背水退路たること
(2015/10/07)
ざぱ、と波の打ち付ける音。虫の鈴の音、獣のぐるりと喉を鳴らす声。それらが静寂の五線譜に乗って、静謐な夜想曲を演じていた。夜半を疾うに過ぎたと云うのに時折響く汽笛の音が、重厚さをそっと添えていく。すんと鼻を鳴らすと、潮の匂いが鼻を微かに掠めていく。
薄暗い街灯の光の合間を縫って、ふんふんと聞こえるのは上機嫌な鼻歌だ。主旋律をなぞるそれは、纏まりの無い数多の音を一つの大きな音楽にして、横浜の夜を包む曲を奏でていた。その声に、暫し耳を傾ける。僕はその曲を知らなかったけれど、その声は大層好きだった。何処かささくれ立っていたこころが落ち着く、柔らかい声音だ。逆立っていた毛が寝付き、興奮にきゅうと開いていた瞳孔の力が、自然、するすると抜けていく。
釣られて、一歩。近付いた。
じゃり。爪に小石の引っ掛かる、不協和音。
旋律がぴたりと止む。気取られた。当然だろう、彼の性質を考えれば。仕方が無い。構わず彼の下へと歩み寄る。
「太宰さん」
そう、名前を呼んだ心算だった。けれど声は喉の奥で不明瞭な音となって立ち消えた。
矢張り駄目だ。
僕はぎゅうと体が強張るのを感じた。こんな状態では、彼を求める意志に反して、満足に彼の名前すら呼べやしないのだ。
それでも僕の追い求めたその人は、全身の警戒を解いてゆるりと笑う。
「おやおや」
月下で曖昧な表情を浮かべ、ほっそりとした砂色の外套が振り返った。じ、と此方を見詰める目の色が閃く。僕はこの人の声も好きだったけれど、この人の瞳も好きだった。昼には漆黒のように見える彼の瞳は、けれど月の光の下ではその黒が烏の濡羽ではなく海の黒であることが伺える。そんな不思議な光彩を放つ。
それをすっと、細める仕草。
「こんばんは、敦くん。今宵は佳い夜だね」
まるで君と出会ったときみたいだ、と太宰さんは何でもない風に云った。そうだったかしら。僕は首をぐる、と傾げる。僕が太宰さんを初めて見たのは、彼が夕暮れ時、鶴見川をどんぶらこと流れていたときではなかったかしら。けれどああ、と直ぐに理解する。確かに、彼にとって今の状態の僕と出会ったのは、こんな、満月の夜だったかも知れない。
おいで、と導かれるままに隣に身を寄せる。と、ふわりと太宰さんの手が僕の頬を撫でていった。
僕の毛むくじゃらの頬を。
「……っあ」
途端、虎化が解除される。ぱきぱきと骨のなる音、ぎしぎしと肉の撓る音と共に、僕の人間の体が姿を表しドサリとその場に崩れ落ちた。ぜい、と人の息を取り戻し、盛大に咳き込む。痛い。辛い。苦しい。やっとのことで形を取り戻した手で、太宰さんの外套の端をぎゅうと握る。
つんと鼻の奥が痛くなる気配がして、けれど目からは何も溢れずにただ二、三度瞼が瞬いただけだった。この感情を、果たして如何逃せば善いのかが判らなかった。
ただひたすら、こんなのはもう嫌だと云う気持ちだけが全身を駆け巡る。
「太宰さん」
もうこんな、自分が人間でなくなるんじゃないかなんて不安の中で藻掻くのも。
「太宰、さん」
満足に、誰かの名前を呼べないのも。全部全部、嫌だった。
喘ぐように太宰さんとその名を繰り返す。今度はちゃんと音が出て、そのことに少しだけ安心する。よかった、僕は人間に戻れている。
けれど。
「……難儀だねえ。上手く制御出来ないと云うのは」
頭上から降ってきたその言葉に、体の芯が冷え込んだ。外套から手を払われ、地に着けた指先が固さを感じる。
顔を上げることが出来なかった。
