異能特務課の先輩と後輩

(2016/09/10)


「アッハッハ、先輩ざまあねえですねェ!」
 病室で大人しく体を横たえる安吾先輩を見た瞬間、アタシは腹を抱えて笑った。包帯の下から迷惑極まりないと云った視線がじろりと送られるが構いやしない。何せ遠慮をする必要が無かった。如何せ誰も来ないのだ。病室にはアタシ等しか居らず、此処は完全な個室。入り口には患者の名前も掛けられていない上に、この病室の存在は凡百手段を使って伏せられている為、見舞客すら訪れる可能性は低い。
 それもこれも、凡ては入院しているこの上司の肩書の特殊性の為だった。
 異能特務課、参事官補佐。
 それが、この病室の主――坂口安吾の肩書だ。
「煩いですよ。病院では静かになさい」
 その参事官補佐が、一つ大きな溜め息を吐いて度のキツい眼鏡をずり上げた。それから脇に在った見舞い品の中から適当な果物を手に取り、乱暴に此方へと投げ付ける。何か口にすれば少しは黙るだろう、と思われたのかも知れない。それに先輩自身は動けず、直接アタシを黙らせる行動を取れなかったのもあるんだろう。その体は包帯に覆われ片足を吊り下げられ、自分で立つこともままならない状態だ。首を固定されているから、体の向きを変えることすら今の先輩には難しそうだ。
 先輩の体は半壊だった。
 その痛々しさを吹き飛ばすように、軽快に笑う。
「いやだってちょー面白くねえっすか? 護衛要らねえつったの先輩すよ」
 おっ、と軽い掛け声と共に投げられた林檎をキャッチして、がたん、と乱暴に脇のスツールに腰掛けた。代わりに先輩に渡すのは、職場から持ち出した先輩のノートパソコンだ。持って来いと云われたのだ。正気じゃないと思う。医者に絶対安静と云われているこの状況で、「仕事を放置するなど気が狂いそうです」とセキュリティの目を掻い潜って持って来いと命じたのだ、この上司は。
 やっぱこの人も、まともに見えてどっかネジ外れてんなあ。
 先輩が起動させたパソコンに齧りついているのを横目に、アタシは貰った林檎の方に齧り付く。あ、美味しい。
「つーかアタシ同行させて呉れりゃ、車のひとつやふたつ、軽くふっ飛ばせたじゃないすか。先輩、何ぶつかられて骨なんか折ってんすか? カルシウム足りてないんじゃないすか」
「では今日から毎日牛乳を飲んで追突事故に備えることにしましょう」先輩の返しはおざなりだ。メールを確認してひどく顔を顰めている。きっと未読が余程溜まっていたんだろう。何せだいぶ長い間、集中治療室に居たから。
 そう思ってその横顔を眺めていると、ちら、と視線を寄越された。
 隠す気も無い呆れ顔。
「と云うか、貴方、見舞いに来たのか傷に塩を塗りに来たのかはっきりさせなさい」
「やー、やっぱどっちかと云うと塩っすかね!?」
 アッハッハ、と笑うと、今度は先輩もにこりと笑みを返して呉れた。
「成る程、余程暇なんですね。今メールを送りましたから、その書類、明日までに仕上げておくように」
「ゲッ……アンタ鬼すか! やだー殴り込み行かせて下さいよォ!」
「駄目だと云っているでしょう。諦めなさい」
 はぁい、と返事をすると、安吾先輩は一瞬だけ、目元を和らげたようだった。

