美味しい林檎の食し方

(2014/09/20)


 夏の日差しのガンガンに照り付ける中、妾は買い物袋を下げて街中を歩いていた。カツ、カツ、カツ。ヒールを軽快に鳴らし、数歩歩いた処で、ふら、と近くの壁により掛かる。常と変わらぬ歩調を心掛けてはいても、その実風邪に掛かったこの体は異様なほどにずしりと重く、脳味噌のがんがんと揺さぶられる感覚が在る。時折吐き気に襲われることも在って、なんとも気分は最悪だった。
 何も好き好んで、この体調の悪いときに出歩いているのではない。こんなときは外に出ず、薬でも飲んで安静にしているのが一番だ。そんなことは判っている。判ってはいるが実行出来ないのが、一人暮らしの難点だ。食料も薬も日用品も切れているとなれば、自分以外に買い出しに行く人間は誰も居ない。常なら医者の自分が薬を切らすなんてヘマはしない筈だったが、ここ数日の忙しさが祟ったねェ、と妾は微かに舌を打った。探偵社の業務が忙しすぎて、ここの処買い物に行く余裕も無かったのが痛手だった。探偵社の医務室には常に在庫を確保してあるが、自分の部屋のものともなると如何しても管理が疎かになる。
 ぼんやりと、「今日は休む」と連絡を入れたときの、電話口の敦の声を思い出す。年若い虎の少年は、「珍しいですね。お大事に」と心底気を遣って呉れてはいたが、きっとこれほどまでに妾が駄目ンなってるとは気付かなかったろう。これが乱歩さんなら、声だけで妾の体調を見抜いたろうが、けれど矢張り「如何して僕が勤務時間中に与謝野先生の体調不良を心配しなきゃいけないの?」と云って、結局は何もして呉れなかったに違いない。ナオミ、ナオミならお昼休みにでも見舞いに来てくれたかねェ。其処まで考えて苦笑する。まるで甘ったれた小僧みたいに、他人を頼るものじゃなかった。風邪の所為で弱気になりかけている自分に、妾はぴしゃりと活を入れる。
 然し気力だけで乗り切れるものでもなかった。照り付ける暑さも相まって、数歩も行かない内に、妾の手は日傘を取り落とした。あァ、拙い、と思ったときには既に遅く、妾はふらりと蹌踉めく。
「……っとぉ」
 その声と共に、背後からとん、と背中を支えられた。確りとした男の手だ。幾ら体調が悪いと云っても、見知らぬ他人に無遠慮に触られるのはあまり気分の好いものじゃあない。礼より先に、何すんだい、気安く触るんじゃないよ――と云い掛けた妾は、振り返り、そうして其処に立つ予想外の人物を目にして一瞬びくりと固まった。
 その男は、妾の内心を知ってか知らずか、にこりと胡散臭い笑みを浮かべる。
「随分と具合が悪そうだ。お荷物お持ちしましょうか、お美しいお嬢さん」
「結構だよ」妾はなんとか、動揺を押し隠してその手を振り払った。「生憎と、ポートマフィアの手を借りるほど落ちぶれちゃあいないモンでね」
「なんだ、相変わらずつれねえな」
 そう云って、ポートマフィアの重力遣い――中原中也はからからと笑った。
 その姿を目にし、妾は自分の中の不快指数が一気に上昇したのを、まるで血圧が上昇したみたいに感じ取っていた。強い男は嫌いじゃあない。けれどマフィアなんて人殺しの組織に所属している底無しの阿呆は大嫌いだ。喫煙なんて、気取った自傷行為に耽る男も嫌い。その上妾を支えるその体からは、恐らく『仕事』帰りだったのだろう、微かに血と硝煙の匂いが漂って来ていて、それが何より不快だった。
「アンタみたいのが昼日中から闊歩してるとは、まったくこの世も末だねェ」
「マフィアは何も、太陽の光を浴びたら灰になっちまう訳じゃねえしな」男は大袈裟に肩を竦める。「若しそうなら、俺は今頃アンタの血でも吸ってなきゃいけない処だ」
 だったらその首切り落とすのに、銀の鉈を特注しないといけないねェ。そう軽口を叩き返そうとして、然しそれは叶わなかった。再度ぐらりと眩暈が襲って来たからだ。ふっと全身から力の抜ける感覚。妾は立っていられなくなって、思わずその場にしゃがみ込む。