呆れられただろうか。制御出来ない異能など、無能より価値が無いと――見捨てられただろうか。難儀だ、と云った太宰さんの真意を測らなければと思うのに、思うように体が動かない。混凝土の地面を眺めながら、黙って死刑宣告を待つ。毛の無い指先は寄る辺無く冷たい。
「……敦くん」
ぎゅ、と目を瞑る前に黒く濃い影が地面に落ちた。ふわりと何かが僕の肩に掛かって、見れば太宰さんの外套だった。「顔を上げなさい」と云うその声がガーゼのように柔らかくて、思わずその名を呼んでしまう。
「太宰さん」
「うん?」
立ち上がった彼を仰ぐ。僕を見下ろすその目は、相変わらず優しい夜の海の色だ。
「くるしいんです」
だから、ぽろりと云ってしまった。
海の中で、そっと空気を吐き出すみたいに。
「僕は、僕の最善と思うことをしてきました。何時だって――とまでは云えないですけど。出来る限り。だのに、それが、最善ではないんです」
水泡のように言葉が溢れる。それに反比例して言葉を口から出す度に、舌の上はからからに渇いていく。胸の奥に押し留めていた思いが、口に上っては、また泥みたいに喉を詰める。
「しなきゃよかった、ことばっかり――」
思い出されるのは、生々しく両手に残る女性の首を扼した感触だ。絞め上げた、ナオミさんの首の感触。殴り付けた、春野さんのお腹の感触。柔らかくて。傷付き易くて。
それを僕は。
「そうだねえ」
ぽん、ぽん、と優しい手と声に背中を擦られる。背に触れる温かさに如何しようも無く鼻の奥が痛くなって、しぱしぱと瞬くけれど涙の気配は未だしない。
もどかしくて鎖骨の辺りに爪を立てる。唇をぐっと噛み締める。心臓を取り出してしまいたい、其処に絡まっている棘を全部取り払ってしまいたい。なのにそれが出来ない。
それが、とても。
「敦くん。生きていることは、くるしいかい」
その言葉に、弾かれたように顔を上げる。
「息をしていることは、くるしいかい」
そうだ。呼応するように胸を掻き毟り、悲鳴のように云った。
「……くるしいです。太宰さん」
「そう。だったら」
すい、と手を取られるままに二人立ち上がる。僕より少しだけ目線の高い太宰さんの顔、それが淡い月明かりの下で儚く微笑む。
「心中しようか」
「え、」
気付けば抱き締められ、太宰さんの足が地面を蹴っていた。釣られるように後ろに倒れ込む。その先は海だ。暗く冷たい夜の海。太宰さん、と言葉を発する間も無く自分達の体が一つになってどぼんと沈む。
その言葉を、予想しなかった訳では無い。何せこの人は自殺愛好家だから。けれどあまりにも、唐突で、突然じゃないか。冷たい水に触れ、急激に冷えていく体温に逆らって必死に藻掻く。藻掻こうとして――
キスされた。
僕を抱き締めた太宰さんが、満足気に笑ったのが水のベールの向こう側に見えた。本当に、触れるだけの一瞬だった。感じた熱はもう冷えていて、太宰さんの体から、表情から、ゆっくりと力が抜けていく。こぽこぽと、薄く開いた唇から漏れ出る水泡。
ああ、いやだな、と思った意識が泡になって水中を漂う。
僕は善い。
けれど僕に付き合って、この人が死ぬのは嫌だった。
例え自殺趣味なんだとしても。自殺趣味なんだとしたら余計に、こんな、僕みたいな人間と死ぬより彼にはもっと相応しい道行きの人が居る筈だった。
死なせたくない。
