泡沫となる前に

(2017/03/27)


 声が出なくなった。
 原因は判らない。心因性のものなのかも知れないし、知らぬ間にそう云う類の異能の攻撃を受けていたのかも知れない。何せ前日は制圧任務だったから。疲れ切って落ちるように入った眠りから起床して、「お姉ちゃん私先に出てるからねえー」と云う妹の声を聞きながら、顔を洗って作り置いてあった朝食を食べ、化粧をして身支度を整える。そうして鏡の前で伸びをして、目の下のクマを巧妙に隠し、「よしっ!」と気合を入れようとして――そこで漸く気付いた。声が出ない。ただひゅうひゅうと、喉から空気の漏れる音がするのみだ。あーあー。あくたがわ、せんぱい。鏡の前で色々言葉を試してみるが、どれひとつとして音を成さない。なんて役立たずな喉。
 早く治りなさいよ、と苛立ちながら喉飴を口に放り込んだり嗽を数度繰り返したりを試していたが、本当は薄々自分でも勘付いていた。そういうものではないのだ、この症状はきっと。熱を測っても平熱で、喉に手をやっても外傷は無く。小手先の対策で如何こう出来るような、一時的な調子の悪さではないような気がしていた。若しかしたら、一生このままなのかも知れない。一瞬そんな考えが頭を過ぎり、私はぶるりと身を震わせた。冗談じゃない。それだと先輩のお役に立てないじゃあないか。
 そうこうしている内にも、出勤の時間は刻一刻と近付いてくる。あと五分で家を出なければ、遅刻してしまう。行きたくない、と咄嗟に思った。こんな無様な姿を、芥川先輩に見られたくない。けれど行かないという選択肢は無い。先輩が待っているからだ。時間に几帳面な先輩のことだ、私が二十秒でも遅れていけば、この愚図と私をひどく叱るだろう。叱られるのは構わない。けれど先輩の迷惑になるのだけは御免だった。何とかしなければ。焦れば焦るほど、時計の秒針が妙に早く進む。
 これでは、芥川先輩の足手纏いになるばかりだ。飴の包み紙を握り締めながら、私はぎゅっと目を瞑った。そうでもしないと、うっかり涙を溢してしまいそうだった。先輩のお役に立てないくらいなら、先輩に塵芥でも見るような目で軽蔑されるくらいなら、いっそ死んだ方がマシだった。いや、視界に入れて貰えるならまだ善い。存在すらその意識から外されてしまったら。そうしたら私は、如何やってこの世界に存在すれば善いのだろう。

 ふと見ると、バッグから銃がちらりと見えていた。

 黒光りするそれを手に取る。何時も懐に入れているものなのに、今日はなんだか妙に重い。その銃口を、吸い込まれるように、ゆっくりと自分の顳顬に当てた。がたがたと、手が震えているのが自分でも判る。怖かった。先輩のお役に立てないことが、如何しようもなく怖かった。若しこのまま声を失くしてしまったら、私は迷うこと無くこの引き金を引かなければならなかった。
 遂に銃の重みに耐え切れなくなって、私はそれを取り落とした。がしゃん、と銃がフローリングに当たって跳ねる。如何しようも無かった。全身に力の入らないまま、私はぼうと時計を見上げた。
 長針は、もうとっくに家を出なければならない時間を過ぎている。どう頑張っても、遅刻確定だった。

     ◇ ◇ ◇

「遅い」
 ぱん、と到着早々に頬を打たれた。頭部に衝撃が走ってじんわりと痛む。けれどそれより今は、心臓の方が痛かった。
 多分、ポケットに入れた携帯電話には、先輩からの着信が数件入っていることだろう。一件目で電源を切ったから、何件入っているのかは知らない。済みません、と口にしようとして、然しその試みは矢張り失敗に終わってしまった。そうだ。声が出ないのだった。自分の不甲斐なさに、ただただ項垂れることしか出来ない。その上、これからもっと先輩を怒らせることを伝えなければならない。
「云い訳があるなら聞くが」
 冷ややかな目で見下ろされているのが判る。その先輩の顔を、直視することが出来なかった。嗚呼、これはもう一発来るな、と私は歯を食い縛った。別に何回打たれようと、それはそれで構わない。出勤時間に遅れて、剰え上司の着信をブチ切りした自分が悪いのだ。ぱん、と再度乾いた音が路地に響く。
 私は謝罪を口にすることも出来ないまま、そろそろと一枚の便箋を差し出した。
「……何だ?」
 受け取った先輩が、目を伏せてその文面をじっと見る。此処に来る途中で、現状を綴った報告書だ。声が出ないこと。昨日は正常であったが、今朝起きたらそうなっていたこと。その為、今日の襲撃任務に同行出来ないことについて謝罪をさせて欲しいこと。可能であれば、自分を放置して今日の任務には先輩のみで向かって欲しいこと(実際、先輩一人でも簡単に片は付く筈だった。私は寧ろ、無理を云って連れて行って貰っているのだ)。……これからの身の振り方を考えなければならないが、少なくともこの異常が続くようであれば先輩の目の前からは姿を消すこと。等々。鞄の中にまともな紙が無く、仕方無く選んだものだったが、花柄でファンシーに装飾されたその便箋は、涙で濡れてぐしゃぐしゃになってしまっていた。
 先輩の目がさっと下に流れていくたび、心臓がばくばくと煩くなっていく。ああ、このまま爆発してしまえればどんなにか善いだろう。

