【再録】イオンクロマトグラフィー


4.シルフリデーカン


 廊下の先から聞き慣れた声がし、シンクはぴたりと足を止めた。
 そう長い廊下ではない。大きな窓から日が差し込んでいて、シンクの足元を照らしていた。その直線上には誰もいない。突き当たりを右に曲がる一本道の造りの廊下で、声が聞こえてくるのはどうやらその奥からのようだった。
「……わかっています。はい。……はい」
 頷く声は紛れもなくイオンのものだったが、その調子があまりにも殊勝でいじらしいものだったので、つい余計な好奇心を抱いてしまった。あの、鷹揚が服を着て歩いているようなあいつでも、あんな風に大人しくなる相手がいるのか。それだけが妙に気になって、シンクは息を殺して気配を消し、様子を伺うことにした。
 柱の影にそっと身を隠し、廊下の先を覗き込む。
 イオンはこちらに背を向けており、シンクにはまったく気付かないようだった。そのイオンに怒鳴りつけるように言葉をぶつける男がいた。確かあいつ、モースといったか。こちらもイオンを詰るのに必死で、シンクに気付いた様子はない。シンクは軽く舌打ちをした。これがヴァンだったら、シンクが柱の陰から覗き込んだと同時にこちらに一瞥をくれていただろう。それがあの無能ときたら、こちらに気付くことすらしない。あのモースとかいう男は、とてもイオンに説教を垂れることができる器とは思えなかった。
「先代の導師であるエベノス様は偉大でいらっしゃった。それに比べてアナタはまるでなってない。なんですか、今日の礼典は」
「……」
 苛立ちをそのままみっともなく吐き出したような説教に、イオンは身動ぎもせずにじっと黙ったままだ。端から聞くシンクにもわかるほど、モースの言葉には内容も何もなく、ただ弱者に八つ当たりをしたいだけの趣旨が見て取れた。そもそも、あいつも何故黙って話を聞いているんだ。あんな男、あいつの最も嫌いそうな人種じゃないか。いつもならば「モース」と一声で黙らせているところだろう。目の前の光景がなんとなく面白くなくて、シンクは歯噛みする。あんな男、さっさと急所でも蹴り飛ばしてやればいいのに。
 それにしても、とシンクは首を傾げる。あのモースとかいう男、どこかで見たことのある顔だ。いや、何度かイオンの傍らに構えていたことは覚えている。ライガの威を借るウルフのようにデカイ面をしていた男だ。しかし、それ以上の遠い記憶が刺激されるようで落ち着かなかった。どうせ気付かれないならば、とシンクは思い切り身を乗り出してじっと見据える。
 そして、気付いてしまった。
 ……あの男。ボクを廃棄した男か。
 ぐつり、と腸が煮えくり返る音がした。溶岩の音にも似たそれは、純粋で明確な殺意だった。火口に蹴り落とされたときの、あの人を嘲るような笑いが記憶の底から蘇る。殺してやりたい。
 湧き上がるその感情を、シンクは必死に抑え付けた。イオンにも何か考えがあって、黙っているのかもしれない。ならば自分がそれを邪魔するわけにはいかない。イオンの妨げに、なってはならないのだ。

 モースが立ち去ったところを見計い、柱の陰を離れる。廊下の造りが堅牢な石畳でよかった、とシンクは己の幸運を噛み締めた。もし木材だったら、怒りのあまり床を踏み抜いていたかもしれない。怒りでぎらついているであろう今の表情をが見えないよう、そっと仮面を確認する。大丈夫だ、ちゃんと付けてる。
「ふう……。なかなか、上手くいきませんね」
「お前」
 背中に声を投げつけた。びくり、と震えるその華奢な背中に、どこか違和感を持つ。声をかけたところで気付いた。何かが違う。
 案の定、振り返ったイオンはイオンとは似ても似つかなかった。
 同じ顔、同じ形、同じ声。
 けれど、その個体がまとう性質は、まったくと言っていいほど真逆に見えた。柔らかい物腰、弱々しげな微笑み、頼りない立姿。窓から陽光がこぼれ落ち、その体躯を照らしだす。その光の中において、何よりあの圧倒的な存在感が、この子供にはなかった。
「あなたは?」
 シンクは本能的に理解した。『これ』はあいつではないのだ。自分と同じく、造られたイオンレプリカの一体。そういう存在がいることをすっかり忘れていたとは言わないが、火山を出てから見かけなかったので意識から抜けていたのは事実だ。他の体が廃棄される中、目の前の素体だけがのうのうと生き延びていたこと、自分がその代用品より劣っているとされたことが今更思い出されて、シンクの劣等感をひどく刺激した。
 探るような目をしていた目の前の『イオン』も、はっと僅かに息を飲む。自分と目の前の仮面の子供との関係性に、薄々思い当たる節があったのかもしれない。
「人に名前を訊くときは、まず自分から名乗るべきじゃないの」
「……そうですね。無礼をどうぞお許し下さい」
 す、と優雅な所作で一歩下がり、『イオン』は淀みなく礼をした。
「僕はイオン。ローレライ教の、導師です」
「あっそ。ボクはシンク。導師イオンの、お付きの者だよ」
 シンクは頭を下げなかった。『イオン』のつむじが見えた。オリジナルと同じ形をしていた。
「そうですか。よろしくお願いします、シンク」
 頭を上げた『イオン』がにこりと笑う。お互い何も知らない振りをして、白々しく挨拶を交わす。
「あの……」
「ああ、導師イオン! こんなところにいらしたのですか!」
 『イオン』が何かを口にしかけるも、それを遮るようにモースとは違う別の教団員が『イオン』を呼び止めた。すぐに来て下さい、さあ……と強引に『イオン』の手を引く。「あの、」と『イオン』はその言葉を最後まで言い終えることなくシンクの前から姿を消した。本当に、オリジナルとは根本的に性格が違う。イオンもあれくらい大人しければ、まだ可愛げもあったのかもしれない。