 じっと傍らの男から観察されている視線を感じるが、そんなものには構っていられなかった。通行人の好奇の視線にも気が向かない。ただ只管にぐるぐると臓腑が揺さぶられる感覚。きもちわるい、はきけがする。然しこんなのは一過性のものの筈だ。妾はぎゅっと目を閉じて、嵐の過ぎ去るのを待つ。
 ふっと、照り付ける日差しから覆うように、妾の上に影が落ちた。
「病か? 怪我か?」
 火事ですか、救急ですか。そんな呼び掛けを思い起こさせる声だった。救急だ。自分が医者で、患者に対してならそう判断する。けれど患者は自分で、これは単なる風邪だと知っている。薬を飲んで、安静にしていれば治る風邪。態々救急車を呼ぶまでもない。力無く見上げれば男は携帯端末を取り出した処で、妾はその袖を掴んで止めて、「必要、無いよ」とだけ云って俯いた。どっちかって云うと、要るのは110番だ。喉まで出かかったその言葉を、然し口にすることは出来ない。
「……あーあ、医者だの科学者だのって人種は如何してこう、資本を大事にしねえんだろうな?」呆れたような声が降って来る。「医者の不養生とは良く云ったもんだ。……アンタ、家は?」
 遠くに聞こえる声に、妾はゆるゆると首を横に振った。マフィアに家を教える阿呆が居る訳無いだろう、と云い掛けて口を抑える。あンまり大きく首を振ると、吐き戻してしまいそうだった。如何とでも取れる返答を、然し男は正しく受け取ったのか、「強情だねえ」と溜め息を吐く。
「じゃ、ここは精々マフィアらしく、問答無用で攫うとするか」
 途端、体のふわりと浮いた感覚が在った。体を横に、抱き抱えられたのだ、と一瞬後に認識する。気付けば落ちないよう、無意識に自分を抱き抱える相手に縋っていた。横になったことで、少しだけ吐き気が楽になったのを感じる。
「なんだ、アンタ、結構軽いんだな」
 男の何でもない一言を最後に、妾の意識は其処で途切れた。



 次に目が覚めたのは、見知らぬ部屋のベッドの上でだった。
 ぼんやりとした意識の中で、妾の目が部屋の全容を捉える。ベッドとサイドテーブルと、クローゼットとローテーブル。それだけがフローリングの上に置かれている、こじんまりとしたワンルーム。生活感の余り無い、無機質な中にも上品さを感じさせるその空気は、持ち主の趣味の良さ故だろうか。滔々と流れる妾の思考を、カーテン越しの夕焼けが柔らかく包み込む。とん、とんと何処かで包丁の音が聞こえる。
 すん、と鼻を鳴らすと、上品な男性用の香水の匂いが微かに漂っていて、煙草だとか、血だとか、火薬だとかの匂いはちっともしない。他人の匂いに包まれながら眠るベッドに、然し不思議と居心地の悪さは感じず、妾は起き上がらずにじっと天井と見つめ合っていた。
「ああ、起きたか」
 その視界に、男が割り込んで来る。中原中也。ポートマフィアの、最重要警戒対象だ。それが何故だかエプロンを身につけて、ベッドの傍らのスツールに腰掛け、此方をじっと見つめている。その目は幾ら陽気な笑みを浮かべていても、何処までも昏く光るだけだ。
 何でこの男に身を任せたんだろうねェ、と意識を失う前のことを思い返してみても、思考能力の落ちたあのときの自分が何を考えていたのかさっぱり判らなかった。ただ、体に気怠さの残る今の自分ではきっと、殺されかけてもまともに抵抗など出来やしないのだろう。だったら今暴れる訳にもいかない。取り敢えず、身を起こして警戒態勢を取る。
 その中原中也が、ずいと皿を差し出して来る。
「食うか?」
「……何だい、それは」
 云って首を傾げる。
 皿の上には、几帳面に兎の形に皮を剥かれた林檎がちょこんと並んでいた。
「何って、うさぎちゃんだよ」知らねえのかよ、と男は呆れたように爪楊枝を片手に、皿に行儀良く並んだ林檎を指差した。「いいか、まずこの皮の尖った部分を耳に見立ててェ……」
