君の望みは聞いてやらない
(2018/10/16)
「……ああ、また死ねなかった!」
私がその場に居合わせたのは偶然だった。元より私は最下級構成員だ。組織の五大幹部の仕事現場に同席する機会などあろう筈もない。
その幹部の方から川を流れてきたのでなければ。
藻屑のように水面を漂う黒い背広を目にした途端、思考が恐怖に凍りつき、ぎゅっと縮まった体から心臓が飛び出るかと思った。私は慌ててその体を引き上げた。そうして心臓マッサージを施し、躊躇いつつも人工呼吸をし、友人を蘇生させたのだった。
そして先の言葉だ。
ああ、と私は安堵した。太宰はぴょんと飛び起きて、何事も無かったかのようにジャケットの水を絞っている。命に別状は無いらしく、私は友人を喪わずに済んだらしい。然しその結果とは裏腹に、私はひどい焦燥に襲われていた。
若し私が、偶然通り掛からなければ如何なっていた?
次は助けられないかも知れないのだ。次は、太宰を喪ってしまうかも。
そのことを考えると、再び心臓が締め付けられるような心地になる。
「……ねえ、織田作、聞いているかい? 入水すら駄目だったのだよ、私、一体如何すれば楽に死ねるのだろう? 手首を切っても死ねない、銃を向けてみても死ねない、入水しても首を吊っても、何故だか如何しても――」
「太宰ッ!」
だから遮った。太宰は揚々と言葉を紡いでいた口を閉じ、ぱちりと片目で大きく瞬きをした。
その華奢な肩を掴む。
「……如何したのだい、織田作。何をそんなに怒っているの」
「……頼むから」
友人として、逸脱した行為だと判っていた。これは、太宰の望みを否定したい私のエゴだ。押し付けるべきじゃあない。
それでも。
「……頼むから、自分から死ぬなんて、云わないで呉れ……」
項垂れた。次に私が顔を上げるとき、太宰がどんな顔をしているか判らなかった。若しかしたら、私はついぞ見たことが無い、ひどく軽蔑した目を向けられるのかも知れなかった。織田作、君までそんなことを云うとは思わなかったよ。そうして苦しげに、私との離縁を告げるのだ。私は友人に指図される心算は無いんだ。私は友人に、助命を求めているんじゃあないんだ。様々な可能性が、私の脳内を駆け巡った。太宰が恐らく、過度な干渉を嫌うことだけは判った。
それでも、私は耐えられなかったのだ。
私の世界から、この男が喪われることが。
そんな私を、少し驚いて見た後。
太宰はただ、慈愛の笑みで私の懇願を許容した。
「……善いとも。他ならぬ友の頼みだ、出来る限り善処しようとも」
◇ ◇ ◇
「早く死にたーい」
「太宰。だめだ」
「ちぇー……マァ、織田作が云うのなら仕方が無い」
それからの私は、太宰の戯言を多少窘める権利を得ていた。太宰は善処しているとは些か云い難い頻度でその望みを口にしたが、私がそれをやんわりと止めることも同時に許した。私達の友情に罅が入らなかったことに、私は少しほっとしていた。
太宰との友情を失えば、今太宰に対して抱いているこの感情をどのように置き換えれば善いのか、私には甚だ検討がつかなくなって、きっと道に迷った子羊のようになってしまうに違いない。
はい、と渡されたグラスの縁の上で、ほっそりとした指と触れあえば鼓動が跳ね。
横から眺める友人の美しい白い頬に、高揚を覚えるこの感情を。
「……いやあ、然し、日常で口にしてはいけない言葉がある、と云うのは中々に不便な拘束だよ。織田作、君も一回やってみると善いのに」太宰がその頬を膨らませて云う。「例えばカレー食べたいって云うの禁止してみるとか」
「それは困るな」
「でしょー?」
太宰はぐるぐると、オレンジジュースに浮かべたロックアイスを回していた。今日はマスターが出したのはジュースらしい。私達のことを非合法組織の人間だと薄々感づいているだろうに、太宰が未成年だからと云うだけで、隙あらば酒を飲もうとする太宰に常に目を光らせ必ず阻止しているマスターは、中々油断のならない人だ。
「……悪いとは思ってるよ」
「いーや! 思ってない! なら一緒に織田作もカレー禁してよ!」
「そうは云うが、太宰は俺がカレーを食べていたら悲しいのか?」
「ぐ」
「俺は、お前が死ぬと悲しい」
「うぐ……それを云われると友人と云う立場上弱いけれど……然し、これじゃあ不公平と云うものだよ。私が君に望みを否定されるのであれば、私も君の望みを思い切り否定しても善いと思わないかい。だのに私が君を否定出来る機会と云ったら、三日三晩カレーしか食べていないと聞いたときだけで……そうだ! 織田作、君の望みを云い給え!」
太宰の発言は何時も唐突だ。
