幾千の薔薇より
(2015/06/19)
ビルヂングの屋上から見下ろす街の灯りは、夜空のそれよりも大分明るい。横濱の空には星が少ないからだ。この街の人間は誰もが皆、指し示す星灯りの無いままに闇雲に進むことを強いられる。暗がりに足を取られることもしばしばで、そうして転がり落ちた底が非合法組織なんて掃き溜めであることもざらだ。まるで投身自殺の成れの果て。兎角この世は生き難い。
例えば気に入らない人間と仕事を組まされたりとかするし。
太宰は振り返らずに、背後から近付く明瞭な足音に鋭く声を刺した。
「遅い」
カツ、とその音が隣へと並び立つ。
「……煩えな。時間ぴったりだろうが」
低く唸るような声。どさ、と荷物を乱暴に置く音。ちらりと横に目を遣ると、予想と寸分違わない位置に趣味の良い帽子の天辺が見えた。表情は見えない。けれど今、この男がどんな顔をして自分と共に横濱の街を見下ろしているかは知っていた。
何せ自分達は相棒だから。
色素の薄い髪が、風に鮮やかに靡く。
「時間のことは云ってない。私を待たせたことを云ってるの」
「遅刻常習犯に云われたかねえよ。こんなときばっか先に来やがって」
そう云って、相棒――中原中也は太宰の方を見向きもせずに、手にしていたケエスの中身を広げ始めた。円筒状の部品が幾つか。それが鮮やかな手並みで、スナイパー・ライフルへと組み変わる。相変わらず手際が良い。ぱちぱちとおざなりな拍手をする序に、煙草の一本をずいと差し出す。
「ん」
中也に呉れてやるものでは勿論ない。太宰自身が吸う為のものだ。
中也もそれが判っているのか、太宰の言外の要求に、一瞬手を止めて半目で見遣る。
「……手前のは如何した」
「濡れて駄目になった」
「また入水かよ。そのまま死ねば良かったのに」
「じゃあ中也が一緒に心中してよ……。そしたらきっと死ねる気がする」
「手前と死ぬなんざ死んでも御免だ」
冗談じゃねえ、と不快げに寄せられる中也の眉根に、ふふん、と少しだけ太宰の気分が上向く。そう、冗談じゃない。この男となら死ねる気がするのは本当だ。それを口にしたら、中也はきっと嫌悪に口を曲がりそうなほどに歪めるのだろうけど。想像して太宰はひっそりと笑う。中也の嫌そうな顔を見るのは好きだった。そう云う顔をするときは、大抵太宰に意識を向けているのが判るから。
そのままじっと手を差し出していると、太宰が引く様子が無いのを見て取ったのか、一つ大きな溜め息。懐から取り出されたのは、良く手入れのされたジッポだ。美しい銀の装飾が、中也の手の中で光る。
カチン、と小気味のいい音と共に火の灯された煙草の先ではなく、顔を寄せた先、相棒の手の内のその銀色に、太宰は思わず目を奪われる。相変わらず、何度見ても綺麗だ。それがジッポ自体の魅力なのか、中也の手の中にあるからこその輝きなのかは判らないけど。それが知りたくて以前に「欲しい」と云ったことは有ったが軽く一瞥を呉れただけで黙殺された。多分、中也の方はもう覚えていないんだろう。ふーっと長く煙を吐き出す。
何時の間にか、屋上特有の強風は収まっていた。不自然なほどに無風だ。恐らくは、中也の異能の影響。太宰が頼んだ訳ではなかったから、気にも留めずに口を開く。
「何時もは五分前行動の君が時間ぴったりなんて珍しいでしょ。一体何に手間取ってた訳?」
「ちょっと下でごたごたあったんだよ」
「……ふぅん?」
ちら、と太宰は隣の相棒を見遣る。中也は時折照準器を覗き込みながら、ライフルを固定している処だった。嘘を吐いているようには見えない。けれど何かを隠しごとをしているようには見える、かな、と太宰は思った。理屈なんて無い。相棒の直感だ。
却説何だろうなあと、その靭やかな手が人を撃つ為の準備をしているのを、ぼんやりと紫煙の向こうに眺める。ふと、中也が顔を上げてぽんと双眼鏡を太宰の方へ放って寄越した。「手前も仕事しろよ」そうだ、仕事。中也が狙撃手で、太宰が観測手。今晩の役割はそうだった。
「……ったく、何で選りにも選って手前となんだ」その愚痴は半ば独り言地味ていた。中也が鞄の抜け殻を腹に敷いて伏せる。「こんな専門外の仕事をよお」
「仕方無いでしょ。マフィアの仕業だってバレないようにって指定なんだから」太宰は一旦出口を視認し、退路を確認してから双眼鏡を覗き込む。感度は上々。晴れで良かった。数粁先まで良く見える。「でなきゃ君が標的ごとあのホテルを潰せば済む話だ」
「そんなら手前一人でも善いだろ。暗殺は手前の領分だ」
「人を殺し屋みたいに云わないでよ。それに私が殺すにしたって色々準備が要るし。一発撃ってさっさと終わりにした方が楽じゃない」
「莫迦云え、どっちにしろ仕込みはしてるくせに」
太宰はそれには答えず、曖昧な笑みを浮かべた。中也も特には言及しない。「時間だ」視線の先のホテルの一室を指し示す。部屋に灯りが付いた。主が帰ってきたのだ。中也もそれを見て取って、黙って照準器を覗き込む。
中也の狙撃の腕は悪くない、と云う程度。御世辞にも狙撃手と呼べる熟練度ではない。当然だ、この男の専門は近接戦闘なんだから。それでも時折こうした任務が人員の不足から下りてくるのは、中也がその腕の不足を補って余り有る異能を持っているからだ。重力操作。彼が触れた弾は空気の抵抗をものともせず、常とは異なる重さを持って標的の命を撃ち貫く。
そう、今だって風が無くて。
ぴん、と空気が弓の如く研ぎ澄まされるのを感じる。
一瞬の静寂。
「……今だ」
太宰の合図に合わせて、引き金が絞られる。数秒後、絶妙なタイミングで窓から覗いた標的の頭部にぱっと赤がしぶくのが見えた。命中だ。念の為数秒様子を見るが、動く気配は無い。着弾点は額。あの感じだと即死だろう。呆気無い。
「中った。撤収だ」
その言葉に、相棒がふーっと詰めた息を吐いて身を起こす気配を感じた。なんだ、らしくもなく緊張していたのか。双眼鏡を外して見遣れば中也は何時も通りの表情で、そんな様子はおくびにも出していなかったが、体は幾分か強張っているようだった。首筋が汗で湿っている。そんなに気張らずとも、君ならこの程度、楽勝だったでしょう。ふと思い浮かんだ言葉は、頭の中に留める。
却説、終わってみれば何のことは無かった。何時もの任務よりも楽だ、マァ、少しだけ面倒だったから標的が決まった時間に決まった場所に顔を出すように事前の細工は必要だったけれど。でなければ幾ら太宰でも、相棒が狙撃手をやるからと云う理由だけで観測手なんて専門外の仕事は引き受けない。じっと待つのは性分じゃないのだ。
