あたたかい雨の降る

(2016/12/03)


 しと、と雨の音が空気を湿らせていた。硝子越しに見る空には鉛色の雲が重く垂れ込んでいて、霧雨が風を孕みながら窓の向こうで烟っている。雨の六月の昼下がり。この時期ときたら、何処も彼処も雨模様なのだからまったくもって嫌になっちゃう。湿気を含んで何時もよりふわふわと纏まらない髪を摘んで、私はちら、と後ろのお手洗いの扉を見やる。
 ルームメイトの立て籠もった、難攻不落の天の岩戸を。
「うッ……おええ……」
 中からは、凡そ私達のような花も恥じらう乙女が出してはいけない類の嘔吐の音が、断続的に響いていた。朝からかれこれ三時間。リビングには冷めた朝食が手も付けられずに残されていて、私が焼いたトーストは固くなってしまったし、彼女はお手洗いに篭りっぱなし。あーあ、と密やかに溜め息を一つ吐く。あーあ、可哀想に。
 毒だと判って喰らったくせに。
 吐き戻せずに冒されちゃって。
 そんなに苦しむくらいなら、すっぱり忘れてしまえば善いのに。
「……中也? ちゅうや、中也さーん。いい加減ドアを開けなさいな、脱水症状になっても知らないわよ」
「……うるっせえんですわよ、治さん……」
「おお、怖い」
 地獄の底を這うような声に、私は軽く肩を竦める。けれど片手に水を一杯、コップに汲んできてあげるのだから私ったらとっても親切だ。コトンとそれを床に置いて、リズムを刻むように扉を叩敲する。こんこん、こここん。扉の開く様子はまるで無い。矢っ張りアマテラスを誘い出すには、裸で踊らなきゃあ駄目かしら。ぽいぽいと寝間着を脱いで放って、けれど着替える元気は起きなくて、ぺた、と冷えたフローリングに座り込む。この部屋には私と相棒の二人っきりで、その相棒が今は籠もって出てこないのだから、どんなにはしたない格好をしたって誰にも見られやしないのだ。下着姿のままぼんやり、床の上に太腿を滑らせる。
 寄り掛かった扉が、背中に存外固くて。
 雨音に混じる密やかな嗚咽を聞きながら、私はゆっくりと目を閉じる。
「うっ……う、う…………り、さん……」
 嘔吐と嗚咽の合間に繰り返される、誰かの名前。私はそれを、かしこく聞かない振りをする。
 だってずっと、知っているのだ。相棒がどれだけあの女に熱を上げて――心酔して。そうしてどんなに手酷く振られたのかと云うことを。
 そう、私は知っていた。
 だらんと腕をぶら下げて、力無く窓の外を見遣る。
 この人しか居ないと――そう運命さえ感じたひとに、お前のことは妹に出来ないと拒絶される。それがどんなにくるしいことかを知っていた。それを抱えているときの、痛いことと云ったらない。胸を掻き毟って、中を開いて、心臓を取り出してしまいたいくらいになるのだ。
 そんな思いを知っていた。
 だからだろうか。ぎゅっと身を縮こませる。抱え込むように膝を折ると、脚がひどく冷えているのが判った。
 それと誰にも癒せやしないその傷が、引き摺られて微かに開くのも。
「……」
 私は黙って、その辺りに転がっていた自分の携帯端末を拾った。手早く暗証番号を打ち込んで、呼び出すのはアドレス帳だ。上から指と目を滑らせる。
 あ。あいうえ、お。
 おださく。
 其処で逡巡をした。親指でその名をなぞる。一押しだけだ。たん、とひとつ押すだけで、この電話は簡単に私をその人に繋げて呉れる。きっと彼女は優しいから、直ぐに応じて呉れるだろう。如何した、太宰。鼓膜の奥に染みるような声を、まだ容易に思い描くことが出来る。
 未練がましいと、判ってはいた。それでも押さえられない気持ちがあった。
 けれど彼女の声を聞くその瞬間のことを思うと、痛む傷が引き攣れて堪らない。
 だって、次もまた拒絶されない保証は無い。
「……。……」
 散々迷った末、私はすい、と指をスライドさせた。タップしたのは一つ下の名前だ。
「……あ、もしもしもとじろ? 今日暇? 籠城してるお姫様が居るからさあ、うん、うん、ちょっと来て欲しいんだけど。え、私? 私はちょっとこれから行く処があってさあ……」
 外はお誂え向きに雨が降っていた。