     ◇ ◇ ◇

 そもそも如何してこんなことになってんだ、とアタシの傾げた首はここ数日戻らないままだ。
 それは己のみならず、周囲の人間凡ての疑問であると思われた。坂口安吾が瀕死の重傷。その報せを聞いた瞬間、課内は騒然としたものだ。無論、異能特務課の職員が命の危険に晒されることなど然程珍しいことじゃあない。こんな職場で働いていれば、日常茶飯事と云っても善い。然し坂口安吾と云えば、課内でも随一の慎重派諜報員と評判の男だ。こんなドジを踏んだ処など、入省以来誰も一度も見たことが無い。
 坂口安吾の大怪我。
 凡てはあの男の所為だ。
 ――やあ、安吾。今日暇? ちょっと会いたいんだけど。
 そう云って鬼忙しい先輩をいとも簡単に誘い出した、あの男。
 覚えているのは闇の奥底を覗いたかのような目だ。車を降り、その目に捉えられた瞬間、背筋を寒気が蛇のように這った。ヤバい連中など腐るほど見てきていると自負していたが、あれだけは駄目だった。安吾先輩に銃を向けられた瞬間、己が武器を抜いたのは最早反射だ。得物を持っているか如何かなんて大した問題では無かった。言葉だけで首に刃を突き立て、心臓を抉ってくる男だ、あれは。思い出しただけでも怖気が走る。
 書類上は単なる一人の異能者だった。『異能無効化』と云う少し珍しい異能持ち。けれど戦闘要員ではない。所属組織は武装探偵社。先輩曰く、元ポートマフィア幹部。その記録は今は無い。
 そんな情報からは読み取れないほどに纏わり付いた、血の臭いの染みた悍ましさ。
 なのに。
「貴方方は結構です」
 車に乗り込もうとして、アタシ等は先輩に止められたのだ。先輩がアタシ等を止めた。
「ハァ? 何云ってんだアンタ」驚きのあまり、思わず噛んでいたガムを飲み込んだ。安吾先輩は此方を見なかった。真意が見えない。空気がひりつくように緊張していて、だから思わず声を荒げたのも仕方無かった。「と云うか先輩、戦闘まるきし駄目なくせに何一人で……」
 然しそれ以上は云えなかった。じろ、とあの分厚いレンズ越しに、安吾先輩が冷えた視線を此方へ投げて寄越したからだ。
「聞き分けの悪い犬は嫌いですよ。……僕を誰だと思っているんです」
 う、とアタシは怯んだ。染み付いた犬根性がアタシの足を縫い止めた。
 そう、戦闘が駄目、と云うのは実の処正確ではない。坂口安吾と云う男がひとたびその異能を発動すれば、周囲一帯、生命の一つすら残らない不毛の地と化すことが出来るだろう。その身に宿すのはそう云う呪われた類の異能だ。アタシだって先輩を敵に回すのは御免だ。
 然し相手は異能無効化だ。幾ら強力な異能を持っていようと、その力の前では何の意味も無い。
 アタシは無理を押しても同行すべきか如何か図りかねて――じとりと砂色外套の男を見た。男は暫くぼんやりと先輩とアタシのやり取りを見ていたようだったが、こちらの視線に気付くと態とらしいほどににこりと笑った。
「いやあ、安吾? 私、美人とのドライブなら大歓迎だけど」
「太宰君」安吾先輩が、咎めるような口調を今度は目の前の男へと向ける。「節操の無さは相変わらずですね? 止めておきなさい、その娘は貴方には御し難いタイプの人間ですよ――何処かのサーカス気取りと違って」
「……へえ?」
 その瞬間、空気が冷えた。先輩と男が、目に見えない刃物をお互いに突き付け合う。其処には誰の介入も許さないはっきりとした壁が在った。
 立ち入れない。
 ――結局、安吾先輩は部下であるアタシ等を残し、男と一緒に車に乗り込んだのだ。

