【再録】イオンクロマトグラフィー
5.ルナリデーカン
神託の盾本部の建物は、その権威を示すためか無駄に広いというのがシンクの抱いた印象だった。廊下一つ取ってもその天井はひどく広大だ。どこかの建築家が手掛けたデザインらしく、たかが廊下と言えどその装飾は威圧感を感じさせるほど荘厳な雰囲気を醸し出していた。シンクには何の感慨もないが、その雰囲気に圧倒される兵士も多く、私語が目立つような場面は見たことがなかった。今日の今日、アリエッタに泣きつかれるまでは。
「アリエッタ……イオン様に嫌われた……」
「は?」
「うっ……うわあああん!!」
いきなり現れたかと思えばタックルにも似た動きでしがみつかれ、シンクは反射的に繰り出そうとした掌底破を必死に押さえつける。相手は女子供、相手は女子供。そう自分に言い聞かせ、なんとか心を落ち着ける。一応味方であるという認識は持っているが、こんな風に不意を打たれては咄嗟に攻撃しない方が難しい。
聞けば、つい先程イオンから導師守護役を解任されたらしい。およそ泣き声のみしか発さないアリエッタを宥めすかし、辛うじてそれだけの要点を聞き出す。一体何事なのかと思えば多大な労力に反して下らない情報しか得られず、シンクは額を抑えて嘆息した。まったく、心底馬鹿らしい。
「いい加減泣きやみなよ、いい年して恥ずかしい。て言うか、アンタまだ導師守護役だったんだ? 今までアンタみたいな役立たずが導師守護役にいられた方が不思議だったんじゃないの。茶汲みもまともにできないじゃない」
「そんなことないもん! シンクのばかぁ!」
結果、泣き声が喚き声に変わって更に廊下に響き渡ることになり、シンクは頭を抱えた。時々通りすぎる兵士たちが、一体何事かという風に視線を寄越してきては逃げるように立ち去っていく。シンクだって一刻も早く逃げ出したかったが、あいにく服の裾はがっしりとアリエッタに捕捉されており、身動きが取れない状態だった。こっちが泣きたい、と思いながら、シンクはひとつ疑問を抱く。
あのイオンが、自分で拾ってきて導師守護役に任じるほど気に入った女を、果たしてそう簡単に手放すだろうか? あれでいて独占欲は強いうえに、「お前のものは俺のもの」を地で行くような性格だ。お気に入りの可愛い人形を、自分の管理下から外すことはおろか、他人に触らせることも他人の目に晒すことも嫌がりそうなものだが。
「あいつの選んだ導師守護役だったんなら、あいつがアンタを理由もなく嫌うはず、ないと思うけど……」
「それはどうでしょうねえ」
何の脈絡もなく唐突に現れたディストに、シンクは今度こそ反射的に掌底破を食らわせた。腹に一撃を受け、ぐふっと妙な声を上げて倒れ込むディスト。続けざまに眼鏡も叩き割ろうとしたが、ディストは一瞬早く何事もなかったかのように立ち上がった。しぶとい。
「んっふっふ……。導師イオンはご自分の死期をご存知になられてからというもの、ご乱心だとの噂ですからねえ。今までご執心だったものに、ある日突然飽きたり……なんてことも、なきにしもあらずなのではないですか?」
「ディストのばかっ! なんでそんなこと言うの!? イオン様は死なないもん!」
喚き声をほぼ雄叫びに変え、アリエッタはディストに飛び蹴りを食らわせて逃走を開始した。ぐえっと蛙が潰れたような音を出してその場にしゃがみ込むディストだったが、自分が何を言ってしまったのかを一瞬遅れて理解したのか、「ああっ、今のはそんなつもりで言ったのでは……待ちなさいアリエッタ! あなたは飽きられてなんていないですよ~!」と間抜けな声を上げながら後を追おうとする。シンクはその足を、脛を蹴る勢いで思い切り引っ掛けた。べしゃっと顔面から倒れるディスト。
