願いの叶う日まで

(2019/04/12)


「髪をね」
 ひっそりと、唇で空気を震わせる。
「切ろうと思うのだよ」
 私の髪を櫛っていた友人の手が、ぴたりと止まる気配があった。学生服の衣擦れの音がやみ、人気の無い放課後の教室が静まり返る。春の空気を孕んだ風が窓から微かに吹き込んで、夕日で橙色に染まったカーテンをふわりとなびかせた。
 私とフョードルくんは、教室の中ほどに座っていた。教卓と向かいあわせで規則正しく整列している机の、私は前から二列目、フョードルくんは前から三列目だ。私もフョードルくんも、人を待っていた。けれど、彼が中々姿を現さないものだから、私は読み終えた文庫本を仕舞って手持ち無沙汰を誤魔化すように視線を窓の外に投げるしかなくなり、フョードルくんは血の代わりに雪解け水でも通っているかのような白い指先で、私の少し傷んだ髪の先をいじって遊んでいたのだった。
 だから戯れに、先の言葉を投げ掛けた。
 ややあって、背後の席に掛けているのだろう友人が口を開く。
「それはまた……、なぜ?」
 白々しいな、と思う。彼にはもう、この会話の行き着く先が判っている筈だ。無論、私にも。顔を顰める。けれどこの友人は、思考し終わった結果について、言霊の形を与えて現世の時間の流れに乗せることが好みらしい。彼は私の返答を待っていた。
 ごっこ遊びのようなものだ。
 私はふい、と廊下側の扉に視線をやってから応える。
「なぜ、って。判るだろう? 成就したからさ」
「おや。では、もう寝たのですか」
 その言葉に、ゆっくりと振り向いた。不意を突かれた訳ではなかった。彼がそう口にすることは予想出来ていて、確率は五分だった。私はただ、会話をするのに適当な姿勢を取る為にそうしたのだ。するりと私の髪が彼の手の中から逃げる。
 映るうっそりとした笑み。
 柘榴に似た色の瞳を覗き込む。
「わたしとかれに、必要かね?」
「肉体関係が、ですか?」
 然し、今日は些か様子がおかしい。
 何時も以上に、ひとつひとつを言葉へと還元し過ぎている。
 私がそのことに気付いた、と云うことに気付いているのか――恐らくきっと、気付いているだろう――彼は軽く肩を竦める。
「却説、如何でしょう。ただ、成就と云うからには、矢張り君の行動の結果として在るべきではないのですか? 願いは自分の手で叶えてこそでしょう」
「ふむ」
 一理ある。だが私の方には、もう叶えるべき願いが無い。生命の輝きを見付けた、その先の願いが。
 必ずしも手中に置くことが最善ではない。
「停滞を望むなど、君らしくもない」
 友人が見透かしたように笑う。
「探していたものを見付けた。その次は? 彼を林檎自殺倶楽部へ誘った。彼が若し入ったら如何します、次は? そうですね、彼をもっと近くで見たければ、恋人にでもなるのが善いのかも知れませんね? では、その次は」
 矢継ぎ早に繰り出される問い掛けを、私は身動ぎをせずに耳に入れていた。言葉をころころと遊びのように転がす彼の赤い舌はまるで蛇のそれだ。
 そうやって、禁断の果実を齧ることを唆す。
 そして困ったことに、私は蛇は然程嫌いではない。
「君はかれを如何したいんです」
「……」
「云ってみたら善いじゃあありませんか。――君とセックスがしたい、と」
 然し私は、私の生命の輝きの目を開かせたい訳ではない。
 その誘惑に対する答えをなぞろうと、口を開きかけたそのとき。
 ガタ、と扉が揺れた。廊下をぱたぱた……と慌てて駆けていく、底の薄い下履きの音。
 その跫音を、友人と黙って二人で聞き届ける。
 軈て、私は深く息を吐いた。呼気が溜め息に似た量になってしまったのはやむを得まい。
「……君のそう云う趣味の悪いところは、私でなければ絶交されているのだろうな」
「ご尤も。君の懐が存外広くて、僕はとってもうれしいですよ」
「……………………あのさあ、君たち」
 そのとき、ガラ、と一際大きな引き戸の音と共に入ってきたのは我らが待ち人だった。私は机上の文庫本を学生鞄に放り込む。フョードルくんは、立ち上がってにこやかな顔で彼を迎え入れる。「ああ、太宰くん。待ち草臥れてしまいましたよ!」。並び立つと対象的な白と黒の学生服が、彼等のすらりとした長身を一層際立たせる。
 待ち人――太宰くんは、絡み付くフョードルくんの手を払い除けながら、その端正な顔を私達に向けて盛大に顰めてみせた。
「君達さあ、何当然みたいな顔して人の学校に居るわけ。しかも此処、二学年下の教室なんだけど?」

