特典のひどい話
(2018/03/05)
『日の沈む頃に、本部の裏手の何時もの場所に来て呉れ』
組織の若き首領――太宰治は、ひどく慈愛に満ちた声で云った。
何時もの嘲笑うかのような皮肉げな笑みは鳴りを潜め、まるでこれから何か、おおきな生命の誕生に立ち会うかのような、そんな不思議な色をその薄茶の瞳に湛えていた。
『大事な話があるから』
だから俺は、ただ「わかった」と答えた。わかった、必ず行く、と。
その日の俺の予定には、幾つかの任務が入れられていた。海外組織との商談、ポートマフィアの目を欺いた無断取引の取り押さえと鎮圧、焦げ付いた貸付金の回収。それらも太宰直々に入れられた仕事だ。凡て恙無くこなし、且つ日の沈む頃までに戻れと云う。
それは決して俺の力に信頼を寄せてのものではない。
あの男にあるのは自分の想定の通りに「ただそうなる」と云う、直線を指でなぞるような迷いの無い確信だけだ。
俺はそれが気に食わなかった。
だから意地になって、想定されていただろう時刻よりも任務を早めに終わらせた。意表を突いてやろうと思ったのだ。指定された場所に赴いた。
遠くで太陽が燃え尽きて、地平の向こうへと沈もうとしていた。
その瞬間。
空から太宰が降ってきた。
どしゃ、と着地にしては些か重い音が響く。
◇ ◇ ◇
「手前、態とだろう」
低く唸って怪我をした背に巻いた包帯をきつく締め上げた。そうでもしなければ、目の前の男を自らの信条に反して縊り殺してしまいそうだった。怒りで臓腑が引っ繰り返りそうなほどに煮えている。
当の本人はゆるく微笑んで振り返る。
「……何のこと」
「惚けんな。判ってた筈だ、部下が『爆弾』に変えられてたこと」
酷い日だった。謁見室に報告に来た部下が太宰のみの耳に入れたいことがあると云い、太宰はそれを許可した。退室した途端の爆発音だ。御蔭で部下を殺さねばならなかったし、己の首領に爆風による怪我をさせた不甲斐無さを今も苦く味合わされている。
それもこれも、この男が無防備に危険に身を晒すからだ。
「そんなに心配しなくても、未だ死なないよ」
「クソがそんなもん判んねえだろうが! 手前の悪運の強さは認めるが、組織の首領なら首領らしくもうちっと危機感ってもんを――」
「判ってたよ」
夜の森のように静かな声が俺の言葉を遮った。
俺は思わず太宰を見た。太宰は相変わらず微笑んだままだ。
微笑んだまま、何でもないことのように云う。
「君の云う通り、判っていたよ。部下が爆弾に変えられていたことも、それが私に一歩届かないことも、君が直ぐに危険を排除するだろうことも、何もかも」
何を云っているんだと思った。
同時にカチ、と俺の中で何かが噛み合う。
そう、判っていたんだろう。其処にあるのは俺に対する信頼ではない。自分の想定の通りにただそうなると云う確信だけだ。
まるで積雪の後に残された足跡を、一つずつ辿って足を埋めていくかのような作業の一つ。
「手前」
目の前の男の存在が、急激に遠くなって見えた。口の中が妙に渇く。息が浅くなる。早くなる鼓動。血を震わせるのは焦りだ。護るべきものをみすみす失う訳にはいかない――そう、この男は俺の首領だったから。
だから咄嗟に傷だらけの腕を掴んだ。
自分の元に繋ぎ止めるように。
「手前には何が見えてんだ」
太宰はただゆるく微笑む。
「――凡てが」
◇ ◇ ◇
なら俺がこうすることも視えてただろう、と思った。碌に栄養の取れていないその体は、押し倒せば簡単に寝台に沈んだ。
繋ぎ止めようとした俺が、手段を選ばなくなることも視えてただろう、と。
「やめて」
腕の下からぎらついた殺気が俺の喉笛辺りを突き刺したが関係が無い。俺だって同じくらい殺気立っている。
「善い加減にしろよ手前。今日のは何だ。手前は毎日、何をそんなに生き急いでいやがる」
「生き急いでなんていないし、君とそう云う関係を持つ気も無い」
「なんで」
「『なんで』?」素っ頓狂な声が上がった。君、頭おかしいんじゃないの、とでも云いたげな声音だった。「無論、私に男と抱き合う趣味が無いからだ」
嘘だと思った。俺が組み敷いたこの男の瞳に、性的な要求に対する生理的な嫌悪は無い。
あるのはただの殺意、こんな筈ではないと云う混乱、焦り、痛み。――なんだ?
