蓮上舞踊

(2014/10/28)


「あ、広津くん。生きてる?」
 夢の中で、広津はその男を抱えていた。その男の、傷だらけになり、腹から血を流し、息も絶え絶えになった体を抱き抱えていた。それがひゅうひゅうと荒い息をさせながら、何故だか生きてる? などと此方に訊くものだから、広津は思わず「莫迦者」と叱責してしまう。それは此方が訊く言葉だ。
 広津には傷ひとつ無かった。広津が来る前に、敵は全てこの男が――鴎外が殺してしまったのだから。
「だからあれほど、単身で乗り込まず、俺を待てと云っただろうが……!」
 鴎外の重傷はその鏖殺の代償だった。医療班を呼んではいるが、未だ到着の気配は無い。周囲には血の匂いと死の気配が色濃く充満していて、それがじわじわと広津の肺を塗り潰していた。
 この場で息をしているのは鴎外と広津の二人だけだった。他は全て死んでいる。その死体のどれもが、恐怖のあまりに顔をひどく歪ませていて、鴎外がその異能を存分に使用したのだろうことは想像に難くなかった。嗚呼、この男ならば苦戦などする筈も無く、流れ弾に中っただけなのだろう、それでも。止められなかった、一人で行かせてしまった。その悔恨が広津の手の中にひどく重く伸し掛かる。
「だってねえ……僕がやらなきゃ、逃げられていたよ……」
「それでも、頼むから。無茶はして呉れるな」広津は手が汚れるのも構わず、ただ男の体を抱え込む。「もうお前一人の躰ではないのだから」白手袋に染みた赤が、じわりじわりと黒ずんで行く。
 そんな広津の心情などまるで何処吹く風と云った風に、男は視線を彷徨わせ、広津の腕の中でへらりと笑った。
「んー、まあ……努力するよ」