「……ふん。下らぬ冗談だ」
 手紙を読み終わった先輩の声は、普段と変わらず平坦だった。興味無さげに放り出された便箋が潮風に揺れる。次の瞬間、それがざくりと影に裂かれて散り散りになった。羅生門の血の匂いが、一瞬だけ顕になる。
「役立たずは要らぬ」
 その言葉は、死刑宣告にも等しかった。じっと地面を見る。顔が上げられない。せめて、せめて先輩の手でこの首を落として呉れはしないだろうか。そんな望みを、無理矢理頭の中から追い出す。己の事情で先輩の手を、煩わせる訳にはいかない。
 つんと鼻の奥にくる痛みを堪えていると、不意に先輩がぐるりと振り返った気配があった。
「何をしている。行くぞ」
 一瞬、その言葉の意味が分からずに立ち尽くす。行くぞ、とは、一体誰に云ったのだろう? 顔を上げて振り返っても、其処には誰も居なかった。混乱したまま再び先輩の方を振り向くと、苛立った様子の先輩がずるりと羅生門を引き摺り出し、一瞬刃を期待した私の全身を乱暴に捕らえて歩き出した。引き摺られ、ずるずるとパンプスが地面に軌跡を描いて擦れる。そうして漸く、私は状況を理解した。ああ、詰まり、許して下さるのだ。こんな私が側に居ることを。沈み切っていた気持ちが、一気に水面を突き抜ける。ああ、ああ、お側に居ることを許して頂けるなら、私は幾らだってこの生命を賭けて貴方にお仕えする所存です!
 晴れやかな気分で先輩の後ろを随いて行くそのときの私は、愚かにも判っていなかったのだ。自分の状況を。
 先輩の優しさに甘えて、行くべきではなかったのだ。

     ◇ ◇ ◇

 ガガガ、と短機関銃の連射される音が廃工場内に響く。が、そんな反撃は芥川先輩に対しては何の意味も成さない。空間ごと抉り取った凶悪な黒獣が、敵構成員を次々と食い千切っていく。その残虐な行為に響く悲鳴、飛沫く大量の血液には正直未だに慣れないが、即時嘔吐しなくなったっだけマシだと褒められても善いようなものだ。少し目を瞑るに留め、合図を出す。
 ――今だ、突入!
 普段であれば、遊撃隊に私がそう指示を出す処だ。今は声が出ないから、事情を伝えてあった部下の一人にハンドサインで合図を送り代わりに突入の声を上げさせる。先輩が敵の尽くを鏖殺する。部下の私達の仕事は先輩のサポートとして猫の子一匹逃さないよう凡ての退路を塞ぐことと、横領されていた荷の確保。何時も通りだ。部下は既に二手に分かれ、粛々と任務を遂行していた。こうなると私の出る幕はあまり無い。この部隊で私に期待されていることは、状況に異変があり芥川先輩の動きが変わったときに、的確に判断を下し指示を行うことだ。誰だってそのとき最善と思って成した行動を後から誤りだったと詰られることは怖い。こんなマフィアなんて懲罰の手段が恐ろしい組織なら尚更作戦外の判断は他人に任せたいものだ。その任される役が私と云う訳。この肩には重いが、こればかりは仕方が無い。
 そうして作戦が変わりなくただ上手くいくことをただ祈っていると、不意に轟音が聞こえた。倉庫の外だ。慌てて飛び出す。
「……!」
 せんぱい、と発した心算の声は出ない。
 眼前には数人の男と対峙する先輩の姿があった。海の直ぐ間際だ。埠頭の付近でフェンスも無かったから、剥き出しの波の飛沫が先輩の足元を濡らしていた。羅生門が警戒するように唸りを上げて、けれどその場に停滞している。その周囲に飛び散っている血が、果たして敵のものだけなのか遠目では判別がつかない。ただ、先輩が手を休めている目の前の光景から一つ推測することは出来る。
 先輩が傷を?
 異能者が居たのだろうか。私はいざとなれば援護できるよう銃を構えて躙り寄ろうとして――気付いた。先輩の背後にも、銃を構えた男が居る。その、背後から行われようとしている襲撃に、先輩は気付いていないようにも思えた。私は先輩の異能の特性に思考を巡らせる。元より防御には弱い異能だと聞かされている。先輩の戦闘に対する研ぎ澄まされた直感で補ってはいるものの、攻撃手段として用いる際より展開に時間が掛かる為、事前に判っている攻撃でなければ防ぐのは難しいと。
 私は咄嗟に走った。
 声が出れば先輩に注意を喚起することが出来ただろう。先輩が気付けたならば、前方の敵も背後の敵も構わず排除することが出来ただろう。けれどそうではなかった。私の声はこんなときに限って出なくて、先輩がその凶弾に気付ける要素は、少なくとも私から見ては皆無だった。
 だから先輩をお守りするには、こうするしかなかったのだ。
「……! 樋口、」
 驚く先輩の腕を乱暴に掴み、海から遠ざけるようにその体を放った。要は遠心力の要領だ。非力な私でも、全体重を乗せて振り回せば先輩の一人くらいなら足を蹌踉めかせることが出来る。射線からズレる先輩の体。それと同時に、突き抜けるような痛みが全身を走った。
「……ッ」
 被弾した。
 傷を見ずとも判った。バランスを崩す。直ぐ其処は海だ。けれど私は痛みと衝撃に抗えない。
「樋口!」
 先輩が伸ばした手が、私の手を掠めて遠のくのが見えた。一瞬視界に映った先輩の顔に少しだけおかしな気がする。如何してそんな顔をなさるのですか。判っていたことじゃないですか。私のように異能一つ使えない小娘は、精々が弾除けになるのが関の山だろうと。
 それでも、貴方のお役に立てたのなら善かった。
 どぼん、と身を浸した海水は冷たく一瞬で私の呼気と鼓動を奪い去っていった。無論死ななければそれに越したことは無かったから必死に水の中を藻掻いたが、撃たれた腕から流れ出る大量の血と一緒に力まで一気に抜けていく気がして上手く体を動かせなかった。ひやりとした死の足音を感じてしまえばそれまでだ。力を失った私の指先を、ごぼりと水泡がすり抜けていく。苦しい。苦しい。けれど意識が遠のくに連れ、段々と温かな波に揺られる感覚に落ちていく。
 目を閉じる。これで善かったのだ。

