【再録】イオンクロマトグラフィー
3.ウンディーネリデーカン
騎士団の任務への同行から事務仕事、雑用から使い走りに及ぶまで、教団の最高指導者にこき使われて早数週間。飛ぶように時間が過ぎ、シンクが下働きとして慣れてきた頃だった。
「ちょうどいい。ちょっと護衛に来てくれ」
「は?」
まるで今日の天気のことでも話すかのようにその命令を投げられたのは、イオンの私室でのことだった。ベッドとテーブルとクローゼットのみが鎮座しており、その他には家具はおろか私物すらほとんどない殺風景な導師の部屋。色素の薄いその部屋に、導師直々に呼び出されたため、あらゆる嫌味に耐えられるよう直近の活動の報告事項を簡潔にまとめて来てみれば、投げつけられたのが先の言葉である。資料を持って立ち尽くすシンクを尻目に、イオンは早々に身支度を整えたのか、椅子からひらりと身を翻して立ち上がる。普段の導師服に加え、厚手のコートとマフラーをまとっている。
「ケテルブルクの街へ巡礼に行く。今年は例年より厳しい冬になりそうだから、寒さが本格的になる前に一度見に来てくれと要請が入った。珍しく導師が人前に出る日だ、悪漢が紛れ込んでいて僕が殺されたら困るだろ?」
「やだよ、なんでボクなのさ。導師には導師守護役……だっけ? あれがいるんだろ? ボクみたいな『出来損ない』じゃなく、そっちに頼んだら?」
「そうだな」
これほど気のない肯定の言葉が未だかつてあっただろうか、とシンクは心底呆れた。苛立ちが一周回っていっそ清々しさを感じるくらいだ。この「そうだな」は間違いなく「そうだな。じゃあそうしよう」の「そうだな」ではなく、「そうだな。で? 僕の決定に何か問題があるのか」の「そうだな」だ。
「なんだ、いちいち説明が必要か? 導師守護役のうち一番の主力を諸事情で連れていけない。お前は言わばその穴埋めだ。それに、『ボクを使え』と言ったのはお前だろ?」
そう言われてしまうと、シンクはその命令を受けないわけにはいかない。護衛対象がこの憎らしい子供であることと、自分が誰かの『穴埋め』であるということが気に食わなかったが、イオンに急かすように押され、シンクは渋々了承する。
つまるところ、ある程度の実力がある者ならシンクでなくとも誰でもよかったのだろう。その中で、たまたまシンクの予定が空いていたというだけだ。あくまで『出来損ない』以上の扱いはしないらしい。それでも必要とされたことが、シンクの心を少し高揚させたことは否めない。そのことを一瞬後に自覚し、シンクはチッと舌を打った。どこまでお人好しなんだ、ボクは。
「ヴァンにはもう話はつけてある。いやあ、男手が足りなくて困ってたんだよな、導師守護役は皆僕の気に入りの女子供ばかりだから重労働はさせたくないし。あ、持って行くもの下にまとめてるから」
「ボクはただの荷物持ちかよ!」
ケテルブルクまでは船で数時間の距離だ。マルクト帝国領になるため、事前に活動許可を得ての巡礼になる。イオンの持っている書状には、王が直接導師を迎えることの出来ない非礼を詫びる旨と、街の兵士を総動員して導師の護衛を務めさせる旨が書かれているらしかった。
その辺りの説明を、シンクは道中ぼんやりと聞き流していた。仮面越しに見る海は穏やかで、船は何の問題もなく順風満帆に航行していた。ただひとつの難点が、ケテルブルクに近付くにつれ、甲板で受ける風がひどく冷え込んでくることだった。空も心なしか冷え冷えとした青一面に染まっていて、シンクは不意に去来した寄る辺なさにぶるりと体を震わせた。
「……マルクトの兵がいるなら、そっちに護衛を任せたらよかったんじゃないの」
そう呟いたシンクの問いは、マルクトが僕の命を狙っていたらどうするんだ? という言葉で一蹴されてしまった。