バーの入り口に目を向ける。安吾は未だ来る気配が無い。
「俺の望み?」
「ああ、そうだ。そして私もそれを、そんなことしちゃあ駄目だよ織田作、と云うんだ。それなら公平だろう? だから、君の精一杯の望みを云うと善い。私がそれを否定するから。生半可な願いじゃあいけないよ。うんと極悪で、口にするのも憚られるような、背徳的なものが善い。子供達が健やかに育ちますように、とかは駄目だ。七夕じゃあないんだから」
「そうだな――夜中にカロリーを気にせずカレーを大盛り食べたい、とかか?」
「うーん、それも中々に背徳的だけど、もう一声くらい欲しいかなァ」
さあ、とにこにこと太宰が微笑む。君の欲望を聞かせて呉れ給え、と。
最早彼の興味は私がどのような人に云えない望みを持っているかに移ってしまっている。
私は困って傾けたグラスに視線を移した。そうは云われても、私には大した欲望など無い。精々が、小説家になりたい、人はなるべく殺さないようにしたい、大きくなった子供達が将来何になるのかを見てみたいくらいだが、先んじて云われた通りマフィアの五大幹部殿を満足させるには程遠い回答なのだろう。
……いや。
「一つだけ、あったな」
背徳的で、口にするのも憚られるような汚い欲望が。
私は太宰に向き直る。
「何!? 何だい!?」
「――太宰」
云って、その顎をくい、と摘んだ。
「お前を抱きたい」
「……へ?」
太宰の時間が停止したが、私は構わず続ける。
「時々、如何しようもなく自分を抑えられないときがある。こうして」
私は太宰の頬に触れた。白くて滑やかな頬だ。それから耳に。親指と人差指で、こすり合わせるように薄い耳たぶをさする。
「お前に触れて」
ぱくぱくと、呼吸困難に陥ったように開閉する口元の、くちびるを親指の腹でなぞる。
「お前の熱を感じて」
「お、おださ、」
「俺がどれだけお前を大事に思っているか、お前が死ぬ気が無くなるほどに、体に判らせて」
最後の言葉は後頭部を抱き寄せ、唇を耳に寄せて太宰にしか聞こえないように囁いた。
「……めちゃくちゃに愛してやりたくなる」
「あ、う」
太宰の表情は見えなかった。私は平静を装っていた心算だったが、鼓動が爆発しそうなほど耳元で強く波打っていた。このような気障な台詞は、到底私が得意とするものではなかったからだ。舌が痒くなる。果たして太宰は如何思っただろうか。「あの、織田作、」否定の言葉を投げ付けられる前に身を離す。
距離を置いて見た太宰の顔は、見たことも無い程に狼狽していた。
これは、私は幹部殿から一本取れたのだろうか。
カウンターに向き直って笑う。
「如何した、太宰。そんなことしちゃあ駄目だよって云うんじゃあなかったのか」
そのとき、カラン、と入り口のベルが鳴った。私達は振り向かずとも、誰が入ってきたのかを承知していた。太宰が音の主に泣きつく。
「あっ安吾おおお……織田作がひどい……」
「えっ……? 先日大掛かりな燻製を作ろうとして僕が徹夜で仕上げた書類を全滅させた太宰くんよりもひどいことを織田作さんが……?」
「聞く気無いでしょ安吾もひどい!」
もう知らない!と太宰ががたんと席を立ち、何が何やら判らないと云った様子の安吾を置いて入り口へ走る。
と、すたすたと早歩きで戻ってきた。
私の前で止まる。
「織田作」
「ああ」
「先刻のやつ、もう一度日をおいて云って呉れ給え」
私は思わずまじまじと太宰の顔を見上げた。
俯いた太宰の瞳は潤み、頬は真っ赤に染まっている。
「……今度はちゃんと、オーケーするから」
「……織田作さん」
太宰が嵐のように去った後、残された私達は仕方無く二人でちびちびと酒を飲んでいた。
安吾のジト目が、痛い。
「太宰くん、未だ未成年ですよ」
私はそれには答えず、少し手汗で湿った煙草を、ふーっと一息吹かせた。
「……ああ、また死ねなかった!」
私がその場に居合わせたのは偶然だった。元より私は最下級構成員だ。組織の五大幹部の仕事現場に同席する機会などあろう筈もない。
その幹部の方から川を流れてきたのでなければ。
藻屑のように水面を漂う黒い背広を目にした途端、思考が恐怖に凍りつき、ぎゅっと縮まった体から心臓が飛び出るかと思った。私は慌ててその体を引き上げた。そうして心臓マッサージを施し、躊躇いつつも人工呼吸をし、友人を蘇生させたのだった。
そして先の言葉だ。
ああ、と私は安堵した。太宰はぴょんと飛び起きて、何事も無かったかのようにジャケットの水を絞っている。命に別状は無いらしく、私は友人を喪わずに済んだらしい。然しその結果とは裏腹に、私はひどい焦燥に襲われていた。
若し私が、偶然通り掛からなければ如何なっていた?