「で、結果がアレだ」
 疲れましたから、少し休みますと、パソコンを脇にやった先輩の眼鏡を外して病室を出た。外は未だ明るいことに気付く。病室には窓すら無かったから、時間の経過が判らなくていけない。けれど下手に外から室内が見えて狙撃されるのはもっといけなかったから、先輩は暫くあの閉塞した部屋に閉じ込められたままだろう。特務課と云う身分も中々に不便だ。
 昇降機のボタンを押すと、一基は一階から此方へ昇ってきている最中だったが、もう一基が丁度近くの階に停まっていたのか、チン、と軽い音を立てて扉が開く。乗り込んで一階を押す。一般の見舞客と入れ替わりのように外へ出る。息を吸い込んだ肺が新鮮な空気を取り込んで、太陽の下でんー、と一つ伸びをする。
 ふと、ポケットの中の端末が震えていることに気付いた。ディスプレイを確認する。当然に非通知。躊躇い無く通話に出る。
「あー、もしもし?」
『今何処だ』
「は?」馴染みの声だ。職場の同僚。然し随分と余裕が無い。その声に緊急の色を読み取って、周囲を見回した。聞かれて困る距離に人は居ない。声のトーンを落とす。「ビョーインっすけど」
『ならそのまま離れるな』
 何から、とは云われなかったが直感的に理解した。
 離れるな。安吾先輩から、だ。
 声は焦ったように続く。
『サーバーに何者かの不正アクセスが在った。先日の調査報告にだ。其処の場所が――』
 割れてる、と。
 その言葉を最後まで聞かずに端末の電源を切った。踵を返して病院に駆け込み、昇降機のボタンを連打する。二基とも上階に向かう途中だった。クソ、遅い。階段だ。一段飛ばしで九階へと駆け上がる。
 果たして、その嫌な予感は的中した。
 廊下を掛けようとして――病室から、見知った男が出てきたのだ。
 当然、骨折中の上司ではない。
 砂色の外套を着た、異能者の男。
「お前……」
 その捉え処の無い飄々とした立ち姿を目にした瞬間、手が無意識に得物を求めた。ぐ、と居合いの姿勢を取る。態とぶつけるように向けた殺気に、気付かない訳も無いだろうに、此方に顔を向けた男は悠然と笑う。
「おや。あのときの美人さんじゃないか。あのときはどうも」
 それは此方のセリフだ。アタシは脳内で反芻する。
 ああ、あンときの先輩のオトモダチじゃないっすか。あのときは叶わなかったが、今直ぐその首斬り落としてやろうか。
 その気配を察したのか、男は慌てて両手をひらひらと肩の辺りに上げた。敵意が無い、と云うジェスチャー。信用ならない。それに何も持っていないことを示したって、それを行うのが異能者であれば当然何の意味も無い。
 此方が武装を解く気配が無いのを悟ったのか、男は手を下ろして嫌味に口の端を持ち上げる。
「安心し給え、安吾には何もしてやしないよ」
「そっすか」濃淡のない声が出た。「でも個人的にお前のことは気に入らねえ。此処で斬って捨てても善いくらいには」
「おやおや、君も脳筋タイプかい」巫山戯た声の調子とは裏腹に、ちら、と男の視線が抜け目無く周囲を観察する。隙を見てアタシの脇を抜けられるかと、誰か人が来るかを見たんだろう。「このフロア、生憎と政府の貸し切りっすよ」男もそれを悟ったようで、眉尻を下げて笑った。
「そのようだ。困ったねえ、本当に何もしていないのに。私に何かあったら、君が安吾に怒られてしまうよ?」
 それが如何した。武器を握る手に力が篭もる。
 確かに先輩は怒るだろう。けれどバレなければ善いのだ。此処でこの男の首を掻き切って、山中にでも埋めればバレやしない。
 幸いなことに、先輩は大怪我を負って暫く動けないのだから。
「ふふ、怖い目をしてる」柔らかい声が、鼓膜を犯すようにするりと入り込んでくる。これ以上、この男を喋らせてはいけない。そう、得物を握り直した次の瞬間。
 男の顔が直ぐ間近に在った。
 思わずぎょっと飛び退る。気配は無かった。敵意も。じわ、と脂汗が滲み出る。
 何だ。今、何をされた。
 男ははしゃぐようにニコリと笑う。
「ねえ、ところで君、私にかかずらってる暇が有るのかい。そんなに『センパイ』のことが心配なのにね?」
 それから何事も無かったかのような優雅な手つきで、男は道を譲るように奥の安吾先輩の病室を示した。嫌な物云いだった。けれど今のアタシには有効な手だ。安吾先輩が仮にこの男に何かされていたならば、この男に関わっている暇は無い。
 それに――今は瞬殺出来る気がしなかった。
 一瞬でも、脅威を叩き込まれてしまった為に。
 それを凡て判った上で――手の平で転がそうとするこの男が気に食わない。
 転がされる自分自身も。
「いい子だねえ。さあ、どうぞ?」
「……クソっ」
 犬に云い聞かせるような言葉に、然し何も云い返すことが出来ない。得物から手を離し、男の脇を駆けて抜ける。きっと次に廊下に取って返したときはもう男は姿を消し、この機密区域の正面から悠々と出て行っていることだろう。判っていながら止められない自分が恨めしい。
 歯噛みしながら、病室に飛び込んだ。

「先輩ッ!」
「……おや。如何したんです、そんなに慌てて」
 ぜえ、と息を切らして病室の扉に寄り掛かる。返ってきたのは何時も通りの先輩の声だった。少しきょとんとした様子が見て取れる。
「あれェ……?」
 拍子抜けして、その場に崩れ落ちる。見上げると、眼鏡をした先輩と目が合った。
「……先輩? 大丈夫なんすか」
「? 何のことです」
「……いや、何でも無いっす。大丈夫なら善いっす……」
「そうそう、一つ追加の指示があります」
 疲れてスツールにどかっと腰掛けたアタシに、先輩は何でもない風に切り出す。
「夜烏を一羽、準備しておいて下さい。私を訪ねて、私の知人が来る筈です」
 思わず先輩の目を見る。
 その暗い、闇の奥底を覗いたかのような目を。
「……先輩?」
 何もしてやしない、だと?
 違う。直感した。あの男は、先輩の心臓を一突きしていったのだ。
 その言葉の刃物で。
「鯨を捕まえたいそうですから、便宜を図ってやって下さい」
 そう指示する安吾先輩の目は、数刻前と違って虚ろな光を灯している。
 それがひどく、気に障った。
「あの野郎、やっぱ殺す……」
「お止めなさい」
 踵を返そうとしたアタシの足を止めたのは、他ならぬ先輩の声だった。「ハァ!? 何云ってんすか……」殺気を収め切れないまま、先輩に掴み掛かる。
 けれど先輩はもう、欠片も此方を見なかった。ただ、あの男をその黒い瞳に映すだけだ。
「彼を傷つけることは、僕が許しません」
「……へえ。先輩も随分と甘いとこあるんすね」
 主人が許さないと云うのなら、犬は牙を収めるだけだ。掴んだ胸倉を離し、一つ息を吸って荒ぶる鼓動を落ち着ける。平常心。この仕事に私情は要らない。
 例え主人が私情に縛られていても、だ。
「……でもアタシだって、あの男が先輩を傷付けるの、許せないっすよ」
 けれど最後にひとつだけ、冗談に交えてそう云うと、先輩が奇妙に諦めたような笑みを曖昧に浮かべたものだから、ああ、あの男矢っ張り殺してえなと、その気持ちだけは一層強くなるのだった。
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