気付けば緩んだ拘束を抜けていた。反射で手足が獰猛な獣のそれになる。人間のときより膂力が有るから、虎になれば水面に上がることは容易だった。少しだけこの忌々しい異能に感謝する。けれど一人で上がっても意味が無いのだ。太宰さん。数寸先に力無く漂っている体を見付け、煩わしい水をかき分けてその体を抱き締める。途端、虎化が解け、体が数十倍にも重くなる。ごぼっと酸素を零してしまい、息が急激に苦しくなる。水面は未だ遠い。けれど太宰さんを見捨てるなんて選択肢、僕には有る筈も無かった。必死に藻掻いて水面に何とか太宰さんの体を引き摺り上げる。
溺れながら非常用の梯子を掴み、海から這い上がる。横たえた太宰さんの体温が大分下がっていて、顔も真っ青で、意識が無かった。拙い。
「太宰さんッ!」
ええと、こう云うときは如何すれば良いんだっけ。パニックを起こしている場合じゃない。探偵社で習った応急処置の仕方を思い出し、顎を摘んで息を吹き込む。太宰さん、太宰さん。呼び掛ける。如何か死なないで下さい。これ以上、誰かを傷付けてしまうことには耐えられない。
暫くすると、ごほっと太宰さんが飲んだ水を吐き出した。続いて息を取り戻し、げほげほと断続的に咳き込む音。良かった、生きてる。ああ、と安心のあまり力が抜けてその場にへたり込む。太宰さん。見ると、濡れた黒い蓬髪の下で苦しげに歪められていた太宰さんの目元が、僕を見て一瞬和らいだ。
「……ふふ」
白くなった唇が、微かに弧を描く。
「矢っ張り、それが君の本質なんだ……」
本質? 話が見えず、放心した意識を何とか太宰さんの言葉に向ける。
太宰さんのほっそりとした指先が、とんと僕の胸を突いた。
「私など見捨てておけば良かったものを、助けずにはいられないんだ。例え、自分がどれだけ傷付いたって」
息を詰めた。
違うと思った。僕が太宰さんを助けたのは、太宰さんが思うような綺麗な義侠心からではきっとない。僕はそんな聖人君子ではないからだ。
ただ単純に傷付けるのが嫌で。ただ単純に、失うのが怖かっただけだ。
なのに太宰さんは弱々しく笑う。
「なあに、失敗したら逃げれば善いのさ……」
ぼんやりと、太宰さんの茫洋とした声が夜の波の音に溶け込む。
「失敗して、追い詰められて、如何にもこうにもならなくなって、他人を助ける余裕も無くなったら――そのときはまたこんな月の夜に、私を探して逢いに来ておいで。幾らでも心中してあげるから……」
その言葉に、僕ははっと目を見開いた。約束だよ。そう云って、太宰さんは僕の小指に自分の小指を絡める。太宰さんの言葉が僕の心臓を取り出し、其処に絡まる棘をゆっくりと取り払う。
小さな約束だ。
僕の弱い心をゆるす、小さな約束。
「……でもね、君に未だ私を助ける余裕が有るうちは、誘わないで呉れると嬉しいかな……私も、何度も苦しい目に遭うのは御免だからね……」
そう云い残して太宰さんは眠るように気を失った。するりと小指が解ける。「太宰さん!」僕は慌ててその華奢な体を担いだ。直ぐにでも与謝野先生に見て貰わないと。兎に角、死なせる訳にはいかないんだ。ざぱ、と波の打ち付ける音。虫の音も獣の声も、もう聞こえなかった。太宰さんの目の色をして静かに佇む海だけが、その約束を聞いていた。
「……君以上の適任者は居ないよ。やってくれるかい?」
太宰さんが作戦を切り出す。自然、ぎゅうと膝の上で握る拳に力が入る。出来ないかも知れない。また失敗するかも知れない。それでも。
――失敗して、追い詰められて、如何にもこうにもならなくなって、他人を助ける余裕も無くなったら。
そう、僕にはこの人が示してくれた逃げ道が有るから。
――幾らでも心中してあげるから。
「やります」
何度だって、立ち上がれるんだ。