 ……ああ、最期に見た光景が、先輩の姿で本当によかった。

     ◇ ◇ ◇

「……ぐち。樋口」
 誰かが私のことを呼んでいた。震える唇から呼吸が送り込まれ、止まっていた時が小さく鼓動を始める感覚。それに合わせて落とされる、静かで、落ち着いて、水面を微かに震わせるような心地のいい声に、沈み切っていた私の意識がふわりと重さを失ったように浮上する。ああ、とても好きな声だ。夢の中でも、聞いたような気のする声。
 春の陽気に誘われるように目を開ける。
「う……ッ」
 途端、気道の詰まりを認識してゲホッガホッと激しく咳き込んでしまった。体を動かすガソリンが尽きたように全身がひどく怠くて重い。それに撃たれた処なのか、黒い布の巻かれた腕も動かない。口の中がしょっぱくて、それでああ私は海に落ちたのだったと思い出した。愚かにも芥川先輩を庇って。傷を負って。力の無い者の最期らしく、為す術無く海に沈んだのだ。そのことを改めて考えると何だかひどい無力感に襲われて、私は芥川先輩の腕の中でその身をぐたりと横たえた。
「……うん?」
 あくたがわせんぱいの、うでのなかで?
 気付けば先輩が私を覗き込んでいた。
 至近距離で。
 私の体を抱き起こすように、支えて。
 ……そうか。私は死んだのか。
「ああ、先輩似の天の使いが……遂に私を迎えに……」
「阿呆」
 気の遠くなるような心地を味わっているとぺしっと頬を叩かれた。次いでどさりと体を地面に放り出され、背を強かに打ち付けて呻く。けれど倒れている場合ではない。慌てて体を起こして周囲を見渡すと部下が死体やら散乱した破片やら襲撃の後片付けをしていて、それを背景に立ち上がり冷ややかに私を見下ろす影は紛れも無く芥川先輩そのものだ。そのことに今更ながら私は羞恥に身を捩る。えっいや、何故芥川先輩が私の体を支えていたのだろうか若しかしてこの被弾した腕の止血帯は先輩がと云うか今距離が近くなかったですか嫌だ私海に沈んで泥と藻だらけで先輩の外套を汚してしまった私の莫迦先輩に汚いと思われなかっただろうか然し先輩善い匂いがしたと云うか腕が思いの外がっしりしていて、は、あ、「あ、あうあ、先輩……ッ!」と訳の判らない言葉を口走ることしか出来ない。
 そこで気付いた。
「あれ? 私、声が……なんで……」
 喉に触れる。痛みも無く正常だ。「あーあー。あくたがわ、せんぱい」試しに発声練習のように口にすると、今朝と違いよく通った声が出た。治ったのは善いが、私にとっては唐突に過ぎた。矢張り何か、異能の影響による症状だったのだろうか。それが何かの拍子に解除条件を満たして解けた? 首を捻っていると芥川先輩に訝しげに振り返られ、「何だ」と渋い声で訊かれる。「あっいえ! 今のは先輩を呼んだ訳ではなく、その、先輩の名前を口にしただけで」私の慌てふためいた説明を聞く先輩の表情は険しい。
「……さっさと帰るぞ」
「あ、はい!」
 くるりと踵を返す先輩。その背中に返事をして随いていけることが嬉しくて、私は怪我をして体力が尽きていたことも忘れてついつい駆け寄ってしまう。
 私の前を往く先輩の纏う空気は、何時もよりどこか柔らかい気がした。
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