     ◇ ◇ ◇

 中島敦は思わず口を覆っていた。指と指の間から、切れた息が激しく出入りした。
 全速力をして、息が苦しい。
 けれど顔が赤いのは、暑いだけではない。
 へたへたと、廊下の隅に座り込んだ。寄り掛かった柱の冷たさが背筋に伝わる。此処は何処だろうか。日の暮れ掛かった廊下を見回す。何時も訪れないフロアのため、見覚えの無い扉が並んでいたが、自分以外の人気の無いところを見ると恐らく他学年の教室だろう。放課後はみんな部活動なんかに行ってしまう為に、授業の為だけの部屋はガランとして人が居なくなる。
 筈だった。
 先程見た光景が脳裏を過ぎる。忘れ物を取りに戻っただけだった。盗み聞きする心算は無かったのだ。
 僕の教室だったのに、何故あの二人が居たのだろう。
 思い返す。教室に居た、二人の人影。
 風にたなびく薄い色のカーテンがまるでベールのようだった。ひとりは気怠げに頬杖をつき、もうひとりは少しぱさぱさと乾いているながらも美しい白髪を梳くようにして愛でていた。白い学生服を纏ったあの二人は、まるで天から遣わされたいきもののように夕日の中に座っていた。
 そして、くすくすと密やかに落とされる笑い声。
 ――云ってみれば善いじゃあありませんか。
 ――君とセックスがしたい、と。
 呼吸が乱れる。耳鳴りが酷い。セックス、って何だ。いや、幾ら敦でもセックスくらいは判る。いや、判る――と云うと語弊があるのかもしれないけれど、少なくともそれが何を「する」ことを指し示すのかくらいは。
「あの人、は、僕を、抱きたいのか……?」
 口にして、馬鹿げた、非現実的な推測だと確認する。思っても見なかったことだ。だって僕達は未だ学生だ。そう云うえっ……ちなことは、もっとずっと、『おとな』のものだと思っていた。
 キスだってしたこと無いのに。
 ありえない。
 そう思うのに、口の中が段々とからからに乾いていって唾液が上手く飲み込めない。
 もう少し、あの場に居れば善かったのかも知れない。僕は後悔をした。そうしたら、「そんなわけがないだろう」と事も無げな否定の言葉が聞けて、僕がこんなに心を乱すことは無かったのかも知れない。けれど限界だった。バレないように平静を保つのが難しかった。何より、恐怖心がどんな感情をも上回った。
 だって、若し仮に、万が一にでも、彼の口から紡がれるのが完璧な否定の言葉でなかったら如何するんだ。

 ――やっと見付けた。生命の輝き。

 そう、自分を呼んだ声を思い出してぎゅっと目を瞑った。
 愛を囁くような。まるで愛しいものに優しく触れるようなその声音に、今でも思い出すと耳が熱くなる。
 自分はどうやら、彼の求める『生命の輝き』らしかった――らしい、と云うのは、敦自身、いまいちそのことを善く判っていないからだ。確かに、元気だとは善く云われる。生命力が有り余ってそう、とも。けれど元気ならばクラスメイトの賢治だって同じようにあるだろう。こと、澁澤の特別な存在である理由が判らない。
 けれど澁澤は敦のことを求めていた、と云う。
 ――成就したからさ。
(けど、それって)
 抱き締めた学生鞄にくしゃりと皺が寄る。人の居ない薄暗い廊下だったのは幸いだった。こんな情けない姿、誰にも見せられたものじゃない。
 てっきり、敦はもっと、当たり障りの無い理由で探されていたのだと思っていた。生命の輝き、と云うのはそれこそ喩えのようなもので、端的に云えば気が合う人間、とか(いや、けれど、気が合うと云えばあのフョードルさんの方がそうなのではないか?)。見ていて退屈しない人間、とか。
 なのに。
(なんで僕なんだ)
 出会ったときから頭の何処かにずっと燻っていたその疑問が、むくむくと雨雲のように大きく育っていくのが判る。脳内は既に大雨警報だ。
 なんで僕があの人にとって特別なんだ。
 なんであの人は僕を探していたんだ。
 なんで、あの人は。
 ――髪をね、切ろうと思うのだよ。
 きれいな髪だった。生命の輝きだとか林檎自殺倶楽部だとかとは別にして、何時か触らせて貰えたら、手のひらで撫でつけて髪のハネをなおしてあげられたらと思っていた。
 成就したから切ろうと思った、と云っていた。
 それは詰まり、僕を探し当てたから、髪を切ろうと云うのだ。
 僕なんかの為に。

