【再録】エミーとユーゴ
エミー
は、と詰めていた息を吐き出した。
強張った肺が、流れ込む清涼な空気にその緊張をわずかに緩める。一つ瞬きをした向こうの景色は、つい先程までとはまるで違った顔を見せていた。照りつける陽光にきらめく森の緑はあざやかさを増し、木々の葉擦れの音は耳に心地よく、踏み締めた土の匂いは芳醇な養分の香りでもって俺の鼻先をくすぐった。ぼんやりと薄い膜を通して見ていた遠い景色が、レンズを通したようにくっきりとした輪郭を持ち始める。
急に目の覚めた心地だった。
手に持つ縄鏢の感覚だけがどこか慣れない。
何故ならいつもはこんなものを持ってはいなかったからだ。よく使うのはメスとか剪刀とか。それでも確か、扱いの一番近いものを選んだはずだった。手に馴染ませるようにぎゅ、ぎゅと繰り返しその冷えた金属を握っていると、俺の足音が止まったのを訝しんだのか、目の前を歩いていた黒髪の少年が振り返る。
「大丈夫か? アンドラス」
心配そうな顔をする彼――彼はソロモン王だ。数多の追放メギドたちを従える軍団の長。その手には五つの指輪が光り、全身には夥しい肌面積を占める入れ墨が彼の血統の証として浮かび上がっている。けれど彼自身は俺とたった一つしか違わないこどもで、彼はその生育途中の背中に、驚くほど過酷な重責を背負っているのだった。
その彼からアンドラス、と呼ばれて、俺は縄鏢をしまいながら曖昧な笑みを浮かべる。
少し考えて、選んだのはとりあえず当たり障りのない言葉だ。
「すまない、ソロモン。一瞬意識が飛んでた。ええと、さっきの幻獣は見つかったかな?」
「いや、まだ――だと思うぞ」ソロモンは律儀に前方に目を凝らして確認する。遥か向こうに、今日のパーティの面々の背中が見えた。ひらひらと華やかな衣装をなびかせているのはムルムルとニバスだ。「偵察のウェパルはまだ戻ってないみたいだし――ただ、ここからだと遠くてわからないな。俺たちも急ごう」
「……うん、そうだな……」
どうしようかな、と俺は迷う。今の自分の状態は、正常ではない、と思う。睡眠に似た状態だ。先程の幻獣からの攻撃が原因だろうか。このままではとても戦えそうにない。
それとも、アンドラス。
これは何かキミの計算のうちなのか?
その問いを、暗く凪いだ意識の底に投げかける。俺はその答えを持ち合わせてはいなかった。
俺の浮かない顔を見て取ったのか、ソロモンが心配そうに――しかし慎重に俺の顔を覗き込む。
「アンドラス? やっぱり、さっきの幻獣の攻撃が――」
そのとき、すぐ脇の茂みががさがさと大きな音を立てた。幻獣だろうか。まずい。俺は動けずに身を固くし、ソロモンはすぐ仲間を呼べるようさっと指輪を構える。
ああ、俺も。
戦わないと。
思わず一歩を少年の前に踏み出す。
「ソロモン――」
だが草むらをかき分けて現れたのは、見慣れた薄い鈍色の髪の男だった。ぎこちなく足を止めた俺をよそに、ソロモンがほっと肩を撫で下ろす。
「ああ、フラウロスか……」
「『ああ』じゃねーんだよこのアホヴィータ。何ちんたらしてんださっさとその足動かしやがれ、そこのクソ医者はともかく、オメェがいねえと満足に暴れられねーだろー……あ?」
茂みをかき分けて出てくるなり勢いよく文句を並べだした仲間の男の、その獣のかたちをした耳が不意にぴくりと動いた。ぐるりと俺の方に向き直る。
金の目と視線がかち合った。
それがすっと冷ややかに細められる。浮かぶのは警戒だ。しかし俺は先程の硬直などどこへやら、思わずまじまじと彼の顔を見つめ返していた。
彼、こんな雰囲気だったろうか。
燦々とそそぐ太陽の下で見る彼の瞳は、内に種火を灯したような生命力を帯びていて、思ったよりずっと
と、思う間にずんずんと距離を詰められ、ずいと顔を覗き込まれた。鼻先の触れ合うような距離だった。彼と俺とでは背丈にあまり差がないから、彼が下から覗き込むような形になる。
俺は気圧されて一歩後退る。
「ええと……フラウロス……? どうしたんだい」
