ソフトクリームとメリー・ジェーン
(2016/03/04)
国木田はちらと腕時計を日に翳す。時刻は十三時五十七分。予定の時刻ぴったりだ。今日も順調に、理想的な日を過ごしている。
……今、隣に相棒の姿が無いことを除けば。
「おい今日は十四時きっかりに待ち合わせその後十分掛けて移動し十四時十五分から先日受け持った事件の聴取、それを大凡二十分から三十分で終わらせた後十六時三十分から昨日の依頼人の元に行かねばならんのだから遅れられないと云うのに今何処で何をしているのだ太宰!」
端末に向かって一息に怒鳴る。こうしている間にも予定を二分十六秒過ぎて時計の長針が間も無く天辺を過ぎようとしている。国木田は焦っていた。今日こそは、何としても、予定通りにスケジュールを運ぶのだ。
なのに通話口の向こうからはのんびりとした弁解が聞こえる。
『いやね国木田君、私はきちんと時間通りにそちらに向かおうとしたのだよ、ただ川の方が私を呼んでいてね……』
「川が喋る訳が無いだろう! 耳鼻科へ行け!」
『いやそう云うのではなくてね、心の声みたいな……』
「心療内科へ行け!」
『わあひどい』
国木田は頭を抱える。全く如何してこの男は予定を乱す行動ばかりするのだ。自殺をするのは善い。いや、善くはない。然し俺の目の届く処であれば止められるのだからそれは善い。けれど如何して、如何してこう、俺の予定を乱すように死のうとするのか!
……。
引き上げに行くしかない。
そう決心して顔を上げた国木田の視界に、ふと見知った影が映り込んだ。
「む? あれは……」
少し先、歩道橋の階段の直ぐ近く。道路脇の草むらに上半身を突っ込んでいて顔は見えないが、そして外套もあの騒動でボロボロになったからか新しい外套を着ていたが、その後姿は確かに見知った少女のものだった。
文。
そう云えば苗字を知らない。
近くに居る老人は見たことの無い顔だが、彼女の祖母か何かだろうか。何やら慌てた様子で少女のことを見守っている。
国木田は少し考え――端末を握り直した。
「……太宰。二十分は猶予を見てやる。それまでに来いよ」
『えっなに急に如何したの国木田君が予定変更とは珍しいね?』
「ふん。こんな天気だ、貴様が入水する可能性も考えて聴取は日の替えが利くようにしてある。然し依頼人の約束は絶対だぞ。それまでには来いよ」念を押す。「俺は急用が出来た」
『急用ォ? なになにアッ若しかして特別好みな美女でも居――』
妄言は聞かずにぶち、と通話を切る。
それから顔を上げて少女を探した。然し今其処に居た筈の少女と老人の姿が無い。そんなに遠くには行っていない筈だが。カツンと革靴の底を鳴らし、車が行き交う道路を見渡す。背後の公園にぐるりと視線を巡らせ、それから少女が立っていた歩道橋の麓の辺りに立つ。
少女は直ぐに見付かった。
空の方向だ。見上げれば、歩道橋の上で賑やかに喋っている少女と老人の姿が在る。
「もぉー、階段ガッタガッタ落ちてくるクルマ見たときはめっちゃ焦ったわー! 婆ちゃん気ィ付けなあかんよ! まああっち側はエレベーター在るから大丈夫やな!」
「おお、有難うねえ」
「ん!」
老人に目一杯手を振る姿が、一瞬駅で見たときの姿と重なった。矢張り間違いない。あの時の少女だ。
知り合いではなかったのか、老人は少女と別れゆっくりと歩道橋を渡っていく。その手元に在るのは、先程見たときには無かった手押し車。成る程、それが階段から落ちて道路脇の茂みに突っ込んだ処を、少女が手伝って救出してやっていたらしい。
泥だらけになって。
靴を汚して、スカァトを枝で割いて解れさせて。
なのに満面の笑みで笑っている。
「文」
その背中に、声を掛けた。
ん、と訝しげな顔で振り返った少女の顔が、一瞬でぱっと花の咲くように明るくなった。国木田は思わず目を眇める。未だ少し肌寒さを残す季節であると云うのに、少女の元にだけ一足先に春の来たような、そんな錯覚さえ覚えて少し頬を綻ばす。
「おっ国木田やん!」
