【再録】イオンクロマトグラフィー


7.レムデーカン


 イオンの死から、ひと月が過ぎようとしていた。
 イオンが死んでも、ダアトは驚くほど何も変わらなかった。導師が死んだというのに、まるで何事もなかったかのようにローレライ教団には絶えることなく信者が訪れ、神託の盾本部からは教義を説く声が聞こえ、ダアトの街には活気が溢れている。イオンが死んだことに、まるで誰一人気付いていないかのようだった。事実、一部の人間を除けばイオンの死を知る者はおらず、真実を知る者はただただ口を閉ざすのみだ。世界は、イオンが死んだことに気付いていないのだ。
 シンクは、そっと手にしていた花を石碑に添えた。
 ダアトを一望できる、小高い丘の上。冬の寒さで枯れた草木に埋もれるようにそっと佇む、石碑と言うにはみずぼらしいその小さな石には、ただ彼の名前と、生年と、没年が刻まれていた。シンクが自身の手で刻んだものだ。
 その間僅か十二年と少し。生まれて間もないシンクにとってその長さは未知のものだったが、一人の人間の一生の長さとしてはそれはあまりに短く思えた。

 シンクはその場にしゃがみ込み、さっと石碑を覆う枯葉を払う。ここ一ヶ月、暇を見てはこの場所を訪れ、花を添え、石が風化しないようせっせと綺麗にその状態を保っていた。任務も何も身に入らず、ただぼんやりと日々を過ごすのみだった。イオンがいた頃、一体自分は何を思い、何をして生きていたのだっただろう。胸にぽっかりと空いた穴を、木枯らしが容赦なく吹き荒らしていく。眠りにつくたびにこのまま目覚めなければいいのにと祈り、暗闇に思いを寄せ、しかしそのたびに夢の中で火山の臭い、死んだレプリカの濁った瞳、耳にこびりついて離れない「死ねばいいのに」を思い出す。そして目が覚めるとまた何事もなかったかのように朝が来るのだ。朝の陽光が、シンクには耐えられなかった。
 イオンが仮面を遺していったことは幸いだった。ただ日々を息をするためだけに過ごしている様を、誰にも見咎められずに済む。ただ一人、仮面の下を見抜いただろう人間はいたが、しかし意外にもヴァンは何も言わなかった。もしかしたら放っておけばそのうち勝手に死ぬだろうと、諦められていたのかもしれない。
 こんな墓参りの真似事をしても、何の意味もない。そのことは、誰よりシンク自身が一番よく理解していた。イオンの体を構成していた音素は、既に乖離し、音素帯に回帰している。この石碑の下には何もない。イオンが身に着けていた装飾品が数点埋めてあるのみで、それだって大して執着もなかっただろうものだ。この下には何もない。それでも、シンクは墓を作らずにはいられなかった。この丘の上にいるときだけは、不思議と胸にぽかりと抜け落ちた穴が埋まるようだった。

 ふと違和感を抱き、シンクは草木を払う手を止める。
 それは小さな花だった。乾いた土の上で、石に寄り添うようにそっと置かれたその束は、シンクが添えた覚えのないものだ。摘み取られてなお瑞々しさを失っていないそれは、どう見てもここに置かれて時間が経っているようには見えない。先客が来ている。
 シンクの背後に、影が落ちた。
「やはり、あなただったのですね」
「……アンタか」
 薄々、自分以外の客が来ていることに気付いてはいた。この場所のことは誰にも口外していないはずなのに、しばらく時間を置いて訪れても石碑がそれほど汚れていなかったり、シンクの覚えのない花が添えられていたりと、その予兆は以前からあった。よりにもよって、まさかコイツだとは思わなかったが。
 シンクはぎり、と奥歯を噛み締めて立ち上がる。
 振り返ると、果たしてそこには、自分と同じ姿形をした子供がそっと佇んでいた。導師服に身を包んだ、選ばれた子供。七番目のイオンレプリカ。
「彼の、お墓なんですね」
 そう言って目の前の子供が『導師イオン』の姿でそっと目を伏せる、その仕草がまたシンクの神経に障った。この『お墓参りごっこ』は端から見ればまったく意味のないものだ。それはシンクが一番よくわかっている。だからこそ、何も知らない無神経な他人に、まるでごっこ遊びのように気楽に立ち入られるのは心底我慢がならなかった。まして、自分と違い、イオンに必要とされ望まれて生まれてきた、この七番目のレプリカには。
「悪いけど、今はアンタと話す気分じゃない」
 言外に早く帰れと告げる。自分がさっさと立ち去るという選択肢はなかった。この場合部外者は相手の方だ、自分が立ち去る道理がない。しかし、レプリカはじっとその場に留まったままだった。「冷えるからさっさと帰りなよ」と今度はわかりやすく言い換えるも、その足が動く気配はない。
 業を煮やしたシンクが力尽くでもこの場から追い出そうとしたそのとき、その子供はようやく躊躇いがちにそっと口を開いた。
「その、僕がこんなことを言うのは筋違いなのかもしれませんが……ありがとうございます。彼の死を悲しんでくれて……」
「は?」
 一体何を言うのかと思えば本当にまったくもって筋違いも甚だしく、苛立ちのあまり目眩がしそうだった。何故こいつが謝るのか。何故こいつが、そんな風にイオンの死を我が物顔で語るのか。
「彼が死んでも、ダアトは何も変わりませんでした。まるで何事もなかったかのように、昨日までの日々が今日も続いている。誰一人、彼が死んだことに気付いていない……」
「それはアンタの所為だろ」苛立つ口調を隠しもせず、シンクは乱暴に断じた。「アンタが、偽の導師を演じてるから」
「……そうですね。僕がいたから、彼は誰にも顧みられないまま亡くなってしまった。僕が、彼の場所を奪ってしまったから」
 だから何なんだ。一体何が言いたい。迂遠な言い回しに、シンクは舌打ちをして足を踏み鳴らした。
 同時に気付いた。これは、このレプリカの懺悔だ。結果的にイオンという存在を殺してしまった、自分の存在への。
「でも、……いえ、だからこそ、こうして彼の死を悼んでくれる方がいて、実は少しほっとしているんです。少なくとも、彼を彼として見てくれる方がいるなら。彼は救われるんじゃないかって」
「……お前」
 懺悔だと、気付きはした。けれどそれが何だ? その口調、その態度、すべてが今のシンクにとって起爆剤にしかなりえなかった。怒りで頭に血が昇るのがわかる。抑えようとしたときには既に遅く、その言葉は多分の感情を伴って口から迸り出た。
「お前にあいつの、何がわかるって言うの」
 確かに、このレプリカはそういうことに幸せを感じるのかもしれない。自分を誰かの代用品としてではなく、自分自身であると見做されることが。だから同じように自分たちのオリジナルもそういうことに幸せを感じるだろうと、そう言うのか。死ぬその瞬間まで、あいつがどんな思いをしていたのかを知って。
「救われた? 本当に救われたと思うのか? あいつを本物だと知っていて、だからなんだって言うんだ。そんなもの、何の価値もありはしない。お前にわかるのか、あいつがどれだけ苦しんでいたのか、預言に振り回されたあいつがどれだけ絶望しながら死んでいったのか!」
 七番目の子供は、ただ黙ってじっとシンクを見つめるのみだ。その緑の目の中には、憂いのようなものがあった。シンクは気付いてしまった。これは、ボクの懺悔だ。
 シンクが発した言葉は、そのまま自分に返ってきて、シンクの心臓を潰しにかかった。じゃあボクにはわかっていたのか。イオンがどれだけ苦しんでいたのか。直前までイオンに忍び寄る死の影になど気付きもせず、脳天気にイオンの側で過ごしていた自分に、誰かを責め立てる言葉を口にする資格などあるはずもなかった。責められるべきは、自分だ。
「何かあいつを救う、もっとマシな方法があっただろ……!」
 それでも、堰を切った言葉は止まらなかった。七番目のイオンは責めるでもなく、なじるでもなく、ただじっとシンクの慟哭を聞いていた。