頬を無理やりに緩めて笑う。じり、と少し後退りしようと思ったが、木の根か何かが当たってうまく踵が引けない。何だろう。足元を確認しないと。けれど顎のすぐ下で凶暴さをちらつかせる彼の瞳から目が離せない。視線に絡め取られ、先程とは別の緊張感で唇をぎゅっと引き結ぶ。
しかしフラウロスは、体を強張らせた俺の予想に反してすいと鼻先を胸元へと移した。そのまま一向に俺の体に触れようとはせず、ただスン、と一つ鼻を鳴らして俺のまとう空気を探る。
ああ、なんだ、と俺は思わず胸を撫で下ろす。
あんまりにも近いものだから、こんな人前でキスでもされるのかと思った。でもそういうつもりじゃないらしい。
じゃあ彼が不機嫌そうな理由は一つだ。
「フーーーン……?」
面倒そうな声音を一つ漏らしたかと思うと、フラウロスはふいと興味を失くしたように俺から視線を外した。振り返ってソロモンに言う。
「おいクソヴィータ。他に誰か召喚してコイツ引っ込めろ。戦力になんねえ」
「ええっ」
突然の提案に驚いたのはソロモンだ。それはそうだ、特に外傷もなく、先程まで共に戦っていた仲間をメンバーから外せと彼が言う理由がわからない。喧嘩でもしたのか、とソロモンが俺に視線で問う。俺は首を横に振った。いいや。そうじゃない。
だが同時にフラウロスの判断は正しい。
ソロモンが事態を飲み込みきれないうちに、先行していたムルムルやニバス、ウェパルまでもがぞろぞろと俺たちの方へ引き返してくる。「ソロモンさん、おっそーい!」「人に偵察させといて、散策気分とはいいご身分じゃない」「ぼっちにしないでよ~……」その中で、ソロモンがフラウロスに慎重に問い掛ける。
「どういうことだよ、フラウロス」
フラウロスはつまらなそうに吐き捨てた。
「コイツ、アンドラスじゃねーよ」
◇ ◇ ◇
反応はウェパルが一番早かった。会話を断片しか聞いていなかっただろうに、槍をすいとソロモンの前に出し、俺から彼を庇うように立つ。次が戸惑いながらも腰のチャクラムに手を伸ばしたムルムルで、最後はソロモンとニバスだった。ニバスに至っては、「えっ……何? 何ですかこの空気ー⁉」と突然ピリピリとしだした雰囲気に当てられてその場からまったく動けずにいる。
「いや……どういうことだ、フラウロス?」
「何? つまり今のコイツは幻獣の擬態か何かってこと?」
ウェパルの視線が刺々しい。ちょっと傷つくなあ、などと他人事のように思う。さっきまで一緒に幻獣と戦ってた仲じゃないか。
まあ実際それは
彼女の胡乱げな言葉に、しかし何故かフラウロスが呆れたように大仰に肩を竦める。
「ちっげーよ。今のコイツはただのヴィータだってこと」
「え? で、でも、アンドラスはアンドラスだろ?」
「おいおいクソヴィータ、オメェそんなんで王様務まんのかよ……
「うわっ耳元で大声出すなって! み……耳引っ張るなよ!」
ムルムルがこそこそと耳打ちをしてくる。
「……ねえ、アンドラス……じゃないのか、あなた、アイツに任せてたら埒明かないんじゃない?」
ムルムルの言う通りだった。俺は少し躊躇ってから、ソロモンにちょっかいを出すフラウロスを止めに入る。
「待ってくれ、フラウロス。少しややこしいから、俺が自分で説明したいんだけど」
「はァー? 言われなくても俺はそもそも説明する気なんざねーよバカ、キョーミねえし。勝手にやれよ」
「……フフ、そうかい、それはよかった!」
フラウロスは、言うとふらふらと道の脇に逸れ、ドカッと柔らかい葉の積もった辺りに腰を下ろした。本当に、ソロモンをおちょくりたかっただけで話に入ってくる気はないらしい。更にはくぁ、とあくびまでして完全に寝に入る態勢だ。自由すぎる。
でも、だったら俺のことも気付いても放っておけばよかったのになあ、と思う。
ここで言い出せば、説明のためにどうしたって立ち止まることになる。それなら、指摘は街に着いてからでもよかった。その方が、俺が説明している間、酒場なり賭場なり、自由に行ける。
なのに合理的な彼もらしくない。