「命を狙うとはいかないまでも、襲われたときに助けないとか、そういう消極的な殺意だってあるだろ。現マルクト皇帝はそれほど悪い人じゃあないが、兵士個人の感情まで操作できるわけじゃない。そんな奴らに背中を預けられないことくらい、お前にならわかると思うけど」
それではまるで、神託の盾の騎士であれば背中を任せてもいいような物言いだ。じゃあボクがイオンの命を狙ってたらどうするの、と何気なく聞くと、イオンはきょとんとしてその言葉を吟味した後、無理無理、と心底おかしそうに笑った。
「本能的に僕に敵わないと認識しているシンクに、僕を殺す度胸なんてないよ。でも、そうだな、もし僕を殺せるようになったら……そのときは甘んじて殺されてやろう。生み出したと思ったら棄てて、棄てたと思ったらまた拾って。意味もなく生かして振り回す、そんな僕が憎いだろ?」
シンクはすぐに答えることができなかった。火山に廃棄されたとき、研究室で体をいじり回されていたとき、確かに自分の生を呪った。何故ボクを生み出したのか、何故一思いに殺してくれないのか。そうしてイオンを呪った。それが今の場所を手に入れてから、そんなことを考えもしなかったのだから不思議だ。あの地獄のような場所から救い出してくれたのもまた、イオンだった。イオンにすくい上げられた、それは否定しようのない事実だ。
ちらちらと、空気に白い欠片のようなものが舞い始めた。「これ、何?」「雪だよ。お前、見たことなかったっけ」喋ると息が白くなる、その不思議な現象に戸惑う。見ればイオンの吐息も白い。はあ、と息を吐くその横顔は、何者をも凍て付かせるように冷えきっていた。いつの間にか空は、鈍重な灰色に染まっている。イオンの髪に付いた雪を払うと、イオンはくすぐったそうに首を竦めた。
「……でも、僕を殺したいんだったら、急がないとその役目は誰かに取られてしまうかもしれないぞ」
その呟きは船のエンジン音にかき消され、シンクの耳に不明瞭な形でしか届かなかった。何と言ったのか、もう一度聞こうとしたとき、乗客に到着を知らせる鈍い汽笛の音が寒空の下に響き渡った。白く染まった大地がすぐ目の先に見える。
ケテルブルク港だ。
「導師様!」
「導師様!」
出迎えは壮大だった。街の総人口は比較的少ないと聞いていたはずだったが、それでも住人が一所に密集すると結構な数に見える。イオンやシンク、他の教団員の服装に比べ、住人の方が心なしか薄着に見えるのは、彼らが寒さに慣れているからだろうか。大勢の人間が一様に導師を崇める様は、『見世物』になっている気すらして、シンクは自分の感覚を隠しもせずに吐露した。
「……気持ち悪い……」
「まあそう言うな。彼らはローレライ教の信者、つまりは教団の貴重な収入源だ。言うなれば金蔓だよ。逃すわけにはいかない」
「……アンタもいい性格してるよね……」
とは言え、そこまで割りきらないと導師なんてやっていられないのかもしれない。毒を吐きながらも、手を振るイオンの表情は被った猫に完全に隠れていて、表面上はひどく穏やかに見えた。
船からはまず華やかな導師守護役が降り、導師が降り、そしてこの護衛のために当てられた神託の盾の一部隊が続く。その先陣はマルクトの兵士たちが務めていた。シンクは何が起こっても対処出来るよう、イオンのすぐ後ろにつく。導師の巡礼としては規模が小さいと思ったが、なるほどこの街の規模なら相応なのだろう。案の定、それほど歩かずに教会に到着することが出来た。恭しく開かれた扉の向こうに、イオンは寒さなど微塵も感じさせない優雅な所作で足を踏み入れた。
教会に入ってからは、本部にいるときとやることは同じだった。預言を求めて並ぶ人々に、順番に預言を詠んでいく。
「導師様、今年の冬は無事乗り切れますでしょうか」
「ええ、きっと精霊ローレライとセルシウスが、この地をお守り下さいます」
まあ、常套句だ。
「導師様、昨日から夫の熱が下がらないのです……!」
「すぐに病院に連れて行きなさい。ここの病院で足りなければ、グランコクマへ」
