ロンリィキャットの双眸

(2014/08/06)


「僕達が再び壮健で出会えた事を祝って」
「乾杯」
 何方からとも無く、かちん、と私と安吾はグラスを交わした。琥珀色の液体が表面を揺らす。安吾は慣れた様子でそれを煽ったが、私は少し口に濡らすだけに留めた。元より酒は余り得意ではない。それでもこの酒場に時折ふらりと立ち寄るのは、友人達との邂逅が何よりも上手い酒となるからだ。今夜も例に漏れず、何の約束も無しにふらりと訪れれば其処には安吾が居た。そうしていつもどおり、お互いの無事に祝杯を上げたのだ。私も安吾も、この業界に居る以上、何時うっかり命を落としてもおかしくない。流石に私の先週の任務である、迷子になった猫探しやアジト前の掃き掃除等で死にそうな目に遭う事は少なかったが、それでもその脅威は何時だって私達の側に寄り添って居ると云って良かった。平穏無事に今日も命の在る事は、立派に祝うべき事なのだ。
 薄暗く、しかし湿気を感じさせない酒場の片隅で、沈黙が私達二人の間に降りる。それは気まずさに起因するものでは勿論なく、唯私達は未だ来ぬ人を暗黙の内に待っていたのだ。きっと彼は、彼を置いて私達二人が話に花を咲かせてしまったら、「何故自分を待たないのか」と拗ねてしまうに違いなかった。そうなってしまうと面倒臭い事この上無いので、私達はじっと静かに待っていた。約束はしていない。けれど彼は来るだろう、と云う妙な確信が私と安吾の間には在った。それを明示する様に、私達の間にはひとつ、空席が空いていた。
 そうしてじっと店のBGMに耳を傾けていると、その心地好いメロディに紛れて、背後でがらんがらんと音が鳴った。店の来訪者を報せる鐘だ。振り向く間も無く、疲労した体に染み込むサックスの音色にするりと紛れる様に、その声は私の耳を打った。
「おださくー」
 ぎゅっと私の腹に誰かの手が回る。同時に、甘える猫の様に背中に中る人の体温。私にはその手が誰のものだか、その人物がこの店に入って来た時から判っていたが、敢えて抵抗は示さない。抵抗する理由が無かったからだ。私は手元のグラスを傾ける。
 同じくカウンターに腰掛け、ちびちびとウイスキーを飲んでいた安吾が、微かに眉を顰めた。
「織田作さん、一寸無防備過ぎやしませんか? 太宰君に背中を晒すなんて、もし彼が何か企んでいたら如何するんです」
 背後の男――太宰から、反論の声が上がった。
「あ、非道いな安吾。今回は何も企んでいやしないよ」
「成る程。今回『は』」
 安吾の目が、眼鏡の奥で暗澹たる光を帯びて揺らめいた。その瞳には、過去の太宰の様々な『いたずら』が思い出されているようだった。「出来れば、次回も、次々回も、その次も、君が何も企まない平和な日々が続く事を望みますよ」安吾の手元から、ウイスキーの減る速度が上がる。

「でも織田作が無防備過ぎるのも事実だよねえ」
 無防備過ぎる、と年下の幹部に云われて私は首を傾げる。これでも最低限、外界への防備はしている心算だ。例えば、今この酒場に敵対勢力が雪崩れ込んで来たとして、私は躊躇い無く両脇の拳銃囊から拳銃を二挺、取り出す事が出来るだろう。例えば、今背後に暗殺者が忍び寄って来たとして、私は迷い無くその殺気を感知して己に害を為される前に打ち倒す事が出来るだろう。それをしなかったのは、偏にその相手がこの小さな友人だったからだ。
 ぱっと腹と背中から人の影が離れる。そのままふらふらと、私の背後を過ぎる足音。もう既に酒が入っているのか、その足取りは覚束ない。ふわふわと、店のBGMに合わせて彼の蓬髪が揺れるのを目の端に捉える。
「例えばさあ、安吾だったら、ほら」
「うわ、何ですか太宰君近寄らないで下さい! 君のその、何か企んでいそうな笑みが嫌いです!」
「と、この様に拒否反応が」
 太宰はけたけたと笑って、それは何かの振りなのかと安吾に問う。恐らく、安吾は本当に嫌がっているのだろう、近寄ろうとする太宰の肩を必死で押し留め、「酒臭いですよ君、さてはここへ来る前にもう既に一杯引っ掛けてますね!?」と叫んだ。確かに太宰からは酒の匂いが少々きつく、先程の密着でも体温が常より幾分か高いようだった。
 私は少し考えた後、思った事を思ったとおり口にした。
「……お前を相手に、防備する必要が無いだろう」
「またそういう事を云う」
 織田作は本当、相変わらずだよね、と太宰が初めてその日、私を振り返って笑った。

