レイニーブルー

(2019/07/15)


「……んだよ」
 ぺっ、と口に入った土を吐き出しながら、俺は不機嫌を隠しもせずに訊いた。俺にはその権利があった。背から染みる泥水が不快だ。幸いにも縁石で頭を打ち付けることは免れたが、柔らかく土に沈んだ後頭部で地中の虫を押し潰さなかったかは定かでない。伸し掛かられた拍子に帽子は何処かへ転がっていってしまっていて、視界の端で濁った水に浮く自分の髪が見えた。この分だと、帽子も外套も暫く使いものにならないだろう。
 それでも、何しやがる、と怒る気になれなかったのは、太宰が悪意でもってそれをしていたのではなかったからだ。
 見上げると、相棒の表情の欠落した顔。それが今にも落ちてきそうな重たい雨空を覆い隠す紫陽花を背負っていて、陰鬱な影を落としている。降り注ぐ雨から俺達を遮る葉が揺れ、そうして紫と淡桃のヴェールの中に佇んでいると、此処が墓地であることを一瞬忘れてしまう。
 世界から覆い隠された、密やかな静寂。
 髪から雨を滴らせながら俯く太宰の表情は何処か虚ろだ。
「君を」
 声変わりを終えたばかりの声が、湿った空気を震わせた。
 雨の音が一瞬だけやむ。
「君を此処へ埋めたら、紫陽花が綺麗に咲くのだろうか」
 生白い細い手が俺の首にかかる。後頭部の辺りがざわざわと太宰の殺気に反応して、けれど俺は地面に横たわった自分の手をぴくりとも動かさなかった。

 部下の墓へ、花を添えに来た帰りだった。
 ポートマフィアに入った後の俺の仕事は、羊に居た頃とさして性質は変わらなかった。自分達の居場所を確固たるものにする為の、命がけの攻防。だから命の危険も当然ある。仲間が死ぬことも。羊より母数が大きい分、それが起こる回数は増えた。俺は毎日此処へ来た。あるときを境に、死んだ仲間の墓を訪れることは減った。単純に、全員を悼んでやる時間が無かったからだ。毎日が誰かの命日で、墓参りを欠かさずしたいと思ったならば、構成員を辞めて墓守にでもなった方がきっと効率が善い。
 それでも、機会を決めて俺は此処へ来ていた。例えば今日みたいな抗争が終結したとき、マフィアとして復讐を果たしたとき。お前を眠りへ誘った人間はこの手で地獄に送ってやったと告げるとき。それに太宰が随いてくるのは珍しかった。それから、死んだ人間の悲願が為った日や残された家族の晴れの日なんかに。
 なるべく、俺だけは覚えていてやりたいと思ったから。
 生きていた痕跡を残してやりたいと。
「でもそれは君の自己満足だよ。死んだ人間にはそれを有難がる意志は無い。君が思考リソースを割く理由も」
「ああそうだ。理由は無い。ただ俺がしてえからする。それだけの行為だ」
「私は生憎と土くれに尻尾を振る犬には興味が無いんだ」
「折り合いをつけるっつーんだよこう云うのは」
 無機質な太宰の顔を見上げる。議論をする積りは無かった。俺は太宰にこの件で理解を求めない。例え太宰がどれだけ理解したがっていても、だ。俺が答えない限り、コイツのこれはただの八つ当たりだ。
 雨が太宰の背中を打って、黒色の外套が重たく纏わりついていた。じくじくと、互いの体が冷えていく。けれど太宰は、俺の上から一向に動こうとはしない。
 俺は真っ直ぐに太宰の瞳を覗き込む。
「そんなに俺を剥製にしときてえか」
 否定するだろうと思った。何時もの太宰なら、鼻で笑って退ける。思い上がらないで呉れる、ただ犬が一丁前に餌以外のことを考えているのが気に食わないだけだよ、私が君にそんな下らない感情を抱いている訳ないだろう、君の剥製なんて――。
「正直」
 太宰の片目を覆い隠した包帯が、じわじわと雨に濡れて濃い染みを作っていく。俺は一瞬ぎょっとした。広がり方が、任務中によく見る染みと似ていたからだ。
 けれど今は頭部から流れ出た血の色をしていない。
「正直、その気持ちが無いと云えば嘘になるよ。君を見ていると苛々する。君が、よりにもよって君と云う人間が、他人の死を悼んで、自分の記憶に刻みつけておこうとする、その行為が――」
 太宰が口を噤んだ。嫌だ、忌々しい、不快だ。そのどれもが太宰の感情を受け止める器足り得なかったのか、太宰の口からはそれ以上何も出てこなかった。
 ただ俺の胸に、自分の額を押し付ける。
「君を傷一つ無い宝石みたいに、土の中に閉じ込めておけたら善いのに」
 俺はそれを聞き流した。好きにすれば善いと思った。この男が本気でそれを望むなら、きっと俺に拒否権は無い。俺はただこの男だけを見この男だけに触れられて生きていくことになるんだろう。ぞっとしないがあり得ることだ。何度か仮定したことでもある。それでも俺はこの男を受け入れるんだろうな、と云う漠然とした感覚が無いと云えば嘘だった。然しきっとそうはならないだろうこともまた、誰よりも太宰が一番善く知っている。
 太宰自身が、それを望んでいないことは。