まあ、病人に対する妥当な判断だろう。
「導師様、先日生まれたうちの子供に祝福を……」
「玉のようなお子様ですね。きっと美人に育つと預言にあります」
さっと赤子の頭上に手を翳すイオン。適当なこと言ってるんじゃないだろうな。
「導師様、今日の夕飯の献立は何にすればよろしいでしょう」
シンクは開いた口が塞がらなかった。献立って。
「今日は……そうですね、市場に行けば人参が安値で売られているでしょう。そちらでポトフを作ってはいかがでしょうか」
いつの間に野菜の価格なんて盗み見ていたのか。譜石に触れてはいるものの、その第七音素の力を使っているのかどうかは判断がつかない。それでも信者は、預言を授けられると「ありがとうございます」とさも神の慈悲を得たかのように感涙にむせび泣くのだった。
「……心底、気持ち悪い」
そのとき、群衆の中にきらりと光る物体を捉え、シンクは反射的に身構えた。するりと人混みの間を縫って、一人の男が忍び寄ってくるところだった。その手には大振りのナイフ。群衆は気付かない。イオンだけは確かにその光を目にしたはずだが、彼はその場から動かなかった。ただじっと、ナイフを持った男を見据えている。男は弾かれたように、壇上に駆け上がった。
「下がれ!」
チッと舌を打ち、咄嗟にイオンの体を投げ飛ばす勢いで後ろに引く。イオンは少しよろめいたようだったが、すたん、と無事体勢を整えたようだ。イオンと男との間に立ち塞がる。イオンとシンクの位置関係からまずはシンクに狙いを定めたのか、男はナイフを構えて突進してきた。その動きは直線的で、何の戦闘訓練も受けていないことがまるわかりだ。馬鹿が。シンクはナイフを捌き、難なく悪漢の腕を捕らえた。めき、と嫌な音がしたが、イオンの命が懸かったこの状況だ、加減しなくても許されるだろう。
「返せ! 返せよ! 俺の恋人を……返してくれ!」
男の動きが止まると同時に兵士たちが遅れて現状を把握し、慌てて男を取り押さえる。役立たずここに極まれり、ボクがいなければ一体どうするつもりだったのか。シンクは心底憤慨した。導師守護役の一番の主力を連れて行けない、その言葉が重みを増す。導師を守れる人間がいないなんて、なんてお粗末な教団なのか。
遅れて事態を把握したのか、ざわざわと聴衆も浮足立ち始める。
「お前が……お前たちが! あんな預言さえ詠まなければ! 彼女はあの日、事故に巻き込まれずに済んだんだ!」
なおも暴れ喚く男を前に、まったく動かなかったイオンがすっと一歩歩み出た。その口角は僅かに上がり、彼が手にした譜石はぼんやりと光を発している。詠んだのか。預言を。
「可哀想に……。預言の教えを忠実に守った恋人を、不幸な事故で失ったのですね。悲しいですが、しかし案ずることはありません。彼女は敬虔なローレライ教信者だった。きっと来世では良き生を受けることでしょう。そしてあなたも、預言の通りに生きれば彼女を失った以上の幸福を得られる」
おお、と聴衆は導師のありがたいお言葉にどよめくが、青年には聞こえていないようだった。当たり前だ。事情を知らないシンクにさえ、ただ上っ面をなぞった薄ら寒い綺麗事に聞こえる。
イオンもそれは承知しているらしく、その言葉は青年に向けてというより周囲の聴衆に言い聞かせるような口ぶりだった。そうして聴衆を落ち着かせてから、イオンはすいと青年に歩み寄った。
「おい、イオン!」
「大丈夫だよ、シンク。こいつに僕は殺せやしない」
にこ、と楽しげに笑った後、イオンは拘束された青年の頬に手を添えた。
「……君のその勇気には感服するが、僕が死んでも、世界は何も変わらない。世界は預言の通りに進む。君の恋人が死んだのは、そういう『運命』だったからだ。振り回されて、ご苦労様」
その男と、隣にいる兵士たち、それにシンクにしか聞こえないような小さな小さな声で、導師は悪魔のように囁いた。