 息を飲んだ。
 太宰の右目に中る部分に、包帯が巻かれていたからだ。

「太宰。目が」
 知らずにぽろりと口をついて出た言葉は、それを発した自分でも驚く程平坦な色をしていた。如何した、でもなく、大丈夫か、でもなく。目が。何を問おうとしたのか、自分が一番認識していなかった。意味を成さないその小さな呟きは、店のBGMに紛れて一瞬後には掻き消える。それでも太宰は――この様子だと知り合いに会う度に聞かれているのだろう――慣れたもので、世間話程度に聞かれたものと流し、軽く肩を竦めた。
「いやあ、果敢にも肉弾戦を挑んで来た御仁を相手にしていたら、ここの処の……皮膚を切ってしまってね」瞼部分を指しながら、太宰はけろりと陽気に笑って、私と安吾の間の席に蹌踉めく様に腰掛けた。「ああ、でも、幸い眼球には傷は付いていないから、大丈夫」
 嘘だ、と私は直感的に思った。勿論、肉弾戦云々の話を疑っている訳ではない。けれど、大丈夫、と云うその一言だけは、幾らポートマフィア最年少幹部と云えど真実たり得ない、と思った。人間は外界からの情報の八割を視覚に頼ると云う。片目の塞がった状態は、片腕が無いより未だ過酷な筈だ。時折蹌踉めく様にふらりと体を傾けるのが、その良い証拠だった。
「マスター、生一つ」
 そう云って太宰が煙草を取り出し、一本咥える。かちん、かちん、と火を点けようとするも、中々狙いが定まらないのか、あれ? んー? と首を傾げるその様に、私は無言でジッポを取り上げ、代わりに火を点けて遣った。急に手の中から質量が消え、きょとんとしていた太宰が、「ありがと、織田作」と華やぐように笑う。それから性急にふーっと紫煙を吐き出す、その表情の方は善く読み取る事が出来なかった。太宰の表情の読めない事に、私は一抹の不安を感じる。いつも――少なくとも私達と居る時は――まるでこどもの様に瑞々しい感情を露わにする太宰の顔が、今日はやけに平坦に見えた。
 しかし、ジョッキが荒々しくカウンターに置かれると、途端に無言の重圧は雲散霧消した。太宰はぱあと顔を輝かせ、一気にジョッキを煽る。
「っかー、矢っ張り仕事終わりのビールは格別だね!」
「これは驚きました。君の中でマフィア業が仕事だという認識が在ったなんて」
 安吾は太宰の怪我の有無に拘らず、普段と同様に振る舞う事にしたようだった。変に気遣いを見せれば、この最年少幹部は矢張り「面倒臭いなあ」と拗ねてしまうに違いないからだ。私だってそうするだろう。唯、先程は少し、らしくもなく動揺してしまった。
 太宰の怪我は日常茶飯事だ。それこそ息をする様に怪我をすると云っても過言ではなく、自殺が趣味だと吹聴して回り、そうして本当に実行してしまうこの男の体から、生傷が絶える事とはそうそう無い。今更動揺など、する必要も無いのだ。それでも、あのぬばたまの美しい黒い瞳が、血と膿を彷彿とさせる布で覆われてしまうのは、耐え難い事の様に思えた。
「で、その男は如何したんです?」
「さあ? 何とか生け捕りにはしたけど、相棒がなんだかひどく怒り狂っていたから、今頃は川の底じゃないかな」
 可哀想にね、と太宰はうふふと笑って、とんとんかつんとカウンターを爪で弾いてみせた。見れば、ジョッキを持つ手が微かに震えている。神経質なその震えは、寒さや病ではない、何かもっと別のものに起因している様にも見えた。

