SWEET SISTER

(2016/10/29)


 新作のタルトが食べてえな、と思った。
 任務帰りにふと通りすがった店の、ショーケースの中に見つけたのだ。ラズベリーとチョコレートのモンブラン。硝子越しに覗く、ふわりと盛られたマロンムースとつやつやの赤い果実に目を惹かれた。中也だって、甘いものは存外嫌いではなかった。
 然しちらりと覗き込んだ店内は、平日の昼であるにも関わらず若い女性で賑わっていて、とても男一人で黒外套を翻して入れる雰囲気ではない。いや、気にせず入っても善かったが、ただでさえこんな職業だ、柔らかい物腰を作ったって威圧してしまわないとも限らない。それにそう云う、周囲の視線を集める行為は望ましくなかった。美味いものを味わうには、肌に感じられる雑音は少ない方が善い。今はそう云う気分だった。
 じゃあテイクアウトするか? 中也は逡巡する。多分それが一番かしこい。ついでに幾つか美味そうなのを見繕って、家でゆっくり食べれば善い。何の邪魔も入らないだろう。至福のひと時だ。然し――タルトを味わう為に、紅茶を用意しない、なんてことが己の矜持に照らし合わせて許されるだろうか? 答えは否だ。そして四年前ならいざ知らず、今現在の中也の家には紅茶を淹れる為の道具が全くと云って善いほど無い。
 或いはエリスや紅葉にでも献上すれば善いお茶会になったのだろうが――。
「……確か遠征だっつってなかったか?」
 パチン、と取り出した携帯電話を手持ち無沙汰に閉じる。そうだ、確か尾崎紅葉は月末まで出張だと聞いている。ちらりと目を移したイーゼルには、『今月限定』の飾り文字。残念ながら久し振りの師弟水入らずとはいかなさそうだ。
 逆にエリスは此方が遠慮すべき相手であるし。
 矢張り休みの日に、食べに来た方が利口かも知れない。
 問題は誰と来るかだが。
「あ、中原さーん!」
 丁度そのとき、タイミングよく駆け寄ってきた部下を思わず半目で見遣った。脱色した髪をきらきらと陽光に晒すその部下は、中也より大分上背があるにも関わらずその視線を受け僅かにたじろぐ。
「こっちも巡回終わりまし……た……え、な、何ですか」
「いや……お前ケーキ好き?」
「えっ。中原さん食べたいんですか? 俺とデートします?」
 軽く云われたその言葉に溜め息を吐く。気心の知れた部下は皆175センチオーバーのデカブツばかりだ。そんなもん店内を威圧しまくりだ。却下だ却下。ちら、と脳裏を過ぎった甘味の好きそうな男の顔にも、ついでに×印を付けておく。
 然し知り合いの女を誘うにしたって、それはそれで面倒だ。パチン、と携帯端末を開いては閉じる。マフィア内にだって顔見知りの女性構成員は居る。けれど複数居るものだから、誰に頼むかを決め倦ねてしまう。大抵が地位の下の者だから、五大幹部からの誘いで萎縮させてしまうのは本意ではなかった。それに下手に中也が誘って、恋愛絡みのあれこれと周囲から誤解されても迷惑だろう。
 実際デェトがしてえ訳ではねえし。
 もっと気楽な方が善い。
 となると。
 マフィア外の人間で。
 俺にあんまり遠慮が無くて。
 俺とそう云う関係になる可能性が毛程も無い奴。
「……」
 中也は黙ってもう一度パチン、と携帯電話を開き、怯えられるかもなと苦笑しながら或る番号を打ち込んだ。数度の呼び出し音の後、はい、と警戒したような声が応答する。
「よお、中原中也だ。手前に頼みがあるんだが――」