けれど吐き出される言葉の強さは相変わらず柔らかな春の陽気とは程遠かった。ニコッと笑って豪快に放たれたその言葉に、一瞬で意識を引き戻される。
「国木田『さん』と呼べ。……まったく、服が泥だらけだぞ。草むらに頭から突っ込むから」
「え? 見とったん、うわ、恥ずかしいわ……」文は国木田の言葉にぱっと両頬に手を中て、赤面を隠すように首を振った。然しその仕草も一瞬だ。はっと気付いたように顔を上げ、国木田を見遣る。「……て云うかそれやったら手伝うてよ!」
げしげしと軽く足蹴にされ、うむ、すまん、と国木田は素直に謝った。出来れば太宰と阿呆な問答をする前に少女の存在に気付き、手伝うべきであった、と。
この少女に、手押し車は重かっただろう。この小柄な体に、草むらから掴み出すのは届かなくて骨が折れただろう。それを手伝ってやれなかったことの悔いが、国木田の胸をちくちくと刺す。
見下ろすと、国木田の脚を軽く蹴る靴の周りにも泥が付いている。
それが何だか、国木田にはひどく勿体無く見えた。
「来い」
「え? え、何?」
戸惑う少女に構わず、少し強引に腕を引いて歩道橋を降りる。
少女は少しの間疑問符を発していたが、軈て静かになって、黙って国木田に随いてきた。
◇ ◇ ◇
「ほら」
その辺りの移動販売車で贖ったソフトクリームを、ベンチに座る少女に差し出す。二人の居る場所は公園だ。平日の昼間だからか人通りは少なく、時折数人の子供が和気藹々と駆け抜けていく声と鳩の鳴き声が響いている。長閑な昼下がり。
その中に在って、国木田が差し出すソフトクリームを受け取りながら、少女はぶう、と拗ねたように頬を膨らませた。
何故だ。
「何だ。バニラ味よりチョコレイト味の方が善かったか」
「いや、違うし」じろりと少女に睨まれる。じゃあ何だ。「何なん急に『来い』って……お嫁さんにして呉れる気になったんか思てちょっとドキドキしてもうたやん」
「そんな訳が有るか」
お前は配偶者条件を満たさんと云っただろう、と云うとますます頬の膨らみが増す。
けれどソフトクリームを食べている間に、その不機嫌は段々と治っていったようだった。「なあ国木田、これめっちゃ美味しいなあ!」はしゃぐ少女に安堵しながら、国木田はその足元に跪く。「動かすなよ」そう云って地に付いていないメリー・ジェーンに手巾を添わせ、泥を落とす。磨く。靴磨き用のクリームが手元に無いのは不覚だった。今度から鞄に入れて携帯することにしよう。そう心に誓いながら丹念に仕上げていく。
幸いにも裁縫セットは在ったから、靴の泥を落とした後に、解れたスカァトも手早く縫ってやった。その様子を見た少女から、思わずと云った風な感嘆の溜め息が漏れるのが聞こえる。「国木田すごいなあ、お嫁さん要らへんのちゃう?」「いや、要る」「いやーなんでも一人で出来る男は結婚でけへんて聞いたことあるで……必要性を感じひんからて……」「感じている!」少女の声に何故か憐れみが滲んでいて憤慨する。俺の配偶者計画に変更は無い。今に理想の配偶者候補と逢える筈なのだ。
「……よし」
これで終わりだ、と玉止めをして糸を歯で噛み切る。裁縫セットを仕舞い、立ち上がり、満足気に頷いた処で、自分のことを見上げる少女と目が合った。
その瞳に浮かぶのは、純粋な疑問の色だ。
「……なあ国木田、なんでそこまでして呉れるん? 奢ってもうたし……手巾も駄目にしてもうて、ウチ、御礼に何もでけへんよ」
その言葉に、顔を顰めてしまったのは反射だ。別にそう云う心算は無い。
「見縊るな。礼など要らん。ただ……」
「『ただ』?」
ただ。
何だ? 国木田は自分の言葉に首を傾げる。
ただ、そうすべきと思ったのだ。
俺の理想に則って。
「……お前が何時見ても、誰かの為に精一杯だから」
そんな小さい体で。
人を信じて、無闇に助けようとして――爆弾魔の手に掛かり、殺され掛けたと云うのに。
それでも未だ他人を助けようと出来る、その真っ直ぐな魂が。
「好ましいと思っただけだ。報われるべき美徳だと……思っただけだ」