 ぼんやりと、グラウンドの向こう側に日が落ちていく光景を見やる。
 僕の為に、あのきれいな白髪を切ってしまうことは、何故だかさせてはならない気がした。

     ◇ ◇ ◇

「ええと、あの」
 然し、いざ本人を目の前にすると、うまく言葉が出てこないものだった。
 僕の方が彼の学校の校門の前で待つのは初めてだった。日は未だ高い。校舎から出てくる白い学生服の生徒達が、好奇心に溢れた視線を向けては去り向けては去っていって、一生分の視線を浴びた気分だった。全身が痒い。針の筵に立たされたような気分だ。澁澤さんとフョードルさんは、善くもまあ毎日こんな風に他校の前で出待ちなど出来るものだな、と思う。
 今日もきっと、これから僕達の高校に向かおうとするのだろう。
 けれど今日は僕の方がダッシュで来たから、彼は未だ下校していない筈だ。
 果たして僕の思惑通り、十数分後と経たない内に校舎の昇降口から彼が姿を現した。白い学生服にシンプルな学生鞄。余計な装飾品などは一切身に着けていない筈なのに、出で立ちが妙に派手で目立つ。立ち居振る舞いに華がある、と云うのだろうか。その姿には、歩いているだけで周囲を絵画の一ページに変えてしまう力があった。僕は彼を見付けるのに、周囲を見回すことさえ必要無かった。
 そして彼も此方に気がついたらしい。
 彼の目が、驚きのためか僅かに見開かれる。
「おや。中島敦くん」
「あの。ちょっとお話いいですか……?」

