大さじ一杯
(2014/05/21)
起き抜け一番に、彼女の姿が視界に飛び込んで来る。お早う御座います、と礼儀正しくペコリと頭を下げる光景は、すっかり朝の日常となった其れだ。彼女は今正に給仕を終えて襷を外す処で、僕はどうぞ、と促されるままに卓に着く。と、途端に目の前の食事が美味である事を訴える匂いが鼻孔を刺激し、グゥ、と腹の音が空腹を訴えた。
僕――中島敦と、彼女――泉鏡花は、此の一週間、恙無く同棲を続けていた。同棲と云っても、残念ながら凡そ一般的に期待される様な綺羅びやかなものでは無い。何と云っても相手は齢十四の娘だ。まあ、贔屓目を抜きにしても同棲相手としては文句の付け様の無い程に至極美人だけれども、いやいや、流石に十四歳は拙いだろう。
当初はそんな事を悶々と考えないでも無かったが、今では極普通に、頂きます、と一緒に手を合わせるのが日課になっていた。
この食事がまた、絶品なのだ。玄米に焼き魚、味噌汁が基本の極普通の家庭料理と云ってしまえばそれ迄だが、僕が今迄に食べた事が無い程に旨いのである。味付けの妙なのか、其れ共プロの為せる業なのか、初めて食した時など頬が蕩けるかと思った位で、気が付けば思わず頬を押さえてしまっていた(頬はきちんと取れずに付いていた)。此れが朝夕毎食食べられるなんて、僕は若しかして今世界中の幸せを独り占めして居るんじゃあないだろうか。後ろ暗さを噛み締めながら、茹で卵の皮を剥いて口に含む。
「へもひゃ、ひょうひゃひゃんひゃあ――」
「口にものを入れたまま喋らないで」
「ふぁい……」
ぎろり、と睨まれてしまった。
「あと、卓に肘を付かないで」
「ふ、ふぁい」
「如何して頬にご飯粒が付くの」
「……」
少女の外見に反し、其の物言いは中々に厳しい。まるで母親に諭される様な気恥ずかしさを覚え、僕は肩を竦めた。此れでは何方が年上か分からない。
僕は云いつけ通りに咀嚼した物を飲み込み、情けなくも頬を拭って貰い、それでようやっと、「でもさ、鏡花ちゃん凄いよね」と切り出す事が出来た。
「其の年でこんなに美味しい御飯が作れるの、本当に凄いと思うよ」
「……食事の作り方は、一通り習ったから」
「行儀も良いし。屹度お父さんとお母さんが、きっちりした人だったんだねぇ」
何も考えずに思ったままそう云った後、僕ははっとして口を噤んだ。少女の顔が一瞬だけ翳りを帯び、僕は慌てて話題を変えようと試みる。ほら、僕なんて施設の出でしょ、彼処は食料が、支給されるとは云っても争奪戦の様なものだったから……。
「父はいない。母も」
不用意な言葉を口走ってしまった事を、今更乍ら後悔する。そうだ、普段気丈に振舞っているこの娘にも、忘れたい昏い過去があるのだ。両親を喪い、彼の忌まわしいポート・マフィアに其の小さな身を置いていた過去が。
「ご、ごめん……」
「いい。別に、気にしてない」
本当に気にしていないのか、其れ共唯強がっているだけなのか、其の無表情からは判別が付かなかった。会話が続かなくなり、かちゃ、かちゃ……と食器の鳴る音だけが響く。ちら、と相手の様子を窺い見ると、じっと此方を見る瞳とばっちり目が合った。
「あの、鏡花ちゃ……」
「許すから、橘堂の湯豆府……」
「ほんッッッとうに、申し訳御座いませんでしたァァァ!!!」
メニュウに書かれた恐ろしい値段を思い出し、僕は深々と土下座を為た。それはもう、生まれて此の方成し得た事の無い完璧なフォオムで土下座を為た。あんなものをほいほい要求されては、立ち処に財布が餓死してしまう。此処は誠心誠意、謝罪する事で許して貰うしか無いッ……!