その襟首を乱暴に掴み上げる。
「どういうこと」
「はっ、えっ、なんです、ちょっと絞まってますよシンク首絞まっ……ぐるし……!」
「死期が近いって、どういうこと」
自分の声がやけに切羽詰まって聞こえた。目の前がぐるぐると不安定に揺れる。ぼやける視界の中で、ん? と考え込む素振りをしていたディストが、はっと息を呑む音がした。
「し、しきが近いというのはつまりですね……あっ、そう! 式です! 結婚式が!」
「死にたいの」
「わかった、言います、言いますよ! だからその手をお放しなさい! と言うか、何故レプリカのあなたが知らないのです!」
もう一度べしゃりと床に落とされたディストは、痛みに呻いた後、精一杯忌々しげにその言葉を吐き出した。
「導師イオンはもうすぐ死ぬと、そう秘預言に詠まれているんですよ!」
「どういうことだ」
激情のまま怒鳴り散らしたい衝動を抑え、シンクはイオンの私室の扉を力いっぱい蹴り開けた。蝶番が弾け飛ばんばかりに扉が跳ね、がらんどうの廊下にまで派手な音が響き渡る。しかし当の部屋の主は動じることもなく室内でティーカップを傾けており、怒り心頭といった様子で部屋に入ってきたシンクにも、「物はもっと丁寧に扱えよ」と注文をつける以外の反応は特にこれと言って示さなかった。
常のシンクであれば「物は丁寧に扱え」などという至極常識的な言葉が日頃から自分をこき使っている独裁者から飛び出したことにまず耳を疑い、次に「アンタが言うなよ」と精一杯の嫌味を込めて言い放っただろうが、今日は事情が違っていた。ずかずかと部屋へ上がり込む。部屋の中では、窓から差し込む朝の日差しが導師をいっそ神々しいまでに照らしていた。いつも通りの、まるで彼が世界に祝福されているかのような光景だ。胸糞の悪い噂など耳にしていなかったら、今日が安息日だったに違いない。
「どうした、シンク。毛がブウサギのように逆立ってるけど?」
ふわふわとした地に足のつかない笑みが腹立たしく、シンクはイオンの胸倉を掴み上げ、椅子が倒れるのも構わずその華奢体を壁に叩き付けた。がしゃん、とカップの割れる音がする。イオンの服にびしゃりと大きな染みが出来た。イオンの肢体はシンクの目算よりも存外軽く、まるで人形のように勢い良く壁に跳ね返る。
「……飼い主に向かって、随分と乱暴だな。分を弁えろよ、死にたいのか」
その脅迫めいた言葉とは裏腹に、イオンの目は伏せられたままだった。睫毛を震わせて、紅茶がじわじわと自分の胸元に染みゆく様にじっと視線を注いでいる。前髪に隠れて、その表情は上手く読み取れない。
「うるさい、いいからボクの質問に答えなよ。一体これはどういうことだ。アンタが死ぬとか、一体何のデマかって聞いてるんだよッ!」
それまでじっと堪えていたものが、抑え切れずに溢れ出す。死ぬ。その言葉が、現実味を持ってシンクの背筋を撫で上げた。死ぬ、ということはつまり、火山でシンクがずっと傍らに感じていた、あの昏く冷たい影に飲み込まれてしまうということだ。死んだレプリカのように、体を焼かれて生気を失ってしまうということ。光を失い茫漠とした目を思い出し、シンクは気持ちの悪い薄ら寒さを抱いた。死ぬってどういうことだよ。アンタがあんな風に死ぬわけないだろ。早く否定しなよ。頼むから、否定してくれ。
「……? ああ」
しかし、シンクのその言葉を聞いたイオンは相変わらず落ち着いた態度のまま、紅茶の侵食が収まったところで視線を上げた。その目の中には、何の感情も浮かんでいない。ただゆらゆらと、緑色の光が漂っているのみだった。
