愛を売る人

(2014/12/17)


「愛してます、乱歩さん」
 実に何気無い一言だった。
 名探偵たる江戸川乱歩が、思わず内心呆けてしまうくらいには。
「……はぁ?」
 内心、どころか抑え切れず間の抜けた声さえ出てしまう。
 然し目の前の男にとってその反応は想定内だったのか、ふふ、と苦笑するのみだ。男はゆっくりと乱歩の向かい側のソファに腰掛け、噛んで含めるように云う。「愛していますと云ったんですよ。英国風に云うならばラブです。アイラブユー」本気なのか冗談なのか、判り兼ねる口調で飄々と告げる。「私、貴方の為なら死んでも善いわ」
 社内には、乱歩と太宰以外誰も居なかった。皆出払っているのだ。その所為で室内がやけに広いように感じたし、その言葉はやけに大きく響いたように感じた。乱歩はうつ伏せに寝転んでばたつかせていた足をぱたんと置く。目の前の男をじっと見る。
「ええと、御免。意味が判らないんだけど」
「おや、乱歩さんともあろう御方が珍しい。勿論私――太宰治が、江戸川乱歩と云う存在をお慕い申し上げていますと云う意味です」
 如何やら何時もの自殺未遂で言語中枢をやられた訳ではないらしかった。自分の発言している言葉の意味は、正しく認識しているらしい。なら次は、自己の感情の誤認が起こっているんじゃないか。例えばそう、何か別の――乱歩の食べている駄菓子を見て感じた空腹感だとか、室温の高さによる体温の上昇だとか、そう云う――感情を、愛だなんてものと脳が間違えて受け取っているんじゃないか。そう思って乱歩は溜め息を吐いた。まったく、頭の面倒な男だ。
 然し太宰はその内心も読んでいたのか、「ここ何ヶ月かは、頭を強く打つような自殺方法は試していませんよ」などと胡散臭い笑みを深めるばかりだ。「じゃあ溺れて酸素が脳に行ってないんじゃないの」「おや、手厳しい。今日は本当に調子が佳いんですよ。仕事もほら、あの通り終わらせましたし」確かに太宰のデスクに積まれていた書類は綺麗さっぱり片付いていて、国木田などが見ようものなら余りのイレギュラーな光景に真っ青になって卒倒しそうな状態だった。
 乱歩はソファから身を起こす。眼鏡は今、内衣の衣囊の中だ。
「真逆お前の口から愛なんて言葉が聞けるなんてねェ、太宰。何、宗旨替えでもしたの?」
 云いながら、太宰の真意を量る。本当に何時もと変わりの無い、普通の太宰だった。服装やその身だしなみの様子から体温や体調に不良が有る訳ではなさそうだ。昨日見たときから変わらず靴に土が付いていないから、昨夜未明から今朝の出社にかけて通ったのは舗装した道だけ。砂利も挟まっていないとなると歩行距離は限られる。酒場には寄っていない、誰と会った訳でもない。この男をおかしくしてしまう外的要因の痕跡は見当たらない。云々。
 結論。別段変わった処は無し。
 乱歩に観察されていることを承知しているだろうその上で、太宰は大仰に肩を竦める。
「宗旨替え? 途んでもない! 私は生まれながらにして愛の奴隷ですよ」
「それは嘘だろ」
「はい」
 流石乱歩さん、とからからと笑う、その黒い瞳の奥底は読めなかった。超推理を使えば善かったのかも知れないが、生憎と名探偵は依頼が無ければ動かない。仮に理屈付けて動いたとして、自分で自分に『太宰の真意を探って呉れ』なんて依頼を出すのは御免だった。
 太宰は最後にもう一言、愛してます、とへらりと云った。
 風に吹かれれば、簡単に飛んで行きそうな軽さだった。
 
 然しながら人から好かれると云うのは、大抵の場合に於いて悪い気分になるものではない。それは名探偵とて例外ではなかった。
 しかもその相手が、太宰のような、まあそこそこ頭の良く、まあそこそこ容姿も良く、自殺嗜癖なんて云うおかしな趣味を持ち合わせてはいるものの、まあそこそこ此方の意図を正しく汲んで、そうして温室に咲く花を見るように大事に甘やかして呉れるとなれば、重宝してしまうのも無理は無いと云うものだ。
「……だざい」