荷物を纏め、煙草を始末し、出口へと向かう。
その途中。
「中也?」
何時までも背中を追ってこない相棒を、訝しんで振り返る。相棒はライフルを片付け荷物を纏めてはいたものの、出口には向かわずじっと屋上の縁に立って下を見下ろしていた。街明かりに浮かび上がるその精悍な顔には、なんだか不思議な表情が滲んでいて、太宰は少しの間見惚れる。
……いやいや。別に見惚れてなんかないし。
「中也」
呼ぶと、何故か常の彼には似つかわしくない、花の綻ぶような笑みを零して中也はぱ、と顔を上げた。風は彼の動きを阻害しない。ばさ、と軽やかに外套の裾が舞う。
そうして一言。
「俺はこっちからずらかる」
「え? ……あ、ずるい!」
一瞬遅れてその意味を理解する。重力遣いの特権だ。昇降機を使わず直接地上に降りようと云うのだ。異能無効化で掴んでやろうと太宰は慌てて駆け寄るけれど、何分距離が遠くて間に合わない。横濱の街を背にした中也が、唇に鮮やかな弧を描く。
「何とでも云いやがれ。じゃあな」
そうしてそのまま、まるで自殺するみたいに足を滑らせて、中也はふら、と下へ落ちてしまった。「ねえ、置いていかないでよ!」太宰の手が宙を掻く。見下ろすと、中也の帽子がまさに街灯の海に消えていく処だった。太宰をひとり、屋上に残して。
まったく、何時も勝手なんだから。太宰は一つ溜め息を吐く。今度は首輪でも付けておいてやろうか。細やかな嫌がらせだ。そんなことを考えながら、屋上を後にして階下に下りる。一階下にはホテルの宿泊部屋が並んでいて、太宰の足音は廊下に敷かれた上品な絨毯に吸い込まれて消えていく。それから更に一階に下りるのに、昇降機を利用しようとして――深夜にも関わらず、その前に人集りが出来ていることに気付く。
嫌な予感がした。
顔を覚えられないように、遮光眼鏡を掛ける。外套を脱ぎ、外見の特徴を消しながら、一般人を装って手近な女性を観察する。なるべく若くて、独身で、恋人と別れた直後みたいなのが良い。薬指に指輪の痕を付けた女性を見定めて、人好きのいい笑みを浮かべて声を掛ける。
「如何かしたんですか?」
女は一瞬、昇降機に向けていた意識を全て太宰に奪われたようだった。はくはくと呼吸を忘れたような口の動きに、彼女の動揺が見て取れる。当たりだ。太宰は内心で指を鳴らした。これでも見目の佳い自信は有る。無条件の好意は、勝ち取っておくに越したことはない。
女性は僅かに赤面して、「いえ、あの」と口籠るように続けた。
「下の階で昇降機の操作盤が誰かにめちゃくちゃに壊されたらしくって」
「は」
そう、何か、大きな動物に踏み潰されたような壊され方だったらしいんですよ。その言葉に、太宰は一瞬眩暈を覚える。昇降機は高層ビルヂングの生命線だ、停電や通常人の手で壊されたものなら直ぐに復旧出来るようになっている筈だ。だから、多分、故障とかそんな言葉では生温いほどに、粉々に破壊されているに違いない。太宰の目にはその光景がありありと思い浮かんだ。
太宰が来たときは異常なんて無かったのに。
思い付く原因なんて、一つしか無い。
「復旧には一晩くらい掛かるらしいんです」
まあ、朝までに直ればいいんですけど。その言葉に太宰はちら、と階数表示を見る。此処は四十九階。朝まで昇降機が動かないとなれば、当然下に降りる手段は階段しか無い。
――ちょっと下でごたごたあったんだよ。
そうして漸く、あの笑顔の意味を理解する。
太宰は目頭を抑えて瞑目し――それから精一杯、大きく息を吸い込んだ。
「ば……ばか中也ぁー!!!」
◇ ◇ ◇
「はー最悪……ほんと最悪」
ふら、と太宰は足を蹌踉めかせてマフィア本部の正面玄関をくぐった。
結局あの後、朝になっても昇降機が復旧しなかったから、仕方なく階段を一階ずつ下りたのだ。太宰の足はもう棒になったも同然だった。ふらふらの歩みのまま、中也のやつ、後で絶対仕返ししてやる……などと強く決意しながら自分の執務室の扉を開ける。
そんな状態だったから。
扉を開けた瞬間――パンッ! と突如響いた発砲音にも反応が遅れた。銃声? しまった。殺気は無かった筈だけど。舌打ちをして腕を前に掲げ、扉に身を隠そうとして――衝撃の無いことに気付く。
「太宰さんっ、お誕生日おめでとうございます……!」
「……は?」
腕の防御を解いた太宰を出迎えたのは、喜色満面と云った風な部下達の一斉の敬礼だった。
足元を見る。絨毯に散らばるのはぎらぎら煩く光るクラッカーの残骸だ。その上赤い花弁の目一杯が、絨毯の上に処狭しと溢れている。見れば室内を囲むように、壁沿いにぐるりと大量の薔薇の花束が鎮座していて、此処は何時から薔薇園になったんだと太宰は口角をヒクリと震わせた。
取り敢えず、その束の一つを踏み潰して部屋に入る。
「邪魔」
「あ゛ーっ! そんな殺生な……」
「何。なんか文句有るの」
「いえ……」
褒めて呉れと云わんばかりに尻尾を振っていた部下達の毛が、途端にしゅんと萎えるのを太宰は見た。けれど同情などしてはやらない。する必要も無いだろう、何の冗談だこれは。
ぐしゃぐしゃぐしゃと薔薇の花弁を踏んづけて部屋の中央に進み、腕を組んで部下の前に立つ。
自然、仁王立ちになるし、声は地を這うように低くなる。
「ねえ一体何の騒ぎなの? 下らない理由だったら張り飛ばすよ」
「はっ……! 太宰さんが本日お誕生日と聞きまして、マフィア中にそのことを触れ回り、お祝いの準備をしていた次第であります!」
「――マフィア中に」
「はい!」
見れば確かに、薔薇の花束に混じって贈品の箱らしき山が幾つか築かれている。包装の大きさは様々だ。大きい物から小さい物まで。粗末な物から高価そうな物まで。否、どちらかと云えば値段に気合いの入っていそうな物の方が多い。内訳は情愛六割、怨念四割と云った処だろう。その一つを汚れ物のように摘み、太宰はうええと顔を顰めた。
贈り主の名前が判らない贈品なんて開ける訳が無いでしょう。
と云うか、何私の個人情報勝手にばらまいているんだ。
誕生日なんて教えた覚え無いし。
「いえっ、我々の中でも内々でお祝いした方が良いのではないかとの意見も有ったのですが! 太宰さんのお誕生日をなるべく盛大にお祝いしたく!」
「ねえ君、銃貸して」
贈品をぞんざいに放り出し、ぺらぺらと喋り続ける部下その1に目も呉れずに、太宰は一番端の四人目の部下に手を伸べた。何の疑問も無くしずしずと差し出された銃を手に取り、弾倉を確認して、太宰は淡々と安全装置を解除する。
「我々としても断腸の思いで――!」
パン!