そんな風に頭の片隅で思いながら、俺は改めて、自分の置かれた状況を整理する。ソロモンたちに説明するため。そして何より、突然こんな状況に放り出された自分のために。
「ええと、改めて自己紹介をしようか。そう、フラウロスの言うとおり、俺の中身は今、アンドラスじゃない」
一つ息を吸って吐く。
「俺はエミー。追放メギドであるアンドラスの魂と融合する前の、この体の持ち主の人格だよ」
「……どういうこと?」
ウェパルの質問に、軽快に口を開く。聞く耳を持ってくれる仲間は貴重だ。
「まず、これは最初に断っておきたいんだけど、俺――『エミー』も、何が起こったのか完全には把握してないんだ。何しろ気付いたらこんな状態になっていたからね! 俺が断言できるのは、今の俺の自認は
「うう……すみませぇん……」
「ニバスは悪くないよ。地の利が向こうにあったんだ。誰か一人の問題じゃない」ソロモンがすかさずフォローを入れる。ああ、さっきの戦闘の記憶がある……という証明のつもりで言ったけど、余計な一言だったかな。「それで……アンドラスは無事なのか」
「それもわからないなあ」
俺は横に首を振る。一瞬、背後から視線を感じて振り返るが、そこには目を閉じたフラウロスが日向に腹を見せて転がっているだけだ。
「……アンドラスには、さっきから呼びかけてみているけど返事がない。でも、存在が消えたわけじゃない……と思う。これは俺が、彼と魂を共有しているからわかる感覚だけどね。恐らく、眠っているんじゃないかな? さっきの幻獣の攻撃の影響かもしれない」我ながら、他人に聞かせるには憶測や仮説が多いなあと思う。推測で議論を発展させるのは嫌いではないが、それには適切なレスポンスがほしいところだ。例えばフォラスやアンドロマリウスなんかの学者組。このメンバーだとどうだろう。「で、今は俺の人格だけが浮かび上がっている。そんな状況だね」
「状態異常の一種ってこと?」
「どうだろう……。例えば毒ならわかるんだけどね。敵を弱らせることができるから、能力として有用だ。でも人格を分離させるなんて、そんな器用なことが果たして幻獣にできるかな――あるいは、幻獣にそんな能力が必要かな? 俺たち追放メギドにしか効きそうにない。でもさっきの幻獣はそんな特異な様子ではなかっただろ、実際の効果としては混乱に相当するんだろうけど……ああ、『アンドラス』の気が狂って自分を『エミー』だと思い込んでいるという可能性はあるな。フフ、それは傑作だ、アハハハハッ!」
「わ、笑うところか?」
「あれ、面白くないかい? 追放メギドの自分をヴィータだと思いこむなんて」
まったく、『個』がすべての存在のくせしてそれを失うなんてどうかしているよ、手と目さえ届けば自分の頭を開いて見てみたいくらいだ……と縄鏢を持った手を頭上へ伸ばしかけたところでガシ、と手首を後ろから掴まれる。
振り返ると、不機嫌そうな豹耳の男が立っていた。
「フラウロス」
「だーかーら、言ってんだろクソヴィータ。他の奴呼べよ。コイツ使いもんになんねーって」
「フラウロス、そんな言い方は……」
「残念ながら彼の言うとおりだ」咎めようとしてくれたソロモンを遮って微笑む。彼の状況判断は正しい。「俺にはアンドラスとしての記憶はあるが、経験がない。体は反射で動く可能性はあるが、フォトンは扱い切れないよ。あの幻獣を追うのに、回復役をこなせないんだ」
「まあ、それは……わかったよ。けど、他のメンバーを呼ぶかはちょっと考えさせてくれ」
ソロモンが腕を組んで目を閉じる。この場合、第一候補はバティンかユフィールだろうか。次点でバルバトスやマルバス。彼らの今日の予定、それからこのメンバーに呼ぶならどうかという点を吟味するソロモンの思考を遮って、ニバスの手が天高く伸ばされる。
「ハイッ、ソロモンさん!」
「どうした、ニバス?」
「回復ならー、リリィキャットのオーブをいくつか持ってますけど、これ使えませんか?」
途端、待たせてんじゃねーよ面倒くせー……と機嫌の悪そうだったフラウロスが目に見えてはしゃぎだす。
