【再録】イオンクロマトグラフィー


6.ローレライデーカン


「はー……」
 中庭に集まった第二師団の兵士たちを前にして、シンクは盛大な溜め息を吐き出した。今日は師団の指揮を補佐する任務だ。幸い誰もシンクの溜め息に気付いた様子はなく、何事かと聞いてくる者もいなかった。いたら八つ当たりで殴っていたかもしれない。
 アンタが死んだら、ボクは一体どうすればいい。
 ボクみたいな出来損ないに、わかるわけない。
 あれからイオンとは顔を合わせていない。この上なく顔を合わせ辛かった。どうすればいい、なんてみっともなく縋ってしまった。記憶の中のイオンの言葉が突き刺さる。「知った事か」。至極簡潔な正論だった。死ぬ、と預言が詠まれたのはイオンで、その預言に一番痛みを感じているのもイオンであるはずだった。誰しも死にたくないに決まっている。そんな病人に「どうすればいい」と縋り、あげく自分はわかるわけがないと切り捨てた。それにあの喀血。イオンが死ぬなんて、考えただけで自分が自分でなくなってしまいそうで、しばらくイオンの顔は見たくなかった。
「どうしたんです、シンク? 浮かない顔をして」
 いきなり顔を覗きこんできた眼鏡に拳を叩き込もうとするが、今度はひょいと避けられる。チッ、素早い。目の前の師団の師団長であるところのディストは、シンクの拳を回避出来たことに気を良くしたのか、座っていた椅子をくるりと一回転させた。
「アンタの師団と任務とか、魔物と間違ってアンタの方を捻り潰しちゃいそうだなと思ってね」
「あなた怖いんですよ! 確かに『調整』と称してちょーっと乱暴しましたけど、それで結果的に強くなったんだからいいじゃありませんか」
「よくないよ。お陰でこっちは死ぬかと思ったんだ」
 それでもこうやって軽口を叩けるくらいには、ディストのことは許せるようになっていた。あの研究室での拷問のような苦痛さえ、今では必要なものだったと思っている。だから、イオンのことを恨む気持ちはとうの昔に失せていた。まして、イオンの死について、積極的に肯定する気にはならない。
 だったら、どうすればいいんだ。寄る辺なく見上げた空は寒々しく澄んでいて、シンクはもう一度大きく溜め息を吐き出した。
 突如、ぞわ、と背筋が逆立った。同時に、体のすべての音素がざっと心臓から離れていく感覚。咄嗟に自分の体を抱き締めるように押さえ付ける。酸素が切れて呼吸が荒くなり、足が体を支え切れなくなったのかがくんとその場に崩れ落ちる。
「ぐっ……」
「ちょっとシンク、なんです急に。大丈夫ですか? まるで今にも音素が乖離してしまいそうな酷い顔をしていますよ。まさか、あの死にそうなオリジナルと同調したわけでもないでしょうに」
「……。ディスト。悪いけど、今日の任務一人で行ってくれる」
「ええっ!?」
「その代わり、任務失敗して帰ってきたらぶっ飛ばすよ」
「いや、『その代わり』の意味がわかりませんよ!?」
 動けなかったのは少しの間だけだった。その衝撃を引きずりながら、シンクは神託の盾本部の建物に飛び込み、導師の執務室の扉を叩き割る勢いで開け放つ。
「イオン!」
 イオンは部屋の中央で執務机に向かって座っていた。その手に羽ペンを持ちながら、急な来客に怪訝な顔をしている。その脇にはモースがいて、同じく渋面を示しながらシンクのことを睨めつけていた。執務中? 胸騒ぎは気の所為だったのか?
 ――いや、違う。
「お前じゃない!」
「待って、待って下さいシンク! 今の感覚は、やはりあの人が危ないのですか……」
 事は一刻を争うのだ。シンクは縋りつく声を捨てて執務室を飛び出し、イオンの私室へ向かった。私室が位置するのは神託の盾本部の最上階だ。階段を昇ることすらもどかしくて、シンクは手近な窓を叩き割り、窓枠を蹴って一気に上階へと飛び込んだ。
 イオンの私室があるフロアに立つと、見覚えのある人影が扉の前に立ちはだかっていた。
「退け、ヴァン!」
「ここは立入禁止だ。……そういう命令だからな」
「だったら、力尽くでも押し通る!」
 シンクは体のバネを活かして跳躍した。横薙ぎに払われた剣を蹴り、ヴァンの懐へ飛び込む。と、第一音素の収束を目の端に捉え、シンクは咄嗟に横の壁を蹴って体の軌道を修正した。一瞬遅れ、シンクがいた場所で第一音素が爆発を起こす。周囲の壁が巻き込まれて四散し、風に煽られシンクの仮面が剥ぎ取られた。ネガティブゲイト。中級譜術を、それも詠唱なしで。
「……驚いた。手加減なしか」
「すると思ったか?」
 ヴァンが笑う。無論、この男がそんな生易しい真似をするはずもなかった。シンクは一旦距離を取り、手先に音素を集中させる。長期戦は不利だし、何よりそんな時間はない。勝負は一瞬だ。
 剣を正眼に構えるヴァンの懐に、再度跳躍して飛び込み、拳に譜力の限りを乗せて叩き付ける。しかし、それはいとも簡単にヴァンの剣に受け流されてしまった。廊下の壁に沿って幾度かの剣と拳の攻防を交わした後、横に回り込み、反対側の壁を蹴った勢いを乗せて男を殴り付ける。ガッと拳に伝わる金属の重み。またも剣で受けられる。
「甘い!」
「『慈悲深き氷霊にて、清冽なる棺に眠れ』……」
 ヴァンがはっと足元を見た。その先には、先程の中級譜術で溜まった第一音素が譜陣を形成している。ヴァンは咄嗟に後ろに飛び退ろうとするが、壁に邪魔されて敵わない。
「フリジットコフィン!」
 シンク相手ならば譜術はないと踏んでいたのだろう、がら空きだった足元を凍らせる。ガチ、とヴァンの足が鈍った。
「……くっ」
 稼げる時間はもって数秒、しかしそれで十分だ。今の目的はヴァンを殺すことではない。
「イオン!」
 シンクは門番を飛び越え、ばん、と私室の扉を開いた。