 軈て陽が細く差して、頬を濡らす雨粒が乾いた頃、俺はゆっくりと太宰の首根っこを引っつかんだ。
「……気が済んだなら退け」
 そのまま脇へ放ると、軽い体はどさりと無抵抗に植え込みの中に転がった。柔らかい土の上で、二人寝転んで雲間から覗く青空を眺める形になる。
 眼前に広がるのは、風が鉛色の雲を急かすように運んでいく光景だ。紫陽花の葉、その葉脈が光に透かされて薄く輝く。木々のざわめきを壊すように、はあ、と隣で落とされるのは大仰な溜め息。先刻の話はもう終わり、の合図。
「……大体何なの? 君、私の犬なんだから、もっと私に忠実に動きなよね。今日は私が云い付けられてる書類整理が山とあるんだから、こんな処に来ている暇があったらさっさと帰って取り掛かり給えよ」
「いや聞いてねえよサボってんじゃねえよ俺は犬じゃねえ!」
「その、散々はしゃいだ泥だらけの格好で云われてもねえ……」
「誰の所為だ誰の!?」
 帽子を拾って喚く。太宰はけらけらと笑っている。クソ、腹立つ。付き合うんじゃなかった。
「そう云えばさあ」
 身を起こしてパン、と外套の泥を払う。太宰の外套も脱がして払ってやるが、水分を吸いすぎるほどに吸って、俺の努力一つでは如何にもならないほどに汚れていた。仕方無しに、俺はぐしょぐしょの外套を纏めて抱える。本部への帰還時には、何が何でも姐さんに見付からないよう忍び込まなければならない。
「そう云えば? 何だよ」
「友達が、死者の人生録を作っていてね。その人がどんな生まれで、どんな風に育って、マフィアでどんな風に過ごしていたかを、態々記録していると云うのさ。変わっているだろう?」
 静謐な墓の列の合間を縫って、太宰が出口へと向かう後をついていく。白い墓石と柔らかい色の紫陽花が雨の後の靄にあわく混じり合って、密やかな囁きを立てている。
「織田って奴か」
「残念、安吾だ」
「ああ、坂口ね……」
 石畳に靴音を鳴らしながら、そう云えば何時だったかの首領のぼやきを思い出す。珍しく執務机の脇にこんもりと山を築いた書類の数々を見て此方で処理しましょうかと問えばそれは私の決裁を必要とはしない書類だから大丈夫なのだよと云う。ただ、私には絶対に目を通して欲しいと云うのだよ。私に読み物を強要するなど、中々肝の据わった新人も居たものだとは思わないかね。まあ、私の云うことを素直に聞かないと云う点では君達が群を抜いて優秀だけれどね……。
 俺もつられて、一番上の用紙一枚を手に取った。其処には見知った男の名前が書かれてあった。ちょうど一週間前に死んだ、俺の部下の名だった。今は墓の中に眠っている部下。誰かがこの男のことを調べて、聞いて回り、そして書き留めたのだ。ポートマフィアの構成員として死んだこの男のことを。
 ああ、と思った。
 足繁く此処へ来なくなったのはそれからだ。
 安心したのだ。無理に刻んでおかなくても、この男が生きた事実は此処にある、と。
「……手前も何時か、其奴に感謝するときが来るよ」
「如何かな」数歩先を歩いていた太宰が振り返る。「私には、その気持ちは一生わからないような気がする」
 太宰は笑った。眉尻が少し下がる。諦めの滲んだ顔だった。
 観察を続け、理解しようと努めて、それでも何処か、自分が一線を画していることを飲み込み切れない、努力家で不器用な俺の相棒。
 手近な紫陽花を手折る。「気に入らねえよな」呟く。淡い色の萼を唇に寄せると、雨粒で少し湿った。
「うん? 何が」
「手前ばっかり、人間じゃねえみてえな面しやがって、ってこと」
「は? 何――」
 太宰に抵抗の隙は与えなかった。距離を詰めて後頭部をがっしと掴む。と同時に紫陽花の葉を口に含んで、無理矢理太宰に口移した。
「!? っ――、んっ、ン――ッ!!!」
 軽く咀嚼した葉を舌で強引に奥へと押し込む。俺の突然の蛮行に目を白黒させている太宰を逃さないように、俺は体を密着させた。末端が冷えているのに太腿の内側と、腹の辺りが熱い。口の中も。愛を伝えると云うよりは不法侵入のような荒っぽさで、俺はそれを太宰の喉がごくり、と嫌な音を立てるまで続けた。
「ぷは」
「ちょっと、何――まず!!! 何の嫌がらせなわけ!?」
 咄嗟に飲み込んだものをぺっぺっと吐き出そうとするも無駄に終わって、太宰が浮かべた心底不快そうな表情に、俺はにやりと笑った。太宰を追い抜いて歩く調子が軽くステップを踏んでしまう。
 俺は浮かれていた。
「思い知れば善いんだ。手前だって、人間だってことをよ」
「はあ……?」

     ◇ ◇ ◇

 太宰が俺のその行動の意味――或いは結果を知ったのは、本部まで二人で歩いて帰って、泥だらけになったのを姐さんに目敏く咎められこってり絞られ、部屋で大人しくしていろと云いつけられた後のことだった。
 着せられた柔らかいリネンのシャツの裾を握って、太宰が真っ青な顔で立ち上がる。俺はそれをソファに寝転びながら目だけで追った。
「如何した?」
 然し如何しても、愉快な気分は堪えきれない。声音にそれを滲ませていると、ぎろりと蓬髪の下から鋭い視線に刺された。漏れるのは地を這うような声だ。
「君、知ってたな……」
「まあ。紫陽花は食ったらやべえぜ、お坊ちゃんは知らなかったか?」
「煩い野生児……! ウッ、」
 真っ青になって蹌踉めきながら部屋を出ていくさまに笑う。なんだ、ちゃんとみっともねえ顔も出来るんじゃねえか。
 気に入らねえんだ。手前ばっかり、人間じゃねえみてえな面しやがって。
 精々思い知れば善い。
「手前だって、ただの人間なんだぜ、太宰」
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