例えば彼の場合の話

(2018/04/22)


「間違っても、自分で何とかしようなどとは思わないことだ、辻村君」数多の銃弾を受けて砕け散る壁に身を隠しながら、綾辻先生はこれ以上無いほど冷静に私に告げた。「莫迦な考えは捨てた方が身の為だぞ。出ていけばただでは済まないことくらい、幾ら知性を残して反射神経だけを極度に発達させてしまった君でも流石に判るだろう」
「如何云う意味ですか! 人を間違った進化を辿った個体みたいに云わないで下さい!」
 怒鳴った拍子にずるりと証人が私の肩から滑り落ちた。私は慌ててその体を背負いなおす。今は気を失っているものの、犯罪の証拠を掴む大事な証人だ。此処で敵に殺させてしまうことは絶対に許されない。帰って起こして証拠の在り処を問い質し、要人暗殺の罪を裁かなければならないのだ。
 この窮地を乗り切って。
 けれど綾辻先生は諦めろと云う。
「然し、このままでは私も先生もこの証人も、皆仲良く蜂の巣です! なら、ここは私が出ていって……!」
「成る程。では優秀なエージェントである君には、この銃撃の中弾切れの銃を抱えて無防備に飛び出し、敵全員に致命傷に至らない程度の怪我を負わせて戦闘不能にしたうえで、拘束出来る自信があると云うんだな?」綾辻先生の言葉は冷ややかだ。「ならば俺も無理には止めまい。それとも、あのときのように君の異能で皆殺しにするか? 結構、それも善いだろう。君の敬愛する先輩から、一体何種類の罵詈雑言が飛び出てくるか見ものだな」
「うっ……」
 坂口先輩が、怒ったところを見たことは無いが彼が額に青筋を立てているさまは容易に想像がつく。考えただけで恐ろしい。先輩に限って怒鳴り散らすと云うことは無いだろうが、彼が私の残した結果に怒り、落胆し、それらを全て覆い隠したうえで子供に云い聞かせるように、あのね、辻村くんと語り掛けてくるかも知れない方が私には恐ろしかった。絶対に嫌だ。首を振る。
 先輩からの信頼を損ねたくない。
「然しそもそも一体誰のヘマでこんな窮地に陥ったのか、一度善く考えてみた方が善いのではないか?」
 そんな私に、綾辻先生が容赦無く追い打ちを掛ける。誰のヘマか。私だ。私が、証人が証拠の在り処まで案内すると云うから銃を突きつけて敵のアジトへと連れてきたのだ。其処には勿論、要人を暗殺したと思しき武装集団が居た。嵌められたのだと気付いたときには遅かった。まあ最も、証人も口を封じられそうになって、私達はこうして三人で逃げることになったのだが。
 綾辻先生の正論に対し、反論のしようもなくて口籠る。私の所為。ならば矢張り、私が始末を付けねばなるまい。視線を落とす先は足元だ。ゆらり、と室内の蛍光灯の光を帯びて、薄っすらとした輪郭を揺らす私の影。
「もう一度云う。莫迦な考えはよせ。出れば、死ぬぞ」
 そうだ、自分の力を過信して飛び出せば死ぬだろう。けれど、綾辻先生と証人のことは助けられるかも知れないのだ。ギュッと弾丸の空になった銃のグリップを握る。私の異能の発動条件は相手に殺意を向けることだ。けれど相手が何人で、どんな顔をしているかを把握しないままの茫洋とした感情では、異能を発動させるまでには至らない。
 かと云って、このまま私達が逃げ回っているだけでも勝ち目は無い。
 先生の云う通り、死ぬことになるだろう。
 でも。
「――でも、そう云うのは」
 声が震える。脳裏に浮かぶのは、何時か聞いた言葉だ。小柄な彼は、その後の自分の行く末を嘆くでもなくただ淡々と云った。
 そう云うのはなァ。
「そう云うのは、ビビって帰って善い理由には、ならないんですよ……!」
 銃を握り締めて飛び出す。
 瞬間。

