2018.02.25 異譚レナトス6無配
じり、と肌に纏わり付いていた重い空気が和らいだ。
目を開ける。指先を動かそうとして、体には未だ力が入らないことを確認する。何処か遠く戦場で轟々と鳴り響いていた爆音は止み、静寂だけが場を満たしている。
俺を抱き込むようにしていた太宰が、じりと微かに身動いだ。
「……霧が晴れたみたいだね」
太宰の言葉の通り、白んでいた視界が段々と色を取り戻していくのを目の端に捉えた。しかし相変わらず状況が確認出来ない。俺の眼前にあるのは、未だもって気に食わねえ太宰の白服の皺だけだ。
ああ、と辛うじて吐息のような返事を返すのみに留めると、太宰は少し黙った後、その薄い唇で俺を揶揄するように皮肉げに歪めた。
その筈だ。
表情こそ見えないものの、太宰の浮かべる表情など一足す一を指折り数えるより容易に判る。
「……で? 君は何時までこうしている心算」
「うるせえ動けねえんだよ。でなきゃ誰が手前の股ぐらに顔突っ込んだまま寝るかよ」
「えっ君今寝てたの? この状況で? 嘘でしょ?」
そう呆れたように云いながらも、よっこいせと俺の体を自分の上から退かせて引っ繰り返すその手付きは思いの外穏やかだ。如何やら理不尽な無理を強いた自覚はあるようだった。
視界いっぱいに、青を取り戻した空が広がる。
妙な倦怠感が全身を満たしていた。
安堵、ではない。満足感や、純粋な疲労とも違う。
これは、そう、ほんの少しの祝福の気持ちだ。
「……善かったじゃねえか。手前の後輩達の手柄だろう」
太宰を見る。ぱん、と服に付いた砂埃を払いながら、太宰は「そうだね」とすげなく頷く。その声音はまったくの平温だった。
だから云ってやる。
「もっと喜べば善いんじゃねえの」
「……なに?」
予想外の言葉だっただろうか。その、珍しく戸惑ったような顔に一瞬差した幼い仕草が昔みたいで如何にもおかしくて、つい無理を押してにやっと笑ってしまう。ふっと漏れ出た息に体が悲鳴を上げるが構やしない。
「今回の件、何もかも手前の読み通りって訳じゃあなかったんだろう。手前にだって不測の部分はあった。それを彼奴等に賭けた。彼奴等の強さに。……如何だ? 彼奴等は手前の予測を超えたか?」
太宰は聡く俺の云わんとすることを察したのか、軈てみるみる満面の笑みを浮かべて「ああ」と静かに頷いた。それはまるで、朝露に濡れていた蕾が、陽の光を浴びて花開くような笑みだった。「……ああ」
そうして黙って背を向けようと踵を返す。
俺の体は瓦礫の山に凭れ掛けさせられていた。これなら万一敵の接近があっても問題無く対応可能だ。太宰の手はもう借りなくて善かった。
だから今回は、これで終いかと思ったのだ。
太宰が思い出したように振り返るまでは。
「中也」
何だよ。何か忘れ物か。聞くより前に爪先が俺の足裏に触れる程に歩み寄った太宰がしゃがみ込む。薄茶の瞳が揺れるのが間近で見えた。すっと何の衒いも無く差し出された右手が左頬に添わされて、太宰の手の平の温度を伝える。
俯くと、此奴の蓬髪は存外邪魔だ。頰に掛かる髪を掻き分けて耳に掛けてやると、長い睫毛が瞬いて目を伏せる。
唇が触れたのは数瞬だった。
何時ものような性感を高める目的でない、ただ純粋に俺の温度を確かめるように押し付けられた太宰の唇が、分け与えられた熱を持ってゆっくりと離れていく。
言葉は無かった。ただありのままの感情だけが其処にはあった。
「……また一枚噛ませろよ」
「ええ? もうあんな怪獣大戦争は御免だなあ」
くつくつと喉を鳴らして囁くと、太宰は肩を竦めて立ち上がり、何事も無かったかのように笑って俺に背を向けた。俺の体は未だ動かない。それで善かった。追い掛ける必要など無い。
必要があれば、また太宰は何時でも俺を使うのだろうし。
俺もまた、何度だって太宰を殴りに行くのだろうから。
「じゃあね、相棒」
ひらひらと、太宰は振り向きもせずに手を振りながら最後に白い外套を脱ぎ捨てた。太宰に目も呉れられずに舞い上がったそれは、横浜の潮風に攫われて、すぐさま視界の外へと消えていった。
