書店員敦くんと新人作家の太宰さん

(2019/05/06)


「この作家、お好きなんですね」
 レジで突然声を掛けられて驚いた。何処から聞こえてきたのだろう、と見回すまでもない。発信源はレジカウンターの向こう側。詰まりは太宰の真正面の少年からだった。書店名がプリントされたエプロンには名札が付いている。「中島敦」。この少年の名前だろう。その中島少年が、銀の髪を揺らし、俯いてぽつりと呟いた。まるで返答が無くても傷つかないよう、自分を守っているかのようだ。
 太宰は軽く驚いた。この少年、こんなふうに喋るのか。いつも差し出された商品を黙ってバーコードに通し、何円になります、と機械的に告げる、その声しか聞いたことがなかったから、年相応の声がその口から聞こえるのも意外だったし、その声が透明感に満ちていたのも意外だった。
「ええ、まあ」
 曖昧に頷く。好き、と云うのはあまり正確ではなかった。何故ならこれは太宰が自分で書いた本だったからだ。好き、と云えば何やら自己愛に塗れているようでみっともない。さりとて嫌いと云うほど自虐趣味も無い。だから曖昧に濁した。出版社から献本も貰っているのに、態々書店で購入するのは自己愛に塗れた行為ではないのか――と云う点には、太宰は敢えて言及しない。
 中島少年は、太宰から返答の在ったことに喜んだようだった。その人懐こそうなまんまるい瞳が、じっと此方を遠慮がちに見る。何円になります、とレジに表示された数字を読み上げながら続ける。
「これがお好きなら、あの本もお好きなのではないですか。ほら、あの……」
 そして彼が口に上らせた書名は、どれも太宰の愛読している本ばかりだった。太宰の家に行けば、随分とくたびれた様子のそれらが読めるだろう。そう言えば、この書店で買ったことは無かったか。太宰は思案する。それよりも、この少年が自分の買った本を覚えていて、そしてそこから自分の好みの傾向まで予測していたことが驚きだった。しかも中っている。そう告げると、中島少年は「これでも物覚えはいい方なんですよ」と笑った。
「君、この作家の本は読んだの」太宰は自分の書いた本を指した。
「ええ」少年ははにかんだように頷いた。
「如何だった」
「如何って。よかったですよ」
 曖昧に濁された、と思った。先刻頷いた太宰の声と、少年の声が同じトーンだったからだ。そうじゃない。この少年はその奥に、もっと複雑な言葉を抱え込んでいる筈だった。
「君、君」
 太宰は態と焦らすように訊く。
「私がそんなありきたりな言葉を望んでいるのではないと、判っているでしょう」
 中島少年が、太宰の意図を測りかねたように、きょとんと首を傾げた。そうしながら、然し手元はすっと流れるように本にカバーを付けて、袋に入れているのだから、年季の入り様が見て取れる。太宰はその様子を眺めながら、再度念を押すように問う。
「率直な、君の思いを聞かせて呉れ給え」
 少年は、漸く思い至る答えがあったのか、ぱっと弾かれたように顔を上げた。太宰と真っ直ぐに、目が合う。その瞳が忙しなく左右に揺れて、それから、袋と一緒にその言葉が太宰に押し付けられた。
「……ぞっとしました」
「ぞっと?」
「自分の裡を、凡て暴かれたのではないかと。心を丸裸にされた気分でした。……まるで、僕自身をつぶさに観察して描かれたみたいだった」
 太宰は思わず笑い出しそうになる。そんな感想を聞いたのは初めてだった。皆一様に、あれはよかった、感動した、と綺麗な言葉を並べ立てるばかりだったから、飽き飽きしていた処だった。
 なおも畳み掛けるように訊く。
「君はそれが、嫌だったのかい?」
「……それが不思議と、嫌じゃあなかったんです。嫌じゃあなくて。むしろ、そう」中島少年は、今度こそ羞恥に頬を染めた。一瞬躊躇い、然しそれしか言葉が見つからなかったのだろう、囁くように云った。「……一種のきもちよささえ感じました」
 太宰はたまらず、ぐい、とカウンターに身を乗り出す。
「ねえ、君、この後暇だろう。一緒にお茶でも如何かな?」