 その夢の中の男の顔と、目の前の男の顔が重なった。
「あ、広津くん。生きてる?」
 薄い唇から零れ落ちる言葉まで重なったのだから驚きだ。随分と古い夢だった。そしてこれは何時かの再現なのだろうか。きっとこの男はあんな些末事、忘れてしまっているだろうが。
 そう思って身を起こそうとするが、上手く体に力が入らない。ただ目の前に、夜の星空が広がるのみだ。視線を少し下げると、夜空を覆う葉が見える、それを擁した木々が見える。次に枯れ葉に覆われた地面が見えて、最後にその上に横たわる自分の腹が見えた。
 包帯を血で真っ赤に染めた、自分の腹が。
「生きてる? あ、林檎飴食べる?」
 意識に沁み出す鈍痛に、広津がぼんやり視線を彷徨わせていると、何故だか口元にぐい、と林檎飴を押し付けられた。ちらりと鴎外を見遣る。薄明かりに浮かぶ夜の闇の中で、にこにこと笑いながらぐいぐいと飴を押し付けて来る、その表情の深奥は読めない。ただ、べたりと砂糖が口周りに付く感覚だけが在って、それがひどく不快だった。
 たべません。そう云おうとして言葉がひゅうひゅうと息として漏れた。腹に力を入れようとするものの、その成果は呼気の出し入れが精々だ。緩く首を横に振ると、「そう? 残念」と、ちっとも残念とは思っていない様子で鴎外はひょいと肩を竦めた。その姿に云いたいことは色々在った。大体、何故林檎飴なのだ。何処かで縁日でもやっているのだろうか、嗚呼、そう云えば、耳を澄ませば祭囃子の音が聞こえるような気がするし、木々の間からぼんやりとした提灯の光が漏れて来ている気がする。人の気配が近いのだな、きっと……。
「――寝ては駄目だよ」
 再び目を閉じようとした広津の意識は、その一言で強制的に引き戻された。
 静かに、然し確かな質量を持って広津の聴覚に齎された己の首領の声に、かっと目が開くのは最早反射だ。無理矢理に体を起こし、木に寄り掛からせる。途端、傷が熱を持ってじくじくと体を焼いた。背にずるりと血の滑る感覚が在る。無意識に唇を舐め取ると、飴とあかい血の味がした。
 段々と意識が覚醒してくる。気を失う前、自分は一体何をしていた? 自分は一体、何を呑気に転がっていたのだ?
 そして視界に捉える、此処には居る筈の無い目の前の己の上司の姿。
「貴方が何故……斯様な処に、居らっしゃるのですか……」
 その疑問を血反吐と共に絞り出す。広津のそんな姿を見て、鴎外は「ああ、やっと起きたのかい」と羽根の舞うようにふわっと笑った。がさりと、その足元で枯れ葉が乾いた音を立てる。
「何故私が此処に居るのか――うんうん、至極尤もな質問だねえ」首肯と共に鴎外が立ち上がり、しゃくりと林檎飴を頬張った。夜気が外套に煽られて、広津の頬を撫でる。「何故君が私の識らない間に私の許可無く斯様な処で斯様な無様な姿で倒れているんだろうと云う私の疑問と同じくらい、至極尤もな質問だ」
 何故。その問いに、靄の掛かったような記憶がずるりと引き摺り出される。敵を襲撃したこと。それが予め読まれていたこと。敵に正体不明の異能者が居たこと。……恐らく、自分達の中に内通者も居たこと。
 そうして不意を打たれ、体を刺し貫かれたこと。
 はっと周囲に意識を遣ると、敵とも味方とも判らぬ屍体が乱立していた。濃く血の熱の漂う、そんな中で。
 此方を見据える深紅の双眸だけが、何処までも冷え切っていた。
 震える声で、広津は謝罪を口にする。
「申し開きも、無い……」
「ああ、善いよ。善いんだ」鴎外はぽいと、食べ終わった飴の串を放り出してニコリと笑う。「戦力配分を誤った僕も悪かったのだから」
 僕。その人称に違和感を感じて、広津は己の首領を見上げた。鴎外はその視線には応えず、ただにこにこと笑うのみだ。
 その瞳の奥に隠されているのは、失望だろうか。広津は震える。君は役に立たなかった、そう、他でも無いこの男に判断されることほど身を裂くものは今の自分には無かった。今も、そして昔も。そう思われて切り捨てられるくらいであれば、この男の手に掛かって殺される方が幾分かマシだった。
 然し、鴎外は広津を殺す素振りなどちっとも見せず、何故だか「よいしょ」と広津の体に跨がった。懐から一本、煙草が奪われて行く。おい、煙草は辞めたのではなかったのか――咄嗟に喉を付いて出ようとしたその言葉は、げほげほと血の混じった咳に遮られて消えた。
「嗚呼、こうしていると昔を思い出すねえ。ねえ、広津くん」じ、と闇夜に一点火が点く。「あの頃は無茶ばかりやったものだった」
 ふう、と煙を吐くその仕草はひどく気怠げだ。広津の腹の上でじっと瞑目するその姿は、まるで何かを待っているかようだった。この男が時間を無駄にする筈も無かったから、それは正しい推論だったのだろう。
「……ねえ、広津くん。あのさ、」
 幾度かの煙の出し入れの後、ぼんやりと切り出した鴎外の声を遮るように――ぴりり、と軽い電子音が鳴り響いた。ぴく、と片眉を上げた鴎外は、あろうことか手にしていた煙草を広津の口に押し付け、「失礼」と端末を手に取った。他人の股の上に座っている方が余程失礼だろう――と広津は思ったが、その体は常の如く軽く、重さも何も感じないので何も云わない。ぼんやりと、自分の口から夜空に立ち上る煙を見上げる。今の自分には、何も口にする資格は無い。
「私だ。中原くん、首尾は如何だい」
 鴎外の口から、幹部の男の名前が転がり落ちる。
「ああ、敵、見つけたんだね。御苦労様。じゃあ場所を私の方に送って」さら、と鴎外の手が、無意識にだろう、広津の腹を撫でて行く。「それで今日は、通常任務に戻って呉れて構わないよ。そちらには私が行こう」
 電話口の向こうからの戸惑いが、広津の方まで伝わって来た。次に命じられるべきは、敵の殲滅ではないのか。そう云う戸惑い。然し当然に呈されたその疑問をひょいと避けて、鴎外は「あ、そうそう」と如何にも態とらしく手を打った。
「芥川くんも其処に居るでしょう? 絶対に、敵に手を出さないように伝えてね。なんだったら、彼を抑える為に多少乱暴な手を使って呉れても構わない」
 何を云っているのだろう、この男は。と、この一瞬だけは、向こうの男と心情をぴたりと重ねられた自信が在った。実際に、電話口の向こうの男はそう訊いたようだった。「俺が乗り込んで、潰して来ます」と。首領自ら出る必要は無いと、忠誠に厚いあの男ならばきっとそう云う筈だった。部下としては、順当な提案だ。
 その言葉に、意外そうな声を発したのは寧ろ鴎外の方だった。純粋に、何故だい、と云った風に、小首を傾げながら問い掛ける。
「え? だって君だと一瞬で潰してしまうし、芥川くんだと一瞬で刺し貫いちゃうでしょう?」