「ンなこたァ知ってるよ」男の言葉を途中で遮る。何が悲しくって態々、兎の形の林檎の解説を受けなきゃならないんだい。「妾が訊いてるのは、何でアンタにそんなスキルが備わってて、何でそれを態々今妾に披露してんのかってことさ」
「何でも何も、風邪んときの食い物っつったらこれって相場が決まってんだろうが」煩えお嬢さんだな、と莫迦にしたような云い方にかちんと来る。「嬢ちゃん扱いするンじゃないよ」と噛み付くと、アンタはお嬢さん以外の何でもねえよと、男は悪びれもせずに笑った。
「莫迦にしてンのかい」
「気にするねえ。別に、女だからって侮ったりしねえよ」妾が手を出さないのを見て取ったのか、男は皿をサイドテーブルに置いて林檎をひとつ爪楊枝で刺し、しゃくりと齧って平らげる。如何やら男は至極上機嫌なようで、楽しそうに爪楊枝を揺らしている。「ただ、女の躰が男より弱いのは、純然たる事実だろ。骨の付き方にしろ、筋肉の付き方にしろ。まあ痛みには、女の方が強いらしいけど」
 その差異まで盲目的に否定するのは、唯の莫迦に俺には思えるがねえ。そう云って、なおも云い募ろうとした妾の額を、男はぴたりと掌で押さえる。
「……何の真似だい」
 殴られるのか、と咄嗟に身構えるものの、男は何の攻撃も仕掛けて来ない。仕掛けて来ないまま、男はもう一方の空いた手を自分の額に中てた。まるで熱を測るかのようなその動作に、妾は一瞬唖然とする。妾の視線に気付いたのか、「生憎と、体温計なんて文明の利器はこの部屋には置いてなくてね」と苦笑する男の手は、不覚にもひんやりと気持ちが良かった。
「……よし。薬は効いてるみたいだし、熱も大分下がってる。それだけ元気ならもう大丈夫だろ」
「薬?」
「ああ、安心しな、毒じゃねえよ。ちゃんとした解熱剤だ」そう答えてから視線を逸らして、男はとんでもない言葉を口にする。「起きなかったから無理矢理口移しで飲ませたけど、まあアンタみたいな美人さんなら初めてって訳でも無えだろうし、別に構わねえよな?」
 そのあんまりな言い草に、は、と一瞬呆けてしまった。今更純潔だの何だの云う積りは無かったが、かと云って目の前の男に、そう、寝ている間に唇を奪われたことが許せるかと云うと話は別だ。目の前ががくんと電気を落としたみたいに真っ暗になりかけた処で、それまで妾のことをじっと見ていた男がけらけらと可笑しそうに笑った。
「冗談だよ。其処に置いてたら、アンタ起きて自分で飲んでたぜ」
 見ればサイドテーブルに、確かに水の入ったコップと錠剤の袋が置いてある。声を上げて笑う男に、妾もにッこりと笑って鉈を探した。見回すと、丁度部屋の反対側に立てかけてあって、取りに行くには如何しても男の横を通る必要が在る。後で殺す、と妾の殺気立った視線に気付いた男が、「怖え女」と肩を竦めた。
「云って善い冗談と悪い冗談が在るよ」苛立ちを隠しもせず、妾は叩き付けるように云った。「あと、妾は女に対してそう云う扱いをする男が大ッ嫌いだ」
「そういちいち腹を立てるんじゃねえよ。女だからって優しくしてやる積りは無えし」男はふいとスツールから立ち上がる。「女だからって、此処で始末するのを躊躇う積りも無えんだから」

 次の瞬間、唐突にずるりと体が重くなる。風邪の症状とは全く違う、外部から掛けられる重圧だ。臓腑を潰されるような感覚に、耐え切れずベッドに仰向けに倒れ込む。それでも未だに続く、心臓の圧迫される感覚。空気が気道から漏れ出る。
 此方を睥睨する男の黒々とした目が、獲物をじっくりと見定めるように深淵から此方を覗き込む。そのまま男に伸し掛かられるが、抵抗は愚か指一本すら動かすことが叶わない。圧倒的な力の前に、上手く息が出来ず微かに空気が震える。
「ッか、は……」