そうして口にしたのは、シンクが一番聞きたくない言葉だった。
「なんだ、今更聞いたのか」
やめろ、とシンクは叫んだ。ひどく笑えない冗談だった。そんな、さも自分が死ぬことが当然であるかのように。よりにもよって、イオンにそんな馬鹿みたいな話を認めてほしくなかった。いつも傍若無人で、自分こそが法のように振舞っているイオンに、そんな軽々しく、荒唐無稽な話を肯定してほしくはなかった。
「なんだよ、それ……。アンタが死ぬとか冗談でしょ、ねえ……。なんでそんな冷静なんだよ……ッ!」
皮肉を込めて笑おうとした頬が引きつって動かない。信じられなかった。今でもこんなに元気なはずなのに、何故。
そう思って改めて見たイオンの体は、ひどく華奢で小さかった。
シンクは愕然とする。手足は病的に細く、頬の肉も落ちている。やせ細っている、という形容詞がぴったりだった。自分が何故今までこれを『元気だ』と信じ込んでいたのか、不思議なくらいだ。手を離せばその体はいとも簡単に崩れ落ち、けほ、と掠れた咳が漏れ出た。
「やれやれ。この間、お前が自分で言ってたんじゃないか、『どうしてボクらを造ったんだ』って。どうして身代わりに似た子供じゃなく、レプリカが必要だったんだって。それから何も考えなかったのか?」
つまり、身代わりじゃなくて『導師イオン』そのものが必要だったんだよ。イオンの言葉にシンクの心が冷えた。最初から、そのつもりでボクたちを造ったのか。自分が死んだ後のために。
そんなシンクの心中を知ってか知らずか、当のイオンは緩く笑む。いつもの冷笑の中に一瞬の慈愛めいた微笑みを垣間見て、シンクの全身が総毛立った。
「そう、僕は死ぬのさ。十二の年に」
「……じゅう、に?」
今何歳だ。
「驚きだろ? 前導師のエベノスっていうクソペド野郎が、僅か七歳の幼気な子供にご丁寧にも見せてくれやがったんだよ、よりにもよってその子供が病で死ぬ預言をな。まったく、それから僕の人生は踏んだり蹴ったりだ。あのクソ野郎、今度会ったら本当にぶっ殺してやりたい」淡々とイオンは一息にそう言い切った後、「……まあ、もう死んでるんだけど」と無造作に付け加えた。
「でも、だって、導師が死んだら大騒ぎになるだろ」
「だから代わりがいるんだって。お前も見ただろう? 誰も僕が死んだことになんか気付かない」
「……アンタは」
思考が停止して、考えがまとまらなかった。信じられなかった。何よりも他人の言いなりになることを嫌いそうなイオンが、自分が死ぬなんて預言を、こんなにも容易く受け入れているなんて。
「アンタは、それでいいの」
絞り出すような声に、あは、とイオンが笑った。
「可愛い可愛い僕のレプリカ。いいも悪いもないんだよ。いいか。世の中は、預言に詠まれているかいないか。それだけだ。星の記憶に従うだけ。そこに僕の意志は必要ない」
信じきっていた絶対性の、突然の崩落に力が抜ける。緩んだシンクの手元から、イオンがひらりと逃れた。
「そうかっかすることもないだろう。僕が死んだら、お前にとやかく言う人間もいなくなる。ダアトを出てもいい。お前は自由だ。もっと喜べよ」
そう宥められて、イオンがいなくなった後のことを想像する。何にも縛られず、自由に生きる。それはまるで、真っ暗な夜道で標を失うかのようにひどく心細かった。一体自分がどこに行って、何をすればいいのか、皆目検討がつかない。イオンなしで生きていく自分が、まるで想像できなかった。
「アンタが死んだら、ボクは一体どうすればいいのさ……」
「知った事か。預言の通りに生きるのは馬鹿みたいだと、言ったのはお前だぜ、シンク。なのに僕に教えを請うてどうするんだ?」