云ってから、ちら、と横に座る少女を見遣る。またじっとりとした視線を国木田に向けるのだろうか。聞いているこっちが恥ずかしいと云うのだろうか。あの地下道でのように。
国木田の予想に反し、少女はじっと視線を落としたままだ。
「……でもそんなん当たり前やん?」軈て少女は、ぽつりと誰ともなく言葉を零した。「誰かが困ってんのに、見いひんフリする方がおかしいやん。ほっとけへんやろ」
その言葉に、国木田の胸は何故だかひどく掻き乱された。何処かで聞いたことの在る口上だ。
放っておけない。
見捨ててはおけない。
俺の眼前で、誰も死なせはしない。
「判るやろ」
少女は静かに国木田を見上げた。
「国木田も一緒やろ」
真っ直ぐに国木田を映すその瞳は、毎朝鏡の中に見ている目の色にあまりにも似ていた。
己の瞳の色に。
一緒やろ。
そう、一緒だ。
だからこそ、国木田には少女を放っておくことが出来なかった。この乾いた世界を歩く靴の泥を落としてやりたかった。同じく渇いていくだろう心を、少しでも潤して遣りたかった。
少女が歩むには、あまりにも酷な道だったから。
けれど国木田には、この感情を如何云い表すべきなのかが判らない。
判らないまま、何か云わねばと口を開き――。
「っかーーー! あかん、あかんわ! ウチこう云うのガラちゃうねん! そぉ云うの要らんて、ウチはウチがやりたいようにしてるだけやの!」
ぱ、と勢い良く少女が立った。そのままがぶ、とソフトクリームを二、三口で食べ終え、くしゃくしゃに丸めた包み紙をポイと屑籠へ投げ入れる。金属の口の縁に中ったそれは、弾かれて籠の外へと落ちた。突然の大声に、驚いたように近くの鳩達が飛んでいった。羽音が響く。国木田は暫し呆気に取られる。
「そんなことより国木田、この前のアレ教えてよ」
「『アレ』?」動揺から立ち直り、立ち上がって屑籠に入り損ねた包み紙を屑籠へ入れなおしながら国木田は首を傾げる。この少女とは先日、爆弾魔の事件で出会ったに過ぎない。そのときに何かを教えるなどと、約束した覚えは国木田には無い。「アレとはなんだ」
「ほらァあれやん、なんとか計画? の五十八項目とか云うやつ!」
「何故だ」
本当に何故だ。何故それが唐突に出てくる。
「いやなんかウチがその条件? 満たしてないーて云われっぱなしムカつくやん! 意地でもコンプしたるわ。せやから見せてえな」
「断る」
「まあまあ国木田」
「断る!」
ぴたっと腕に張り付かれ、理想手帳に手を伸ばされて焦る。手帳にびっしりと書き留めたあの項目を、何故だか少女に見せることは少し憚られた。とは云っても、もう配偶者計画の存在自体は知らしめてしまったのだが。
何故俺はあんなことを正直に云ってしまったんだ。
云わなければ見せる必要も生じなかっただろうに。
後悔する国木田の苦渋の表情を見る少女は、国木田の心中など知らぬように無邪気な顔でにこにこしている。
にこにこしたまま、云う。
「ところで、あのお兄さんずっとこっち見てるけど国木田の知り合い?」
その少女の言葉で、漸く国木田は気が付いた。
少し離れた――噴水の向こう側で、包帯塗れの蓬髪の男が、素晴らしく輝いた笑顔を浮かべて此方を眺めていることに。
そう、知り合い、と云えば知り合いだが。
「……あ、ああ」
選りにも選って、一番会いたくなかった知り合いだ。国木田の背中を、つーっと一筋冷や汗が伝う。いや待て。俺は何を焦っているんだ。何も疚しいことなど無いではないか。そうは思うものの、平静を保つのが難しい。
だって、彼奴の顔にはっきりと書かれているのだ。
うきうきわくわく、と。
「おい、待て、太宰、」
それがすーっと胸いっぱいに息を吸い込んで。
叫んだ。
「わーーーっ、国木田君が、私との約束サボっていたいけな少女に手を出してるぅーーー!!!」
「黙れこの傍迷惑拡声器ィ!」
咄嗟にぶん投げた理想手帳が、べしっと太宰の額に中って落ちた。
済みません、巨匠カーライル。