次は助けられないかも知れないのだ。次は、太宰を喪ってしまうかも。
そのことを考えると、再び心臓が締め付けられるような心地になる。
「……ねえ、織田作、聞いているかい? 入水すら駄目だったのだよ、私、一体如何すれば楽に死ねるのだろう? 手首を切っても死ねない、銃を向けてみても死ねない、入水しても首を吊っても、何故だか如何しても――」
「太宰ッ!」
だから遮った。太宰は揚々と言葉を紡いでいた口を閉じ、ぱちりと片目で大きく瞬きをした。
その華奢な肩を掴む。
「……如何したのだい、織田作。何をそんなに怒っているの」
「……頼むから」
友人として、逸脱した行為だと判っていた。これは、太宰の望みを否定したい私のエゴだ。押し付けるべきじゃあない。
それでも。
「……頼むから、自分から死ぬなんて、云わないで呉れ……」
項垂れた。次に私が顔を上げるとき、太宰がどんな顔をしているか判らなかった。若しかしたら、私はついぞ見たことが無い、ひどく軽蔑した目を向けられるのかも知れなかった。織田作、君までそんなことを云うとは思わなかったよ。そうして苦しげに、私との離縁を告げるのだ。私は友人に指図される心算は無いんだ。私は友人に、助命を求めているんじゃあないんだ。様々な可能性が、私の脳内を駆け巡った。太宰が恐らく、過度な干渉を嫌うことだけは判った。
それでも、私は耐えられなかったのだ。
私の世界から、この男が喪われることが。
そんな私を、少し驚いて見た後。
太宰はただ、慈愛の笑みで私の懇願を許容した。
「……善いとも。他ならぬ友の頼みだ、出来る限り善処しようとも」
◇ ◇ ◇
「早く死にたーい」
「太宰。だめだ」
「ちぇー……マァ、織田作が云うのなら仕方が無い」
それからの私は、太宰の戯言を多少窘める権利を得ていた。太宰は善処しているとは些か云い難い頻度でその望みを口にしたが、私がそれをやんわりと止めることも同時に許した。私達の友情に罅が入らなかったことに、私は少しほっとしていた。
太宰との友情を失えば、今太宰に対して抱いているこの感情をどのように置き換えれば善いのか、私には甚だ検討がつかなくなって、きっと道に迷った子羊のようになってしまうに違いない。
はい、と渡されたグラスの縁の上で、ほっそりとした指と触れあえば鼓動が跳ね。
横から眺める友人の美しい白い頬に、高揚を覚えるこの感情を。
「……いやあ、然し、日常で口にしてはいけない言葉がある、と云うのは中々に不便な拘束だよ。織田作、君も一回やってみると善いのに」太宰がその頬を膨らませて云う。「例えばカレー食べたいって云うの禁止してみるとか」
「それは困るな」
「でしょー?」
太宰はぐるぐると、オレンジジュースに浮かべたロックアイスを回していた。今日はマスターが出したのはジュースらしい。私達のことを非合法組織の人間だと薄々感づいているだろうに、太宰が未成年だからと云うだけで、隙あらば酒を飲もうとする太宰に常に目を光らせ必ず阻止しているマスターは、中々油断のならない人だ。
「……悪いとは思ってるよ」
「いーや! 思ってない! なら一緒に織田作もカレー禁してよ!」
「そうは云うが、太宰は俺がカレーを食べていたら悲しいのか?」
「ぐ」
「俺は、お前が死ぬと悲しい」
「うぐ……それを云われると友人と云う立場上弱いけれど……然し、これじゃあ不公平と云うものだよ。私が君に望みを否定されるのであれば、私も君の望みを思い切り否定しても善いと思わないかい。だのに私が君を否定出来る機会と云ったら、三日三晩カレーしか食べていないと聞いたときだけで……そうだ! 織田作、君の望みを云い給え!」
太宰の発言は何時も唐突だ。
バーの入り口に目を向ける。安吾は未だ来る気配が無い。
「俺の望み?」
