宵の裏側

(2015/04/03)


 広津は壊れた扉の奥で、何となしに本を読み耽りながら待機していた。篭った古い紙の匂いと、埃っぽい空気の滞留。それが、広津以外の人の立ち入りを阻んでいた。静寂の中、独りはらりと書物の頁を捲る。
 部屋の窓から差し込む柔らかい陽光は時刻がそろそろ正午過ぎであることを示している。マフィア本部の片隅、普段は滅多に陽の目を見ることの無いこの薄暗い資料室が、開放されて何時に無く内に光を取り入れているのは何も広津の気紛れからではない。触れた扉が派手に弾け飛んで壊れてしまったのだ――それで致し方無く、修理業者の来るまで待っているのだ。金品の類が無いとは云え、普段は施錠されている部屋を開放したまま無造作に放置しておく訳にもゆくまい。広津はそう結論付けて、窓辺の机に腰掛けていた。事実、此処にはマフィアにとって重要な資料と歴史が山積している。
 退屈ではあったが、この状況が生まれたのは半ば事故のようなものだとは云え、原因は広津に有ることは明確だったから待つのも吝かではなかった。異能の調子が芳しくないのだ。それを疑り深い年下の幹部候補に説明する為に、扉一つ吹き飛ばした。始末書ものだ。広津は思い出して苦く笑う。朝から両手が不自由なものだから、つい癇癪を起こしてしまったのだ――と云ったらあの男は何と云うだろうか。「広津君もまだまだ若いねえ」。意地の悪い笑みと愉快げな声が仔細鮮明に想像出来て、今度はひとつ、溜め息。出来るだけ見つからず、速やかに原状回復したいものだった。それなのに、修理業者は未だ来ない。懐中時計を取り出そうにも、今の広津には迂闊に物――特に固形物には手を触れられなかった。手にしていた書籍を、ぱたんと閉じて棚には触れずに隙間に差し込む。これは上手くいった。それからもう意味を成さなくなった鍵を衣囊に。そう思ったのに、途中、手の中の金属が弾け飛んで落ちて、広津は拾うことを諦めた。下手に拾おうとして、床ごと破壊してしまっては事だ。
 却説、あの有能な年下の幹部候補が修理業者を手配したのだから、そろそろ来てもおかしくはないのだが。広津は首を傾げる。ちょうど午前中は、幾つか資料を確認する以外は予定が空いていた。如何にも最近忙しく、このようにゆっくりとした時間を取ることは無かったものだから、偶の休息も悪くはなかった。然し午後からは今夜の招宴の警備業務が有る。早く来て貰わなければ困るし、間違っても自分の上司にはこんな、うっかり扉を吹き飛ばしてしまったなんて姿、見られたくはないものだった。その気持ちは少し童心に帰って、まるで悪戯を見付かりたくない小僧のようだ。
 ……と、思っているときほどその懸念している事態は起こるもので。
「あ」
「あ」
 ばた、と。今一番会いたくない相手が部屋に顔を覗かせた。
「広津君?」
「……首領」
 その手には古びた書類の束。そして此処は資料室だ。組織の首領が足を踏み入れることに、何の疑問も無い。ただ、よりにもよってこのタイミングかと歯噛みするだけで。却説如何云い訳したものかと思案する間も無く、鴎外がかつ、と距離を詰めてくる。一歩分だけ空けて広津をぐいと見上げ、視線の数センチ下からふふ、と見透かしたように笑う。
 細められる、紅玉のような瞳。
「そう云えば、扉が派手に壊れたと報告を受けたかな」鴎外の指先が靭やかな動きで先程入ってきた入り口を示す。「ドアノブが椿みたいに落ちてたよ」
 そう云って笑む鴎外にも、広津にも、何処にも異常は見られない。
 広津は何時の間にか詰めていた息を、ふーっと長く吐き出した。
「……貴方は、今回は大丈夫なのですか」
「え? ああ、うん。多分ね。少なくとも、人間失格相手にコントロォル出来るくらいには好調だよ」
 くる、と鴎外の体がその場で一回転する。声が踊っているのは恐らく気の所為ではない。余程気が楽なのだろう。異能が満足に振るえないと云うのは、自分の半身が意のままに動かないことと同義にある。腕が動かない、脚が動かない。そんな状況下では無論鬱屈も溜まりに溜まる。異能は快調に制御出来ることが好ましい。