「なんだっけ? 半殺し……でないと、使えないんだったな、アンタの異能?」男は笑う。浮かんでいるのは先ほどまでのからりとした陽気な笑みではなく、もっと毒々しい、獰猛な肉食獣の笑み。それが妾の躰を喰らうように、肩口を強く抑え付ける。「若しかしたらその方が、手っ取り早く治るかも知れねえよな? 試してみるか?」
 頬をゆっくりとなぞり上げられる感覚に、背筋にぞわぞわと怖気が走る。男はただ、ひどく冷たい目で此方を見下ろすのみだ。きっと犬猫を甚振るのと同じような感覚で、この男は妾を殺すンだろう。多分、常日頃から人間相手にやっているのと同じように。
 這い寄る死の足音に、妾はぎゅうと目を瞑った。あの街中でだって、殺されていてもおかしくはなかった。ただ、少しばかり予定が先延ばしにされただけだ。だからどっちにしろ、この結果は同じだったんだろう。
 それでもせめてもの抵抗として、ただただ必死で、妾はその一言を捻り出す。
「妾の、異能は、病は管轄外だよ……ッ」
 その言葉を聞いた途端、男の表情がふっと緩み、重圧は音も無く掻き消えた。
「なァんだ、残念」
 男が身を起こし、詰まらなさそうに呟くのが聞こえた。それだけだった。他には何も云わず、ただはっ、はぁっ……と妾の酸素を取り入れる音だけが暫く部屋に響いた。
 肺が微かに痙攣していた。妾はシーツを握り締める。体調不良だろうが全快だろうが、如何したって敵わなかったろう自分が、堪らなく悔しかった。



「……却説。俺はもう行くぜ。この部屋はアンタにやるから、好きに使えよ」
「やるって」息を取り戻した頃に、さらりと告げて出て行こうとした男に妾は絶句する。「阿呆かいアンタ。花や菓子じゃああるまいし」
「ええと、賃貸の契約関係の書類はそっちの棚ン中で。更新まで確かこの部屋は」人の話を聞く気が無いのか、ひい、ふう、みいと男は指折り数える。「……五ヶ月在ったか? それまで家賃なんかは俺の口座から引き落とされるし、ああ、大家の連絡先も一緒に入れてるから」
「そういうことを云ってンじゃあない。妾が貰う理由が無いだろ」
「ンー……あー……」男は暫く唸った後、閃いた、とぱちんと指を鳴らす。「誕生日プレゼント」
「莫迦、妾の誕生日は十二月だ」
「十二月ね、覚えとくよ」
 男の調子に乗せられて、無駄に個人情報を売り渡してしまった。余裕の在る態度に腹が立つ。
「……ま、実際、探偵社の人間に知られてるようなセーフハウスなんて、使えねえんだからどっちだって構やしねえんだ」
 その言葉に、妾ははっと口を噤んだ。そうだ、巫山戯た言動を前に忘れていたが、この男は体調不良の妾を運び込む為に、セーフハウスを一つ潰してのけたのだった。頼んだことではなかったが、然りとてこのまま何も云わずに見送ってしまうのも礼儀知らずと云うものだ。助かったのは事実なンだから。
 礼を云おうとした妾を「あ、そうそう」と思い出したように男が遮る。と、ぽん、とスティック状の何かを投げて渡された。見ればリップクリームだ。随分と可愛らしいプリントがされている。赤い包装。『アップルの香り』。
「ここンとこ忙しかったのか、気を遣う暇が無かったのは判るがな」唇に人差し指を宛て、男はいたずらっぽく笑った。「そんなに荒れてちゃ、折角の美人が台無しだ。……次はもっと、柔らけえのを期待してる」
「……はァ?」
 意味深な男の言葉を妾はゆっくりと噛み砕き、そうしてその意味にはたと気付いた。カッと頭に血が上る。それが怒りの為か、それとも何か別の感情に起因するものか、咄嗟のことに判断が出来ない。
「二度と妾の前に姿を見せンじゃないよ、この碌でなし!」
 投げ付けたリップクリームが、扉にかんと中って跳ね返る。褒め言葉だよ、なんて巫山戯た笑い声が扉の向こうにさっさと消えて、後に残された妾は一人、腹立ち紛れに傍にあった林檎の兎をしゃくりと一つ平らげた。
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