今度こそ部屋に発砲音が響いた。天井に穴が空き、部下がぴたりと口を閉じる。「いい子だ」太宰はにこりと笑って銃口でくいと床を指し示した。
「全員其処に並びなよ。一人ずつ殺してやるから」
「そ、そんな殺生な……」
「黙って並べ」
聖母のように微笑む太宰の、然しその目は全く笑っていない。興奮の為に朱に染まっていた部下の顔が、一瞬にして真っ青になる。自分達は一番やってはいけないことをした――太宰の機嫌を損ねたのだ。そのことに気付き、そして弁解の機会など皆無であることにも気付いてしまう。包帯の下の太宰の目は、宛ら硬質な金属のように冷えていた。こうなっては、この人はもう何に絆されることも無いだろう。嗚呼、太宰さんのお誕生日が自分の命日になるとは。然しこれも部下の運命として受け入れるべきなのかも知れない。どうか自分が見届けることの出来ない、今後の太宰さんの人生に幸多からんことを――部下がさめざめと瞑目し、辞世の句を詠もうと目を瞑った処に――こんこん、と叩敲の音が重なった。
「誰? 何」
太宰が銃口を動かさないまま、刺すように誰何する。
「太宰。俺だ。安吾も居る。今少しだけ善いか」
「……取り込み中だから手短にお願いしたいんだけど」
数秒の逡巡の後、ゆっくりと扉が開けられる。来訪者の目に入ったのは、無表情に銃を構える太宰と泣きそうな部下と云う取り合わせだ。その光景にこれから起こるであろう惨劇を垣間見て、入ってきた男は絶句したように暫し沈黙した。
「……その、云い難いんだが」
次に、来訪者――織田作之助は、その言葉の通り心底云い辛そうに、太宰と部下を指差した。
「撃つ前に、出来れば新聞紙なんかを敷いて呉れると嬉しい」
お前の処の絨毯は高価だから、洗うのはきっと俺に回ってくる。そう続ける織田の背後から、続けてひょこ、と眼鏡の男が顔を覗かせる。
「そうですね、織田作さんは最近、クリーニングの腕を上げましたものね」
その道のプロです、そろそろクリーニング屋が開けますよと坂口安吾が頷いた。深刻そうな織田とは対照的に、安吾の方は明らかに巫山戯ている。だって口元が笑いを隠し切れずに震えているのだ。
「クリーニング屋か。マフィアを辞めたらそれも善いかも知れないな……」
「何なら今からでも善いんじゃないですか? この組織は悪餓鬼が多いですから、皆さん外へ出ればそれはもう元気に服を血糊で汚して帰ってきていますよ。一階に店を構えれば商売繁盛間違い無しです」
「織田クリーニング」
「やりましょう」
重々しく頷く二人に、太宰は堪え切れずに「ねえ人の部屋で起業の算段立てないで」と笑いながら口を挟む。「ちょっともう、安吾、うちの貴重な人材をクリーニング屋に引き抜くのは止めてよ……」まったくこの友人達ときたら、部下に構うのも莫迦莫迦しくなってしまうじゃないか。こんな緩んだ空気の中じゃあ、仕置きも満足に出来やしない。
「あー負けた負けた。で、何の用だい、態々私の部屋まで」
持っていた銃の引き金に人差し指を引っ掛けてくるりと回す。が、上手くいかなくて取り落としてしまった。ありゃ、と太宰は肩を竦める。
そうして手持ち無沙汰になった太宰の手に、ぽん、と無造作にカラフルな包みが乗せられた。軽い。し、柔らかい。中身は多分、手触りからして布製の何かだ。でも急に何なの。ぽかん、と口を開けた太宰の目の前に、今度は違う色の大きな包みがずいと置かれる。子供の背丈ほども有って、此方も何か柔らかい中身。包装紙に皺が寄っているから。そしてよく見ればそれぞれに、友人達のサインが書かれている。
大きな包みには、織田と力強い字が在って。
太宰の手に在る方には、坂口と几帳面そうな字が在る。
疑念の目を向ける太宰に、友人二人からの口から零れたのは祝福の言葉だった。
「おめでとう、太宰」
「おめでとうございます、太宰君」
一瞬、友人たちの云っている言葉の飲み込みが遅れた。
おめでとう?
太宰は二人を見、それから自分の手元を見、それを指差して辿々しく尋ねた。
「……これ、なに?」
「これか? これは誕生日プレゼントだ」
誕生日プレゼント。
「私に?」
「お前に」
「……」
織田作と。安吾が。私に。誕生日プレゼント。
一つずつ事象を噛み砕く。
……詰まり?