「おっ、態々回復させるヤツ呼ばなくてもいーじゃねーか! じゃあさっさと仕留めちまうか、さっき討ち漏らしたヤツをよ~!」
「た、倒したらアンドラスも戻るのか……?」
「断言はできないが、試す価値はあるだろうね。『アンドラス』が永眠してなければの話だけど」
アハハハハと笑うと、今度こそソロモンに「縁起でもないこと言うな!」と怒られた。やあ、これは不評みたいだ。久し振りに人格のコントロールを任されるとどうにも調子が出ないな。まあ、昔もよくグレスに怒られていたんだけれど。旧知の幼馴染を思い出す。彼はいつも真剣に俺を思いやってくれて、俺がヴィータの群れから孤立しないよう心を砕いてくれていた。よく考えれば、ソロモンとちょっと雰囲気が似ている気もする。
目当ての幻獣は早々に見つかった。もともと、アンドラスたちの目的はここ一帯に巣食った幻獣の討伐が目的だったから、用事が二つまとめて済むのは都合がいい。
一閃、蛇腹剣が空を切る。
「死んどけおらァ!」
幻獣を倒した。
戻らなかった。
◇ ◇ ◇
結局、サレオスの力もセーレのポーションも、俺を元の『アンドラス』に戻すには至らなかった。アジトの広間ではソロモンから事情を聞いた面々が難しい顔をして集まっている。その中心に座らされているのが俺だ。
「確かに、召喚しようとしても反応がないんだよな。みんなが寝ているときに返ってくる手応えに似てるよ」
とはソロモンの言だ。それに対して、一瞬一部のメンバーが同じ疑問を頭に思い描いて、それから誰もが口を噤んだ。
それは、メギドが死んだときの反応とは違うのか。
例えば、ウェパルを喪ったときのような。
でもそれを不用意にソロモンに訊ける人間はこの場には誰もいなかった。一部のメギドが言い澱んだのを見てとって、ソロモンもああ、と極力何でもない風を装って言う。「大丈夫だ、アンドラスが死んだわけじゃない……と思う。いるのはわかるから……、ただ、引き寄せようとしても手が滑って掴めないような感覚だな」前半は俺の見解とも一致していた。
「しかし、普段と言動が変わらなさすぎてソロモン以外には見分けが付きそうにないな……、キミ、普段からそんな感じだったのかい、エミー?」
「そうだね。どちらかと言えば、アンドラスが俺に合わせたんだと思うよ」
バルバトスの問いに頷く。慎重なアンドラスは俺と融合するのに十五年を(メギドにとっては瞬きする間に過ぎ去ってしまう時間とはいえ)かけたのだ。俺と追放されたアンドラスの魂は、最早同一の存在と言っても過言ではなかった。
「ナラバ尚更、分離ナドシナイノデハナイカ? 融合ガ不完全ダッタノカ?」
「いや、少なくとも今までコイツがそんな素振りを見せたことはなかったぞ。もっと雑な奴らでも完全に融合しているんだ、それをよりにもよってアンドラスがミスをするとも思えんが」と、ネルガルとガープが首を捻る。
「あれはないか、アクィエルのときにソロモンが似たようなことをやっただろう?」口を開いたのはバルバトスだ。「他の魂が混ざった状態から、分離を待ってアクィエルの魂だけを召喚した。それと同じ原理で分かれた、とか……」
「だがそれも同じだ。今回は純正じゃなく追放メギドだぜ。ユフィールの理論でいけば、一度完璧にヴィータの魂とメギドの魂が統合されているはずだ。それが分離ってのはないんじゃないか? むしろ魂はアンドラスのままで、自認だけがエミーになっちまってる方がありうるだろ」とこれはフォラス。
途中まで議論を聞いていたソロモンが、「それって」と不安そうに口を挟む。
「それって、アンドラスが、心の底ではエミーとして――普通のヴィータとして生きたいと思ってたってことか?」
「いいや、それはないな」
俺は即座に否定した。疑問を封じ込めるように、ソロモンの唇に人差し指を押し当てる。
この心優しい少年の考えていることが手に取るようにわかる。
もしアンドラスが望むなら、軍団から解放してやるべきじゃないか――と。
