愛しのアルマース

(2019/08/10)


 ドラコニア・ルームの中では、静寂がささめきあっていた。
 一歩足を踏み入れると、それは一瞬ぴたりと止む。ぐるりと威圧するように配置された壁一面の無数の匣、そこに宝石のように収められた結晶体たちが息を潜め、反射する光を凝らして侵入者を見定める。そうすると、壁全体がうねって、まるで鯨の胃の中にでも入り込んだかのようだった。そうして食道から現れた主の姿を認めると、また絢爛の息を吹き返し、各々好き勝手に煌きを振り撒き出すのだ。澁澤はその様子を見るにつけ、まるで噂好きの婦人の集いのようだ、と感慨無く思う。
 然し今日はその様子を愛でる為に異能を顕現させたわけではなかった。結晶体たちの囁きを気に留めることもなく、部屋の中を真っ直ぐに進む。磨き抜かれた光沢を放つ床が、澁澤の外套の裾の裏地を照らす。目当ての結晶体がどれだっただろうか、などと迷うことは無い。どの結晶体がいつ何処でこのコレクションに加わり、どのような能力を持ち合わせているのか。澁澤はそのすべてを記憶していた。
 唯一記憶出来なかったのは、それが入っていた外側の容れ物の特徴だけだ。
 未だ埋まらない中央の台座の横を通り過ぎ、一つの結晶体の前に辿り着く。匣の中で浮遊する結晶体の表面には自分の顔が映り込んでいて、その表情は思いの外柔らかだった。おや、と思う。今日の私は、如何やら機嫌が善いらしい。
 特にその事実には心動かないままコレクションに手を伸ばし、結晶体の一つを手に取った。

『次は日本などいかがですか』
 通信機からの単調な声を聞いていたのは、或る昼下がりのことだった。頼んだアイスコーヒーが、程よい苦さで澁澤の渇いた喉を潤す。新緑を湛える山脈の向こうに透き通った空を仰ぐカッフェのテラス席で、澁澤はその男の提案を聞いていた。
『実は、貴方に引き合わせたい異能者が居るのです』
 此処には居ない筈のその男が、眼前に座ってうっすらと笑み、小首を傾げる様まで見えるようだった。揺れる射干玉の髪、冷ややかな感情を移す紅玉の瞳。グラスを伝い落ちる水滴がテーブルを僅かに濡らす。彼のことだから、その提案は当然親切心からではないだろう。などと云えば、彼は「失礼ですね。これでも僕は、貴方の為を思って行動しているつもりですよ」などと嘯くのだろうが、その実動機は「その方が自分に利がある」か「面白いから」のどちらかだ。後者の場合は少し厄介で、彼の愉快の判断は私には少々つきかねる、と澁澤は常々思っていた。
 然し、と辺りを見回す。テーブル席で歓談をする女性客、淡々と業務をこなすウエイター、雑然とした人の気配、少しの空席。上空を緩やかに流れる雲。広がる退屈な日常。この地の目ぼしい品を蒐集し終え、些か退屈し切っていたことも事実だ。結局、どの蒐集品も、澁澤の空虚を埋めるには足りなかった。
 だから乗ってやっても善い。
 幸いにも、他に引く手もあることだし。
『――貴方の名前に含まれる龍と云う字はドラゴンを指すのでしょう、そう、日本で虎になる異能を持つ少年も見つけたんですよ。龍虎とは似合いだと思いませんか』
「へえ」
『何か思い出しませんか?』
「虎に纏わる思い出を? ……いや」
 言葉遊びにしては、引っかかる物云いだった。何か思うところがありませんか、ならば澁澤もいいや、特にと答えたが。虎。……虎か。ぼんやりと昔の記憶を辿る。実物は飼育されているものを見たことがある。皮を取引したことも。それ以上は――霧が掛かったように思考がよく働かずに首を傾げる。虎の異能者。――いや、確かに今のコレクションには居ないし、これまでにも会ったことは無い。
 くっくっ、と喉の奥を鳴らす笑い声が聞こえる。
『それともうひとり。異能無効化の異能力者――太宰治』
 カラン、とグラスの中の氷が軽い音を立てた。そちらは記憶にある名前だった。
 以前、日本に滞在していたときに会ったことのある少年。
 当時はポートマフィアの幹部候補だった。今はマフィアを辞め、武装探偵社と云う組織に所属することになったと聞いている。
 互いに絡め取るように視線を交わしたスモーキークォーツの瞳を思い出す。あの一瞬で、彼は自分と同類だと気付いた。この世界に、空虚を抱えて生きることを運命付けられた人間。彼は未だ、組織の一員として悲劇を演じ続けているのだろうか。
 ――私を失望させてくれるなよ。
 彼は――私との約束を覚えているだろうか。
 飲み込んだ珈琲の味はよくわからなかった。心が浮足立って、それどころではなかった。
 覚えているのなら、果たされるべきは今ではないか。
 この渇きが満たされるべきは。
「……わかった。君の提案に乗ろう」
『ええ、そろそろ手引きもあるはずでしょう』
 それには答えず通信を切った。確かに澁澤の手元には、一週間後の日付が印字された日本への旅券と偽造されたパスポートがあった。澁澤は現在、国際的な指名手配犯である――それを日本に呼びたいとの匿名の招待があったのがつい先日だ。住居を転々とする澁澤の元に迷いもせずに届いた封を陽光に透かす。差出人は、テロリストを装っているが、その思惑は別にあることは間違いが無かった。私を脅かすには足りない、と澁澤は思う。もっと臭いを上手く消さなければ、私を満足させるには足りないのだ。
 然し、乗ってやっても善い。呼ばれている、と感じていた。あらゆる事象が、澁澤をあの東洋の島国に呼び込もうとしている。
 日本か。
 そう云えば、と澁澤は思う。私も一人、約束していた相手が居たな。
 生きていれば、また会おう――と。