 ――ガン、と頭を殴られた。
 グーで。躓いて、敵の前に姿を晒そうとしていた勢いを殺して慌ててもう一度壁の影に隠れる。スーツの端が銃弾に食われて布を弾け飛ばす。ああ、気合を入れて買ったスーツが。一張羅が。
 信じられない。私は後ろを振り返り、拳骨の主を本気で睨み付ける。
「さ……最低です先生! 暴力反対!」
「阿呆か君は」
 その言葉に、ぴりぴりと神経が尖っていくのを感じた。何だ。何なんだ。
 私はこの人を助けようとしたのだ。そして自分の命を犠牲にしても、一つの犯罪を暴いてやろうとした。そんな他人の決死の覚悟を指して、阿呆なんて云わなくても善いじゃあないか。
 いけない。冷静になれ。そうは思うのに止められない。
「何ですか! だって、だって仕方無いじゃないですかは証人は気を失っていて先生の異能は戦闘では役に立たなくてだから私は、私が――!」
「落ち着け、辻村君」
 綾辻先生は嫌味なほどに冷静だった。言葉だけを聞けば、綾辻先生が頭に血の上った私を優しく諭しているように聞こえた。
 実際は、云うと同時にガッと口の中に私の握っていた銃の先を突っ込まれた。
 諭す(物理)だった。
 一瞬頭が真っ白になる。ザッと血の気が引いた。この拳銃が暴発したら如何する。頭が吹き飛ぶ。そんな死に方は嫌だ。あんぜ、安全装置。口の中から引き抜こうとするのに、蝋で固めたように引き金に掛かった人差し指は離れないままだ。嘘。嫌だ。手が震える。呼吸が出来ない。死ぬ。死ぬのか、私は。
「落ち着け。弾丸はもう無いんだろう」
 は、とその言葉で我に返った。
 呪縛の解けたようにカラン、と拳銃が手の中からこぼれ落ちる。は、はぁっ、と必死に酸素を取り入れた。心臓が爆発するように鳴っている。私は、今。
「そんな状態で、よくもまあ自己犠牲の覚悟など口に出来たものだな」
「うえ……」
 緊張のあまり、胃から食べたものが逆流してくる気配があった。ウッと思わず口元を抑える。視界が汗の所為で滲む。決して涙なんかじゃない。エージェントは泣いたりなんかしない。
 綾辻先生は、そんな私を黙って見ている。
 でも、と私は思う。でも、あのとき彼は向かっていったんだ。そのことが、私を突き動かしていた。横濱一帯を覆う巨大な竜。あんな、得体の知れない巨大な未知の生命体に対して、小柄な彼は臆することすらせず、ただ淡々と彼の成すべきことを成すために輸送機から飛び降りていった。
 なのに、私のこの有様は何だ。
 脳裏に蘇るのは輸送機での会話だ。確かに帽子の彼がポートマフィアの幹部であるとは聞いていた。然し私の目には、彼が然程人間離れしているようにも見えなかった。人を殺していることを除けば、姿形は普通の青年だったのだ。
 そんな青年が、横濱を守る為に命を張った。
 ならエージェントである私が命を賭けないで如何するんだ。
「――命を犠牲にしても街を守る、か。君が憧れるのも無理は無いが、忠告すると君の場合はただの犬死にだ」
 その云い様に、カッと目の裏が熱くなった。然し反論は出来なかった。
 鋭い殺気を背後から感じたからだ。
「先生ッ!」
 咄嗟に証人と綾辻先生を抱えて飛び退る。それと同時に、目の前にあった壁がチーズでも割くかのように切り取られて内側へと倒れてきた。瞠目する。そんな。此処は外に面しているから殊更厚い壁だった筈だ。それをいとも簡単に、破壊して侵入してきた人間が居る。
 背後からの銃声は止みそうにない。詰まり挟み撃ちと云う訳だ。こうなってしまえばお仕舞いだった。
「おっ」
 けれど観念しようとした私の耳に飛び込んできたのは、聞き覚えのある声だった。
「先輩。綾辻先生と証人、無事保護しました」
 顔を上げる。其処に立っていたのは、腰に刀を佩いたすらりとしたスーツの女性だった。その後ろには、同じくスーツの男性も居る。
 そう、私はこの人達のことを善く知っている。
 無線機からの声も。
『辻村くんは』
「居ます」女性はじっと私の体を眺め回して云った。「五体満足です」
『――判りました。反撃を許可します。但し、くれぐれも殺さないように』
「坂口先輩……!」
 思わず歓喜の声を上げた。二人組の持っていた無線機からの声は紛うこと無く自分の先輩である坂口安吾のものだ。先輩が来たのならもう安心だ。大丈夫だ。張っていた緊張の糸が切れ、私はへなへなとその場にへたり込んでしまう。唐突に現れた二人は、そんな私を残して旋風のように敵陣の中に飛び込んでいってしまった。軈て銃撃が止み、敵の悲鳴が聞こえ、それから静寂が訪れるのに、ものの十分も掛からなかった。
 助かったのだ。安堵と同時に浮かぶ一つの疑問。
「如何して、此処が……」
 はーっ、と背後で溜め息が聞こえた。見れば綾辻先生が、ぷかぷかと煙管を吹かしながらやれやれと態とらしく肩を竦めて首を横に振っている。
「君は真逆、応援も無しに敵のアジトに突っ込む心算だったのか? 味方に情報を残してこなかったのか? 俺が坂口くんに連絡していなければ一体如何する心算だった?」
「せ、せんせえ……!」
「鬱陶しい。しがみつくな。まったく、敏腕エージェントの名が泣くな」
 うっ。
 胸を押さえる私に、綾辻先生はただ冷たく云い放つだけだった。
「……恐怖に蓋をして、自己犠牲を行おうとするな。そんなことが出来るのは、余程の阿呆か狂気の淵に染まった人間だけだ」