 え、と少年が息を飲み込む。それは、所謂、ナンパと云うやつですか。それはちょっと。もごもごと口の中で呟く少年に、「じゃあ君は一体何を期待して私に声を掛けたの」といやらしく笑って云うと、少年は恥ずかしそうに俯いて、それから小さく頷いた。店を出るときに振り向いて見ると、さらりと流れた銀の髪の隙間から見えた項は、微かに赤く染まっていた。

     ◇ ◇ ◇

 それからのことは、まァ、語るも野暮だろう。太宰は窓枠に腰掛け、ふーっと朝靄に煙管の煙を燻らせた。中島少年との時間は、太宰にとってとても楽しいものとなった。お茶も美味しかったし、思いの外文学談義に花が咲いたし、暮れかけた陽を見て慌てた少年の「送っていきましょうか」と云う申し出はとても紳士的だったし、その言葉に甘えて自宅へ連れ込み一夜を共にした少年は昨晩の熱の籠もったベッドを占拠して安らかな寝息を立てている。和装の裾が乱れないよう抑えながら、薄ぼんやりとした朝日に欠伸を一つ。いい朝だ。部屋を満たしていた爛れた空気は、時折吹き込む気持ちの良い風に既に一掃されている。
 不意にピピピ……と電子音が響いた。
 ベッドの方に目を向ける。枕元に置いてある電子端末二つのうち、一つが朝を報せるアラームを鳴らしているのだ。壁掛け時計を見遣れば午前六時過ぎ。成る程、この少年は何時もこの時間に起床しているのか。
 ――君、明日は何か予定があるの。
 ――え、いえ……明日は学校も仕事も休みなので……。
 昨晩の会話を思い出す。彼の云う通りならば、太宰が無理に起こすこともないだろう。そう判断して暫く音の鳴るままにしていると、にょきっとベッドから手が生えた。それがばふばふ、と枕を叩く。その様子に、ふふ、と思わず笑みが漏れる。
 少年の手はと云えば、普段と就寝環境が違う為か中々端末を探り当てることが出来ないようで、頻りに空振りを繰り返していた。まるでもぐら叩きでも見ているかのようで、見かねて「よいしょ」と窓枠を降りる。煙管を置いてベッドに腰掛けると、寝台の軋む音で少し意識が浮上したのか「ん……」とあどけない顔を上げた少年の手に端末を握らせてやる。
「お早う、少年。昨晩は、善く眠れたようで善かった」
 そう云って微笑みかけると、「ふぁい、おはようございます……」と思いの外素直な返事が返ってきて苦笑する。如何やら彼は未だ夢の国の住人らしい。アラームを止め、マットレスに手を突いて横座りをしながらごしごしと目を擦っている。
 然し、段々とその手の動きが鈍くなってくる。あれ?と首を傾げる様子。此処は何処だろう。僕は如何して、自分の部屋に居ないんだ? 浮かぶのはそんな表情だ。
 朝焼けの色をした瞳の焦点が合ってくる。
 と同時に、それがバッと太宰の方を向いた。口がぱくぱくと、声にならない音を出して、閉じた。
 開いた。
「あの、僕……?」
「ああ。昨晩は愉しかったね」
 囁くように云うと、昨晩のことを思い出してか、少年の耳がカッと赤く染まった。火照った熱が、空気を伝って太宰まで伝わるかのようだった。然しそれも束の間、みるみるうちに顔が青褪めていく。太宰はその忙しない感情の行き来を見て、そう云うからくり人形みたいだ、と思った。何処かにボタンがあって、それを押すとぱっと表情が切り替わるのだ。玩具屋の店頭で、善く壊れるほど押したものだった。
 次いでがばり、と少年が身を起こしてシーツをめくる。
 一糸纏わぬ少年の体が其処にはあった。体つきは少し痩せ型で、抱き心地は正直善くなかったが、それはお互い様だろうと思ったのも昨晩だった。「君のパンツなら其処だよ」床に脱ぎ散らかされたそれを指すが、果たして聞こえただろうか。
 朝、見知らぬ他人の部屋、素っ裸の自分。
 目の前の年上の男の、掠れた声。
 何処を如何取っても、紛うこと無き一夜の過ちの跡だった。
「あ、あ、あわわ……あの、なんと申し上げれば善いのか……」
 少年の声は、太宰から性行為を誘ったとき以上に動揺していた。釣られて昨晩のことを思い出し、太宰は思わず俯いて口元を抑えた。