結局、少女から呆れた様に「……出勤時間。遅れる」と告げられる迄頭を付けていた所為で、僕の額には畳の跡が付いてしまっていて、若しかしたら小さな意趣返しだったのだろうか、少女も何も指摘しなかったので、「敦君、寝相悪いんだねぇ!」と思い切り太宰さんに笑われてしまう事となった。
しかし、父親も母親も居ない状況で、では一体誰に料理を習う事など出来たと云うのだろう。
皆目検討も付かなくて、その事だけが、僕の頭の中に妙に引っ掛かった。
「ひゅーひゅー。如何だい敦君、若い女性と同棲すると云うのは」
結構な事じゃないか、君が自殺志願者なら尚の事良かったのだけれど……。と少女の肩に手を掛ける胡散臭い先輩社員を見る僕と少女の目は、屹度氷屋の氷より冷ややかだったに違いない。
「……私の名は鏡花。六月で三十五人殺した……」
「ウワァァァ鏡花ちゃんが夜叉モォドになっちゃったじゃないですか! 太宰さん一寸あっち行って!」
「えー」
「『えー』じゃない!」
「大丈夫。一撃でヤれる」
「鏡花ちゃんも落ち着いて!?」
少女の異能を何とか諌め(何か、携帯電話無しでもコントロォル出来始めているのは気の所為だろうか?)、太宰さんが国木田さんと乱歩さんから一通り怒られた処で、「いや、でも実際の処、同居を推薦したのは私だからね。不都合があれば、云って呉れないと」と太宰さんが急に真面な事を云い出したので、僕はつい、変な茸でも食べたんですか、と訊いてしまった。
「結構失礼だな、君」
因みに探偵社は、今日は珍しく外出を伴う依頼が少ない様で、僕達……いや、少なくとも僕は、机に座って書類の処理を粛々と熟していた。
「いや、もう不都合なんて全然! 毎日美味しい朝御飯作って呉れますし、晩御飯も作って呉れますし、二杯目からは茶漬けにしても良いし、僕最近とても幸せだなあ……って思います」
「君はもう一寸大きな幸せを願っても良いんじゃないかな……」
ブツブツとぼやく先輩社員に、流石の僕でも自殺に幸せを見出す方に云われたくないです……と云わなかった僕は偉いと思う。
「へぇ。でも、それは凄いね、鏡花ちゃん」
そう太宰さんに撫でられると、少女が少し擽ったそうに身を捩ったので、ああ、こんな歳相応の表情も出来るのか、と僕も釣られて顔が綻んだ。
「別に。私は、習った通りに為ただけだから」
謙遜ではなく、純粋に、だから教えた人の方が凄い、とでも云いたげに、鏡花は笑った。
「と云う訳で! 突撃! 隣の晩御飯!!!」
「ウワァァァ何で居るんですかアンタ!!!」
「いやーだって敦君が惚気けるからさ? 此れはもうご相伴に預からないとと思って」
社員寮に帰宅した僕を待っていたのは、どよりと重い空気を背負った同居人の少女と、僕より後に帰社した筈の先輩社員の姿だった。いけしゃあしゃあと云い放つ男の前には既に食事が用意してあり、僕は訳が分からず隣の少女に助けを求める様に振り返る。
「一食作って呉れたら……家賃一ヶ月分払ってあげるって云われて……」
そっか、そう云われたら逆らえないね……と僕達は無言の内に深く頷き合った。同棲を始めて一週間、初めて心が深く通じ合った瞬間だった。
「あ、今日は出汁巻きにしたんだ」
「出汁巻きじゃない、玉子焼き」
訂正を受けながら、綺麗に巻かれた黄金色の卵を口の中に放り込む。と、僕はがばっと口を手で覆っていた。蕩けそうだったからではない。口内に広がる予想外の味に、目を丸くする。
「!? !? 何これ甘い……」
「えーどれどれ、うわ本当だ、甘いねえ。あれ? でもこの味……」
玉子焼きを食べたきり体を硬直させた僕と何事かを考え始めた太宰さんを、暫く微動だにせずじっと見つめていた少女が、一向に動き出さない空気におろおろと目を泳がせ始めたタイミングで、僕漸く我に返った。大丈夫、すごく美味しいよ、と云う。事実、初めて食した味だったが、其れ迄の僕の『卵焼き』と云う概念を根底から覆す程には此の料理は美味だった。
「砂糖で味付けした玉子焼きが初めてで、一寸吃驚しただけだよ、ねえ、太宰さん」
「ふっ……くくく……」
「え、何!? どうしたんですか!?」
突然体を折って肩を震わせ出した男の様子に吃驚して、僕は慌てて其の背を擦った。そう云えば以前、国木田先輩に聞いた事がある。此の男は見るからに胡乱な茸を己が趣味の為に食した所為で、ほぼ一日、まるで病の様に笑い続けた事があったと。真逆――!?