「太宰君、嬉しいときは素直に喜んだらいいんですよ」
嬉しい? 安吾を見る。それからもう一度、織田を。
二人の視線が、何故か少し擽ったい。
何か、今までに感じたことの無い感情が胸の奥から喉の処まで迫り上がってきていた。不快なものではない。寧ろ全身の力の抜けるような、ふんわりとした感覚だ。頬が緩む。
けど、と太宰はその夢みたいな心地の中で少しだけ首を傾げる。けど、如何して二人とも私の誕生日なんて知っているのだろうか。そんな情報、誰にも教えた覚えは無い。無論この二人にもだ。安吾ならば調べれば判ることだったかも知れないが、そう云うことに職権を濫用する男ではないだろう。
部下を振り返る。
びくり、と怯えたように身を竦ませた部下を見て、少しだけ考え――太宰は先程取り落とした銃をそちらに向かって蹴り飛ばした。
「次は無いからね」
「ありがとうございます!!!」
そう咽び泣く部下の声はもう聞いていなかった。織田の名前の書いてある、柔らかくて大きな贈品に抱きつく。嬉しい、嬉しい。そうか、私は嬉しいんだ。自覚する。
「ありがと、二人とも」
偶には、誕生日も悪くないんだ。
◇ ◇ ◇
「――とまあ、今日は最高に気分が良くてね。だからそのまま寝たかったのに、また今夜も君と仕事だしさあ」くる、と銃を人差し指に引っ掛けて回す。今度は上手くいった。中也の銃なら、己の部下のものよりも幾分か使い慣れていたから。「勘弁して欲しいよね」
「心底如何でも良いな」
中也が言葉とともにふーっと煙を吐き出す。紫煙が揺れて、ほっそりと鋭い月の下へと伸びた。その月光を受け、かちん、と懐に仕舞われるジッポを目で追いながら、「て云うか昨日の昇降機のこと未だ許してないから!」と太宰は口を尖らせる。
「よく云うぜ、尻の軽い女の臭いぷんぷんさせやがって……。どうせ其処らの女捕まえて一晩部屋にしけ込んでたんだろうが」
「あれ、バレた?」
「バレねえとでも思ったか。つーか、おい、態とだろ」
俺に嫌な顔をさせる為に、態とその臭いを落として来やがらなかったくせに。そう判っていながら、それでも止められずに不快げに寄せられる中也の眉根に、ふふん、と少しだけ太宰の気分が上向く。中也の嫌そうな顔を見るのは好きだ。そう云う顔をするときは、大抵太宰に意識を向けているのが判るから。
別に嫌そうな顔に限らないけど。
任務開始には未だ時間が有る。
「そうだ、ねえ、君からは何か無いわけ」
「……んで俺が手前の誕生日なんざ祝わなきゃなんねえんだ」中也は的確にその意図を汲んで、苦虫を噛み潰したような顔をした。実際弾みでフィルターを噛んでしまったのか、紫煙が一瞬不自然に揺れた。ざまあみろだ。中也がチッと舌を打つ。「誕生日なんざ、人生で一番要らねえ情報を聞いた気分だ」苛々と紡ぎ出される相棒の言葉に、太宰はふむ、と一つ頷く。
「じゃ、今日の打ち上げは中也の奢りってことで」
「人の話聞いてんのか!? 奢るのも手前と飯食うのも御免に決まってンだろうが!」
「いいじゃんケチー!」
「何で俺が悪いみてえになってんだこの唐変木!」
「貧乏性!」
「あばずれ! あークソ!」
どす、と唐突に腹を殴られて一瞬「うっ」と息が詰まる。予備動作が無かったから、防御する暇も無かった。痛い、めちゃくちゃ痛い。そうしてよろりと蹌踉めいた手元に、何か硬質なものを押し付けられる。
「それやるからもう黙ってろよ……」
開いた太宰の手の中に在ったのは、随分と使い込まれたジッポだった。太宰は目を瞠る。銀が月光を反射して鈍く光って、太宰の掌に重さを伝えた。こう云う手間の掛かるのを、中也が使い込むのを好きなのを知っている。会話の弾みで簡単に、太宰に呉れてやれるものでもないことを。
だから太宰は。
「中也のおふるじゃん! やだ!」
駄々を捏ねた。案の定、中也が目を剥く。
「あ!? 煩えな、我慢しろよ! つーかずっとそれ欲しがってたのは手前だろうが!」
――奇妙な沈黙が二人の間に落ちた。中也のものは太宰の次の言葉を待つ沈黙、然し太宰のものは違う。じっと中也を見て、にっこりと――してやったりと笑った。自分の相棒がそう云う笑みを浮かべるときは、大抵碌なことを考えていないことを身を以て知っている中也は、本能的に身構えたように見えた。「何だよ……」「ふーん。へえ」その遣り取りで漸く、中也がぽろりと口から煙草を取り落とした。手前、カマかけやがったな。怒りに震える唇からその声が漏れ出すことは無く、言葉は夜気に紛れて消える。
そう、その云い方だと、まるで。
「……黙れよ」
「未だ何も云ってないよ」
足早にすたすたと何処かへ歩いて行く相棒の後を、太宰はぴょこんと随いて行く。
「欲しいって云ったの、覚えてて呉れてたんだ?」
「煩え」
「それで今日ずっと私に呉れてやろうと思ってたんだー!」
「黙れこの! 要らねえなら返せよ!」
振り返って掴み掛かってきた中也をひょいと避ける。今度の攻撃は、間合いもタイミングも読めた。気の緩んだ中也の攻撃など、中る訳が無いのだ。
「嬉しい」
そうしてジャブを打つように覚えたばかりの言葉を口にすると、中也は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。太宰の口からそんな言葉が聞けたのが、余程意外だったらしい。ゲテモノでも見るような目で太宰を見、次いで遠い目で帽子を抑えて天を仰いだ。失礼だな。槍なんて降ってくる訳無いでしょう。今宵の天気は月の冴え冴えと澄み渡る快晴だ。
そして中也のその胡散臭そうな表情は、「嬉しい。中也だと思って一生大事にするから」の一言で跡形も無く霧散する。
「なら直ぐ駄目にしちまうのがオチじゃねえか」
嫌そうに歪められた中也の口元に、今度は太宰が首を傾げる番だった。大事にするって云ってるのに、この男は何を云ってるんだろう。
そんな太宰を、中也は莫迦にしたように笑う。
「それを俺だと思ったら、手前はそれを大事大事に抱き抱えて、入水しちまうよ、きっと」
だから返せ、と伸ばされた中也の手首を、太宰は衝動に任せて思わずぐいと掴んでしまった。中也は抵抗しない。だからそのまま引き寄せて、その細い腰を掴んだ。互いに中る腹の熱。しっとりと、夜の湿気に染まった吐息が絡む。
「……そうだね、じゃあさ」
判っているだろう。次に私が何を云うか。太宰の口内で一瞬言葉が引っ掛かって詰まる。何だか口の中がからからに乾いていたから、一旦口を閉じて湿らせる。何処までが計算で、何処までが成り行きなのか、もう判断が付かなかった。ただぐずぐずと、互いの熱に引っ張られる。
云わせたのは太宰だが。
云わせるのは中也だ。