「それじゃあ足りないんだよ」
 その声を聞いた途端、ぞわ、と広津の背を蛇のように悪寒が這った。

 がり、と広津の腹に爪が立てられる。
「それじゃあ足りないんだ。足りないんだよ、判るかい中原くん。マフィアの貨幣とは即ち暴力だが、暴力の価値とは即ち恐怖を生み出すことに在る」
 がりがりがりがり。断続的に与えられる痛みに、広津は歯を食い縛って悲鳴を押し込めた。爪の間にぼろぼろと包帯と血が入り混じって、それでも鴎外は手を止めなかった。猫が爪を研ぐように、精神を集中させるように、己の苛立ちを隠すように。男は柔く柔く広津の腹を剥ぐ。
「歯の根の合わなくなるまで泣き喚き、声を枯らして殺して呉れと叫びを上げ、生まれて来たことを後悔させるくらいでも――なお生温い」
 がり。手の止まった鴎外からずるりと這い出して来たそれは、月の光を浴びて猛り狂ったようにぎらりと嗤った。
 彼の笑みは、達観していたのでも、ましてや広津に失望していたのでもない。
 紛れも無い、それは鴎外の怒りだった。
「だから私が――え? 一人で乗り込めば死ぬかも? うふふ、信用が無いなあ。これでも私はポートマフィアの首領だよ。それに、今重要なのは私の生死ではなく――」鴎外は一度言葉を飲み込み、そうしてこれ以上無く好戦的に笑った。「彼等が未だのうのうと息をし続けていることに在る。そう思わないかい?」
 その声は、メスのように冷え冷えとした光を放ちながら鋭く夜気を切り裂いた。それが電話口の向こう側にも伝わったのか、軽く息を呑み、暫くの沈黙の後――短い肯定の声が返る。
「佳い子だ。『一人も殺すな』、判ったね」
 ぴ、と。終話釦の音が響き、後には何も無くなった。横たわるのは静寂だ。鴎外の激情は鳴りを潜め、広津の荒い息だけが響く。先程より悪化した気分の悪さの中で、広津は理解した。
 この男は、一人で乗り込む積りなのだ。
 組織の為に。そして何より鴎外の為に。
 自分は、負傷するべきでは無かった。
「鴎……外……」
 口の端から、ぽとりと煙草が零れ落ちる。地面を焼くかと思われたそれは、数秒と立たず鴎外にぐしゃりと踏み躙られる。
「うふふ、広津くん、君が謝ることは無いんだ」ぼろぼろと血のこびり着いた細い手が、広津の頬を撫でた。「話の途中だったね。ひとつ、非道い話を聞いて欲しい」
 真っ赤な舌が、ちろ、と覗く。
「却説、これから私は君をこんな目に遭わせたやんちゃ坊主達に折檻しに行く訳だけど」
 そういたずらっぽく笑う鴎外の顔が、何故だか一瞬掠れて見えた。目を擦ろうとして、広津は体の自由が利かないことに気付く。目の覚めた直後の気怠さとはまた違う、意識の乖離。
「気分が悪いでしょう? 手当てがされているにも拘らず血が流れ出していて、呼吸が荒く、意識が朦朧とし、今にも落ちてしまいそうな筈だ」
 それはね、私が正しく手当てしてないからなんだ。そう告げる鴎外の声が、夜陰のヴェールの向こう側から聞こえる。どくどくと、傷が鼓動に合わせて熱を持つのと裏腹に、頭にはすうと血の抜ける感覚が在る。
「そして誰も君が此処に倒れていることを識らないし、誰も君を助けには来ない。君のことを、私は誰にも識らせていない」
 鴎外は携帯端末をひらひらとその手の中で弄びながら、御免ね、とへらりと笑う。何を謝ることが在るのか、と広津は自由に動けるものなら首を傾げたかった。己の命は徹頭徹尾、目の前の男に捧げられている。そんなことは、この男は百も承知の筈だった。如何様に使っても善いのだ。
 然しエコを好むこの男が、自分に無駄死にを要求する道理だけが善く判らない。
「だから、君が私の為に自分を責める必要は無いんだ」
 その言葉の意味を考える間も無く、ぺろりと唇を舐められる。気付けば鴎外の顔が目の前に在った。そのまま、子供が戯れるような口付け。ちゅっと口内に舌が入って、甘ったるく煙草と林檎の味が広がる。
「うふふ。若いころを思い出すねえ」
 鴎外のくすくすと笑う吐息が広津の鼻筋に掛かるが、その顔を広津が視認することはなかった。力の抜けた体が、ぐったりと慣性に従って目を閉じる。けれど鴎外の言葉通り、広津の瞼の裏にも、鴎外の熱を伝って若い頃の夢の続きが蘇っていた。腕の中に鴎外を抱え、慟哭した夜が。一人で行かせてしまった、その後悔が。俺を置いて行くな、せめて、死ぬのならばこの命を共に散らして呉れと願った、その切望が。広津の中で、一瞬に弾け、そして夜の闇に溶けて消える。
 鴎外の熱が、離れた。
「ね、今度はちゃんと、一蓮托生だよ。これなら文句無いでしょう? ……勝手に死に掛ける、君が悪いのだからね」
 その声は、これから広津を見捨てようとしているには驚くほど優しかった。ぼんやりと揺蕩う意識の中、それだけを云い捨て、立ち去ろうとする鴎外の背をうっすらと見遣る。広津は気付いた。鴎外が戻って来なければ、自分の命は此処で果ててしまうであろうと云うこと。仮に自分が果ててしまうようなことがあれば、鴎外も此処への戻って来ることの出来ない体になってしまっているだろうと云うこと。

 自分の命が、この男の命と今、命運を共にしているのだと理解したその瞬間。
 今度こそ、広津の躰は、確かに歓喜に震えたのだった。
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