 でも、じゃあ、あのときの彼は狂気に支配されていたと云うのだろうか。
 黒い帽子の彼。
 ちらりと見えた彼の横顔は、紛れも無く正気だったのだ。
 手の震えの一片も見出せはしなかったくらいに。

     ◇ ◇ ◇

「はぁ~~~……」
 食堂のテーブルに突っ伏した。ガン、と勢い余って額をぶつける。
 痛い。
 然し顔を上げる気力も無く、私は机とそのまま接吻をし続けた。もう何もかもが如何でも善い。エージェントの職務を全う出来ないなら、一体私は何の為に此処に居るんだ。もう自棄を起こして、このままテーブルに頭を打ち付けまくって死んでしまおうか。物騒なことを考えていると、「おっ辻村さん」と云う呼び声がするりと滑り込んできた。がたん、と直ぐ隣の席の椅子が引かれる。この声は。
「どーしたんスか、そんなドデカ溜め息吐いて。お腹でも壊しました?」
「村社さん……」
 顔を上げる。其処に居たのは、定食のトレイを持ったタイトスカートのスーツの女性。つい先日、私の窮地を救って呉れたうちの一人だ。坂口先輩の護衛であり、戦闘になるとべらぼうに強い。私は捜査官であり、ゆくゆくは彼女のような実行部隊を指揮する立場になるのだが、今は実力も職歴も彼女の方がずっと先輩だ。
 そんな彼女が眩しくて、うう、と泣きつくように云う。
「私、エージェント向いてないのかも知れなくて……」
「ウワ重症」村社さんが隣に座り、割り箸を割りながらけらけらと笑う。「ほんとどーしたんすか、熱でもある? 食欲は? その生姜焼き定食貰ってあげましょうか」
「あ、あげません!」
 思わず生姜焼き定食を腕で覆い隠すと、村社さんは冗談っすよと笑いながら肩を竦めた。そうは云うが、昼からカツ丼定食にラーメンを足したトレイを持っている人が云う言葉には説得力はあまり無かった。私はじっと村社さんの手元を見る。カツとご飯が、吸い込まれるように村社さんの胃に収められていく。
「私」その気持ちのいいほどの食べっぷりを眺めていると何故だか妙に気持ちが楽になってきて、私は気付けばぽろりと意図せず言葉を零してしまった。「私、飛び出せなかったんです」
「? 飛び出し?」
 ずるずると、拉麺が村社さんの口の中に吸い込まれていく。
「例えばですよ。行ったら確実に死ぬけど、でも行けば若しかしたら他の人は助けられるかも知れない、そう云うときに、何もせずに死ぬより、飛び出すべきなんじゃないんですか。自分が死ぬかも知れないって云うのは、何もしない理由にはならないじゃないですか。逃げて善い理由には」
「ふーん。要は自己犠牲の覚悟が出来なかったことを後悔してると」村社さんの返事は、想定より素っ気無いものだった。矢張り先輩の側近ともなれば、こんな悩みは子供のままごとのようなものなのかも知れない。子供っぽいと思われただろうか。落ち込んでいると、拉麺のスープを飲みながら村社さんが小首を傾げて私に訊く。「それ、誰に云われたんすか」
「え」
「死ぬかも知れないってのは、逃げて善い理由にはならないってヤツ」
 帽子の彼だ。私は或るポートマフィアの幹部の姿を思い描く。正しくは「ビビって帰って善い理由には」だったか。答えようとして、そう云えば彼の名前を知らないことに気付く。いや、エージェントは異能力者を管理番号で呼ぶものだ。何故なら異能力者は全て例外無く政府に管理されていなければならないからだ。管理番号はその象徴。だから個人の名前は必要無い。でも渡された資料には確か、情報が、あった、ような。と云うか、悪の組織の幹部の名前を忘れるなんて、エージェントとしてあってはならないことではないだろうか。
 じとりと背中に嫌な汗を滲ませながら、私は平静を装って答える。
「た、確か……A5158……」
「あー」私の挙動不審に気付かなかったのか気付かなかったふりをして呉れたのか、村社さんは丼を置き、顔を顰めて云った。「いやー、あれを基準に考えたら駄目でしょ」
「え」
 でも、と私は戸惑う。
 彼は明らかに私より年下だったし、マフィアなのに街を守る為に体を張っていたし。
 私はエージェントだし。
「辻村さんは別にいーんじゃないですか。死ぬのが怖いってのは当たり前のことだ。その恐怖に無理に蓋をする必要は無い。無理だと思ったら、逃げて善いんすよ。誰も辻村さんを責めたりしない」
 そう告げる村社さんの口調は、思いの外優しい。
 それに、綾辻先生にも同じようなことを云われたな、と惘乎と思う。
 ――恐怖に蓋をして、自己犠牲を行おうとするな。
 村社さんが、刀の柄を弄りながら続ける。
「まあ確かに、そう云う局面もあるっちゃあります。自分が犠牲になれば、全部解決出来るってとき。けど、何でもかんでも任務の成功と自分の命と天秤に掛けるくせを付けちまったら、必要無いとこで死んじゃいますよ。『ここ』って自分の命の使いどころを見極められないうちは、逃げても善いんじゃないですか」
 そう云うものだろうか。私は曖昧に頷いた。村社さんは、絶対に自分の命を優先しろとは云っていない。ただ、自分の腹が決まらないうちは、命を無駄遣いするなと云う。それは、裏を返せば腹を決めたそのときには逃げずに命を賭せと云う話だ。一般にはきっと残酷な話であり、けれどこんな仕事に就いている人間としては、少し救われるような心地になる話だ。
 命の使いどころを決めていたから逃げなかったのだろうか。
 重力遣いのあの彼も。
「村社さんは?」
「アタシ?」
 村社さんが、ぱちりと瞬いて手元から顔を上げる。不躾だろうか。けれど訊かずにはいられなかった。
「村社さんも、ここって命の使いどころが来たら、迷わず飛び出すんですか」
「アタシは」
 その瞬間、それまで温和だった村社さんの瞳がギラリと暗い光を湛えた。例えるならそれは、肉食獣の目だった。血に飢えた獣のような目。先程まで其処に座っていた村社さんが居なくなって、別の何かに成り代わったような錯覚。
「アタシは迷わず飛び出しますよ。だって『それ』に命を使うって決めてっから」
 歓喜さえも含んだ声音に、ぞわりと首筋が寒くなる。
「――この命は、先輩の為に使うって」