「恨むなら、世界を恨むことだ。君たちを死に別れるようばらばらに産み落としたこの世界と――それから、その星の記憶に抗うこともできない無力な自分自身を」
男はその言葉を聞き、悲痛な慟哭を上げながら兵士たちに引きずられて退場した。最後は項垂れていたところを見ると、自分の無力さに打ちひしがれでもしたのだろうか。もう彼が僕を襲うことはないよと、イオンは満足そうな顔でその姿を見送っていた。
その真意を聞き出せたのは、帰りの船の中でのことだった。
「あの男の処断はマルクト側に任せることにしたよ。これ以上関わるのは面倒だし、得策じゃないな」
こほ、と咳をしながらイオンが告げた。「風邪引かないでよ」面倒だから、と釘を刺すと、「いいなあ、風邪を引く心配のないやつはさ」と、厭味ったらしい言葉が返ってきたものだから、こいつの心配だけは今後一切、断じてするものかと心に決める。
「みんな預言に頼りすぎなんじゃないの。自分で考えろと思うようなことばかりじゃない。あげく預言の所為で恋人が死んだとか、責任転嫁もいいところだ」
「おやおや、ローレライ教団員にあるまじき発言だな。破門にするぞ、不出来もの」
船の縁に優雅に頬杖をつきながら、イオンは楽しそうに笑った。
「それだけ星の記憶が強力だということだ。今までそうそう外れたことがない。抗えない運命ってものもあるのさ」
「……アンタでも、そういうこと言うんだ」
唯我独尊に振る舞って、預言なんてまるで関係がないのだと思っていた。そう素直に告げると、「まあそれは、一応僕は導師だからな?」とくすくすと笑う。今日のイオンは、妙に楽しげだ。
「ねえ。なんで避けなかったの」
……何のことだかわからないな、ととぼけるイオンに嫌味ったらしく溜め息をつく。いつの間にか雪はやんでいて、肌を刺す寒さも和らいでいた。
「ボクが庇わなかったら、刺されるつもりだったでしょ」
「お前が守ってくれるとわかってたから……じゃ、駄目か?」
「そういう嘘臭いの気持ち悪いからやめてくれる」
と、シンクが言い終わる前に「うっ……やっぱり今のはなしだ」と自分で気味が悪そうに口元を抑えていた。馬鹿じゃないの。
「導師っていうのは、不用意に取り乱すものじゃないんだよ。いたずらに民草に不安を与えることになるから」
甲板に夕陽が差し込み、途端イオンの輪郭がぼんやりと曖昧になる。まるで目の前の影が音もなく消えてしまいそうで、シンクは咄嗟にその手首を掴んだ。イオンは茫洋とした笑みを浮かべるのみで、その手を振り払おうともせず、淡々と言葉を紡いでいた。
「よくわからない。導師が刺される方が『いたずらに民草を不安にさせる』んじゃないの」
「別に刺される刺されないは関係ない。取り乱すことが駄目なんだ。だから襲われたって動かないし、死ぬなら死ぬで、そのときはそれっぽく堂々と死なないといけない」
「馬鹿みたい」
しばらくイオンはぽかんと、いつも隙を見せない彼にしては珍しく間抜け面を晒していたが、「死ななきゃいいでしょ。大人しくそんな職務に殉じるとか、預言に従う奴らと一緒だ。馬鹿じゃないの」と言い放ったシンクの言葉を噛み締め、反芻し終わった後、イオンはシンクの手を払い、盛大に腹を抱えて笑いだした。
「あっはっは! 確かにな! こんな僕みたいな善良で病弱な薄幸の美少年が積極的に死ぬことを推奨されてたり、僕の代わりとして生み出されたはいいけど能力的に他の個体より劣ってたとかいう馬鹿みたいな理由で廃棄されて殺されかけたり、本当この世界は馬鹿みたいだよな?」
「何それ馬鹿にしてんの?」
ごほ、と咳と共に信憑性に乏しい科白を吐き出すと、イオンは一息ついて、笑いすぎで溜まった涙を拭った。
「あー本当に、こんな馬鹿みたいな世界、さっさと壊れてしまえばいいのにな」
あまりにも愉快そうにそう言うものだから、シンクはさらりとその言葉をいつもの冗談として聞き流した。そこに込められた意味など、考えることもしなかった。