 校内を塀沿いに端の方に引っ張っていくと、澁澤さんは存外素直についてきた。何なら、この生命の輝きは私を何処に連れて行って呉れるのだろうか……と云う期待に満ちた眼差しを注がれているような気さえした。見られるたび、首筋が時折ぞわぞわと逆立つ。罪悪感がずしりと重い。
 だって僕は、これからこの人にとってあまり愉快ではない話をしようとしているのだから。
 グラウンドからは見えない、校舎の陰になった人気の無い場所で立ち止まると、僕はその話を切り出そうとした。澁澤さんの放り出した学生鞄に添えるように自分の学生鞄も置いて、冒頭のように何度か口籠って。それでも澁澤さんは、ただゆったりと僕の言葉を黙って待っていた。凪いだ夜の海のような瞳をする人だ、と思った。性質は底の無い許容。少し冷えて湿っぽい空気を一息吸って、吐いて、話し出す。
「林檎自殺倶楽部への入部の件、その、お断りしようと思って……」
 そう僕に告げられた澁澤さんの顔に、特に感情は見られなかった。
 ただ、斜め五度右くらいに首がことりと傾く。
 合わせて白髪がサラリと揺れた。
「なぜかね」
「その……僕が入ったら、澁澤さんの目的は達成されてしまうんですよね……」
 僕なんかの為に、貴方の髪を切らせたくない、などのド直球な言葉は口が裂けても云えなかった。そもそも、何故僕が、彼が髪を切ろうとしているのを知っているのだ、と云う話になってしまう。でも、それを告げなくとも、要は願いを成就させなければ善いのだ。もう切ろうと決心しているのであれば、その決意を僕如きが変えさせることなんて無理だろうけど、でも、若し昨日のフョードルさんとの会話で彼が目標をもう少し高く設定し直したなんてことがあれば、僕が林檎自殺倶楽部に入らなければこの人が髪を切ることは無い。
「そして君が私とセックスをしなければ、だな」
「はい……えっ? いや、わ、わっ、わーーー!」
 まるで脳内を読んだかのような合いの手に頷いてから、はっと自分の失態に気付いてのけぞった。いや違う、そんな、貴方とセックスが如何こうなんてことは考えてないんです、僕はただ「なんだ、矢張り聞いていたのか」はい聞いてましたすみません!!!
 地面に打ち付ける勢いで頭を下げる。
「ご、ごめんなさい! でも、矢っ張り貴方が僕と出会ったってだけでその髪を切ってしまうのは、勿体無いと思うんです……!」
「顔を上げ給え」
 云われた通りにすると、不思議な色を湛えた澁澤さんの瞳と目が合う。
 端正な顔立ちの、唇だけが少し緩んでいた。――笑っている?
「……詰まり君は、私の願いを君を見付けることから更に引き上げ、そしてそれを叶えるな、と。そう云うのだな」
「う……」
 特に気を悪くした風でもない言葉だったが、そう云われれば確かに僕はひどいことを云っているのかも知れなかった。顔を上げ掛けた中途半端な姿勢のまま固まる。でも、それじゃあいっそ僕が林檎自殺倶楽部に入って彼の恋人になってセックスをして髪を切るところをただ黙って見ていれば善いのか?それはひどくないのか?と云うと、決してそんなことはないと思う。
 僕をきっかけにして欲しくないのだ。
 僕をきっかけとして、自分を変えるなんてことは止めてほしい。
 自分を大事にして欲しい。
(だからまあ、最終的に僕がこの人に抱かれなければ善い訳で)
「然しその心配は不要だ」
「へ?」
 また僕の思考を読まれたのだろうか。澁澤さんは胸に手を当て、踊るようにひらりとその場で回ってみせた。
「何、私もね、君を抱きたいなどと思っている訳ではない。髪も未だ切らないことにしたよ」
 予想外の言葉に、思わず口をぽかんと開けてしまう。澁澤さんはそんな僕の間抜け面を存分に眺め回して、気の所為か先程より僅かに口の端を持ち上げた後、「君は私が、そうしたいと云ったのを聞いたのかね」と云った。
 確かに、よくよく考えてみれば、僕とセックスしてみたいと云ってみたら、と云っていたのはフョードルさんで、澁澤さんではない。
 ――なんだ。すべて僕が一人で突っ走っていたのか。
 僕は安堵でへなへなとその場に崩れ落ちそうになる。最終的に抜き差しならない局面に追い詰められたら、如何にかして断らなければならないだろうけど、けれどこの人が若し僕にそう云ったことを期待しているのであれば、傷つけずに断るには如何すれば善いのか、とずっと気が気でなかったのだ。
 嫌、と云う訳ではないのだけれど。
 でも、この人の相手としては僕なんかよりもっと善い人が居ると思うし。
 それこそフョードルさんとかじゃないのか。
「まァ、尤も」
 そう考え込んでいると、簡単に両手首を救われた。え、あ、と反応出来ずにいる内に、校舎の壁に体をぎゅっと押し付けられる。澁澤さんの方が上背があるから、覆い被さられるような態勢だ。僕をじっと見る目が、艶を含んで光るのを間近で捉える。
 これは。
 なんて云うか。
 すごく、近いのでは……!?
「ちょっ、澁澤さん!?」
 抗議をするが、聞き入れて貰えない。ふふ、と笑う吐息が首筋をくすぐって、なんだかいけない気分になってしまう気がして。
 まずいまずいまずい。
 そして耳元で囁かれた言葉は、僕の頬を林檎のように真っ赤にさせるには十分だった。
「私は君に、抱かれたいと思ったことはあるがね……?」
 食べられる。そう本能的に身を縮こまらせたが、ぞくりと走った熱は抑えられなかった。
 澁澤さんが、何時になく上機嫌に笑う。
「却説。私が髪を切らないよう、精々愉しませて呉れるだろう? 中島敦くん」

     ◇ ◇ ◇

 その様子を、遠目に双眼鏡で眺める怪しい人影が二つ。
「ああ、善いじゃありませんか。澁澤くん、もっとそこ、押すんですよ、押し倒すんです。ねえ太宰くん。ああ、ナイトをgの4へ。チェックです」
「私の後輩の出歯亀やめてくれる!? キングをhの3」
「ナイトをeの3。チェック」
「大体、二人にさせるのも不本意なのだよ……キングをhの2」
 太宰とドストエフスキーだ。
 無論、澁澤と敦と地続きの場所に居る彼等の周囲にはチェスボードもそれを置くデスクも存在しない。彼等は、全て頭の中で駒の動きを処理して戦わせているのだった。
 ほんの戯れだ。
「なら止めに入れば善いじゃあないですか。ルークを取ってナイトをcの2へ」
「君が居なけりゃあそうしているよ、私が助けに入ろうとしたら妨害するくせに……、ビショップをfの3。ルークを取る」
「だって……折角の彼の門出ですよ。友人として、見守らなければならないでしょう? ナイトをdの4へ」
 そう云ってドストエフスキーは双眼鏡から視線を外し、太宰に向かってうっそりと嗤った。
「チェックメイト」
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