目を開ける。指先を動かそうとして、体には未だ力が入らないことを確認する。何処か遠く戦場で轟々と鳴り響いていた爆音は止み、静寂だけが場を満たしている。
俺を抱き込むようにしていた太宰が、じりと微かに身動いだ。
「……霧が晴れたみたいだね」
太宰の言葉の通り、白んでいた視界が段々と色を取り戻していくのを目の端に捉えた。しかし相変わらず状況が確認出来ない。俺の眼前にあるのは、未だもって気に食わねえ太宰の白服の皺だけだ。
ああ、と辛うじて吐息のような返事を返すのみに留めると、太宰は少し黙った後、その薄い唇で俺を揶揄するように皮肉げに歪めた。
その筈だ。
表情こそ見えないものの、太宰の浮かべる表情など一足す一を指折り数えるより容易に判る。
「……で? 君は何時までこうしている心算」
「うるせえ動けねえんだよ。でなきゃ誰が手前の股ぐらに顔突っ込んだまま寝るかよ」
「えっ君今寝てたの? この状況で? 嘘でしょ?」
そう呆れたように云いながらも、よっこいせと俺の体を自分の上から退かせて引っ繰り返すその手付きは思いの外穏やかだ。如何やら理不尽な無理を強いた自覚はあるようだった。
視界いっぱいに、青を取り戻した空が広がる。
妙な倦怠感が全身を満たしていた。
安堵、ではない。満足感や、純粋な疲労とも違う。
これは、そう、ほんの少しの祝福の気持ちだ。
「……善かったじゃねえか。手前の後輩達の手柄だろう」
太宰を見る。ぱん、と服に付いた砂埃を払いながら、太宰は「そうだね」とすげなく頷く。その声音はまったくの平温だった。
だから云ってやる。
「もっと喜べば善いんじゃねえの」
「……なに?」
予想外の言葉だっただろうか。その、珍しく戸惑ったような顔に一瞬差した幼い仕草が昔みたいで如何にもおかしくて、つい無理を押してにやっと笑ってしまう。ふっと漏れ出た息に体が悲鳴を上げるが構やしない。
「今回の件、何もかも手前の読み通りって訳じゃあなかったんだろう。手前にだって不測の部分はあった。それを彼奴等に賭けた。彼奴等の強さに。……如何だ? 彼奴等は手前の予測を超えたか?」
太宰は聡く俺の云わんとすることを察したのか、軈てみるみる満面の笑みを浮かべて「ああ」と静かに頷いた。それはまるで、朝露に濡れていた蕾が、陽の光を浴びて花開くような笑みだった。「……ああ」
そうして黙って背を向けようと踵を返す。
俺の体は瓦礫の山に凭れ掛けさせられていた。これなら万一敵の接近があっても問題無く対応可能だ。太宰の手はもう借りなくて善かった。
だから今回は、これで終いかと思ったのだ。
太宰が思い出したように振り返るまでは。
「中也」
何だよ。何か忘れ物か。聞くより前に爪先が俺の足裏に触れる程に歩み寄った太宰がしゃがみ込む。薄茶の瞳が揺れるのが間近で見えた。すっと何の衒いも無く差し出された右手が左頬に添わされて、太宰の手の平の温度を伝える。
俯くと、此奴の蓬髪は存外邪魔だ。頰に掛かる髪を掻き分けて耳に掛けてやると、長い睫毛が瞬いて目を伏せる。
唇が触れたのは数瞬だった。
何時ものような性感を高める目的でない、ただ純粋に俺の温度を確かめるように押し付けられた太宰の唇が、分け与えられた熱を持ってゆっくりと離れていく。
言葉は無かった。ただありのままの感情だけが其処にはあった。
「……また一枚噛ませろよ」
「ええ? もうあんな怪獣大戦争は御免だなあ」
くつくつと喉を鳴らして囁くと、太宰は肩を竦めて立ち上がり、何事も無かったかのように笑って俺に背を向けた。俺の体は未だ動かない。それで善かった。追い掛ける必要など無い。
必要があれば、また太宰は何時でも俺を使うのだろうし。
俺もまた、何度だって太宰を殴りに行くのだろうから。
「じゃあね、相棒」
ひらひらと、太宰は振り向きもせずに手を振りながら最後に白い外套を脱ぎ捨てた。太宰に目も呉れられずに舞い上がったそれは、横浜の潮風に攫われて、すぐさま視界の外へと消えていった。
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