太宰は俺にまじまじと顔を見下ろされていることに、はっと気付いたようだった。素早く両腕で顔を隠したかと思うと、軈て弱々しく口を開く。
「おかしいでしょう。君は私のことが嫌いな筈だ……だって私がそう……」そうなるように、と聞こえた気もしたが聞き取れない。
「そうだよ。ただ、自滅していく阿呆がもっと嫌いなだけで」
ぼそぼそと、不明瞭な最後の方の言葉は無視して腕を掴みつよく押さえ付けた。端整な顔が痛みに歪む。それで善いと思った。そう云う顔の方が、ずっと生きてる人間みたいだった。
「俺がこのまま手前を無理に暴けば」
少し弾んだ息のまま云う。
「そうすりゃあ、少しくらいその何もかも判り切った面ァ止めて泣き言の一つでも吐く気になんじゃねえか。ええ? 首領さんよ」
「――云って如何するんだ」
太宰の声は、予想に反して震えていた。
「私は君と、心中する心算は無いんだ……」
体の関係があった。
けれどそれが、太宰を繋ぎ止める楔に成り得なかったことは明白だ。
◇ ◇ ◇
空から太宰が降ってきた。
恐らく、地を蹴り手を伸ばせば届いた距離だった。
けれど俺は落ちてくる太宰に手を差し伸べなかった。
瞬間、理解したからだ。
定められた軌跡を美しく辿ってきた世界。
これが太宰の思い描いていた終焉なのだと。
世界が無音に包まれていた。
足元には、無機質なグレーのアスファルトを侵食してじわじわと血溜まりが広がっている。その中心には太宰だったものが横たわっていて、俺の瞼にそのかたちを焼き付けようと存在を主張していた。
目を瞑っても見えるくらいに。
「……満足か」
掠れた声で問うた。答えは返らない。頭部は無残に潰れていて、浮かべていた表情の欠片も読み取ることが出来なかった。
「これで満足か、太宰」
問い掛けながら、ああ、多分、この男は、最後の始末を付けようとしているのだと思った。この男がこの場所に自分を呼んだのは、何も自分の死体を見せ付ける為ではない。
残骸に触れる。ふわりと何の苦も無く重力操作がかかる。きっと俺がこの力で空間を押し込めるように圧縮すれば、骸を掌に収めることが出来るし、誰にも見られることはなくなるのだろう。
この男の死を、誰にも騒ぎ立てられずに済む。
この男に漸く訪れた安寧を。
その日、横濱から二人の男が姿を消した。
その行方は未だ杳として知れない。
『日の沈む頃に、本部の裏手の何時もの場所に来て呉れ』
組織の若き首領――太宰治は、ひどく慈愛に満ちた声で云った。
何時もの嘲笑うかのような皮肉げな笑みは鳴りを潜め、まるでこれから何か、おおきな生命の誕生に立ち会うかのような、そんな不思議な色をその薄茶の瞳に湛えていた。
『大事な話があるから』
だから俺は、ただ「わかった」と答えた。わかった、必ず行く、と。
その日の俺の予定には、幾つかの任務が入れられていた。海外組織との商談、ポートマフィアの目を欺いた無断取引の取り押さえと鎮圧、焦げ付いた貸付金の回収。それらも太宰直々に入れられた仕事だ。凡て恙無くこなし、且つ日の沈む頃までに戻れと云う。
それは決して俺の力に信頼を寄せてのものではない。
あの男にあるのは自分の想定の通りに「ただそうなる」と云う、直線を指でなぞるような迷いの無い確信だけだ。
俺はそれが気に食わなかった。
だから意地になって、想定されていただろう時刻よりも任務を早めに終わらせた。意表を突いてやろうと思ったのだ。指定された場所に赴いた。
遠くで太陽が燃え尽きて、地平の向こうへと沈もうとしていた。
その瞬間。
空から太宰が降ってきた。
どしゃ、と着地にしては些か重い音が響く。
◇ ◇ ◇
「手前、態とだろう」
低く唸って怪我をした背に巻いた包帯をきつく締め上げた。そうでもしなければ、目の前の男を自らの信条に反して縊り殺してしまいそうだった。怒りで臓腑が引っ繰り返りそうなほどに煮えている。
当の本人はゆるく微笑んで振り返る。
「……何のこと」
「惚けんな。判ってた筈だ、部下が『爆弾』に変えられてたこと」
酷い日だった。謁見室に報告に来た部下が太宰のみの耳に入れたいことがあると云い、太宰はそれを許可した。退室した途端の爆発音だ。御蔭で部下を殺さねばならなかったし、己の首領に爆風による怪我をさせた不甲斐無さを今も苦く味合わされている。
それもこれも、この男が無防備に危険に身を晒すからだ。
「そんなに心配しなくても、未だ死なないよ」
「クソがそんなもん判んねえだろうが! 手前の悪運の強さは認めるが、組織の首領なら首領らしくもうちっと危機感ってもんを――」