 掠れた声で名前を呼ぶ。夜の帳をゆっくりと、持ち上げるように。
 隣を見ると、矢張り起きていたのだろう、太宰がその人形のような頬を緩ませ、にこりと柔らかく微笑んだ。
「如何したんですか、乱歩さん」
 優しい声が、夜気に晒された肌を撫でる。その冷えた手の平が、ゆっくりと乱歩の指の先を這って行く。其処から手の甲、手首、腕、肘。つつ、と愛おしげに触られる。けれどそれ以上何をするでもなく、寝台の中、二人熱を分けあってぼんやりと夜の空気に揺蕩う。乱歩はこの時間が、存外嫌いではなかった。少なくとも、異能を使用する瞬間と、駄菓子を食している時間の次くらいには、好ましく思っていた。
 けれど最近は物足りない。言葉が足りないんだ、と乱歩はぼんやりと異能の使えない頭を動かす。
 以前は軽佻浮薄が服を着て歩いているかのように、愛を口にして切り売りし、押し付けてきたこの男から、それが溢れることの回数が段々少なくなっていることを名探偵は認識していた。気付いたのは何時頃からだっただろう。体を重ねるようになってから、何日かの後だ。今日だって、ほら、情事の最中一度だってその言葉を聞いていない。
「……お前、釣った魚には餌を遣らない主義なの?」
 これでは例え恋人と云う関係ではないにしろ、不貞腐れようと云うものだ。
 乱歩の見る限り、少なくとも太宰に浮気の心配は無く、他に好い人が出来た訳でもない。この男は変わらず乱歩のことを愛している、ように見えた。変わらないどころか、その感情はどんどんと重さを増しているようにも感じられる。乱歩の肌を撫でる仕草、くちづけの温度、その節々にそれは露骨に表れ出ていた。言葉は無くとも、乱歩の前では質量を伴い、それは確かに存在していた。
 けれどそれが、言葉が無くて善い理由になるわけではなかった。乱歩は見せつけるように、頬を膨らます子供じみた仕草をしてみせる。
 然し太宰は如何やら、本気で何のことだか判っていないらしかった。はた、と乱歩をじっと見つめ、その真意を考えるように黙り込む。その視線が、僅か斜め上へ。考えるときの、太宰の癖だ。
「……はて、何のことでしょう」
 そうして誤魔化すように、ゆるりと笑う。乱歩は太宰の、そういう処が嫌いだった。その笑みが誤魔化しの為だと、乱歩は判っている。誤魔化す為の笑みだと乱歩が判っていることを、太宰は判っている。判った上で、無言で云うのだ。乱歩さん、聡い貴方のことだ、どうか誤魔化されて下さいねと。
 つくづく卑怯な男である。
 然しその男に絆されてしまったのもまた事実だ。
「足りない」余計な思考を断ち切るように、首筋に縋って唇に噛み付いた。「太宰、云って。愛してるって」
「……そんなに不安がらずとも。愛してますよ、乱歩さん」
 だったら、言葉にして。形にして。自殺趣味なんてやめて、僕の側に居るって云いなよ。
 乱歩の細い体を抱く腕は、何時も通り、壊れ物を扱うかのように優しくて、けれど愛していますと重々しく告げた太宰の顔は、笑っているのに何故だか悲痛に歪んでいた。
 きっと、と乱歩は直感する。理由は判らないが、きっとこの男は数日の内に入水するのだろう。
 無論、何時も通り、乱歩には止める術など無かったが。

「……って、思った矢先にこれだ」
 莫迦太宰、と吐き捨てる。
 病院の一室だった。清潔な消毒液と、病院特有の篭った匂いが、ひどく鼻に纏わり付いた。寝台の上には、数日前に運び込まれた太宰が居た。その肌は、窓から差し込む陽の光を浴びて尚ひどく真っ白だ。雪みたい、なんて生易しいものではなくて。まるで死体のような。
 その死体が、ぱちりと瞬いた。ゆっくりと瞼が持ち上がり、底の無い黒の瞳が光を浴びる。入り口に佇む乱歩を見て、血の気の無い唇がその名前を形取る。ぼんやりと、瞬きを二、三度。
「乱歩さん……?」
 もう一度、今度は確かめるような呟きに、乱歩はひどく腹が立った。何を疑問に思う余地が有るのか。お前の目の前に居るのは、正真正銘名探偵の乱歩さんだよ、とその胸ぐらを掴み上げて千度云い聞かせてやりたかった。