 部屋の中は無音だった。窓が開いており、風を受けてカーテンがさらさらと揺れる以外は、酷く静かだった。生き物の気配すらも、まるでないようだった。
 ベッドの上に、探し人はいた。
「悪い子だな、シンク。立入禁止の看板が見えなかったか?」
「生憎、そんな文字が読めるほど教養がなくてね」
 扉を閉め、乱暴にベッドに歩み寄る。念のためにバリケードでも張っておこうかとも思ったが、どうやらヴァンは追っては来ないようだった。シンクはベッドの傍らに寄り添う。久しぶりに見るイオンの顔は、前に見たときよりもひどく窶れていた。
「正直、お前の顔は見たくなかった」
 お前が憎くてたまらないから、とイオンはゆるゆると笑った。攻撃的でないはずのその笑みに、何故だかシンクの胸が締め付けられるように痛んだ。シンクは思わずその名を呼ぶ。
「イオン」
「お前はこの先、体に何の不自由も持たず、預言に縛られることもなく、自由に生きるんだろう。羨ましくて、妬ましくて、たまらないよ。……殺してやりたくなる」
「……自業自得だよ。この馬鹿。だったら、ボクなんか生み出さなきゃよかったんだ」
「はは。違いない」
 ボクみたいな不要ものの出来損ないを造り出して、それで自分が死んでいたら世話がない。
「いいんだ。もう諦めた。アリエッタのことも。生きることも。あがいてみたけど、駄目だった。実はさ、お前たちを作ったのは、心のどこかで預言が外れるんじゃないかって、ちょっと期待してたんだよな。『イオン』の身代わりを置いておけば、死ぬのはそっちなんじゃないかってさ……」
「ねえ、最後なんならアンタの言うこと何でも聞いてあげてもいいよ」
 イオンの口から弱気な言葉を聞きたくなくて、シンクは強引に話を逸らす。シンクの申し出に、イオンは少し笑って、「だったら僕の代わりに死んでくれよ」と呟いた。その言葉に、シンクは己の無力さを噛み締める。そんなこと、出来るものならとっくにやっているのだ。イオンの代用品になれるくらいなら、とっくに。目を伏せて「代わりにはなってやれないけど、心中ならしてあげる」と提案すると、シンクのオリジナルは「冗談だよ」と目を細めた。
「死なないでよ。アンタがいないと、ボクが困る」
「ざまあみろ。僕がいなくなって、精々困るといいさ、五番目」
 そう言って、ひっそりと花が咲くように笑うのだ。そんな顔は見たくなかった。シンクの知っているイオンは、もっと尊大で、図々しくて、にやりと悪どく笑う、そんなイオンのはずだった。

「ああ……死ねばいいのに……」
 ぽつりと呟かれたその言葉は、窓から差し込む陽光にうっすらと溶けて消えた。イオンの目は茫洋と焦点を捉え損なっていて、ああ、今彼の意識は火山にあるのだとシンクは直感した。体をじわじわと焼かれ、内側から煮え立つ感覚を抱きながら、死の足音を聞いているのだ。
「皆死ねばいいのに。なんで僕だけがこんな目に遭って、他のクズ共がのうのうと生きてられるんだ? 僕が何か悪いことをしたか? こんな世界、どいつもこいつも皆死んでしまえばいいのに。預言なんて、滅びてしまえばいい。ローレライ教なんて、糞食らえだ」
「イオン」
 シンクは咄嗟にその手を握る。火山にいるのなら、だったらあのときのように、シンクもイオンを救いたかった。この腐ったゴミ捨て場のような世界から、イオンを救い出したかった。「返事しなよ、ねえ」けれどその声はもう聞こえていないようで、イオンから返る応えはなかった。握ったイオンの手は、ひどく冷たい。
 イオンの体が薄ぼんやりと発光を始める。音素の乖離だ。何度も目にしたことのある光景に、しかしシンクは酷くうろたえた。こうなってしまっては手遅れだということを、知識では理解していたが頭が追い付かない。どうすればいい、とひどく取り乱して止める術を探すが、考えたところでどうすることも出来なかった。
 まだ目は見えているのだろうか。焦点をはっきりと結べないのか、ぼんやりと開いているのみの緑の瞳がシンクに向けられる。
「……自由に生きられる、お前が羨ましいよ。シンク」
 その言葉が、シンクの胸を刺す。自由に生きる? 何を言っているんだ。アンタの代用品にもなれない、今苦しんでいるアンタを救うことも出来ない。生きる意味を何も持たずに生まれてきたボクの生が、今まさに生きる意味を失いつつあるボクの生が、羨ましいわけがないだろう。
 けれどその言葉を、死にゆく者に投げかける勇気は、今のシンクにはなかった。
 腕の中のイオンの音素が、次々と乖離していく。シンクはただ失いたくない一心で、その消えそうな体を必死に掻き抱いた。

「ああ……死にたく、なかったなあ……」
 イオンが遺した言葉は、最期まで世界を呪う言葉だった。
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