相棒の瞳は何も語らず、ただじっと太宰を見詰めている。
「じゃあ君が欲しいな」
覗き込んだ琥珀の目がぱちりと瞬いて、その表面に太宰の黒曜の目を映し出した。
「大事にするから」
中原中也はゆっくりと唇を開き――その答えを口にした。
ビルヂングの屋上から見下ろす街の灯りは、夜空のそれよりも大分明るい。横濱の空には星が少ないからだ。この街の人間は誰もが皆、指し示す星灯りの無いままに闇雲に進むことを強いられる。暗がりに足を取られることもしばしばで、そうして転がり落ちた底が非合法組織なんて掃き溜めであることもざらだ。まるで投身自殺の成れの果て。兎角この世は生き難い。
例えば気に入らない人間と仕事を組まされたりとかするし。
太宰は振り返らずに、背後から近付く明瞭な足音に鋭く声を刺した。
「遅い」
カツ、とその音が隣へと並び立つ。
「……煩えな。時間ぴったりだろうが」
低く唸るような声。どさ、と荷物を乱暴に置く音。ちらりと横に目を遣ると、予想と寸分違わない位置に趣味の良い帽子の天辺が見えた。表情は見えない。けれど今、この男がどんな顔をして自分と共に横濱の街を見下ろしているかは知っていた。
何せ自分達は相棒だから。
色素の薄い髪が、風に鮮やかに靡く。
「時間のことは云ってない。私を待たせたことを云ってるの」
「遅刻常習犯に云われたかねえよ。こんなときばっか先に来やがって」
そう云って、相棒――中原中也は太宰の方を見向きもせずに、手にしていたケエスの中身を広げ始めた。円筒状の部品が幾つか。それが鮮やかな手並みで、スナイパー・ライフルへと組み変わる。相変わらず手際が良い。ぱちぱちとおざなりな拍手をする序に、煙草の一本をずいと差し出す。
「ん」
中也に呉れてやるものでは勿論ない。太宰自身が吸う為のものだ。
中也もそれが判っているのか、太宰の言外の要求に、一瞬手を止めて半目で見遣る。
「……手前のは如何した」
「濡れて駄目になった」
「また入水かよ。そのまま死ねば良かったのに」
「じゃあ中也が一緒に心中してよ……。そしたらきっと死ねる気がする」
「手前と死ぬなんざ死んでも御免だ」
冗談じゃねえ、と不快げに寄せられる中也の眉根に、ふふん、と少しだけ太宰の気分が上向く。そう、冗談じゃない。この男となら死ねる気がするのは本当だ。それを口にしたら、中也はきっと嫌悪に口を曲がりそうなほどに歪めるのだろうけど。想像して太宰はひっそりと笑う。中也の嫌そうな顔を見るのは好きだった。そう云う顔をするときは、大抵太宰に意識を向けているのが判るから。
そのままじっと手を差し出していると、太宰が引く様子が無いのを見て取ったのか、一つ大きな溜め息。懐から取り出されたのは、良く手入れのされたジッポだ。美しい銀の装飾が、中也の手の中で光る。
カチン、と小気味のいい音と共に火の灯された煙草の先ではなく、顔を寄せた先、相棒の手の内のその銀色に、太宰は思わず目を奪われる。相変わらず、何度見ても綺麗だ。それがジッポ自体の魅力なのか、中也の手の中にあるからこその輝きなのかは判らないけど。それが知りたくて以前に「欲しい」と云ったことは有ったが軽く一瞥を呉れただけで黙殺された。多分、中也の方はもう覚えていないんだろう。ふーっと長く煙を吐き出す。
何時の間にか、屋上特有の強風は収まっていた。不自然なほどに無風だ。恐らくは、中也の異能の影響。太宰が頼んだ訳ではなかったから、気にも留めずに口を開く。
「何時もは五分前行動の君が時間ぴったりなんて珍しいでしょ。一体何に手間取ってた訳?」
「ちょっと下でごたごたあったんだよ」
「……ふぅん?」
ちら、と太宰は隣の相棒を見遣る。中也は時折照準器を覗き込みながら、ライフルを固定している処だった。嘘を吐いているようには見えない。けれど何かを隠しごとをしているようには見える、かな、と太宰は思った。理屈なんて無い。相棒の直感だ。
却説何だろうなあと、その靭やかな手が人を撃つ為の準備をしているのを、ぼんやりと紫煙の向こうに眺める。ふと、中也が顔を上げてぽんと双眼鏡を太宰の方へ放って寄越した。「手前も仕事しろよ」そうだ、仕事。中也が狙撃手で、太宰が観測手。今晩の役割はそうだった。
「……ったく、何で選りにも選って手前となんだ」その愚痴は半ば独り言地味ていた。中也が鞄の抜け殻を腹に敷いて伏せる。「こんな専門外の仕事をよお」
「仕方無いでしょ。マフィアの仕業だってバレないようにって指定なんだから」太宰は一旦出口を視認し、退路を確認してから双眼鏡を覗き込む。感度は上々。晴れで良かった。数粁先まで良く見える。「でなきゃ君が標的ごとあのホテルを潰せば済む話だ」
「そんなら手前一人でも善いだろ。暗殺は手前の領分だ」
「人を殺し屋みたいに云わないでよ。それに私が殺すにしたって色々準備が要るし。一発撃ってさっさと終わりにした方が楽じゃない」
「莫迦云え、どっちにしろ仕込みはしてるくせに」
太宰はそれには答えず、曖昧な笑みを浮かべた。中也も特には言及しない。「時間だ」視線の先のホテルの一室を指し示す。部屋に灯りが付いた。主が帰ってきたのだ。中也もそれを見て取って、黙って照準器を覗き込む。
中也の狙撃の腕は悪くない、と云う程度。御世辞にも狙撃手と呼べる熟練度ではない。当然だ、この男の専門は近接戦闘なんだから。それでも時折こうした任務が人員の不足から下りてくるのは、中也がその腕の不足を補って余り有る異能を持っているからだ。重力操作。彼が触れた弾は空気の抵抗をものともせず、常とは異なる重さを持って標的の命を撃ち貫く。
そう、今だって風が無くて。
ぴん、と空気が弓の如く研ぎ澄まされるのを感じる。
一瞬の静寂。
「……今だ」
太宰の合図に合わせて、引き金が絞られる。数秒後、絶妙なタイミングで窓から覗いた標的の頭部にぱっと赤がしぶくのが見えた。命中だ。念の為数秒様子を見るが、動く気配は無い。着弾点は額。あの感じだと即死だろう。呆気無い。
「中った。撤収だ」
その言葉に、相棒がふーっと詰めた息を吐いて身を起こす気配を感じた。なんだ、らしくもなく緊張していたのか。双眼鏡を外して見遣れば中也は何時も通りの表情で、そんな様子はおくびにも出していなかったが、体は幾分か強張っているようだった。首筋が汗で湿っている。そんなに気張らずとも、君ならこの程度、楽勝だったでしょう。ふと思い浮かんだ言葉は、頭の中に留める。
却説、終わってみれば何のことは無かった。何時もの任務よりも楽だ、マァ、少しだけ面倒だったから標的が決まった時間に決まった場所に顔を出すように事前の細工は必要だったけれど。でなければ幾ら太宰でも、相棒が狙撃手をやるからと云う理由だけで観測手なんて専門外の仕事は引き受けない。じっと待つのは性分じゃないのだ。