「断言するけど、それはない。俺の記憶の大半を占めるのは、ソロモン、キミと仲間たちへの敬愛の感情だ。苦悩とか、後悔とか、そういうものはあまり感じたことがない」それに、と補足する。「ここにいれば幻獣も解剖し放題だしね。流石にそれは、エミーに戻った一般ヴィータの身分では難しい。だからエミーに戻りたかった可能性はないと思うよ」
「……」
確かに……と無言の揺るぎない納得が場を支配した。
問いを口にしたソロモン当人ですら、「そうだな……」と重々しく頷き、先程の疑問を一瞬にして払拭したようだった。人望だなあ、と俺は笑う。これも彼の築いた地位だ。
だからこそ一つ疑問が残る。
(……果たしてこれを一時的に手放してまで、やることだったのか、アンドラス……)
目を閉じて呼びかける。相変わらず返答はない。
「……しかし、キミはヴィータだと言うのに、感性が大分元のアンドラスに近いな……?」
「まあ、一度融合した仲だからね。解剖も好きだし」
そう、アンドラスの考えそうなことは大体わかる。
だから今回も、アンドラスが考えそうなことに心当たりがないではなかった。どうして俺と人格をシフトしたのか。けれど彼が納得した結果を得られなければ、無理矢理引き戻しても同じことだ。なら、好きにさせてやればいい。どうせ乗りかかった舟だ、最後まで付き合うさ。
結局その日のうちに結論は出ず、アンドラスの問題を解決すべく結成された集まりは各々の予定もあるためあえなく解散になってしまった。別に、今の状態の俺を放っておいても実害はないからしばらく様子見の判断は悪くないんだろう。バティンとユフィールが不在である以上、これ以上議論の進展も見込めない。
「俺はどうすればいいかな、ソロモン」
人の減った広間で、最後まで残っていたソロモンに訊く。
今の状態の俺がアジトにいることを好ましく思わないメギドもきっといるだろう。アジトの掟だ。ただのヴィータを連れ込まない。だから訊いた。俺は別に、アジトの外に拠点を持っているからそこにいてもいいけど。
ソロモンは驚いたみたいな顔をした。
「いや、今のオマエを一人にしておくわけにもいかないよ」
ソロモンは言う。掟ってそんなの、誰かが一緒にいれば文句も出ないだろ。確かにそうかもしれないし、「今は召喚ができないから、目の届く場所にいてくれないと不便だよ」と言われれば俺には断る理由もない。
「じゃあ、そうだな……とりあえず解決するまで、フラウロスが一緒についててやってくれないか」
突然振られた役割に、それまで我関せずの顔で側をうろうろと酒のつまみを物色していたフラウロスが風呂に入れられる猫のように「は⁉」と拒否反応した。「はァー⁉ んで俺がコイツの面倒なんざ見なきゃなんねえんだ嫌に決まってんだろこのクソバカアホヴィータ!」毛を逆立てて低レベル極まりない罵倒を並べる。
しかしソロモンは慣れたものだ。
「いや、だって、オマエがアンドラスの異変に真っ先に気付いたんじゃないか。アンドラス……じゃないや、エミーだって、気の利くヤツに側にいてもらった方が気が楽だろ」
気が利く、という一点には大いに疑問が残ったが、しかし俺としても側にいるのが彼なら色々と気を遣わなくても楽だ。とりあえず乗ってみる。
「そうだね。俺、キミが気付いてくれて嬉しかったな~」
「棒読みやめろ! それはテメェが俺に言われなきゃ隠し通す気だったからだろーが、お荷物抱えて戦えるかよ!」
「いや、どう切り出そうか迷ってただけだよ。キミが言わなくてもちゃんと言ったって」
「嘘くせーんだよテメェの笑顔はよ」
「ひどいなあ、キミも好きだろうに」
自分の頬をするりと撫でて笑う。彼との会話で、妙に気分の高揚を感じている自分を自覚する。それは、アンドラスの影響だろうか、それとも俺自身が抱き得る感情なのか。
俺は彼のことを、果たしてどう感じているのだろう。
「……まあでも、彼は嫌がってるみたいだし、俺は一人でも大丈夫だよ、ソロモン。一人でいても、アジトのことは大体わかるし」
「ほら見ろ、コイツもそう言ってんじゃねーか!」