国木田はちらと腕時計を日に翳す。時刻は十三時五十七分。予定の時刻ぴったりだ。今日も順調に、理想的な日を過ごしている。
……今、隣に相棒の姿が無いことを除けば。
「おい今日は十四時きっかりに待ち合わせその後十分掛けて移動し十四時十五分から先日受け持った事件の聴取、それを大凡二十分から三十分で終わらせた後十六時三十分から昨日の依頼人の元に行かねばならんのだから遅れられないと云うのに今何処で何をしているのだ太宰!」
端末に向かって一息に怒鳴る。こうしている間にも予定を二分十六秒過ぎて時計の長針が間も無く天辺を過ぎようとしている。国木田は焦っていた。今日こそは、何としても、予定通りにスケジュールを運ぶのだ。
なのに通話口の向こうからはのんびりとした弁解が聞こえる。
『いやね国木田君、私はきちんと時間通りにそちらに向かおうとしたのだよ、ただ川の方が私を呼んでいてね……』
「川が喋る訳が無いだろう! 耳鼻科へ行け!」
『いやそう云うのではなくてね、心の声みたいな……』
「心療内科へ行け!」
『わあひどい』
国木田は頭を抱える。全く如何してこの男は予定を乱す行動ばかりするのだ。自殺をするのは善い。いや、善くはない。然し俺の目の届く処であれば止められるのだからそれは善い。けれど如何して、如何してこう、俺の予定を乱すように死のうとするのか!
……。
引き上げに行くしかない。
そう決心して顔を上げた国木田の視界に、ふと見知った影が映り込んだ。
「む? あれは……」
少し先、歩道橋の階段の直ぐ近く。道路脇の草むらに上半身を突っ込んでいて顔は見えないが、そして外套もあの騒動でボロボロになったからか新しい外套を着ていたが、その後姿は確かに見知った少女のものだった。
文。
そう云えば苗字を知らない。
近くに居る老人は見たことの無い顔だが、彼女の祖母か何かだろうか。何やら慌てた様子で少女のことを見守っている。
国木田は少し考え――端末を握り直した。
「……太宰。二十分は猶予を見てやる。それまでに来いよ」
『えっなに急に如何したの国木田君が予定変更とは珍しいね?』
「ふん。こんな天気だ、貴様が入水する可能性も考えて聴取は日の替えが利くようにしてある。然し依頼人の約束は絶対だぞ。それまでには来いよ」念を押す。「俺は急用が出来た」
『急用ォ? なになにアッ若しかして特別好みな美女でも居――』
妄言は聞かずにぶち、と通話を切る。
それから顔を上げて少女を探した。然し今其処に居た筈の少女と老人の姿が無い。そんなに遠くには行っていない筈だが。カツンと革靴の底を鳴らし、車が行き交う道路を見渡す。背後の公園にぐるりと視線を巡らせ、それから少女が立っていた歩道橋の麓の辺りに立つ。
少女は直ぐに見付かった。
空の方向だ。見上げれば、歩道橋の上で賑やかに喋っている少女と老人の姿が在る。
「もぉー、階段ガッタガッタ落ちてくるクルマ見たときはめっちゃ焦ったわー! 婆ちゃん気ィ付けなあかんよ! まああっち側はエレベーター在るから大丈夫やな!」
「おお、有難うねえ」
「ん!」
老人に目一杯手を振る姿が、一瞬駅で見たときの姿と重なった。矢張り間違いない。あの時の少女だ。
知り合いではなかったのか、老人は少女と別れゆっくりと歩道橋を渡っていく。その手元に在るのは、先程見たときには無かった手押し車。成る程、それが階段から落ちて道路脇の茂みに突っ込んだ処を、少女が手伝って救出してやっていたらしい。
泥だらけになって。
靴を汚して、スカァトを枝で割いて解れさせて。
なのに満面の笑みで笑っている。
「文」
その背中に、声を掛けた。
ん、と訝しげな顔で振り返った少女の顔が、一瞬でぱっと花の咲くように明るくなった。国木田は思わず目を眇める。未だ少し肌寒さを残す季節であると云うのに、少女の元にだけ一足先に春の来たような、そんな錯覚さえ覚えて少し頬を綻ばす。
「おっ国木田やん!」
けれど吐き出される言葉の強さは相変わらず柔らかな春の陽気とは程遠かった。ニコッと笑って豪快に放たれたその言葉に、一瞬で意識を引き戻される。