「違う。変なもの、入れてない」
「じゃ、じゃあ一体……」
「あっはっは、いや、何でもない! 久しぶりに懐かしい味付けに会ったなと思って、ねえ」
ねえ、と云われても。訳が分からずぽかんと顔を見合わせる僕達を置いてけぼりにして、一頻り笑い終えた太宰さんは、ぽんと鏡花の頭に手を置いた。
「悪くない。美味しいよ」
『手際が悪い。煮物を煮ている間に、玉子を焼けるだろう』
『……』
『火加減には気を付けろ。あと、次からは片付けも並行出来る様考えておけ』
無口で無愛想で、何を遣らせても今一つな部下に、何故か料理迄教える羽目になり、太宰は不機嫌極まりなかった。包丁を取り上げて手首を掻き切って遣ろうと云う気も起こらない。何故此の様な事になっているのか、そうだ、体重を増やせ、そんな事ではマフィアの仕事は務まらんと口を出したばかりに――。
部下の男が指に切り傷を作り、火傷を負いかけ、そうして漸く出来上がった代物に、太宰はふぅんと一つ大きく頷いた。見た目は悪くない。飲み込みも要領も悪いが、懇切丁寧に教えれば其れをものにする事位は出来る様だった。そうで無ければ困る。
煮物と味噌汁の味は辛うじて及第点と云った処か。魚は焦げ気味だが、まあ、此の程度であれば許容範囲内だろう。太宰は食しながらそう断じて、玉子焼きに手を伸ばした。
『なんッ、これ、何だ此れは……!?』
口の中に広がった甘さに、思わず絶句する。味付けは確かに醤油と味醂でと云った筈だが、塩と砂糖でも間違えたのか。顔を顰めていると、部下の男が箸を動かす手を止め口を開いた。
『何って、玉子焼きです』
僕の家では、此れが普通でしたので。と部下は顔色一つ変えずに澄ました顔で答え、自分の料理を口に運ぶ。文句があるなら帰れ、とでも云いたげな横顔に、太宰は心中複雑なままその玉子焼きを飲み込んだ。これだけは。他の料理は可も無く不可が少し在る程度の出来だったが、少なくともこの玉子焼きだけは、太宰の顔を少しだけ綻ばせた。
『……まあ、』
甘い玉子焼きも、悪くない。そう云って、『お前にしては、良くやったな』と頭を撫でると、部下の男はまるで不意打ちでも食らったかの様に愕然として箸をぽろっと取り落とし、其れから気恥ずかしそうにそっぽを向いてしまった。
『……別に。僕は、習った通りに為ただけなので』
起き抜け一番に、彼女の姿が視界に飛び込んで来る。お早う御座います、と礼儀正しくペコリと頭を下げる光景は、すっかり朝の日常となった其れだ。彼女は今正に給仕を終えて襷を外す処で、僕はどうぞ、と促されるままに卓に着く。と、途端に目の前の食事が美味である事を訴える匂いが鼻孔を刺激し、グゥ、と腹の音が空腹を訴えた。
僕――中島敦と、彼女――泉鏡花は、此の一週間、恙無く同棲を続けていた。同棲と云っても、残念ながら凡そ一般的に期待される様な綺羅びやかなものでは無い。何と云っても相手は齢十四の娘だ。まあ、贔屓目を抜きにしても同棲相手としては文句の付け様の無い程に至極美人だけれども、いやいや、流石に十四歳は拙いだろう。
当初はそんな事を悶々と考えないでも無かったが、今では極普通に、頂きます、と一緒に手を合わせるのが日課になっていた。
この食事がまた、絶品なのだ。玄米に焼き魚、味噌汁が基本の極普通の家庭料理と云ってしまえばそれ迄だが、僕が今迄に食べた事が無い程に旨いのである。味付けの妙なのか、其れ共プロの為せる業なのか、初めて食した時など頬が蕩けるかと思った位で、気が付けば思わず頬を押さえてしまっていた(頬はきちんと取れずに付いていた)。此れが朝夕毎食食べられるなんて、僕は若しかして今世界中の幸せを独り占めして居るんじゃあないだろうか。後ろ暗さを噛み締めながら、茹で卵の皮を剥いて口に含む。
「へもひゃ、ひょうひゃひゃんひゃあ――」
「口にものを入れたまま喋らないで」
「ふぁい……」
ぎろり、と睨まれてしまった。
「あと、卓に肘を付かないで」
「ふ、ふぁい」
「如何して頬にご飯粒が付くの」
「……」
少女の外見に反し、其の物言いは中々に厳しい。まるで母親に諭される様な気恥ずかしさを覚え、僕は肩を竦めた。此れでは何方が年上か分からない。