荷物を纏め、煙草を始末し、出口へと向かう。
その途中。
「中也?」
何時までも背中を追ってこない相棒を、訝しんで振り返る。相棒はライフルを片付け荷物を纏めてはいたものの、出口には向かわずじっと屋上の縁に立って下を見下ろしていた。街明かりに浮かび上がるその精悍な顔には、なんだか不思議な表情が滲んでいて、太宰は少しの間見惚れる。
……いやいや。別に見惚れてなんかないし。
「中也」
呼ぶと、何故か常の彼には似つかわしくない、花の綻ぶような笑みを零して中也はぱ、と顔を上げた。風は彼の動きを阻害しない。ばさ、と軽やかに外套の裾が舞う。
そうして一言。
「俺はこっちからずらかる」
「え? ……あ、ずるい!」
一瞬遅れてその意味を理解する。重力遣いの特権だ。昇降機を使わず直接地上に降りようと云うのだ。異能無効化で掴んでやろうと太宰は慌てて駆け寄るけれど、何分距離が遠くて間に合わない。横濱の街を背にした中也が、唇に鮮やかな弧を描く。
「何とでも云いやがれ。じゃあな」
そうしてそのまま、まるで自殺するみたいに足を滑らせて、中也はふら、と下へ落ちてしまった。「ねえ、置いていかないでよ!」太宰の手が宙を掻く。見下ろすと、中也の帽子がまさに街灯の海に消えていく処だった。太宰をひとり、屋上に残して。
まったく、何時も勝手なんだから。太宰は一つ溜め息を吐く。今度は首輪でも付けておいてやろうか。細やかな嫌がらせだ。そんなことを考えながら、屋上を後にして階下に下りる。一階下にはホテルの宿泊部屋が並んでいて、太宰の足音は廊下に敷かれた上品な絨毯に吸い込まれて消えていく。それから更に一階に下りるのに、昇降機を利用しようとして――深夜にも関わらず、その前に人集りが出来ていることに気付く。
嫌な予感がした。
顔を覚えられないように、遮光眼鏡を掛ける。外套を脱ぎ、外見の特徴を消しながら、一般人を装って手近な女性を観察する。なるべく若くて、独身で、恋人と別れた直後みたいなのが良い。薬指に指輪の痕を付けた女性を見定めて、人好きのいい笑みを浮かべて声を掛ける。
「如何かしたんですか?」
女は一瞬、昇降機に向けていた意識を全て太宰に奪われたようだった。はくはくと呼吸を忘れたような口の動きに、彼女の動揺が見て取れる。当たりだ。太宰は内心で指を鳴らした。これでも見目の佳い自信は有る。無条件の好意は、勝ち取っておくに越したことはない。
女性は僅かに赤面して、「いえ、あの」と口籠るように続けた。
「下の階で昇降機の操作盤が誰かにめちゃくちゃに壊されたらしくって」
「は」
そう、何か、大きな動物に踏み潰されたような壊され方だったらしいんですよ。その言葉に、太宰は一瞬眩暈を覚える。昇降機は高層ビルヂングの生命線だ、停電や通常人の手で壊されたものなら直ぐに復旧出来るようになっている筈だ。だから、多分、故障とかそんな言葉では生温いほどに、粉々に破壊されているに違いない。太宰の目にはその光景がありありと思い浮かんだ。
太宰が来たときは異常なんて無かったのに。
思い付く原因なんて、一つしか無い。
「復旧には一晩くらい掛かるらしいんです」
まあ、朝までに直ればいいんですけど。その言葉に太宰はちら、と階数表示を見る。此処は四十九階。朝まで昇降機が動かないとなれば、当然下に降りる手段は階段しか無い。
――ちょっと下でごたごたあったんだよ。
そうして漸く、あの笑顔の意味を理解する。
太宰は目頭を抑えて瞑目し――それから精一杯、大きく息を吸い込んだ。
「ば……ばか中也ぁー!!!」
◇ ◇ ◇
「はー最悪……ほんと最悪」
ふら、と太宰は足を蹌踉めかせてマフィア本部の正面玄関をくぐった。
結局あの後、朝になっても昇降機が復旧しなかったから、仕方なく階段を一階ずつ下りたのだ。太宰の足はもう棒になったも同然だった。ふらふらの歩みのまま、中也のやつ、後で絶対仕返ししてやる……などと強く決意しながら自分の執務室の扉を開ける。
そんな状態だったから。
扉を開けた瞬間――パンッ! と突如響いた発砲音にも反応が遅れた。銃声? しまった。殺気は無かった筈だけど。舌打ちをして腕を前に掲げ、扉に身を隠そうとして――衝撃の無いことに気付く。
「太宰さんっ、お誕生日おめでとうございます……!」
「……は?」
腕の防御を解いた太宰を出迎えたのは、喜色満面と云った風な部下達の一斉の敬礼だった。
足元を見る。絨毯に散らばるのはぎらぎら煩く光るクラッカーの残骸だ。その上赤い花弁の目一杯が、絨毯の上に処狭しと溢れている。見れば室内を囲むように、壁沿いにぐるりと大量の薔薇の花束が鎮座していて、此処は何時から薔薇園になったんだと太宰は口角をヒクリと震わせた。
取り敢えず、その束の一つを踏み潰して部屋に入る。
「邪魔」
「あ゛ーっ! そんな殺生な……」
「何。なんか文句有るの」
「いえ……」
褒めて呉れと云わんばかりに尻尾を振っていた部下達の毛が、途端にしゅんと萎えるのを太宰は見た。けれど同情などしてはやらない。する必要も無いだろう、何の冗談だこれは。
ぐしゃぐしゃぐしゃと薔薇の花弁を踏んづけて部屋の中央に進み、腕を組んで部下の前に立つ。
自然、仁王立ちになるし、声は地を這うように低くなる。
「ねえ一体何の騒ぎなの? 下らない理由だったら張り飛ばすよ」
「はっ……! 太宰さんが本日お誕生日と聞きまして、マフィア中にそのことを触れ回り、お祝いの準備をしていた次第であります!」
「――マフィア中に」
「はい!」
見れば確かに、薔薇の花束に混じって贈品の箱らしき山が幾つか築かれている。包装の大きさは様々だ。大きい物から小さい物まで。粗末な物から高価そうな物まで。否、どちらかと云えば値段に気合いの入っていそうな物の方が多い。内訳は情愛六割、怨念四割と云った処だろう。その一つを汚れ物のように摘み、太宰はうええと顔を顰めた。
贈り主の名前が判らない贈品なんて開ける訳が無いでしょう。
と云うか、何私の個人情報勝手にばらまいているんだ。
誕生日なんて教えた覚え無いし。
「いえっ、我々の中でも内々でお祝いした方が良いのではないかとの意見も有ったのですが! 太宰さんのお誕生日をなるべく盛大にお祝いしたく!」
「ねえ君、銃貸して」
贈品をぞんざいに放り出し、ぺらぺらと喋り続ける部下その1に目も呉れずに、太宰は一番端の四人目の部下に手を伸べた。何の疑問も無くしずしずと差し出された銃を手に取り、弾倉を確認して、太宰は淡々と安全装置を解除する。
「我々としても断腸の思いで――!」
パン!