「国木田『さん』と呼べ。……まったく、服が泥だらけだぞ。草むらに頭から突っ込むから」
「え? 見とったん、うわ、恥ずかしいわ……」文は国木田の言葉にぱっと両頬に手を中て、赤面を隠すように首を振った。然しその仕草も一瞬だ。はっと気付いたように顔を上げ、国木田を見遣る。「……て云うかそれやったら手伝うてよ!」
げしげしと軽く足蹴にされ、うむ、すまん、と国木田は素直に謝った。出来れば太宰と阿呆な問答をする前に少女の存在に気付き、手伝うべきであった、と。
この少女に、手押し車は重かっただろう。この小柄な体に、草むらから掴み出すのは届かなくて骨が折れただろう。それを手伝ってやれなかったことの悔いが、国木田の胸をちくちくと刺す。
見下ろすと、国木田の脚を軽く蹴る靴の周りにも泥が付いている。
それが何だか、国木田にはひどく勿体無く見えた。
「来い」
「え? え、何?」
戸惑う少女に構わず、少し強引に腕を引いて歩道橋を降りる。
少女は少しの間疑問符を発していたが、軈て静かになって、黙って国木田に随いてきた。
◇ ◇ ◇
「ほら」
その辺りの移動販売車で贖ったソフトクリームを、ベンチに座る少女に差し出す。二人の居る場所は公園だ。平日の昼間だからか人通りは少なく、時折数人の子供が和気藹々と駆け抜けていく声と鳩の鳴き声が響いている。長閑な昼下がり。
その中に在って、国木田が差し出すソフトクリームを受け取りながら、少女はぶう、と拗ねたように頬を膨らませた。
何故だ。
「何だ。バニラ味よりチョコレイト味の方が善かったか」
「いや、違うし」じろりと少女に睨まれる。じゃあ何だ。「何なん急に『来い』って……お嫁さんにして呉れる気になったんか思てちょっとドキドキしてもうたやん」
「そんな訳が有るか」
お前は配偶者条件を満たさんと云っただろう、と云うとますます頬の膨らみが増す。
けれどソフトクリームを食べている間に、その不機嫌は段々と治っていったようだった。「なあ国木田、これめっちゃ美味しいなあ!」はしゃぐ少女に安堵しながら、国木田はその足元に跪く。「動かすなよ」そう云って地に付いていないメリー・ジェーンに手巾を添わせ、泥を落とす。磨く。靴磨き用のクリームが手元に無いのは不覚だった。今度から鞄に入れて携帯することにしよう。そう心に誓いながら丹念に仕上げていく。
幸いにも裁縫セットは在ったから、靴の泥を落とした後に、解れたスカァトも手早く縫ってやった。その様子を見た少女から、思わずと云った風な感嘆の溜め息が漏れるのが聞こえる。「国木田すごいなあ、お嫁さん要らへんのちゃう?」「いや、要る」「いやーなんでも一人で出来る男は結婚でけへんて聞いたことあるで……必要性を感じひんからて……」「感じている!」少女の声に何故か憐れみが滲んでいて憤慨する。俺の配偶者計画に変更は無い。今に理想の配偶者候補と逢える筈なのだ。
「……よし」
これで終わりだ、と玉止めをして糸を歯で噛み切る。裁縫セットを仕舞い、立ち上がり、満足気に頷いた処で、自分のことを見上げる少女と目が合った。
その瞳に浮かぶのは、純粋な疑問の色だ。
「……なあ国木田、なんでそこまでして呉れるん? 奢ってもうたし……手巾も駄目にしてもうて、ウチ、御礼に何もでけへんよ」
その言葉に、顔を顰めてしまったのは反射だ。別にそう云う心算は無い。
「見縊るな。礼など要らん。ただ……」
「『ただ』?」
ただ。
何だ? 国木田は自分の言葉に首を傾げる。
ただ、そうすべきと思ったのだ。
俺の理想に則って。
「……お前が何時見ても、誰かの為に精一杯だから」
そんな小さい体で。
人を信じて、無闇に助けようとして――爆弾魔の手に掛かり、殺され掛けたと云うのに。
それでも未だ他人を助けようと出来る、その真っ直ぐな魂が。
「好ましいと思っただけだ。報われるべき美徳だと……思っただけだ」