僕は云いつけ通りに咀嚼した物を飲み込み、情けなくも頬を拭って貰い、それでようやっと、「でもさ、鏡花ちゃん凄いよね」と切り出す事が出来た。
「其の年でこんなに美味しい御飯が作れるの、本当に凄いと思うよ」
「……食事の作り方は、一通り習ったから」
「行儀も良いし。屹度お父さんとお母さんが、きっちりした人だったんだねぇ」
何も考えずに思ったままそう云った後、僕ははっとして口を噤んだ。少女の顔が一瞬だけ翳りを帯び、僕は慌てて話題を変えようと試みる。ほら、僕なんて施設の出でしょ、彼処は食料が、支給されるとは云っても争奪戦の様なものだったから……。
「父はいない。母も」
不用意な言葉を口走ってしまった事を、今更乍ら後悔する。そうだ、普段気丈に振舞っているこの娘にも、忘れたい昏い過去があるのだ。両親を喪い、彼の忌まわしいポート・マフィアに其の小さな身を置いていた過去が。
「ご、ごめん……」
「いい。別に、気にしてない」
本当に気にしていないのか、其れ共唯強がっているだけなのか、其の無表情からは判別が付かなかった。会話が続かなくなり、かちゃ、かちゃ……と食器の鳴る音だけが響く。ちら、と相手の様子を窺い見ると、じっと此方を見る瞳とばっちり目が合った。
「あの、鏡花ちゃ……」
「許すから、橘堂の湯豆府……」
「ほんッッッとうに、申し訳御座いませんでしたァァァ!!!」
メニュウに書かれた恐ろしい値段を思い出し、僕は深々と土下座を為た。それはもう、生まれて此の方成し得た事の無い完璧なフォオムで土下座を為た。あんなものをほいほい要求されては、立ち処に財布が餓死してしまう。此処は誠心誠意、謝罪する事で許して貰うしか無いッ……!
結局、少女から呆れた様に「……出勤時間。遅れる」と告げられる迄頭を付けていた所為で、僕の額には畳の跡が付いてしまっていて、若しかしたら小さな意趣返しだったのだろうか、少女も何も指摘しなかったので、「敦君、寝相悪いんだねぇ!」と思い切り太宰さんに笑われてしまう事となった。
しかし、父親も母親も居ない状況で、では一体誰に料理を習う事など出来たと云うのだろう。
皆目検討も付かなくて、その事だけが、僕の頭の中に妙に引っ掛かった。
「ひゅーひゅー。如何だい敦君、若い女性と同棲すると云うのは」
結構な事じゃないか、君が自殺志願者なら尚の事良かったのだけれど……。と少女の肩に手を掛ける胡散臭い先輩社員を見る僕と少女の目は、屹度氷屋の氷より冷ややかだったに違いない。
「……私の名は鏡花。六月で三十五人殺した……」
「ウワァァァ鏡花ちゃんが夜叉モォドになっちゃったじゃないですか! 太宰さん一寸あっち行って!」
「えー」
「『えー』じゃない!」
「大丈夫。一撃でヤれる」
「鏡花ちゃんも落ち着いて!?」
少女の異能を何とか諌め(何か、携帯電話無しでもコントロォル出来始めているのは気の所為だろうか?)、太宰さんが国木田さんと乱歩さんから一通り怒られた処で、「いや、でも実際の処、同居を推薦したのは私だからね。不都合があれば、云って呉れないと」と太宰さんが急に真面な事を云い出したので、僕はつい、変な茸でも食べたんですか、と訊いてしまった。
「結構失礼だな、君」
因みに探偵社は、今日は珍しく外出を伴う依頼が少ない様で、僕達……いや、少なくとも僕は、机に座って書類の処理を粛々と熟していた。
「いや、もう不都合なんて全然! 毎日美味しい朝御飯作って呉れますし、晩御飯も作って呉れますし、二杯目からは茶漬けにしても良いし、僕最近とても幸せだなあ……って思います」
「君はもう一寸大きな幸せを願っても良いんじゃないかな……」
ブツブツとぼやく先輩社員に、流石の僕でも自殺に幸せを見出す方に云われたくないです……と云わなかった僕は偉いと思う。
「へぇ。でも、それは凄いね、鏡花ちゃん」
そう太宰さんに撫でられると、少女が少し擽ったそうに身を捩ったので、ああ、こんな歳相応の表情も出来るのか、と僕も釣られて顔が綻んだ。
「別に。私は、習った通りに為ただけだから」
謙遜ではなく、純粋に、だから教えた人の方が凄い、とでも云いたげに、鏡花は笑った。
「と云う訳で! 突撃! 隣の晩御飯!!!」
「ウワァァァ何で居るんですかアンタ!!!」
「いやーだって敦君が惚気けるからさ? 此れはもうご相伴に預からないとと思って」