     ◇ ◇ ◇

 雨だから、古傷が疼いたのだと思う。
 校門に寄り掛かって待っていると、ざあざあと降り頻る雨の向こう側に、遠目に赤茶の髪が見えた。大学の校舎から出てくる色鮮やかな可愛らしい傘の群れに混じって、ひとつ女物っぽくない黒の傘を差している、それが彼女。最低限のクラッチバッグだけを小脇に抱えて、気怠げに端末を弄っている。それが何だかとてもらしくって、私は思わずくすりと笑ってしまう。
 と、ふと目が合った、気がした。
「――!」
 遠くで彼女が云っているけれど、雨音が邪魔で聞こえない。けれど走っていくのも、なんだかすごく焦がれていたみたいで気恥ずかしい。飼い主を待っていた犬ではないのだし。雨に濡れながら少しの間立ち尽くしていると、彼女の方から慌てたように駆け寄ってきた。
 彼女の黒い傘が私に掛かって、雨音が少し小さくなる。
 相変わらず、私より少し背が高い。
「太宰!? 何してる」
「織田作」呼んだ声は、出そうとした声より少しだけ弱々しくて、あれ、と自分で思う。語尾が微かに震える。「遅かったね、講義がこの時間に終わると聞いていたから……」
「傘は!」
 責めるような声音に、首を少し傾げる。それから、自分の格好を見下ろす。髪が頬にぺたりと張り付いて、制服はぐしょぐしょに濡れていて、出て来るときぴかぴかにしておいたローファーには泥が掛かっている。
「見ての通り、持っていないけれど?」
 実を云うと、鞄の底には折り畳み傘が入っていたのだけれど、それを云うと何故それを使わないんだと怒られそうなので云わなかった。いや、そもそも今日は朝から雨なのだけれど。でも織田作は何も云わずに、ただひどく心配そうな顔で羽織っていたミリタリージャケットを私の肩に掛けて呉れた。靭やかな腕が露わになるけれど、彼女が気にした様子は無い。
 君のそう云う処が、私の心の奥底をひどくくすぐるのだと、君は知っているのかな。
 ジャケット越しに、肩を抱かれる。
「行くぞ。寮まで送る」
「織田作」その言葉に、大変申し上げ難いことなんだけど、と私は切り出した。「私の寮、二駅先だよ」
「……知ってる」
「私、この雨の中、君を待ってパンツまでびしょ濡れなんだけど」
「……そうみたいだな」
 私はじっと、織田作を見た。
 織田作も私を見た。
 少しの間雨音が聞こえなくなって、私達の間に沈黙が落ちた。
 それを破ったのは、ハァ、と吐かれた深い溜め息だ。この状態の私を、車に載せるのは断念したらしかった。
「……うちに来るか、太宰」
「やった!」

     ◇ ◇ ◇

 スカートが絞れるほどに水を吸っていたから、部屋に着くなり服を脱がされた。
 と云うと少しいやらしいことを期待してしまうけれど、実際は身包み剥がされてバスタオルに包まれたと云うのが正しい。がしがしがしと、彼女が私の水を拭う様は完全に犬にするそれだった。私の恨めしげな視線には気付かずに、「ほら見ろ、体が冷え切ってる。100数えるまで出てくるんじゃないぞ」とぽいと風呂場に放り込んだのだ。御蔭で今はほかほかの状態で居間のソファに座っている。下だけ新品の下着を付けて、彼女のぶかぶかのTシャツを借りて。ご丁寧にホットミルク付き。憮然としてそれを啜る。
 目の前でハンガーに掛けられた制服と下着がエアコンの風に揺られるのを眺めながら、部屋の中を見回した。一人暮らしも相まって、2LDKはひどく広く見える。
 その上彼女は必要以上にものを置かない主義だから、細々としたものの無い室内は殺風景とすら形容出来た。まあ、彼女の寝室はまた違った趣なのかも知れないけれど。煙草の匂いが染み付いていて、ああ、そう、これだ、と目を閉じて懐かしい匂いに身を委ねる。
 聞こえるのはシャワーの音だ。雨とは違って、温かい水音。
 私の所為で彼女まで濡れて、今は交代でお風呂に入っていた。それが少しだけ申し訳無い。
 けれどそれを上回る熱量の気持ちがある。
 何時もそうだ。自分が濡れるのも構わずに、真っ先に私の心配をする。
 高校はもう卒業したのだから適当に追い返せば善い筈なのに、律儀に『後輩の太宰』を家に上げる。
 そんなことをするから、勘違いしてしまうのだ。
 勘違いを、してしまったのだ。