「判ってたよ」
夜の森のように静かな声が俺の言葉を遮った。
俺は思わず太宰を見た。太宰は相変わらず微笑んだままだ。
微笑んだまま、何でもないことのように云う。
「君の云う通り、判っていたよ。部下が爆弾に変えられていたことも、それが私に一歩届かないことも、君が直ぐに危険を排除するだろうことも、何もかも」
何を云っているんだと思った。
同時にカチ、と俺の中で何かが噛み合う。
そう、判っていたんだろう。其処にあるのは俺に対する信頼ではない。自分の想定の通りにただそうなると云う確信だけだ。
まるで積雪の後に残された足跡を、一つずつ辿って足を埋めていくかのような作業の一つ。
「手前」
目の前の男の存在が、急激に遠くなって見えた。口の中が妙に渇く。息が浅くなる。早くなる鼓動。血を震わせるのは焦りだ。護るべきものをみすみす失う訳にはいかない――そう、この男は俺の首領だったから。
だから咄嗟に傷だらけの腕を掴んだ。
自分の元に繋ぎ止めるように。
「手前には何が見えてんだ」
太宰はただゆるく微笑む。
「――凡てが」
◇ ◇ ◇
なら俺がこうすることも視えてただろう、と思った。碌に栄養の取れていないその体は、押し倒せば簡単に寝台に沈んだ。
繋ぎ止めようとした俺が、手段を選ばなくなることも視えてただろう、と。
「やめて」
腕の下からぎらついた殺気が俺の喉笛辺りを突き刺したが関係が無い。俺だって同じくらい殺気立っている。
「善い加減にしろよ手前。今日のは何だ。手前は毎日、何をそんなに生き急いでいやがる」
「生き急いでなんていないし、君とそう云う関係を持つ気も無い」
「なんで」
「『なんで』?」素っ頓狂な声が上がった。君、頭おかしいんじゃないの、とでも云いたげな声音だった。「無論、私に男と抱き合う趣味が無いからだ」
嘘だと思った。俺が組み敷いたこの男の瞳に、性的な要求に対する生理的な嫌悪は無い。
あるのはただの殺意、こんな筈ではないと云う混乱、焦り、痛み。――なんだ?
太宰は俺にまじまじと顔を見下ろされていることに、はっと気付いたようだった。素早く両腕で顔を隠したかと思うと、軈て弱々しく口を開く。
「おかしいでしょう。君は私のことが嫌いな筈だ……だって私がそう……」そうなるように、と聞こえた気もしたが聞き取れない。
「そうだよ。ただ、自滅していく阿呆がもっと嫌いなだけで」
ぼそぼそと、不明瞭な最後の方の言葉は無視して腕を掴みつよく押さえ付けた。端整な顔が痛みに歪む。それで善いと思った。そう云う顔の方が、ずっと生きてる人間みたいだった。
「俺がこのまま手前を無理に暴けば」
少し弾んだ息のまま云う。
「そうすりゃあ、少しくらいその何もかも判り切った面ァ止めて泣き言の一つでも吐く気になんじゃねえか。ええ? 首領さんよ」
「――云って如何するんだ」
太宰の声は、予想に反して震えていた。
「私は君と、心中する心算は無いんだ……」
体の関係があった。
けれどそれが、太宰を繋ぎ止める楔に成り得なかったことは明白だ。
◇ ◇ ◇
空から太宰が降ってきた。
恐らく、地を蹴り手を伸ばせば届いた距離だった。
けれど俺は落ちてくる太宰に手を差し伸べなかった。
瞬間、理解したからだ。
定められた軌跡を美しく辿ってきた世界。
これが太宰の思い描いていた終焉なのだと。
世界が無音に包まれていた。
足元には、無機質なグレーのアスファルトを侵食してじわじわと血溜まりが広がっている。その中心には太宰だったものが横たわっていて、俺の瞼にそのかたちを焼き付けようと存在を主張していた。
目を瞑っても見えるくらいに。
「……満足か」
掠れた声で問うた。答えは返らない。頭部は無残に潰れていて、浮かべていた表情の欠片も読み取ることが出来なかった。
「これで満足か、太宰」
問い掛けながら、ああ、多分、この男は、最後の始末を付けようとしているのだと思った。この男がこの場所に自分を呼んだのは、何も自分の死体を見せ付ける為ではない。
残骸に触れる。ふわりと何の苦も無く重力操作がかかる。きっと俺がこの力で空間を押し込めるように圧縮すれば、骸を掌に収めることが出来るし、誰にも見られることはなくなるのだろう。
この男の死を、誰にも騒ぎ立てられずに済む。
この男に漸く訪れた安寧を。
その日、横濱から二人の男が姿を消した。
その行方は未だ杳として知れない。
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