社員寮に帰宅した僕を待っていたのは、どよりと重い空気を背負った同居人の少女と、僕より後に帰社した筈の先輩社員の姿だった。いけしゃあしゃあと云い放つ男の前には既に食事が用意してあり、僕は訳が分からず隣の少女に助けを求める様に振り返る。
「一食作って呉れたら……家賃一ヶ月分払ってあげるって云われて……」
そっか、そう云われたら逆らえないね……と僕達は無言の内に深く頷き合った。同棲を始めて一週間、初めて心が深く通じ合った瞬間だった。
「あ、今日は出汁巻きにしたんだ」
「出汁巻きじゃない、玉子焼き」
訂正を受けながら、綺麗に巻かれた黄金色の卵を口の中に放り込む。と、僕はがばっと口を手で覆っていた。蕩けそうだったからではない。口内に広がる予想外の味に、目を丸くする。
「!? !? 何これ甘い……」
「えーどれどれ、うわ本当だ、甘いねえ。あれ? でもこの味……」
玉子焼きを食べたきり体を硬直させた僕と何事かを考え始めた太宰さんを、暫く微動だにせずじっと見つめていた少女が、一向に動き出さない空気におろおろと目を泳がせ始めたタイミングで、僕漸く我に返った。大丈夫、すごく美味しいよ、と云う。事実、初めて食した味だったが、其れ迄の僕の『卵焼き』と云う概念を根底から覆す程には此の料理は美味だった。
「砂糖で味付けした玉子焼きが初めてで、一寸吃驚しただけだよ、ねえ、太宰さん」
「ふっ……くくく……」
「え、何!? どうしたんですか!?」
突然体を折って肩を震わせ出した男の様子に吃驚して、僕は慌てて其の背を擦った。そう云えば以前、国木田先輩に聞いた事がある。此の男は見るからに胡乱な茸を己が趣味の為に食した所為で、ほぼ一日、まるで病の様に笑い続けた事があったと。真逆――!?
「違う。変なもの、入れてない」
「じゃ、じゃあ一体……」
「あっはっは、いや、何でもない! 久しぶりに懐かしい味付けに会ったなと思って、ねえ」
ねえ、と云われても。訳が分からずぽかんと顔を見合わせる僕達を置いてけぼりにして、一頻り笑い終えた太宰さんは、ぽんと鏡花の頭に手を置いた。
「悪くない。美味しいよ」
『手際が悪い。煮物を煮ている間に、玉子を焼けるだろう』
『……』
『火加減には気を付けろ。あと、次からは片付けも並行出来る様考えておけ』
無口で無愛想で、何を遣らせても今一つな部下に、何故か料理迄教える羽目になり、太宰は不機嫌極まりなかった。包丁を取り上げて手首を掻き切って遣ろうと云う気も起こらない。何故此の様な事になっているのか、そうだ、体重を増やせ、そんな事ではマフィアの仕事は務まらんと口を出したばかりに――。
部下の男が指に切り傷を作り、火傷を負いかけ、そうして漸く出来上がった代物に、太宰はふぅんと一つ大きく頷いた。見た目は悪くない。飲み込みも要領も悪いが、懇切丁寧に教えれば其れをものにする事位は出来る様だった。そうで無ければ困る。
煮物と味噌汁の味は辛うじて及第点と云った処か。魚は焦げ気味だが、まあ、此の程度であれば許容範囲内だろう。太宰は食しながらそう断じて、玉子焼きに手を伸ばした。
『なんッ、これ、何だ此れは……!?』
口の中に広がった甘さに、思わず絶句する。味付けは確かに醤油と味醂でと云った筈だが、塩と砂糖でも間違えたのか。顔を顰めていると、部下の男が箸を動かす手を止め口を開いた。
『何って、玉子焼きです』
僕の家では、此れが普通でしたので。と部下は顔色一つ変えずに澄ました顔で答え、自分の料理を口に運ぶ。文句があるなら帰れ、とでも云いたげな横顔に、太宰は心中複雑なままその玉子焼きを飲み込んだ。これだけは。他の料理は可も無く不可が少し在る程度の出来だったが、少なくともこの玉子焼きだけは、太宰の顔を少しだけ綻ばせた。
『……まあ、』
甘い玉子焼きも、悪くない。そう云って、『お前にしては、良くやったな』と頭を撫でると、部下の男はまるで不意打ちでも食らったかの様に愕然として箸をぽろっと取り落とし、其れから気恥ずかしそうにそっぽを向いてしまった。
『……別に。僕は、習った通りに為ただけなので』
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