     ◇ ◇ ◇

「何故私」
 開口一番、泉鏡花は不満げにそう漏らした。駅前の商業施設の入り口な、と告げた場所に時間ピッタリに訪れた着物の少女は、相変わらず器用に和装に身を包んでいた。簡素な洋装と違い結構な布の重量があるだろうに、如何してだかその重さを感じさせない。人波に程良く気配をなじませながら此方へ流れるように歩いてくるその足取りに、中也は彼女の教育係の影響を色濃く見る。
 実際、短い期間だったと云うのに鏡花は紅葉に善く訓練されていた。鏡花自身が紅葉を信頼していたと云うのも大きいだろう。紅葉は嫌われたかものう、と呟いていたが、少なくとも中也はそう簡単に少女が紅葉のことを嫌うことは無いように感じていた。
 喧嘩別れのように離別してしまったとは聞いているが。
「厳選なる抽選の結果だよ喜べよ」素手の間合いの少し外で立ち止まった少女に、中也は弄っていた端末をジャケットに仕舞った。今日はオフだからシャツにジーンズのラフな格好だし何時も着けている帽子も無しだ。一見すれば、ただの一般人の青年に見えることだろう。「それともあの敦とか云う奴と約束でもあったか」
 それなら悪かった、と何気無く云った言葉に、鏡花の顔が僅かに朱に染まったのには少し驚いた。それから軽く唇を噛んで、果敢にキッと睨み付けてくる透き通った瞳。
「――貴方には関係無い」
「ふぅん?」
「なに」
「いいや、何でも。じゃ、行くぞ」
 繋ぐ積りで差し出した手は、何故だか鏡花に取られない。
 首を傾げて目線を下げると、此方に向けられる視線からは僅かに警戒心が見て取れて、ああまあ、今は敵同士だ。紅葉の元に居たときとは勝手が違うだろう、と特に不服も無くその手を引っ込める。
 然し鏡花は少し俯き気味に、そわそわと周囲へ意識をやったままだ。
「? 云っとくが別に部下は連れてきてねえし、今日は手前に危害を加える積りは無えぞ。姐さんは出張だしな。俺に今そう云う命令が下りてねえのは」一瞬、その名を無防備に零しそうになって顔を顰める。「……彼奴にでも訊きゃあ判るだろ」
 けれど鏡花は、違う、そうじゃないと首を振る。
「……此方の問題。誰かに見られたら、困る」
 そのひっそりとした呟きに、漸くああ、と中也は得心を示した。ああ、確かに、万が一にも中也の顔を知っている探偵社員にこんな現場を見られたら、内通ではないかと疑われる可能性はある。
 今更だな、と中也は笑う。それが心配だったら応じるべきではなかった、中也の誘いに。応じて此処へ来た時点で、その疑いは掛けられても仕方の無いものだ。
 然しその判断の甘さがいっそ微笑ましくもある。
「大丈夫だろ、誰も咎めやしねえよ。若し探偵社の奴に見られたって、マフィアだったって知らなかったって云えば善い」肩を竦めて、くるりと鏡花に背中を向ける。「優しいオニイサンが一緒にケーキ食べようって誘って呉れたから、随いていったって」
 そのまま歩き出すと、鏡花が慌てて随いてくる気配がある。
「……知らない人には随いていっちゃ駄目って云われてる」
「そうか、ついでに云うとな」なら中也を見捨てて帰れば善いものを、それでも矢っ張り随いてくる少女に、苦笑しながら云う。「仮令知り合いでも、悪い奴には随いていかねえ方が善いぜ」

 いらっしゃいませー、と出迎える店員に、二人で、と指を二本立てて案内を受ける。殆どの客は此方に見向きもせずに雑談に興じていて、店員からの視線はあら可愛い妹さんですね、と云う微笑ましいものだ。よしよし、と中也は満足げに頷く。矢張りこうでなくてはいけない。
 それに席に着けば頑なだった鏡花の態度も一変し、中也への警戒がみるみる内に散漫になったのも善かった。口数が少ないのは相変わらずだったが、運ばれて来たメニューに顔を綻ばせ、目を輝かせて注文すべきタルトを吟味している。おいおいそんなんで暗殺者として大丈夫かよ――云い掛けて止める。
 そうだ、此奴ももうポートマフィアの構成員ではなく。
 探偵社の一員なのだ。
 目を細める中也の前で、その視線がメニューの或る一点に釘付けになっていることに気付く。
「決まったか?」
「………………。…………あの……」
 鏡花が口籠った。見ると視線がぱちりとかち合う。遠慮がちに、けれどねだるような上目遣いに苦笑する。
「好きなの好きなだけ選べば? ふたつ食べても気にしねえけど」
「……、一度あの人の奢りで、湯豆府をいっぱい食べ過ぎて、お給料日までもやしだったことが……」
「あー……」
 こんなタルトの店なら痛くも痒くもねえけど、と思うが湯豆府となると話は別だ。紅葉の姐さんの行きつけの店を思い出す。かこん、と鹿威しの音が涼やかな彼処だ。ポートマフィアの幹部の報酬と武装探偵社の新人の小遣いにどれくらいの差があるかは知らないが、きっと人虎には荷が重かったことだろう。
「流石に可哀想だな?」
「反省してる」
 しゅん、と肩を落とすそのさまが何だか普通の十四歳の娘のようで、中也は思わず笑ってしまう。「今日は気にすんなよ。あと俺はこれ頼むから、後で一口分けてやれるぜ」と告げると、やっと決意が固まったのか鏡花がメニューから顔を上げる。「すみません」と店員を呼び止めるその声は涼やかだ。