 それにしても、導師の身代わりがあんなに堂々としていていいのだろうか。まるで、本物の導師みたいな扱いじゃないか。
 考えながら踵を返した。
 イオンと目があった。
「やあシンク」
「……ッ!」
 驚きに、つい発しそうになった叫びを飲み込む。目の前には、先程まで会話していた子供がいた。いや、先程の個体とは違う。本物の導師イオンだ。
「……いたなら声かけなよ。盗み聞きなんて、趣味が悪い」
「『盗み聞きなんて、趣味が悪い』ね……。その言葉、そっくりそのままお返しするよ」
 どうやらイオンは随分前からシンクの後ろにいたらしかった。苛立って僕に気付かないなんて、お前もまだまだだね、など横柄にのたまう。この態度のでかさは紛れもなく本物のイオンだった。
「それにしても、ぷっ、『導師イオンの、お付きの者だよ』って……くっ、くくく……」
「う、うるさい!」
 腹いせに手を払うが、簡単に避けられてしまう。イオンは次第に笑いを堪え切れなくなったのか、おかしそうに腹を抱えて蹲る。空気を吐き出しすぎたのか、ごほごほと、苦しそうに咳込みまでする始末だ。シンクは慌ててその背中を軽く叩く。
「ちょっと。まだ風邪が治ってないんじゃないの」
「なんだ、心配してくれてるのか」
「断じて違う」
 そんなことがあってたまるか。

「それより、聞きたいことがある。一体『あれ』は何のつもり」
 シンクが顎で背後を指し示す。イオンがとぼけているのでなく本当によくわからない、といった風な顔をするので、「七番目」と短く付け加えると、ああ、とようやく合点が行ったようだった。
「何って。導師イオンだろう」
「導師イオンはアンタのはずだ」
「お前がそれを言うのか。お前だって、『イオン』だろう」
「けど導師じゃない」
 そう言うと、イオンは困ったように眉尻を下げた。まるで聞き分けのない子供を見るような目に、シンクはかちんと頭にくる。
「導師イオンは、アンタのはずだ。なんであんなのがまるで本物の導師みたいにのさばってる。アンタ一体、何考えてるの」
「ええっと」
 イオンが本気で困惑した顔を、シンクはこの日初めて見たかもしれなかった。歯切れ悪く、どう言えば伝わるのか考えながら、辿々しい言葉がその口からこぼれ出る。
「僕が導師じゃなくなって、『あれ』が導師になるからだろ」
「……? 言ってる意味がよくわからない。『あれ』は単なる影武者じゃないの」
 シンクはそう聞いている。導師イオンはいざというときのために己の影武者を造ったのだと。しかしそれを聞いたイオンは、はたと何かに気付いたように「そう、お前は知らないの」と呟いた。
「そう言えば、なんでアンタはわざわざ『導師イオン』を造ったの? 影武者なら顔が似た子供で事足りただろ。なんだったら、似てなくても無理矢理似せることくらい、教団の力を使えばレプリカを造るより簡単なはずだ。ボクたちはどうして造られたんだ? それもただの暇潰しか?」
 イオンは答えなかった。いや、問い自体をもしかしたら聞いていなかったのかもしれない。
 遠くで小さく、イオン様、とその名を呼ぶ声が聞こえた。ぱたぱたぱた、と小さな足音が遠ざかっていく音が聞こえる。それを耳にしたイオンの顔が、盛大に歪んだ。シンクもつられて背後を振り返る。今の声は。
「アリエッタ……?」
「じゃあ」
 イオンは踵を返した。その表情は読み取れない。
「僕は部屋に戻るよ。またね、シンク」
 その背中は、心なしか消えてしまいそうに覚束なかった。

 それは、本格的に冷え込み始めた、シルフリデーカンの終わりの頃だった。
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