「ああ、そうだ。そして私もそれを、そんなことしちゃあ駄目だよ織田作、と云うんだ。それなら公平だろう? だから、君の精一杯の望みを云うと善い。私がそれを否定するから。生半可な願いじゃあいけないよ。うんと極悪で、口にするのも憚られるような、背徳的なものが善い。子供達が健やかに育ちますように、とかは駄目だ。七夕じゃあないんだから」
「そうだな――夜中にカロリーを気にせずカレーを大盛り食べたい、とかか?」
「うーん、それも中々に背徳的だけど、もう一声くらい欲しいかなァ」
さあ、とにこにこと太宰が微笑む。君の欲望を聞かせて呉れ給え、と。
最早彼の興味は私がどのような人に云えない望みを持っているかに移ってしまっている。
私は困って傾けたグラスに視線を移した。そうは云われても、私には大した欲望など無い。精々が、小説家になりたい、人はなるべく殺さないようにしたい、大きくなった子供達が将来何になるのかを見てみたいくらいだが、先んじて云われた通りマフィアの五大幹部殿を満足させるには程遠い回答なのだろう。
……いや。
「一つだけ、あったな」
背徳的で、口にするのも憚られるような汚い欲望が。
私は太宰に向き直る。
「何!? 何だい!?」
「――太宰」
云って、その顎をくい、と摘んだ。
「お前を抱きたい」
「……へ?」
太宰の時間が停止したが、私は構わず続ける。
「時々、如何しようもなく自分を抑えられないときがある。こうして」
私は太宰の頬に触れた。白くて滑やかな頬だ。それから耳に。親指と人差指で、こすり合わせるように薄い耳たぶをさする。
「お前に触れて」
ぱくぱくと、呼吸困難に陥ったように開閉する口元の、くちびるを親指の腹でなぞる。
「お前の熱を感じて」
「お、おださ、」
「俺がどれだけお前を大事に思っているか、お前が死ぬ気が無くなるほどに、体に判らせて」
最後の言葉は後頭部を抱き寄せ、唇を耳に寄せて太宰にしか聞こえないように囁いた。
「……めちゃくちゃに愛してやりたくなる」
「あ、う」
太宰の表情は見えなかった。私は平静を装っていた心算だったが、鼓動が爆発しそうなほど耳元で強く波打っていた。このような気障な台詞は、到底私が得意とするものではなかったからだ。舌が痒くなる。果たして太宰は如何思っただろうか。「あの、織田作、」否定の言葉を投げ付けられる前に身を離す。
距離を置いて見た太宰の顔は、見たことも無い程に狼狽していた。
これは、私は幹部殿から一本取れたのだろうか。
カウンターに向き直って笑う。
「如何した、太宰。そんなことしちゃあ駄目だよって云うんじゃあなかったのか」
そのとき、カラン、と入り口のベルが鳴った。私達は振り向かずとも、誰が入ってきたのかを承知していた。太宰が音の主に泣きつく。
「あっ安吾おおお……織田作がひどい……」
「えっ……? 先日大掛かりな燻製を作ろうとして僕が徹夜で仕上げた書類を全滅させた太宰くんよりもひどいことを織田作さんが……?」
「聞く気無いでしょ安吾もひどい!」
もう知らない!と太宰ががたんと席を立ち、何が何やら判らないと云った様子の安吾を置いて入り口へ走る。
と、すたすたと早歩きで戻ってきた。
私の前で止まる。
「織田作」
「ああ」
「先刻のやつ、もう一度日をおいて云って呉れ給え」
私は思わずまじまじと太宰の顔を見上げた。
俯いた太宰の瞳は潤み、頬は真っ赤に染まっている。
「……今度はちゃんと、オーケーするから」
「……織田作さん」
太宰が嵐のように去った後、残された私達は仕方無く二人でちびちびと酒を飲んでいた。
安吾のジト目が、痛い。
「太宰くん、未だ未成年ですよ」
私はそれには答えず、少し手汗で湿った煙草を、ふーっと一息吹かせた。
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