「俺につけるのが勝手のわかるバティンや歳の近いレラジェじゃなくフラウロスってことは、今みんな忙しいんだろう? いいよ、妥協しようじゃないか!」
「いやどういう意味だコラ!」
「だってキミが俺を見張るなんて無理だろ」噛み付いてくるフラウロスをいなすように、わざとらしく首を傾げる。「この前、フルーレティも逃したそうじゃないか?」
「あれはアイツが逃げたのが悪ぃんだろーが」対するフラウロスは悪びれもせずにふんぞり返って言う。「……で? テメェも俺から逃げるつもりがあんのかよ」
「……俺にはなくとも、キミが目を離した隙にどこかへ行ってしまうかもしれないよ、という話さ」
フン、とフラウロスの鼻白む気配。
「……別に、テメェがどこへ行こうが俺の知ったことじゃねーし……ああ、けど貸してた五万ゴルドだけは返していけよな! アンドラスへの貸しはテメェへの貸しも同然だろ?」
うん? 何のことだろう。そんなの、アンドラスの記憶にはないけど……、と考えてからああ、と思わず破顔する。
「アハハハハ! フラウロス、俺は彼と記憶を共有してるって言ったろ? アンドラスはキミにお金を貸してないし、むしろキミの負け分が何回か解剖させてもらってもお釣りの出るくらいあるはずだけど……」それからはたと気づく。もしかして、彼はチャンスをくれてるんじゃないか? 「俺がキミを切ってもいいのかい……? それは俺にとっては僥倖だけど……ああ、いいね、今やろう、すぐやろう!」
「チッ、ダメか……つーかテメェヴィータでもそのキモい癖変わんねえのかよ!」
「ね、フラウロス、ちょっとだけでいいからさ。ね?」
「ね、じゃねー‼」
逃す手はないと逃げ腰のフラウロスに追い縋る。俺たちのやり取りを見ていたソロモンも、「よかった、問題なさそうだな」と満足げに頷いている。
「いやオメェどこに目ついてやがるクソヴィータ⁉ 大丈夫じゃねーだろどう見ても!」
「じゃあフラウロス、エミーのこと頼むな」
「はァー? いーやーでーすぅー!」
そのとき、ヌッと後ろから伸びてきた手がフラウロスの肩を抱き込むように捕まえた。俺の手から離れたフラウロスが、「ウオッ」とバランスを僅かに崩す。
振り返ると、ウァレフォルが満面の笑顔でフラウロスを見下ろしていた。それを視認した瞬間、ゲ、とフラウロスの表情が嫌そうに歪む。ウァレフォルの方は意にも介さず、ニコニコと酒でも飲んだかのように上機嫌だ。
目が一切笑っていないことを除けば。
「よお、フラウロス。立て込んでないなら丁度いい、ちょっとイポスとブネから声がかかっててな。哨戒に一緒に来い」
「あ⁉ ンで俺がそんなのに行かなきゃなんねーんだ……大体、メンツがオッサンとオッサンとオメェって完全に罰ゲームじゃねーか! 絶対にごめんだね」
「ほお……貴様がそんな口を利ける立場だったとはな」ウァレフォルの目が、すっと切れ味のいいナイフのように細められる。あ、これまずいやつなんじゃないか。フラウロスもそれにとっくに気付いていて逃げ出そうとするが首をガッチリと固められて動けない。「昨日、倉庫番をサボったのはどこの誰だったかな……? フォカロルがカンカンだったぞ、誰が代わりにやってやったと思う?」
「し、知るかよ。俺関係ねーし!」
なおも往生際悪く抵抗の意思を見せるフラウロスの首に絡められたウァレフォルの腕の筋肉が、硬く盛り上がるのが傍から見てもわかった。
「……で、だ。アンドラスの面倒を見ないなら、貴様は暇だし、来れるよな?」
「いや俺は……、ッ」
きゅ、とフラウロスの首が絞まった。
「来・れ・る・よ・な? ……だが私も鬼じゃあない。貴様に予定があるなら、仕方がないから今回は諦めるが……」
「ぐっ……」
フラウロスの顔色は青くなったり赤くなったりで忙しい。おいテメェ、ボケッと見てねえで助けろよ! と目配せを受けるが、いやあ、自業自得じゃないか?
フラウロスは、しばらくやめろこの牛女! と喚いていたが、やがておとなしくなって、「じゃーアンドラスについててやるよ……」と死にかけの声で渋々頷いた。