今度こそ部屋に発砲音が響いた。天井に穴が空き、部下がぴたりと口を閉じる。「いい子だ」太宰はにこりと笑って銃口でくいと床を指し示した。
「全員其処に並びなよ。一人ずつ殺してやるから」
「そ、そんな殺生な……」
「黙って並べ」
聖母のように微笑む太宰の、然しその目は全く笑っていない。興奮の為に朱に染まっていた部下の顔が、一瞬にして真っ青になる。自分達は一番やってはいけないことをした――太宰の機嫌を損ねたのだ。そのことに気付き、そして弁解の機会など皆無であることにも気付いてしまう。包帯の下の太宰の目は、宛ら硬質な金属のように冷えていた。こうなっては、この人はもう何に絆されることも無いだろう。嗚呼、太宰さんのお誕生日が自分の命日になるとは。然しこれも部下の運命として受け入れるべきなのかも知れない。どうか自分が見届けることの出来ない、今後の太宰さんの人生に幸多からんことを――部下がさめざめと瞑目し、辞世の句を詠もうと目を瞑った処に――こんこん、と叩敲の音が重なった。
「誰? 何」
太宰が銃口を動かさないまま、刺すように誰何する。
「太宰。俺だ。安吾も居る。今少しだけ善いか」
「……取り込み中だから手短にお願いしたいんだけど」
数秒の逡巡の後、ゆっくりと扉が開けられる。来訪者の目に入ったのは、無表情に銃を構える太宰と泣きそうな部下と云う取り合わせだ。その光景にこれから起こるであろう惨劇を垣間見て、入ってきた男は絶句したように暫し沈黙した。
「……その、云い難いんだが」
次に、来訪者――織田作之助は、その言葉の通り心底云い辛そうに、太宰と部下を指差した。
「撃つ前に、出来れば新聞紙なんかを敷いて呉れると嬉しい」
お前の処の絨毯は高価だから、洗うのはきっと俺に回ってくる。そう続ける織田の背後から、続けてひょこ、と眼鏡の男が顔を覗かせる。
「そうですね、織田作さんは最近、クリーニングの腕を上げましたものね」
その道のプロです、そろそろクリーニング屋が開けますよと坂口安吾が頷いた。深刻そうな織田とは対照的に、安吾の方は明らかに巫山戯ている。だって口元が笑いを隠し切れずに震えているのだ。
「クリーニング屋か。マフィアを辞めたらそれも善いかも知れないな……」
「何なら今からでも善いんじゃないですか? この組織は悪餓鬼が多いですから、皆さん外へ出ればそれはもう元気に服を血糊で汚して帰ってきていますよ。一階に店を構えれば商売繁盛間違い無しです」
「織田クリーニング」
「やりましょう」
重々しく頷く二人に、太宰は堪え切れずに「ねえ人の部屋で起業の算段立てないで」と笑いながら口を挟む。「ちょっともう、安吾、うちの貴重な人材をクリーニング屋に引き抜くのは止めてよ……」まったくこの友人達ときたら、部下に構うのも莫迦莫迦しくなってしまうじゃないか。こんな緩んだ空気の中じゃあ、仕置きも満足に出来やしない。
「あー負けた負けた。で、何の用だい、態々私の部屋まで」
持っていた銃の引き金に人差し指を引っ掛けてくるりと回す。が、上手くいかなくて取り落としてしまった。ありゃ、と太宰は肩を竦める。
そうして手持ち無沙汰になった太宰の手に、ぽん、と無造作にカラフルな包みが乗せられた。軽い。し、柔らかい。中身は多分、手触りからして布製の何かだ。でも急に何なの。ぽかん、と口を開けた太宰の目の前に、今度は違う色の大きな包みがずいと置かれる。子供の背丈ほども有って、此方も何か柔らかい中身。包装紙に皺が寄っているから。そしてよく見ればそれぞれに、友人達のサインが書かれている。
大きな包みには、織田と力強い字が在って。
太宰の手に在る方には、坂口と几帳面そうな字が在る。
疑念の目を向ける太宰に、友人二人からの口から零れたのは祝福の言葉だった。
「おめでとう、太宰」
「おめでとうございます、太宰君」
一瞬、友人たちの云っている言葉の飲み込みが遅れた。
おめでとう?
太宰は二人を見、それから自分の手元を見、それを指差して辿々しく尋ねた。
「……これ、なに?」
「これか? これは誕生日プレゼントだ」
誕生日プレゼント。
「私に?」
「お前に」
「……」
織田作と。安吾が。私に。誕生日プレゼント。
一つずつ事象を噛み砕く。
……詰まり?
