真珠、ひとしずく。

(2014/10/08)


「織田作の莫迦!」
 遠くに太宰の泣き声が聞こえた気がして、私はゆっくりと意識を浅い処へと引き戻した。途中、何度も力が抜けて、ふっと意識を暗闇の中に落としそうになる処を、何とか歯を食い縛って堪える。太宰を独りで泣かせるなんて、あってはならない。それだけが、ただ只管に私を覚醒へと突き動かしていた。
 そうして目を開けると、其処には太陽を背負った太宰が居た。
 ぼんやりと霞む視界の中で、此方を覗き込む太宰の顔が見える。その表情は、影が落ちて良く見えない。然し如何やら私は太宰に膝枕をされていたようで、手を伸ばしてそっと太宰のその黒々とした髪を掻き上げると、距離の近いこともあって少しだけ表情が良く見えた。
 良かった。泣いてない。
 ほっとしたのも束の間、物凄い勢いで体を揺さぶられ、私は意識を再び手放しかける。
「だ、だざい、待て……」
「織田作の莫迦! なんで私なんて庇うのさ!? 自分の身くらい、自分で守れる!」
「それは」
 太宰を止めようとして、私は太宰の頬に血がべったりと付いていることに気が付いた。愕然として、そうして気付く。これは太宰の血ではなく、私の血だ。見れば先程太宰に触れた手にも血がべっとりと付いていて、そしてそれは私の腹から止め処無く流れ出ているものだと頭がすんなりと理解する。
 そうだ、思い出した。気を失う前、宝石泥棒の放った合成獣に腹を刺し貫かれたこと。そして、核を傷付けられたことを。
 私はゆっくりと自分の胸に手を中てた。なるほど、つるりとしていた表面の輝きは見る影も無く、ぱきりと見事に罅割れている。そうして、私は自分の命の終わりが近いことを識った。きっと珠魅が涙を流せた時代なら生き長らえることも出来たのだろうが、そんな時代は遥か昔に過ぎ去っていることを、私は重々承知している。そんな奇跡に縋る心算は無かった。
 力無く落ちた私の手を見て、太宰がくしゃくしゃに顔を歪める。
「織田作、君は本当に莫迦だよ」
「だが、俺はお前の騎士で、お前は俺の姫だから」なんで庇うのか、なんて理由は至極明快だ。「だから、庇うのは当然だろう」
「だからッ……。私、その姫とか騎士とか、そう云う役割は」
「『大ッ嫌い』なんだろう。識ってる」
 太宰は殊、そう云った種族内の役割分担を嫌っていた。守られるだけ、と云う役割が如何やらお気に召さないらしい。確かに、涙を流せない姫など、云ってしまえばただのお飾りだ。今や大半の姫がその立場に甘んじている。けれど織田作にとって、そんなことは如何でも良かった。太宰を守る、その目的が在ったから、此処まで生きて来れたのだ。
 再び太宰に手を伸ばそうとするが、上手く力が入らない。げほりと咳き込むと、口の中で鉄の味の泡立つ感触が在る。「織田作ッ!」と太宰の悲鳴のような声が聞こえる。核に付いた傷より、その迷子の子どものような声の方が、ずっと胸に痛い。
 ……嗚呼、もう潮時か。
「……お前が大事なんだ、太宰。姫とか、騎士とか、関係無く。俺が、お前を護りたかった」
 珠魅が涙を流すことが出来れば、この命は助かるのかも識れない。その先程の考えを、然し私は静かに否定する。きっと昔みたいに珠魅が涙を流せていたら、こうして私たち二人は旅をしていなかった。だから、私はこれで良かったと思うのだ。
「……お前に怪我が無くて、良かった……」
 段々と、眠たくなって来る。太宰の顔が、もう良く見えない。ぼんやりとした視界の中で、くしゃりと目の前の子どもの顔が歪む。
「え? え? おださく、ねえ、やだ、ひとりにしないで……」

 そのとき、ぽろりと一粒の涙が太宰の目からこぼれ落ちて、私の頬に落ちた。
 私たち珠魅が、流すことの出来ない筈の涙が。

「……! 太宰、やめろ、」
「どうして。どうして」
 ぐすりと鼻を啜ることもなければ、喚くこともない。ただ淡々と、太宰はそのうつくしい大粒の涙をこぼし続けていた。
 落ちる雫が、きらきらと太陽の光を反射して虹色に光る。その眩さに反して、私は自分の顔からさっと血を引くのを感じていた。
「太宰。泣き止め。……頼むから」
「なんで? 織田作が云ったんだよ。私が君の姫だって」太宰は態とらしく首を傾げる。判っている筈なのに、判らない振りをする。「だったらこれは、珠魅として何の不思議も無い営みでしょう。違う?」
「良いから泣き止め!」
 つい、柄にも無く怒鳴ってしまった。びくりと太宰がその身を震わせる。然し一向にその涙が止まる気配は無い。
 珠魅の涙は、自分の命を分け与えるものだ。当然、泣いた者の核が削れる。命が削れる。私は必死に太宰の核を押さえた。やめて呉れ、これ以上は。もうこれ以上は、この男から命を奪って呉れるな。
 そんな私を意にも介さず、はらはらと、儚い涙を流しながら太宰は笑う。
「私が織田作がこんなになっても、平静で居られるパートナーだと思われてるんなら、随分と見縊られたものだと思うよ」太宰は少しだけ、拗ねたような、それでいて誇らしげな口調で云った。「こうなっちゃうと、もう自分で感情のコントロールなんて出来やしない」
 腹に開いた私の傷は、何時の間にか塞がっていた。のみならず、手や足の掠り傷まで全て治癒され、血糊だけがべとりと残っている。
 勿論、私の核もそれは同様だった。私の内心など識らず、太宰の命を貰って、私の赤い核は以前よりも輝きを増して其処に在った。
 痛みも全て引いていた。
 けれどそれ以上に、私は核を刺し貫かれているような気分に在った。
「太宰、太宰、もうやめて呉れ」
 私は堪らず太宰を抱き締める。それにも拘らず、太宰ははらはらと涙を流し続ける。砂漠の砂にそれが落ちて、ゆっくりと染みを作って行く。それと同時に、太宰のまあるく美しい真珠の核が、ぼろりぼろりと崩れて行く。然し太宰は泣き止まない。ただ、私の腕の中から太宰の命だけがこぼれていく。
 それでも、太宰は笑っていた。織田作が無事で良かったと、泣きながら笑っていた。
 私は、お前を癒やすことの出来る涙を持ち合わせてはいないのに。
 私はじりじりと照り付ける太陽の下で、華奢の体を抱き締めながら、ただただ太宰の涙の止まるのをじっと待つことしか出来なかった。頼むから。頼むから、私からこの男を奪わないで呉れ。祈るべき神の無い私が、このときばかりは天を仰いだ。

 太宰の涙は、その核を割らずになんとか止まった。私は一時、安堵の息をほっと吐く。然しそれは、本当に一時の安堵でしかない。すうすうと、寝息を立てる自分の片割れに目を向ける。
 疲れて眠り込んでしまった太宰を見ても、私の目からは、ほんの一筋の涙も流れなかった。
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