「……ところで、この会話オープンチャンネルっすか」
 からっとその一言で、空気が爽やかさを取り戻した。知らず込めていた肩の力を抜き、言葉の意味を考えて――「うん?」と首を捻った。如何云う意味だろう。此処は特務課の施設内だ。オープンチャンネルも何も、会話の内容が外部に流出する筈はない。
 然し意味は直ぐに判ってしまった。
 村社さんの返答より先に、氷柱よりも冷ややかな声が私の背中に突っ込まれたからだ。
「なるほど。辻村君」
「ひぃっ!」
 振り返れば、私の担当する特一級危険異能者であり『殺人探偵』の異名で呼ばれる不吉な男――詰まり綾辻先生が、私の直ぐ後ろに立っていた。
 座ったまま見上げるが、遮光眼鏡の奥のその表情は善く読めない。
 ただ、何だかとても、機嫌が悪い。
 ような。
 気がする。
「あ、ああ、あのー、せんせい……?」
「いや……、君が俺以外の男にうつつを抜かし、俺の監視と云う任務を疎かにしようとしていたことはよぅく判った」
「いや待って下さい誤解ですと云うか先生如何して此処に監視は」
「何、少し用事があってな?」
 慌てて先生に縋り付くが、ぺいっと素気無く放り出されてしまった。あう、と床に膝を付く。別に疎かになんてしていないのに、と思うが「まあ覚悟決めて死んじゃったら先生の監視出来ないですもんね」と村社さんがさらっと云う。あう。
 綾辻先生が肯定するように、くいと遮光眼鏡を押し上げた。
「辻村君、そんな君に朗報だ。今、丁度善い調教の特別コースを思いついた。暫く俺のことしか考えられないようにしてやるから、楽しみにしておけ」

 ごちそうさま、と箸を置く村社さんの隣で、いーやーーー!と私の悲鳴が響き渡った。
1/1ページ
    スキ