 とても楽しい。
 と、がしっと手を両手で包まれる。
「あの、あの僕っ、責任は取ります……ッ!!」
「本当? 嬉しいなァ、如何やって取って呉れるのだい? 結婚でもする?」
「けっ……」こん、と唇が無音で窄んだ。少年の怯んだ気配がする。矢張り厭だと云うだろうか。それはそうだ、口では何とでも云いようがあるが、実行に移すとなるとハードルが高い。興味深く見守っていると、少年の思考がぐるぐると渦に陥っていくのが手に取るように判った。結婚。未だ早いのでは。僕でこの人を支えられるのだろうか。でも。「貴方が僕でも善ければ、ですが……僕は貴方を絶対に幸せにしてみせます! あの、僕が貴方をきれいだと思ったのは本当ですから……!」
 うむ、今どき驚くほど真っ直ぐな少年だ、と思った。愚直と云っても過言ではない。然し嫌悪は感じなかった。それどころか、思わず赤面してしまいそうになるなァ。太宰は少年の手をやんわりと払って、己の手首を押さえた。少し早くなっている鼓動を抑える。……あれ。
 鼓動が早く?
 私、絆されてしまっただろうか。
 そんな訳がない、と肩を竦める。
「冗談さ」
「は……じょう……だん……?」
 少年の、呆気に取られたような視線を振り切るように太宰は立ち上がった。煙管を置いた書き物机に掛ける。
 先に詰めた刻み煙草には未だ火が灯っている。
「私、こうして若い子と一夜を共にするのが趣味でね。別に、君の一生を縛る心算は無いよ。だから、君が謝らずとも善いんだ。元はと云えば、私が君に縋ったんだしね。こう云うことを誰かとするのは初めてだったかい? だったら、君の初めてを奪って悪かったけれども、私は別に君が初めてじゃあない」
「……」
 中島少年が俯く。昨晩の様子だと、その言葉は図星だっただろう。太宰への愛撫の辿々しさ、行為中の余裕の無さ。経験が無いのに体の反応ばかりが急いて、本能のまま太宰を抱こうとするその荒々しさは、痛みもあったが悪くはなかった。その未熟さ故に、こうして呉れ給えと太宰手ずからが誘導することには素直に従うのもまた乙だった。そう云う少年をつまみ食いするのが善いのだ。瑞々しい感性は誰と寝るより太宰の空腹感を満たした――但しそれは、己の創作活動に直結する行為ではない。純粋な、ただの趣味だ。
「まァ、と云うことだから、昨晩のことは犬にでも噛まれたと思って忘れて呉れ給え」
「嫌です」
「うんうん、まァ君にも好いた女の子の一人や二人居るだ……なんて?」
 聞き返す。聞き間違いだろうか。蚊の鳴くような少年の声は、明確な拒絶を表していた。
 ぎゅっと握られたシーツに深い皺が寄る。
「僕、昨晩のことを忘れるなんて嫌です……初めてなんです、貴方のような人に出会ったの……なのに僕、貴方の名前も知らない……」
「あのね、君」太宰は呆れた。本来であれば、話を聞いた瞬間に太宰に一発平手打ちをお見舞いしても善いようなものだ。このようなお人好しでは、悪い人間に引っ掛かるのも時間の問題だろう。いや、もう引っ掛かっているけれど。太宰は、若い少年をだまくらかして食べる自分の手管が、極悪人のそれだろうと自覚していた。如何したものか――考えた挙げ句、少年の出した疑問に先に応えることにする。「因みに、私は太宰治と云うのだけれど」
「太宰……」
 少年は、何処かで聞いたことがある……と云う表情をした。
 それから、はたと何かに思い至ったのか殊更に青褪めた顔を見せた。
 今日一番の青褪め具合だ。
「だ、太宰……先生……? あの、小説家の……?」
「編集者でもないのに、そんなに堅苦しく呼ばずとも善いよ。私のことは、太宰さんで善い。……ふふ、私は君の心だけでなく、体も丸裸にしてしまったと云うワケだ」
 ふら、と卒倒する素振りを見せた少年に慌てて寄り添った。いや、倒れられては困る。彼には確りと自分の足で帰途に就いて貰わなければならなかったからだ。親御さんや友人に電話して迎えに来て貰うなどの展開は、出来れば避けたい。
 ……いや、同年代の友人ならば善いだろうか?