 それに仮に鴎外が異能を暴走させていれば、今此処に広津は居なかったことだろうし。
「ならば良いのですが……」
「そうそう、中也君が必死に異能の暴走を抑えていたよ。可愛いよねえ」
 鴎外が声を喜色に跳ねさせながら出すのは近頃気に入りの部下の名だ。年の頃の割には珍しく、思考も肝も据わっている。幹部候補――太宰との任務を休んだとのことだったが、その後無事だったのだろうか。体躯の割に強力な異能を持つあの少年のことを、広津は時折気にかけていた。それを知ってか、鴎外は笑う。あれは将来大器になるよ、と云う。
 云いながら、広津の腕を取る。
「素直に太宰君の手を取れば善いのに」
「……首領、何を」
 広津の声に焦燥が混じる。冷や汗が背筋を伝う。中原中也の異能の不調を判っているならば、広津の異能にもそれが及んでいる可能性にこの男が気付いていない筈は無い。制御出来ないのだ、触れるだけで凡てを弾き飛ばす斥力が発動してしまう。
 その威力は広津と――そして何より鴎外が一番佳く識っている筈だ。
 けれど鴎外は気に止めない。
 止めないまま、広津の掌に、自分の掌を重ねようとする。
「……こんな風に」
 皮膚が触れるか触れないかの距離で――広津はその手を反射的に振り払った。
「鴎外ッ!」
「大胆だね、広津君。こんな真っ昼間から」じ、と紅玉の瞳に射抜かれ、びくりと背筋に電流が走る。針金の通るようにぴんと一筋。静寂が部屋を満たす。息を忘れる。ずい、と迫られ、背が本棚につく。どん、と棚が揺れ、紙の擦れる音。「そんな風に私を呼んで、誰か来て誤解されたら如何するの……」
 言葉の端が震えた。
 ――笑っているのだ。そう気付いたときには遅く、鴎外は腹を抱えてうふふあははと蹲っていた。「何を」「だって、君、必死なんだもの」笑いを噛み殺した愉快げな声に、肩の力がずるりと抜ける。この男、人がどれほど焦ったと。然し云っても詮の無いことだろう。見下ろすと無防備に見える旋毛に、ひとつ溜め息。
「……人払いをされているのでしょうに」
「おやバレた」
 くるり、立ち上がった黒衣の裾が舞う。悪戯ぽく竦められる肩。
「修理業者は帰らせてしまったよ。偶にはゆっくりするのも悪くないかなあって」
 そう云いながら鴎外は、ぎいと古びた机に腰掛ける。木製の家具に積もっていた埃が舞う。それが陽光を浴びて、ふわふわと鴎外の周囲に光を散らした。その、何処か幻想的な光景に広津は目を眇める。
「広津君。手」
 その光景から切り取られ、現実に顕現しこちらに差し出された白い指先に、広津は矢張り、躊躇いを禁じ得なかった。目の前の男が何を求めているのか判らなかった。今の状況では、この男の手首を吹き飛ばしてしまい兼ねない。体の一部が失くなっても善いのだろうか。そんな危険を犯してまで、示さなければならない忠誠など無い。
 なのに鴎外はくつくつと笑う。
「そんなに心配せずとも。君の手は絶対に私を傷付けないよ」
 根拠も無く、そう断言する。
「そうでしょう? これまでだって、これからだって」
 ほら、と白い指に促され。今度は抵抗無く、鴎外の手の上に広津の手が乗った。
 温く体温が混じる。平熱だ。それを感じられる距離にある、鴎外と広津の掌。反発し合うことはなく、傷付け合うことはない。鴎外の目論見通りに、――広津の切実な願い通りに。
 広津は息を噛んで瞑目した。制御に必死だ。余裕が無い。
「……気が済んだのなら、お止め下さい。相変わらず、人の悪い」
「そう? でも嫌いじゃないでしょう」
 離れる掌。それでも離れることのない、二人の距離。
 人知れず寄せられる、信頼。
 それを確信したように笑みを深めて、鴎外はにこりと、紅玉の瞳を細めた。
「こう云うのも、悪くないでしょう。今夜の警備も頼りにしているよ。広津君」
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