云ってから、ちら、と横に座る少女を見遣る。またじっとりとした視線を国木田に向けるのだろうか。聞いているこっちが恥ずかしいと云うのだろうか。あの地下道でのように。
国木田の予想に反し、少女はじっと視線を落としたままだ。
「……でもそんなん当たり前やん?」軈て少女は、ぽつりと誰ともなく言葉を零した。「誰かが困ってんのに、見いひんフリする方がおかしいやん。ほっとけへんやろ」
その言葉に、国木田の胸は何故だかひどく掻き乱された。何処かで聞いたことの在る口上だ。
放っておけない。
見捨ててはおけない。
俺の眼前で、誰も死なせはしない。
「判るやろ」
少女は静かに国木田を見上げた。
「国木田も一緒やろ」
真っ直ぐに国木田を映すその瞳は、毎朝鏡の中に見ている目の色にあまりにも似ていた。
己の瞳の色に。
一緒やろ。
そう、一緒だ。
だからこそ、国木田には少女を放っておくことが出来なかった。この乾いた世界を歩く靴の泥を落としてやりたかった。同じく渇いていくだろう心を、少しでも潤して遣りたかった。
少女が歩むには、あまりにも酷な道だったから。
けれど国木田には、この感情を如何云い表すべきなのかが判らない。
判らないまま、何か云わねばと口を開き――。
「っかーーー! あかん、あかんわ! ウチこう云うのガラちゃうねん! そぉ云うの要らんて、ウチはウチがやりたいようにしてるだけやの!」
ぱ、と勢い良く少女が立った。そのままがぶ、とソフトクリームを二、三口で食べ終え、くしゃくしゃに丸めた包み紙をポイと屑籠へ投げ入れる。金属の口の縁に中ったそれは、弾かれて籠の外へと落ちた。突然の大声に、驚いたように近くの鳩達が飛んでいった。羽音が響く。国木田は暫し呆気に取られる。
「そんなことより国木田、この前のアレ教えてよ」
「『アレ』?」動揺から立ち直り、立ち上がって屑籠に入り損ねた包み紙を屑籠へ入れなおしながら国木田は首を傾げる。この少女とは先日、爆弾魔の事件で出会ったに過ぎない。そのときに何かを教えるなどと、約束した覚えは国木田には無い。「アレとはなんだ」
「ほらァあれやん、なんとか計画? の五十八項目とか云うやつ!」
「何故だ」
本当に何故だ。何故それが唐突に出てくる。
「いやなんかウチがその条件? 満たしてないーて云われっぱなしムカつくやん! 意地でもコンプしたるわ。せやから見せてえな」
「断る」
「まあまあ国木田」
「断る!」
ぴたっと腕に張り付かれ、理想手帳に手を伸ばされて焦る。手帳にびっしりと書き留めたあの項目を、何故だか少女に見せることは少し憚られた。とは云っても、もう配偶者計画の存在自体は知らしめてしまったのだが。
何故俺はあんなことを正直に云ってしまったんだ。
云わなければ見せる必要も生じなかっただろうに。
後悔する国木田の苦渋の表情を見る少女は、国木田の心中など知らぬように無邪気な顔でにこにこしている。
にこにこしたまま、云う。
「ところで、あのお兄さんずっとこっち見てるけど国木田の知り合い?」
その少女の言葉で、漸く国木田は気が付いた。
少し離れた――噴水の向こう側で、包帯塗れの蓬髪の男が、素晴らしく輝いた笑顔を浮かべて此方を眺めていることに。
そう、知り合い、と云えば知り合いだが。
「……あ、ああ」
選りにも選って、一番会いたくなかった知り合いだ。国木田の背中を、つーっと一筋冷や汗が伝う。いや待て。俺は何を焦っているんだ。何も疚しいことなど無いではないか。そうは思うものの、平静を保つのが難しい。
だって、彼奴の顔にはっきりと書かれているのだ。
うきうきわくわく、と。
「おい、待て、太宰、」
それがすーっと胸いっぱいに息を吸い込んで。
叫んだ。
「わーーーっ、国木田君が、私との約束サボっていたいけな少女に手を出してるぅーーー!!!」
「黙れこの傍迷惑拡声器ィ!」
咄嗟にぶん投げた理想手帳が、べしっと太宰の額に中って落ちた。
済みません、巨匠カーライル。
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