 一瞬過ぎった邪な考えに、然し太宰の心は踊らなかった。あれ、と思う。何時もならば舌舐めずりの一つでもしてみせたいところなのに、何故だか今は、別段他の子とは寝たくないなァと思う。
 今は空腹感を感じない。
 昨晩からずっと。
「……そうだ、ご飯」思い出したように太宰は云った。「忘れて呉れないのなら、責任とやらも取って貰わないといけないね。私、朝ご飯食べたいなァ」
「わっわかりました……?」
 混乱の境地に至ったのか、最早思考の至らぬ様子のまま服を着、ふらふらと台所へ向かう少年。それを見届けて、よし、と太宰は頷く。却説、彼が朝食を準備する間に、何とか昨夜のことをワンナイトラヴで済ませることを納得させる策を講じねばなるまい。如何説得したものか。然し、そもそも済ませる必要があるのだろうか? 彼が太宰の気紛れに付き合って呉れると云うのであれば、何も態々此処で手放すことはないのではないだろうか。幸せにしてみせます、と彼は云った。その言葉に、何時も通り甘えれば善いのではないだろうか――何時も、寝る相手にしてみせている通りに。それだけで、彼は私の元を離れない。私は彼を手放さなくて善い。それは何だか、とても素晴らしいアイディアのような気がした。
 然し、私が飽きずに――彼を捨てずにおれるだろうか。太宰は思案する。いや、彼を慮っているのではない。縁と云うのは、出来てしまえば切り難いものだ。
 と、渦中の中島少年が「太宰先生!?」と血相を変えて飛んでくる。
 太宰が何だい、と訊く間も無く、ベッドに押し倒され和装をがばりと脱がされた。ぺたぺたと全身を弄られる。第二ラウンドだろうか。朝ご飯を食べたいとはそう云う意味ではなかったのだけれど、と太宰は思う。でも今彼を食べられるなら、それはそれで悪くない。
 取り敢えず、甘い声を出してみる。
「んっ……少年、積極的だね……♡」
「いやそうじゃなくて。太宰先生、ご飯ちゃんと食べてますか……? 冷蔵庫、カロリーメイトしか入ってないんですけど」
 そうじゃなかったらしい。鼻に抜けた声は引っ込めて、前回食事を――他人に云える内容の食事を取った日付を思いそうとして、首を捻る。ええと。ちゃんと食べてはいる。うん。
「思い出したら口にするようにはしている……よ……?」
「いや駄目ですよ!? 三食ちゃんと食べないと、書けるものも書けないじゃないですか!」
 中島少年は太宰の上から飛び退くと、大慌てで「僕、何か買ってきますから!」と部屋を飛び出した。その背をぽかんと見送る。疾風のように去っていったな、と思った後に頭を過ぎったのは、彼は果たして近所のスーパーの位置を知っているのだろうか、と云う素朴な疑問だった。あれは随分と判り難いところにあるけれど。少し考えた後、太宰は「仕方無い」と重い腰を上げた。本当は、放っておいても善かったのだ。特に空腹ではなかったから。然し、中島少年が道に迷ってあの泣きそうな顔で、太宰先生、とか細く名前を呼んでいるかも知れないことを思うと、何だか放ってはおけない気がしたのだ。面倒な思考は放棄する。取り敢えず、流れに身を任せてみても善いのかも知れない。家を出ても、中島少年の姿はもう見えない。勢いの良さに感心しながら苦笑する。
「うーん。若いって元気で善いなァ」



 これが、私、若き小説家である太宰が、中島少年と同棲するに至った経緯である。
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