 手に取った結晶体に込められた力を解放する。目の前で光が何重にも糸を成し、手のひら大の塊を形成したかと思うと、軈て澁澤の目の前に一枚の光沢紙が現れた。記憶に浮かべた光景を、転写する異能。澁澤の手にした写真には、今しがた澁澤が念じた光景が、実際に撮影したものと寸分の違いなく鮮明に写っていた。
 それは、荒れた宝石店の店内と、其処に佇む一人分の人影。
 名前も知らない赤毛の男。

     ◇ ◇ ◇

「この男を知らないだろうか」
 翌々日、澁澤は写真を片手に聞き込みをしながら朝からヨコハマの歩き回っていた。
 雨上がりの舗装路に、革靴の音を響かせる。服は手製のもの――と云いたいところだったが、それはトランクにしまって滞在先に預けていた。動き回るには向いていないし、事を起こす前から人目を集めるのも面倒だ。選んだのは目立たない紺のジャケットとグレーのチノパン。豊かな白髪は乱雑に一つに纏め、機動性を重視した。初夏の日差しに対抗してキャスケットを購入したお陰か、幸いにも未だ通報された様子は無い。然し澁澤は、誰にも自分の動きを感知されていないだろうとは思っていなかった。少なくともこの国の内務省は、そこまで無能でないはずだ。
 ただ、送られてきた旅券はびりびりに破いて捨てたから、恐らく今頃は何処かの駅のトラッシュから焼却されている。態々澁澤を呼び付けたい人間の思惑通りに行動する必要は無かった。想定より早いテロリストの到着に、裏で糸を引く人間は今頃少しくらいは慌てているだろうか。マァ、ドストエフスキー君などは「仕方のないひとですね」と苦笑しているに違いないだろうが。彼に対する遠慮などはするだけ無駄だ。
 昼どきを過ぎ、あァ、これは予想以上の長丁場になるだろうか……と頭上を過ぎゆく太陽を仰ぎ、これから自分が選定すべき昼食のメニューへ思いを馳せたときに、その反応はあった。
「えっ。あ、織田作さん……」
「織田作?」
 写真を見て、はっ、と口に手を当てたのは、ケーキショップで働く女だった。舗装された通りに面した店舗がずらりと並ぶ区画、その端で併設のカフェを屋外に出している店で、女は通り過ぎた雨に濡れた椅子やテーブルを拭いているところだった。
 そこで初めて私は、その男の名前が織田作之助と云うのだと知った。
「ええ。……ええと、貴方は、彼の、その……何です……?」
 不審さを隠しながら逆に訊かれて首を傾げた。あのときは、何だったか。そう、確か鑑識と何処かの組織の使い走りだ。……と告げても、それをこの女性が理解をすることは無いだろう。「友人、とでも云うのだろうか」言葉を探して、一番無難と思われた単語を告げる。
 友人。
「それは……ご愁傷様です。晴れた日なんかは、仕事帰りにうちによく買いにいらしてたんですよ。毎回、決まって六つ、ケーキを選んで。でも……今は」
 そうして女は、店内に駆け戻ったかと思うと、細長いパンフレットを手にして戻ってきた。この街の、観光案内のパンフレットだ。その地図のページに、女は赤いボールペンで小さな丸を何度もぐりぐりとなぞって書いた。現在地点からの道順も。私はその通りに歩いた。
 辿り着いたのは、人けの無い、ただ両脇に植え込まれた紫陽花の静かに揺れる墓地だった。

「……そうか」
 家族などの縁の無い者が纏めて葬られたと云う無名の墓の前に立ち、すとん、と納得が腹に落ちた。そのとき抱いた感情は、残念だ、とも、悲しい、とも似つかなかった。ただ、彼は死んだと云う事実が其処にあり、私がそれを認識したに過ぎなかった。そうか。
 風が吹いて、薄紫の紫陽花の萼から、雨粒が真珠のように滑り落ちて土を濡らした。
 この結末は、どこかで予想していただろう、とドラコニアが囁く。ああ、と澁澤は首肯する。何故ならば、彼こそが自分の空虚を埋める存在だとは、澁澤は終ぞ感じたことは無かったからだ。
 澁澤を満たす存在ではなかったし、それを自分は理解していた。
 それでも。
「……こんなことなら」
 無意識に、満たされなかった腹を撫でる。くぅ、と空腹を訴える音が聞こえた気がした。
「こんなことなら、あのとき、君を食べておけばよかったな……」
 薄々、彼は異能力者ではないかと感じていた。だから、あのとき殺してしまえば善かったのだ。ドラコニアの中に取り込んでしまっていれば。そうすれば、こんな無粋な土の中に彼の存在を埋めることにはならなかった。
 火で炙られ燃え落ちるように、抱いた喪失感が広がる。急速に喉の渇きを覚え、澁澤はぎゅっと目を瞑った。
 私の追い求める、ただ一つの空白。それを早く探しに行かなければならない。
 そう、彼を。

 ――そうか、君も……。
 ――ならば、最大限の努力を約束しよう。

「……君は。約束を果たしてくれるだろうか、太宰くん……」
 一度だけ、友人に対する祈りを残し、澁澤はその静けさの眠る場所を後にした。
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