 タルトが運ばれてきてからは、お互い暫く無言で黙々と食べていた。
 フォークを突き立て、先の方から切り分けていく。ぱき、とタルト生地を割ってムースと一緒に掬い上げれば、漂うのは秋の味覚の匂いだ。口に含めばさくりとした食感と共に甘みが広がる。ベリーの酸っぱさがアクセントになって、咀嚼の度に甘さに染まった舌を刺激する。
 美味えし。
 紅茶が程良く甘さを緩和して呉れるし。
 やっぱ偶の甘いモンは善いなと思う。
 それに泉鏡花に連れを頼んだのも正解だった。ちら、と鏡花を見遣ると、こちらも矢張り黙々とキウイとマスカットにフォークを突き立て、紅茶を口にし、ほう、と一息付くような表情をする。何時もそうだった。沈黙がお互いの邪魔をしない。その距離感が、泉鏡花がマフィアを抜けた後でも変わらず心地良い。
 そんなゆったりとした沈黙を破ったのは、一つ目のタルトを食べ終えた鏡花だった。
「……あの人は」
 かた、と二枚目の皿を引き寄せながら、鏡花は中也と目を合わせずに云った。
「あの人は、その……元気……?」
「姐さんか?」さく、とタルト生地にフォークを突き立て、鏡花に分ける分を切り分けながら云う。「元気だよ」
 テーブルを挟んだ向かいから、ほっと肩を撫で下ろしたような気配を感じて、ほら、矢っ張りな、と中也は笑った。鏡花のその云い様は、とても紅葉を嫌っている類のものではない。ただ少し、思いやりと望みが擦れ違ってしまっただけなのだと思う。少女が漂わせるのは、申し訳無さと少しの罪悪感だ。
「気にすること無えだろ。姐さんだって大人だ」よ、と鏡花の皿に、自分の分を一切れ。「手前の我が侭くらい受け止めてやれるし、手前が決めた道なら祝福してやれるよ」
「……あの、ごめんなさいって、」
「それは自分で云え」
「……」
 こく、と鏡花が素直に頷くのを尻目に、タルトの縁の部分を切り分ける。ケーキの類と違って、この縁の固い部分がまた格別なのだ。砕かないよう慎重にフォークを差し入れながら訊く。
「そっちでは上手くやってんのかよ」
「うん」
 甘味が入ったからか、先程よりも幾分素直に頷きが返る。
「……あの人も、元気」
「うん?」
 人虎か? 首を傾げながら、タルトの最後のひとかけらを口に含む。でも人虎が元気だろうが、俺には関係無くねえか。そう思って数秒後、やっと鏡花の云う『あの人』が何を指すのかに理解が及び、中也はがちゃ、と些か大きな音を立ててフォークを置いてしまった。
「……いや俺はいいんだよ。俺はいいんだよ彼奴が元気であろうがなかろうが! 関係無えだろ!」
「でも気になってたでしょ」
「ならねえよ!」
「ご馳走様でした。タルトおいしかった」
「聞け!」
 小声で云い募るも鏡花は何処吹く風だ。ふふ、と笑われさえした。此奴。先刻人虎のことを訊いた意趣返しか。上機嫌で紅茶を口にする鏡花の様子がなんだか釈然としなくて、むす、としたままカップに手を付ける。
 中也の機嫌に関わらず、少し冷めた紅茶からはいい香りが漂う。

「有難う御座いましたー!」
 会計を済ませ、店員に相変わらず微笑ましいものを見る視線で見送られながら店を出た。途中、鏡花が入り口の段差でよろけそうになっていたからおっと、とその手を取ってやる。鏡花は存外、素直に此方へと体重を預けてきた。
「却説、寮に帰るのは歩きでか? 送ってくぜ」
 そう振り返った中也を引いたのは、鏡花の細く幼い手だ。
「……ねえ」
「あん?」
「これ、来月の新作」
 似合わず力強い仕草で鏡花が指差した先には、たった今出てきた店のチラシが貼られていた。目いっぱいに飾られたタルトの写真。表面には柔らかいきつね色の焼きあと。『クリームチーズのタルト』。
「……」
「……」
「……また来るか」
 チラシを見たままこく、と少女が頷くのを目の端で捉えた。奇妙な共犯関係だ。却説、姐さんにバレねえようにしねえとなあと思う。バレれば後で何を云われるか判ったものではない。そんな中也の気持ちを脅かすように、ぶる、と衣囊で端末が震えた。何か連絡だろうか。端末を開いてメッセージを確認しながら、却説来月は何時が休みだったかなと、頭の中にスケジュールを思い描いた。

     ◇ ◇ ◇

「ねえ太宰さん」
「んー? なんだい敦くん」
「だだだ太宰さんあの、ねえ太宰さん」
「うんなんだい鏡花ちゃんの様子が気になって今日休みだった私を連れ出してまでこっそり後を随けてきた敦くん」
「あっ矢っ張り怒ってます!? いやそんなことよりあの……あの鏡花ちゃんと手を繋いでる男の人誰ですか!? えっちょっと只ならぬ関係に見えるんですけど……真逆デ……デー……」
「うんあれは俗に云うデートだねえ」
 間髪入れず打たれた相槌に、敦はうわあああと頭を抱えた。見ればシンプルな着衣を無造作に着こなしているさまは男から見ても何だか格好良いし、自然に手を取ってエスコートしているし、何と云うか……オトナの余裕が漂っている。
 敦は悟った。
 敵わない。
「あのその鏡花ちゃんには未だ早くないですか……いや僕は別にそんな、気になるとかじゃなくて飽くまで鏡花ちゃんの為を思って云うんですけど……いや……鏡花ちゃん……アアア…………って太宰さん何写真撮ってるんですか」
「うん? これをねえ、こうして添付してねえ、『ちゅうや、未成年に手を出したら流石に犯罪だからね』、っと……あ、気付いた」
 数秒後、潜んでいた草陰に向かって突然飛んできたナイフに、敦の悲鳴が響き渡ることとなった。
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