ざぱ、と波の打ち付ける音。虫の鈴の音、獣のぐるりと喉を鳴らす声。それらが静寂の五線譜に乗って、静謐な夜想曲を演じていた。夜半を疾うに過ぎたと云うのに時折響く汽笛の音が、重厚さをそっと添えていく。すんと鼻を鳴らすと、潮の匂いが鼻を微かに掠めていく。
薄暗い街灯の光の合間を縫って、ふんふんと聞こえるのは上機嫌な鼻歌だ。主旋律をなぞるそれは、纏まりの無い数多の音を一つの大きな音楽にして、横浜の夜を包む曲を奏でていた。その声に、暫し耳を傾ける。僕はその曲を知らなかったけれど、その声は大層好きだった。何処かささくれ立っていたこころが落ち着く、柔らかい声音だ。逆立っていた毛が寝付き、興奮にきゅうと開いていた瞳孔の力が、自然、するすると抜けていく。
釣られて、一歩。近付いた。
じゃり。爪に小石の引っ掛かる、不協和音。
旋律がぴたりと止む。気取られた。当然だろう、彼の性質を考えれば。仕方が無い。構わず彼の下へと歩み寄る。
「太宰さん」
そう、名前を呼んだ心算だった。けれど声は喉の奥で不明瞭な音となって立ち消えた。
矢張り駄目だ。
僕はぎゅうと体が強張るのを感じた。こんな状態では、彼を求める意志に反して、満足に彼の名前すら呼べやしないのだ。
それでも僕の追い求めたその人は、全身の警戒を解いてゆるりと笑う。
「おやおや」
月下で曖昧な表情を浮かべ、ほっそりとした砂色の外套が振り返った。じ、と此方を見詰める目の色が閃く。僕はこの人の声も好きだったけれど、この人の瞳も好きだった。昼には漆黒のように見える彼の瞳は、けれど月の光の下ではその黒が烏の濡羽ではなく海の黒であることが伺える。そんな不思議な光彩を放つ。
それをすっと、細める仕草。
「こんばんは、敦くん。今宵は佳い夜だね」
まるで君と出会ったときみたいだ、と太宰さんは何でもない風に云った。そうだったかしら。僕は首をぐる、と傾げる。僕が太宰さんを初めて見たのは、彼が夕暮れ時、鶴見川をどんぶらこと流れていたときではなかったかしら。けれどああ、と直ぐに理解する。確かに、彼にとって今の状態の僕と出会ったのは、こんな、満月の夜だったかも知れない。
おいで、と導かれるままに隣に身を寄せる。と、ふわりと太宰さんの手が僕の頬を撫でていった。
僕の毛むくじゃらの頬を。
「……っあ」
途端、虎化が解除される。ぱきぱきと骨のなる音、ぎしぎしと肉の撓る音と共に、僕の人間の体が姿を表しドサリとその場に崩れ落ちた。ぜい、と人の息を取り戻し、盛大に咳き込む。痛い。辛い。苦しい。やっとのことで形を取り戻した手で、太宰さんの外套の端をぎゅうと握る。
つんと鼻の奥が痛くなる気配がして、けれど目からは何も溢れずにただ二、三度瞼が瞬いただけだった。この感情を、果たして如何逃せば善いのかが判らなかった。
ただひたすら、こんなのはもう嫌だと云う気持ちだけが全身を駆け巡る。
「太宰さん」
もうこんな、自分が人間でなくなるんじゃないかなんて不安の中で藻掻くのも。
「太宰、さん」
満足に、誰かの名前を呼べないのも。全部全部、嫌だった。
喘ぐように太宰さんとその名を繰り返す。今度はちゃんと音が出て、そのことに少しだけ安心する。よかった、僕は人間に戻れている。
けれど。
「……難儀だねえ。上手く制御出来ないと云うのは」
頭上から降ってきたその言葉に、体の芯が冷え込んだ。外套から手を払われ、地に着けた指先が固さを感じる。
顔を上げることが出来なかった。