シンクは火口に突き落とされるような感覚に襲われた。ボクは一体どうすればいい。それほどまでに、イオンの喪失は恐ろしかった。イオンが死んだら、自分を生み出したこの子供が死んだら、今度こそ本当に生きる意味を失ってしまう。
「あの女はどうするのさ」
「女?」
「アリエッタ」
縋るような思いでその名前を口にした瞬間、ぐるりと視界が反転した。何が怒っているのか認識する間もなく、背中に衝撃を受ける。かはっ、と気道を通る空気が圧迫されて押し出された。イオンに渾身の力で壁に叩き付けられた、と認識したのは数秒後だ。
「誰から聞いた」
何を。聞こうにも、気道をぐっと塞がれていて声が出ない。
「だったらどうしろって言うんだ」
イオンがいつになく声を荒げる。それはシンクが初めて見る、イオンの激高する姿だった。
「だったらどうしろって言うんだ、僕に! そりゃあ僕だって生きられるものだったら生きたいさ! 当たり前だろう! けど預言によればどうやら僕は死ぬべき人間らしい、死ぬべきなんだ、死なないといけない人間なんだ! わかるか!? 生きることは許されない! 僕は! 生きてたら! いけないんだよ!!」
それだけを一息に言い切って、ぜいぜいと肩で息をしながら、イオンの体はずるりと崩れ落ちた。げほげほと、口に手を当ててしゃがみ込む。シンクもつられて跪き、イオンの体を抱き締めた。導師服に染みた紅茶がじわりと二人を濡らした。そうして支えたイオンの体は、ひどく白くて、冷たかった。
「まったく糞ったれな宗教だよ……なあ、シンク」
口元を手で抑えたままの、蚊の鳴くような小さな声が聞こえた。
「僕に、どうしろって言うんだ。僕はどうすれば、正解だった?」
彼は容易く死の預言を受け入れているわけではなかった。一番受け入れがたいのは当然イオンであるはずだ。何年も苦しみ、どうすることも出来ず、そうして諦めるしかなくなってしまった。薄暗さを湛えた目に耐えられずに、シンクは顔を逸らす。
「……ボクみたいな出来損ないに、わかるわけないだろ」
そんな苦しみを前にして、シンクは答えを出さずに逃げた。自分が生きることに精一杯な現状で、他人のことなどわかるはずもなく、他人のことまで背負い込む余裕があるはずもなかった。
「……そうだな。お前に聞いた、僕が馬鹿だったよ」
冷えた言葉が鋭くシンクの胸を刺した。シンクが動けずにいると、イオンは何事もなかったかのように立ち上がり、ぱん、と導師服を払った。その顔には先程までの影はなく、まるきりいつも通りのイオンの顔だった。不自然なくらい、いつも通り。
手で払った導師服に、べったりと血が付いていたこと以外は。
「イオン!」
「大丈夫だよ。今回のは、命に関わるやつじゃない」
シンクは構わずイオンの両手を捕まえる。その白い両の手の平も、泡立った血で赤く汚れていた。イオンは笑顔を浮かべたままだ。先ほど咳き込んで口元に手を当てていたときか、とシンクは混乱する頭の中でそれだけを辛うじて認識する。次に口から飛び出たのは、自分が聞くのを一番恐れたことだった。混乱のあまり、恐怖心が麻痺していたとしか思えない。
「アンタ、今、年、いくつ」
先程の激昂はどこへやら、イオンはよくぞ聞いてくれましたとばかりににんまりと満面の笑みを浮かべて言った。
「十二」
「じゅう、に」
そう口にする言葉が掠れた。急速に喉が水分を失っていくのがわかる。それはつまり。
「そう。正確には、十二と六十日ちょっとだ。お前もこれが一応自分の外見年齢になるんだから覚えておけよ。……さて」
「一体僕はあと何日生きていられると思う?」
楽しみだろ? そう笑うイオンの声は、どうしようもなく渇いた血の味がした。