「太宰」
 その言葉は、無意識のうちに転がり出ていた。
「抱き締めさせて呉れないか」
 しん、と店の中が静まり返った錯覚があった。
 実際には、息を飲んだのは太宰と安吾の二人だけだ。こんな、カウンターで飲んだくれている男三人の会話を、私達に気付かれる事無く盗み聞く暇な人間など居やしない。それに仮にそんな人間が居たとして、この遣り取りを拾っていたとしたら、それこそ骨折り損の草臥れ儲けもいいところだ。手土産が酔っ払いの戯言ひとつだけなんて心底同情するし、私ならそんな任務は御免だった。
 沈黙の中、そんな事をぼんやりと考えていると、静寂を破って腹を抱えたのは安吾だった。
「ぶっはは、織田作さん、あはははは、それ最高です!」
 流石に酔いが回っていると見える安吾は、普段の彼らしからぬ大仰な動作で私の言動を笑ってみせた。何がそんなに可笑しかったのか、目には涙まで浮かべ、態々眼鏡を外してその水分を拭っている。普段の真面目が服を着て歩いている様な姿からすれば、中々珍しい絵面だ。何か、そんなに面白い事を云っただろうか。
 太宰はと云えば、私の言葉が聞き取れなかったのか、顔を真っ赤にして、目を白へ黒へとさせている。
「何の冗談、織田作」
「別に冗談じゃない。お前が先刻俺にした事と、同じ事をお前にしたい。けど、お前は俺と違って無防備じゃないだろう。なら、お前を抱き締めるには、俺はお前に頼むしかない」
「成る程、成る程、理屈に適ってる」
 そう云う安吾は笑いに息を使い果たし、遂に体を支える事が難しくなったのか、カウンターに突っ伏し、切れ切れになる息の合間から何とかそれだけを云い放つ。余りにも可笑しそうに笑うものだから、一瞬発作の可能性を心配したが、「あっそういうんじゃないです」と本人の意識ははっきりしているようだったのでこちらは一旦放っておく。私が今問題にしているのは、太宰の方だ。
「やだって云ったら如何するの」
「それなら仕方無いな」それなら仕方無かった。私に太宰を抱き締める事は出来ない。「別に如何もしない」
「これは断れませんねえ、太宰君?」
 太宰はぴたりと黙りこくった侭だ。不快……と云うよりは、何故そんな事をするのか、そんな事をして何のメリットが在るのか、理解し難い……と云った風な顔だった。如何やら色好い返事は貰えなさそうだ。元より太宰は、他人に無神経に触られる事をひどく嫌がる性分だ。その点で無理を強いてまで、私の望みを押し通す事は出来まい。
 矢張りいい、今のはほんの冗談だ……と私が告げようとした処で、その口が唐突に塞がれた。
 太宰のほっそりとした手が、私の口を抑えていた。
「…………いいよ」
 私は耳を疑った。思わず目を瞠る。
 そんな私から、太宰は不機嫌そうに視線を逸し、がたんと席を立った。「いいよって云ったの。座っていたら、抱き締めるも何も無いでしょう」私も手を取られ、カウンターから引き出された。スツールがくるりと、慣性に従って一回転した。

 改めて向かい合うと気恥ずかしさが先立つが、構わず私は軽く両手を広げ、正面から太宰を抱き締めた。大の男が二人、真面目くさって酒場の真ん中で抱き合う絵面は何やらひどく滑稽だったが、少なくとも私は真剣そのものだった。身長差が在る為、太宰が私の肩口に顔を埋める様な形になる。太宰の呼吸が苦しくならないよう、腕の拘束はゆるく触れる程度に留めた。太宰の吸う銘柄の匂いが、何かしらの甘さを伴って、ふわっと鼻腔を擽る。無造作に背を擦ると、びくりと腕の中の体が震えた。
 ポートマフィアの幹部様に、抱擁。これは、ひょっとすると不敬罪で処分されてしまうような大それた事をしているのではないだろうか、と私が気付いたのは、その態勢になってから数秒後の事だ。
「太宰」
「善いから。……続けて」
 窺う様に名を呼んだ私の声を遮り、太宰の頬が私の肩口に擦り付ける様に委ねられた。酒の所為か、先程よりもまた僅かに体温が上がっている。おださく、と緩慢な声で名を呼ばれた。気持ち好さそうに目を閉じるその様は、まるで同胞に甘える黒猫だった。
 私の頭に、先日の任務で出会った、捜索依頼の出されていた小さな黒い迷い猫の姿が蘇る。未だ子猫で、怪我をしていた処を助けて遣ったのだ。その子猫は、怪我の原因となった人間に、或いは普段と勝手の違う体で歩く外の世界に、ひどく怯えていた様だった。
「大丈夫だ」
 ぽん、と軽く太宰の頭に手を置く。何が大丈夫なのか、と私は口に出してから自問自答したが、答えは出なかった。それでも多分、ここではこの言葉が適切であると、私の直感は判断していた。
 腕の中の痩躯から、ゆっくりと、強張った力が抜けていった。



「もう本当! 織田作は! 無防備過ぎ!」
 数分の間そうしていたものの、流石に周囲の客やマスターからの視線が痛く、また安吾の腹の皮の捩れ具合がひどく苦しそうだったので、私は太宰を解放して大人しく席に着いた。薄暗い店内で、同じく席に着いた太宰の耳が薄っすら赤く色付いているのが微かに見えたが、私は何も見なかったかの様に手元の蒸留酒を煽り、太宰もまた何事も無かったかの様にビールを煽った。今夜の事は唯の酔っ払いの奇行として他の客の記憶の中では処理され、マスターは明日以降も常と変わらず私達に酒を出して呉れるだろう。某かに何の影響を及ぼす事も無い、唯の戯れだ。それでも、目の前のこの包帯塗れの猫にだけは、影響を及ぼして遣りたいと思った。余計なお世話だったかも知れないが。「……マスター、彼に水を」安吾は何時まで笑っているんだ。席を立って、彼の背を擦って遣る。
 ちらりと隣を見やると、煙草を灰皿に躙る太宰の、神経質な腕の震えは、いつしか止まっていたようだった。
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