフラウロスの肩を人差し指でつつく。
「なあフラウロス、もっと聞いてくれないか? 実験についてなんだけどさ」
「うぜー! 興味ねーし! 失敗だったんだろ!」
「うん。でも一つだけ、興味深いことがわかったよ」
 フラウロスが、面倒くさそうな表情もあらわにぐるりと顔だけこちらを向ける。少しだけ伸びた薄い鈍色の髪が彼の耳元でサラリと揺れて、俺はその先を軽くつまんでいじる。
「俺はさ、『エミー』でもキミに解剖欲が沸くのか知りたかったんだけど」
「……………………」
 何故かドン引きされている気配があるけど、逃げ出さないし、何か問題があれば力尽くで止めにくるだろう。うん、と一人で納得して続ける。
「でも、そもそも追放メギドの魂は、形の似ているヴィータの魂に惹かれるから、例え追放メギドの魂の影響を受けていなくても――ヴィータの魂のままでも、同じ対象に欲情するのはありえないことじゃないんだよな……、エミーがキミに解剖欲を抱いたとしても、不思議じゃないんだ」
「……で? 実際、『エミー』も俺を解剖したいってか?」
「まあ、少なくとも俺はエミーがそう思っただろうと思うよ」
 そっとフラウロスの髪から手を離して。
 彼の背中に額を押し当てる。
「でもは嫌なんだよね」
 ぽろりとこぼすように呟いた。
 その言葉で、どこか感情を押し留めていた堰が僅かに緩む。
「キミが誰かに取られるのは嫌だなあ。キミが、俺じゃない誰かに暴かれるのは……」
「……」
 突然、触れていたフラウロスの背中がふっと消えたかと思うと、彼の腕が伸びて俺をシーツでがばりと覆った。わ、としたたかに額を打ち付けるが、痛みを感じる暇もなくぐいとベッドの中に強引に引きずりこまれる。
 シーツの中で再び遭遇したフラウロスの顔は、にやりと悪い笑みを浮かべていた。
「……急に動かないでくれよ。頭を打ったじゃないか」
「いーだろ。で? 何がわかったんだって?」
「……キミを、誰にも渡したくないってことが。たとえ自分の一部にでも」
「フーン」
 先程まで退屈を持て余していたフラウロスの目は、一転獲物を狩る獣のように細められている。彼の指が、俺の飴色の髪の先をすくう。狭いベッドの中で、足を絡ませ、頬をすいと手の甲で撫でられると、それだけで何故だか体温が一、二度上がったように感じてしまう。
「ま、『エミー』も悪かなかったが……オメェはそのままの方がいーんじゃねーの」
 囁くような吐息が近い。
「……フフ、何だいそれ。まるでキミも俺のこと、好いてくれてるみたいじゃないか……」
「そう言ってんだよ」
 意外にもまっすぐに打ち返された言葉に、なんだか耳まで熱くなってくる。脈も早いし。ああ、これが胸が高鳴るってやつか、と思う。未知の検体を前にしたときみたいだ。好奇心と、逸る気持ちと、冷静を言い聞かせる理性で思考は破れた紙片みたいに散り散りだ。
 そしてキス一つで霧散する。
「……んう」
 濡れた唇をフラウロスがぺろりと舐める。
「もっと言ってみろよ。ホラ、俺のことが何だって?」
「キミのこと、好きだよ、フラウロス。好きだ……」言うたびにフラウロスは俺の唇を塞いでねっとりと舌を重ねてくる。俺は蕩けながら必死に応じるばっかりだ。でもこれだけだと足りない、と思った。俺の感情を示すにはまだ足りない。俺がキミのこと、どれだけ懸想してるか知ってくれよ。
 そう思ってその言葉を口にする。
「頼むから、今すぐ解剖させてくれ……」
「なんでそうなんだよ、ぜってーやめろ!」
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