呆れられただろうか。制御出来ない異能など、無能より価値が無いと――見捨てられただろうか。難儀だ、と云った太宰さんの真意を測らなければと思うのに、思うように体が動かない。混凝土の地面を眺めながら、黙って死刑宣告を待つ。毛の無い指先は寄る辺無く冷たい。
「……敦くん」
ぎゅ、と目を瞑る前に黒く濃い影が地面に落ちた。ふわりと何かが僕の肩に掛かって、見れば太宰さんの外套だった。「顔を上げなさい」と云うその声がガーゼのように柔らかくて、思わずその名を呼んでしまう。
「太宰さん」
「うん?」
立ち上がった彼を仰ぐ。僕を見下ろすその目は、相変わらず優しい夜の海の色だ。
「くるしいんです」
だから、ぽろりと云ってしまった。
海の中で、そっと空気を吐き出すみたいに。
「僕は、僕の最善と思うことをしてきました。何時だって――とまでは云えないですけど。出来る限り。だのに、それが、最善ではないんです」
水泡のように言葉が溢れる。それに反比例して言葉を口から出す度に、舌の上はからからに渇いていく。胸の奥に押し留めていた思いが、口に上っては、また泥みたいに喉を詰める。
「しなきゃよかった、ことばっかり――」
思い出されるのは、生々しく両手に残る女性の首を扼した感触だ。絞め上げた、ナオミさんの首の感触。殴り付けた、春野さんのお腹の感触。柔らかくて。傷付き易くて。
それを僕は。
「そうだねえ」
ぽん、ぽん、と優しい手と声に背中を擦られる。背に触れる温かさに如何しようも無く鼻の奥が痛くなって、しぱしぱと瞬くけれど涙の気配は未だしない。
もどかしくて鎖骨の辺りに爪を立てる。唇をぐっと噛み締める。心臓を取り出してしまいたい、其処に絡まっている棘を全部取り払ってしまいたい。なのにそれが出来ない。
それが、とても。
「敦くん。生きていることは、くるしいかい」
その言葉に、弾かれたように顔を上げる。
「息をしていることは、くるしいかい」
そうだ。呼応するように胸を掻き毟り、悲鳴のように云った。
「……くるしいです。太宰さん」
「そう。だったら」
すい、と手を取られるままに二人立ち上がる。僕より少しだけ目線の高い太宰さんの顔、それが淡い月明かりの下で儚く微笑む。
「心中しようか」
「え、」
気付けば抱き締められ、太宰さんの足が地面を蹴っていた。釣られるように後ろに倒れ込む。その先は海だ。暗く冷たい夜の海。太宰さん、と言葉を発する間も無く自分達の体が一つになってどぼんと沈む。
その言葉を、予想しなかった訳では無い。何せこの人は自殺愛好家だから。けれどあまりにも、唐突で、突然じゃないか。冷たい水に触れ、急激に冷えていく体温に逆らって必死に藻掻く。藻掻こうとして――
キスされた。
僕を抱き締めた太宰さんが、満足気に笑ったのが水のベールの向こう側に見えた。本当に、触れるだけの一瞬だった。感じた熱はもう冷えていて、太宰さんの体から、表情から、ゆっくりと力が抜けていく。こぽこぽと、薄く開いた唇から漏れ出る水泡。
ああ、いやだな、と思った意識が泡になって水中を漂う。
僕は善い。
けれど僕に付き合って、この人が死ぬのは嫌だった。
例え自殺趣味なんだとしても。自殺趣味なんだとしたら余計に、こんな、僕みたいな人間と死ぬより彼にはもっと相応しい道行きの人が居る筈だった。
死なせたくない。
気付けば緩んだ拘束を抜けていた。反射で手足が獰猛な獣のそれになる。人間のときより膂力が有るから、虎になれば水面に上がることは容易だった。少しだけこの忌々しい異能に感謝する。けれど一人で上がっても意味が無いのだ。太宰さん。数寸先に力無く漂っている体を見付け、煩わしい水をかき分けてその体を抱き締める。途端、虎化が解け、体が数十倍にも重くなる。ごぼっと酸素を零してしまい、息が急激に苦しくなる。水面は未だ遠い。けれど太宰さんを見捨てるなんて選択肢、僕には有る筈も無かった。必死に藻掻いて水面に何とか太宰さんの体を引き摺り上げる。