「太宰君、嬉しいときは素直に喜んだらいいんですよ」
嬉しい? 安吾を見る。それからもう一度、織田を。
二人の視線が、何故か少し擽ったい。
何か、今までに感じたことの無い感情が胸の奥から喉の処まで迫り上がってきていた。不快なものではない。寧ろ全身の力の抜けるような、ふんわりとした感覚だ。頬が緩む。
けど、と太宰はその夢みたいな心地の中で少しだけ首を傾げる。けど、如何して二人とも私の誕生日なんて知っているのだろうか。そんな情報、誰にも教えた覚えは無い。無論この二人にもだ。安吾ならば調べれば判ることだったかも知れないが、そう云うことに職権を濫用する男ではないだろう。
部下を振り返る。
びくり、と怯えたように身を竦ませた部下を見て、少しだけ考え――太宰は先程取り落とした銃をそちらに向かって蹴り飛ばした。
「次は無いからね」
「ありがとうございます!!!」
そう咽び泣く部下の声はもう聞いていなかった。織田の名前の書いてある、柔らかくて大きな贈品に抱きつく。嬉しい、嬉しい。そうか、私は嬉しいんだ。自覚する。
「ありがと、二人とも」
偶には、誕生日も悪くないんだ。
◇ ◇ ◇
「――とまあ、今日は最高に気分が良くてね。だからそのまま寝たかったのに、また今夜も君と仕事だしさあ」くる、と銃を人差し指に引っ掛けて回す。今度は上手くいった。中也の銃なら、己の部下のものよりも幾分か使い慣れていたから。「勘弁して欲しいよね」
「心底如何でも良いな」
中也が言葉とともにふーっと煙を吐き出す。紫煙が揺れて、ほっそりと鋭い月の下へと伸びた。その月光を受け、かちん、と懐に仕舞われるジッポを目で追いながら、「て云うか昨日の昇降機のこと未だ許してないから!」と太宰は口を尖らせる。
「よく云うぜ、尻の軽い女の臭いぷんぷんさせやがって……。どうせ其処らの女捕まえて一晩部屋にしけ込んでたんだろうが」
「あれ、バレた?」
「バレねえとでも思ったか。つーか、おい、態とだろ」
俺に嫌な顔をさせる為に、態とその臭いを落として来やがらなかったくせに。そう判っていながら、それでも止められずに不快げに寄せられる中也の眉根に、ふふん、と少しだけ太宰の気分が上向く。中也の嫌そうな顔を見るのは好きだ。そう云う顔をするときは、大抵太宰に意識を向けているのが判るから。
別に嫌そうな顔に限らないけど。
任務開始には未だ時間が有る。
「そうだ、ねえ、君からは何か無いわけ」
「……んで俺が手前の誕生日なんざ祝わなきゃなんねえんだ」中也は的確にその意図を汲んで、苦虫を噛み潰したような顔をした。実際弾みでフィルターを噛んでしまったのか、紫煙が一瞬不自然に揺れた。ざまあみろだ。中也がチッと舌を打つ。「誕生日なんざ、人生で一番要らねえ情報を聞いた気分だ」苛々と紡ぎ出される相棒の言葉に、太宰はふむ、と一つ頷く。
「じゃ、今日の打ち上げは中也の奢りってことで」
「人の話聞いてんのか!? 奢るのも手前と飯食うのも御免に決まってンだろうが!」
「いいじゃんケチー!」
「何で俺が悪いみてえになってんだこの唐変木!」
「貧乏性!」
「あばずれ! あークソ!」
どす、と唐突に腹を殴られて一瞬「うっ」と息が詰まる。予備動作が無かったから、防御する暇も無かった。痛い、めちゃくちゃ痛い。そうしてよろりと蹌踉めいた手元に、何か硬質なものを押し付けられる。
「それやるからもう黙ってろよ……」
開いた太宰の手の中に在ったのは、随分と使い込まれたジッポだった。太宰は目を瞠る。銀が月光を反射して鈍く光って、太宰の掌に重さを伝えた。こう云う手間の掛かるのを、中也が使い込むのを好きなのを知っている。会話の弾みで簡単に、太宰に呉れてやれるものでもないことを。
だから太宰は。
「中也のおふるじゃん! やだ!」
駄々を捏ねた。案の定、中也が目を剥く。
「あ!? 煩えな、我慢しろよ! つーかずっとそれ欲しがってたのは手前だろうが!」
――奇妙な沈黙が二人の間に落ちた。中也のものは太宰の次の言葉を待つ沈黙、然し太宰のものは違う。じっと中也を見て、にっこりと――してやったりと笑った。自分の相棒がそう云う笑みを浮かべるときは、大抵碌なことを考えていないことを身を以て知っている中也は、本能的に身構えたように見えた。「何だよ……」「ふーん。へえ」その遣り取りで漸く、中也がぽろりと口から煙草を取り落とした。手前、カマかけやがったな。怒りに震える唇からその声が漏れ出すことは無く、言葉は夜気に紛れて消える。
そう、その云い方だと、まるで。
「……黙れよ」
「未だ何も云ってないよ」
足早にすたすたと何処かへ歩いて行く相棒の後を、太宰はぴょこんと随いて行く。
「欲しいって云ったの、覚えてて呉れてたんだ?」
「煩え」
「それで今日ずっと私に呉れてやろうと思ってたんだー!」
「黙れこの! 要らねえなら返せよ!」
振り返って掴み掛かってきた中也をひょいと避ける。今度の攻撃は、間合いもタイミングも読めた。気の緩んだ中也の攻撃など、中る訳が無いのだ。
「嬉しい」
そうしてジャブを打つように覚えたばかりの言葉を口にすると、中也は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。太宰の口からそんな言葉が聞けたのが、余程意外だったらしい。ゲテモノでも見るような目で太宰を見、次いで遠い目で帽子を抑えて天を仰いだ。失礼だな。槍なんて降ってくる訳無いでしょう。今宵の天気は月の冴え冴えと澄み渡る快晴だ。
そして中也のその胡散臭そうな表情は、「嬉しい。中也だと思って一生大事にするから」の一言で跡形も無く霧散する。
「なら直ぐ駄目にしちまうのがオチじゃねえか」
嫌そうに歪められた中也の口元に、今度は太宰が首を傾げる番だった。大事にするって云ってるのに、この男は何を云ってるんだろう。
そんな太宰を、中也は莫迦にしたように笑う。
「それを俺だと思ったら、手前はそれを大事大事に抱き抱えて、入水しちまうよ、きっと」
だから返せ、と伸ばされた中也の手首を、太宰は衝動に任せて思わずぐいと掴んでしまった。中也は抵抗しない。だからそのまま引き寄せて、その細い腰を掴んだ。互いに中る腹の熱。しっとりと、夜の湿気に染まった吐息が絡む。
「……そうだね、じゃあさ」
判っているだろう。次に私が何を云うか。太宰の口内で一瞬言葉が引っ掛かって詰まる。何だか口の中がからからに乾いていたから、一旦口を閉じて湿らせる。何処までが計算で、何処までが成り行きなのか、もう判断が付かなかった。ただぐずぐずと、互いの熱に引っ張られる。
云わせたのは太宰だが。
云わせるのは中也だ。
相棒の瞳は何も語らず、ただじっと太宰を見詰めている。
「じゃあ君が欲しいな」
覗き込んだ琥珀の目がぱちりと瞬いて、その表面に太宰の黒曜の目を映し出した。
「大事にするから」
中原中也はゆっくりと唇を開き――その答えを口にした。
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