 如何しても、彼女と繋がるしか無いと思ったのだ。だから云った。
 ――私のこと、妹にしてよ、織田作。



 何か、形を残さないといけないと思った。ただの先輩と後輩の関係なんて、時が経てば薄れてしまうかも知れないのだ、同じ校舎で会わなくなって、軈て彼女には新しい世界で新しい知り合いを作って、勿論連絡は取り合って呉れるだろうけれど、その濃度は希釈されてしまう。私は何時の日か、彼女の何百の中の一人になってしまうのだ。
 けれど姉妹であれば、それより幾分か、彼女の特別であれるように思えた。
 あのときは彼女には妹が居た。
 けれど今は居ないのだ。なら押し倒して無理矢理に奪うのだって自由じゃないか? あのときみたいに気持ちをぶつけたかった、あなたの特別になりたいと云いたかった――云わなければいけないと思った。
 だって私、この気持ちを抱えたまま膿んだら死んでしまう。
 よし。押し倒そう。
 何時の間にか、シャワーの音が途切れていた。バタン、とお風呂から出る音がして振り返る。いざ実行するとなると、握り込んだ手の平の汗が妙に意識された。お風呂で温まり過ぎたのかも知れない。緊張に、ぴんと背筋が伸びる。
「おださ……くっ……!?」
 けれど私のそのわるい企みは、敢え無く其処で散ってしまった。
 彼女が一糸纏わぬ姿で、惜しげも無くその裸体を晒しながら其処に立っていたからだ。急な展開に目を剥く。
「な、なな、何で、いや私はその心算だったけれど、待って、そんな未だ……服は如何したの!?」動揺で、自分でも何を云っているのか善く判らない。
「太宰、落ち着け。服を忘れてしまったんだ。取って呉れないか」
「お願いだから服を着て!!!」
「だから、取って呉れないと……こら!」
 赤面して目を逸らすと、彼女の云うように服の山が目に入って、それを大急ぎで引っ掴んで彼女に押し付けようとする。服を、服を着せないと、いや押し倒すんだっけ? そんなことを考えていたからか、足元が覚束無くて何も無い処で躓いた。「太宰!?」彼女が支えに入って呉れて、でも勢いが殺し切れずにどさりと床に倒れ込む。
 痛くない。
 咄嗟に瞑った目を開けると、彼女の柔らかい体に抱き込まれている自分が見えた。周囲には散乱する彼女の服とか下着とか。
 押し倒してる。
「……大丈夫か? 太宰」
「御免……いやあんまり大丈夫じゃないかな……」
 なるべく彼女の体を見ないように、床に手を付いて起き上がろうとする。それでも嫌でも目に入る、フローリングに散る赤髪、鍛えられた肢体、浮き出た鎖骨の窪み。つい齧り付きたい衝動を押さえても、絡まった太腿から伝わる体温が、じくじくと私の奥の燻った熱を刺激する。
「織田作、ねえ」床に手をついて彼女を見下ろしながら、私は気付けば吐息のようにその言葉を零していた。「私のこと、妹にしてよ……」
 冷えた雨が硝子窓に打ち付ける音が、いやに鋭く耳に障った。
 それと同じ調子で、彼女が静かに口を開く。
「太宰、そのことは……」
「ずっと。ずっとだよ。一年待った。君に今妹は居ないでしょう。だって卒業したんだから。ねえ、だから善いでしょう」
 ああ、と思った。矢継ぎ早に云ったのは、きっと何も聞きたくなかったからだ。
「私のこと、妹にして」キスするみたいに、唇を寄せた。「お願いだよ……」
 それでも彼女は、首を縦に振らない。
「もうあの学校の生徒じゃない」
「それでも善い、ロザリオを……」
「無理だ」
 彼女の声が、静かに私を遮った。
「お前のことを、妹には出来ない」
 強い、言葉だった。
「そう……だよね」
 浮足立っていた気持ちが、しゅんと萎んでいくのを感じていた。私は立ち上がって、それから散らかった服を集めて彼女に渡す。それはそうだ。一人で何を盛り上がっていたのだろう、私は。彼女は一度決めたことを曲げはしない。でも若しかしたら、と優しさに縋って勝手に惨めになって、莫迦みたいだ。
「御免……御免ね、織田作。服が乾いたら、直ぐ帰るから」それからにこ、と何でも無い風に笑う。「ふふ、今ならいけるかなと思ったのに、君は相変わらず頑固だね。でも私、君のそう云う処も好きだよ、織田作」上手く笑顔が作れていたかは判らない。

「太宰」
 彼女が私を呼び止めたのは、何とか制服の湿気が取れて、外の雨も止んで、さあ帰ろうとしたときだった。もう相棒の調子も戻っているかしら。玄関の扉を開けて、雲の隙間から覗く太陽に少し口元を綻ばせたとき。
「お前は……卒業後の進路とか、決めてるのか」
「え、なに突然。そりゃあ、未だ二年生だから判らないけれど」私は在校生の進路状況を思い出しながら、一番多い道を口にする。「普通にまあ、大学行って、就職するんじゃないかな……?」
「そうか」 
 彼女は未だ何か云いたげだった。何だろう。何も悪の組織の首領になる予定だよ!とか、そんな変なことを云った心算は無いけれど。
「この部屋が、ひとりで住むには広すぎるんだが」
 うん? 彼女が何を云いたいのか判らなくて、私は首を傾げる。
「だから若し、お前が来年付属大を受けるなら」
 彼女にしては珍しく、歯にものの詰まったような物云いだ。ピコン、と端末にLINEが入った音がして意識が逸れる。
「妹には出来ないが」
 後輩からかな。相棒の調子は戻ったのだろうか。
「一緒に住むか」
 顔を上げた。彼女ははにかむように、私の頬をそっと撫でた。温かい手だ。私の好きな手。
 私は齧り付くように、彼女の首筋に抱き付いた。
1/1ページ
    スキ