溺れながら非常用の梯子を掴み、海から這い上がる。横たえた太宰さんの体温が大分下がっていて、顔も真っ青で、意識が無かった。拙い。
「太宰さんッ!」
ええと、こう云うときは如何すれば良いんだっけ。パニックを起こしている場合じゃない。探偵社で習った応急処置の仕方を思い出し、顎を摘んで息を吹き込む。太宰さん、太宰さん。呼び掛ける。如何か死なないで下さい。これ以上、誰かを傷付けてしまうことには耐えられない。
暫くすると、ごほっと太宰さんが飲んだ水を吐き出した。続いて息を取り戻し、げほげほと断続的に咳き込む音。良かった、生きてる。ああ、と安心のあまり力が抜けてその場にへたり込む。太宰さん。見ると、濡れた黒い蓬髪の下で苦しげに歪められていた太宰さんの目元が、僕を見て一瞬和らいだ。
「……ふふ」
白くなった唇が、微かに弧を描く。
「矢っ張り、それが君の本質なんだ……」
本質? 話が見えず、放心した意識を何とか太宰さんの言葉に向ける。
太宰さんのほっそりとした指先が、とんと僕の胸を突いた。
「私など見捨てておけば良かったものを、助けずにはいられないんだ。例え、自分がどれだけ傷付いたって」
息を詰めた。
違うと思った。僕が太宰さんを助けたのは、太宰さんが思うような綺麗な義侠心からではきっとない。僕はそんな聖人君子ではないからだ。
ただ単純に傷付けるのが嫌で。ただ単純に、失うのが怖かっただけだ。
なのに太宰さんは弱々しく笑う。
「なあに、失敗したら逃げれば善いのさ……」
ぼんやりと、太宰さんの茫洋とした声が夜の波の音に溶け込む。
「失敗して、追い詰められて、如何にもこうにもならなくなって、他人を助ける余裕も無くなったら――そのときはまたこんな月の夜に、私を探して逢いに来ておいで。幾らでも心中してあげるから……」
その言葉に、僕ははっと目を見開いた。約束だよ。そう云って、太宰さんは僕の小指に自分の小指を絡める。太宰さんの言葉が僕の心臓を取り出し、其処に絡まる棘をゆっくりと取り払う。
小さな約束だ。
僕の弱い心をゆるす、小さな約束。
「……でもね、君に未だ私を助ける余裕が有るうちは、誘わないで呉れると嬉しいかな……私も、何度も苦しい目に遭うのは御免だからね……」
そう云い残して太宰さんは眠るように気を失った。するりと小指が解ける。「太宰さん!」僕は慌ててその華奢な体を担いだ。直ぐにでも与謝野先生に見て貰わないと。兎に角、死なせる訳にはいかないんだ。ざぱ、と波の打ち付ける音。虫の音も獣の声も、もう聞こえなかった。太宰さんの目の色をして静かに佇む海だけが、その約束を聞いていた。
「……君以上の適任者は居ないよ。やってくれるかい?」
太宰さんが作戦を切り出す。自然、ぎゅうと膝の上で握る拳に力が入る。出来ないかも知れない。また失敗するかも知れない。それでも。
――失敗して、追い詰められて、如何にもこうにもならなくなって、他人を助ける余裕も無くなったら。
そう、僕にはこの人が示してくれた逃げ道が有るから。
――幾らでも心中してあげるから。
「やります」
何度だって、立ち上がれるんだ。
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