「預言は、あくまで可能性のひとつであるべきだと、僕は思うんです」預言に詠まれていない、僕たちの存在がその証明です、とイオンは言う。「彼はそれに、振り回されるべきじゃなかった」
「でもその通りにイオンは死んだ。……あいつは犬死にだった。預言がなければ、もっとマシに死ねたかもしれないだろ。預言がなければ、」
 ……預言さえなければ。
 はっと顔を上げる。目の前では同じように七番目のイオンがはたと何かに気付いたように目を見開き、偶然にも二人で目を見合わせる形になった。緑色の瞳が揺れる。
「……ああ。そうか。そうだね」
 そうだ。ボクは一体何を呆けていたんだろう。七番目のイオンから視線を剥がし、強引に踵を返す。
「待って下さい。どこへ……」
「帰る。アンタも代用品とは言え『導師』なら、一人でこんなところをふらふら出歩かない方がいいんじゃないの」
 ざくざくと枯葉を踏みながら丘を下る。ざくざくざくと、背後からもうひとつ足音がついてくる。ついてくるな。その言葉の代わりに、シンクは乱暴に告げた。
「もうここには来ない」
 七番目のイオンが、一瞬息を呑む音がした。
「僕が来たから……ですか」
「いいや。もう必要がなくなったからだ」
 それだけ告げて、シンクは歩く速度を上げる。後ろは振り返らなかった。拙い足音は段々遠くになり、終には聞こえなくなってしまう。と、「シンク!」と強い声が聞こえた。
「僕は! 僕はイオンとして、代用品としての役割を果たします! 彼として生き、彼が死ぬという預言を覆す。……あなたは不快に思われるかもしれませんが、僕は僕なりに、星の記憶に抗ってみるつもりです!」
 七番目のイオンの決意を背に受け、シンクは自然と自分の口角が上がるのがわかった。甘い。預言は可能性のひとつであるべきだとお前は言う。なら、イオンが死ぬという可能性を生み出した預言を、お前は許容出来るのか。イオンを殺した預言の存在を。
「……いいや。預言なんてものがなければ、あいつがあんな思いをする必要はなかった」
 自分が死ぬなどという預言に囚われ、自暴自棄になって、自分のレプリカまで造り出し、そうまでしても運命に抗えなかった絶望を抱きながら死ぬ必要などなかった。
「ボクがこんな思いをする必要もなかった」
 ただ星の記憶のみを頼りに進むこの世界で、死にゆくイオンに何をしてやることもできず、イオンにとっての何にもなることもできず、ただこんな何の意味もなく呼吸を繰り返すだけの馬鹿みたいな生を受ける必要などなかった。

「だったら、ボクがやることはひとつだ」
 シンクは奥歯を噛み締め、ある一つの決意をする。仮面の奥の目が、再び生きる気力を取り戻したかのように滾った。
「こんな世界、預言ごとぶっ壊してやる」

 イオンが恨んだ世界を壊す。それがイオンへの、せめてもの餞だ。シンクはその決意を噛み締めながら、ゆっくりと丘を下った。
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