「……太宰、お前、本当に死に掛けてたんだよ。意識不明の重体だ」
「乱歩さんが、見つけて下さったんですか……?」
 これに懲りたら、金輪際自殺未遂などしないことだ――そう言い掛けていた口を、乱歩はぴたりと閉ざした。太宰の問いが間違いだったからではない。太宰がこの短時間で如何してそんな結論に達したのか、判らなかったからだ。
 太宰が数日間行方不明で。死んでいる可能性が在る、と場所を示したのは乱歩で。けれど見つけたのは国木田だ。
 だから正確に云えば、太宰の問いは間違いだ。
「有難う御座います」
 けれど太宰にとってその正否は如何でも善かったのか、ゆっくりと、貼り付けるように笑みを浮かべる。その何かを諦めたような表情が、乱歩には心底不快だった。
「ねえ、太宰」
「何でしょう、乱歩さん」
「僕のこと、未だ愛してる?」
 切り付けるように問うた。多分、何処かしらの皮膚が裂けてしまったに違いない。太宰のものか、乱歩のものか。何方かの、或いは何方もの。
 何時もの太宰で在れば――少なくとも最初に乱歩に対して愛を口にした頃の太宰であれば、へらりと笑って軽々しく、「勿論、この世の何よりも愛しています」などとのたまっただろう。然し太宰は押し黙った。押し黙ったまま、寝台に横たわり、じっと乱歩のことを見詰めている。ゆる、と口元が誤魔化すように緩められた。けれど乱歩は、太宰のその笑みにはもう飽き飽きしていた。
「お前は僕のことを愛してると云ったけれど。愛する者を置いて逝くのは、お前にとって不誠実ではないの」
 乱歩も太宰をじっと見る。その瞳は吸い込まれそうな黒だ。その中に星がちかちかと舞っている。
「……愛が、無くなってしまったのです」
「……はぁ?」
 軈て漸く口にされた言葉に、乱歩は思わず内心呆けてしまった。内心どころか抑え切れず間の抜けた声さえ出てしまう。
 太宰は構わず続ける。
「最初は何気無く、貴方に拾われれば善い。そんな軽い気持ちで、愛をお渡ししました。愛しているとお伝えしました。私は私の心を切って、お渡ししました。それが、切って切って、お渡ししている内に、段々、少なくなってしまって」
 在庫切れなんです、と太宰は笑った。それは何時かの夜、愛している、と絞り出すように告げたときと同じ顔だった。心臓が痛いと喚いてる笑み。その表情で、太宰は泣きそうに云う。
 もう愛を口に出来ないんです、と。
「……莫迦だなァ」
 思わず頬が綻んだ。その言葉は想定外だったのか、ぱち、と太宰がはっきり瞬く。
「僕への愛が、お前の中から無くなったって云うのかい?」
 ぽかん、間抜け面を晒す太宰の両頬を、乱歩はむぎゅ、と手の平で挟み込む。「ふぇ、らんぽひゃん、何でひゅか」と阿呆みたいな声に満足する。「脳が間違って受け取ってるんだ」乱歩は噛んで含めるように云う。
「言葉が詰まって出て来なくなったのを、愛が無くなったのだと勘違いしてるんだよ、お前の頭は。お前の愛は、底を付いてなんていない。名探偵の、この僕が保証してあげる。その証拠に、見てみなよ、ほら」
 頬を挟み込んだまま、じっと覗き込んだ黒の瞳は乱歩の姿を映し出していた。乱歩の姿を映し出すその奥で、ちかちかと星が舞っている。
 瞳に映った存在への愛を、訴えかけるように力強く。
「太宰。そんなに不安なら、お前の心の奥底、僕が浚ってあげようか」
 少なくとも、掬えるのはぺらっぺらの言葉よりよほどマシな何かの筈だ。名探偵はそう断言する。
 超推理を使うまでもない。
「……まったく、敵いませんね、乱歩さんには」
 頬を離すと、太宰が肩を竦めて苦笑した。その顔色は幾分か良くなっていて、唇も薄く桃色に色づいている。
 その口から。
 箍の外れたように、その言葉が、彼の情動と共に零れ落ちた。
「……愛しています、乱歩さん」
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