逃亡戦線崩壊中
(2015/03/21)
「殺す」
ばりん、と医務室中の窓硝子が外側に弾け飛んだ。みしりと柱が嫌な音を立て、効果範囲に居た人間は突然掛かった重力に倒れ伏して骨の折れる音に悲鳴を上げる。そう、それは彼の――中原中也の能力だった。無差別に向けられた加重の異能、その地獄絵図の中を、太宰はひらりと外へと飛び出す。足元で割れる硝子の破片。ばきばきと床が割れ大災害でも起きたかのようだったが、太宰にはてんで関係が無かった。太宰の前には、その兇悪な異能さえ意味が無い。
それよりも厄介なのは、追ってくる中也本人の方だ。太宰は廊下を駆け抜ける。残念ながらそれはひらりひらり、舞うようにとは行かなかった。ぼたぼたと落ちる水滴。びしゃびしゃと床を濡らす外套。太宰の纏う川の水は、太宰から容赦無く体力と体温を奪っていた。ただでさえ心中未遂の帰りだって云うのに、勘弁して欲しいなあ。太宰は駆けながら、自分の頬が自然と緩むのを感じる。太宰にとっては心中未遂だったが、一緒に居た女にとってはそれはただの自殺になってしまった。可哀想に。未だ若くて、綺麗なお嬢さんだったのに。
水の中で掻き抱いた柔らかい体を懸想しながら駆ける自分の後を、中也が追って来るのが判る。何時もの怒鳴り声は伴っていない。その代わりにばきばきと建物の破壊音が迫って来る。その音を聞くだけでまた笑ってしまう。如何考えても中也が怒りの余り我を忘れているのは歴然で、このままではマフィア本部のビルヂング全部が倒壊してしまうだろう。それはそれで愉快だった。首領の狗なのに善いのかな。この後責任取って自害でもする心算なのかな。
「そう怒んないでよ」
ふふ、と背後を振り返って笑うと混凝土塊を投擲された。間一髪で避ける。危ない。
「……簡単に逃す訳ねェだろうが!」
ばき、と目の前の出口までの道に罅が行く。中也の異能は太宰自身には効かないが、太宰の退路を断つには非常に有用なのだ。ああ、拙い拙い、捕まってしまう、と笑っていると、ちらと目の端に見知った顔を捉えた。織田だ。珍しい。首を傾げるが、直ぐに彼が首領から下されたであろう命令を理解し太宰は一人得心して頷く。
「ありがと、織田作」
「……勘違いするな。別にお前の為じゃない」
「ヤァ、それは今どき流行りのセリフだね」
無論、この友人がツンデレなんてものを解している筈も無い。その返答は、中也の暴走を止めろという首領の命令を受けてのことだからだろう。案の定渋面を作ったまま首を傾げた織田作に、太宰は何でも無いよと無邪気に笑ってその横をすり抜けた。
背後から問答の声がする。
「止まれ、中原」
「退け、織田」
中也の声は、何時にも況して冷え切っていた。彼が自分以外にその声を向けているのを、太宰は今の今まで聞いたことが無かった、と思い返す。声だけで人が殺せそうだ。殺して貰ったことは無いけど。
「邪魔をするなら例えお前でも殺すぞ織田。ミンチになりたかねェだろ」
「首領の命令だ。止まれ、中原」
その一言は、中也にとっては銀の託宣に等しい。
何時もの中也にとってはその筈だった。
「織田。もう一度云う。退け」
殺気立った声に、太宰の気分が高揚する。織田作では中也を止められないだろう。中也を殺しても善いのであれば、織田作にも止める手段くらい幾らでも有る。然し首領がそれを許すとは思えなかったし、織田作も自分にそれを許さない筈だった。首領はどうせそれを見越して、織田作を寄越したのだ。友人をみすみす殺したくなければ、相棒の暴走は太宰が止めろと。
どの道中也相手に太宰が逃げ切れる筈も無い。本部のビルヂングを出て、駆け込んだ人気の無い路地裏で、遂に背中に蹴りを入れられて、太宰は盛大に頭を打ち付けた。
暫くは、お互い無言だった。然し無音だった訳ではない。どかっ、ばき、と乾いた音が路地裏内に響き渡る。一方的に中也が太宰を殴り付ける、それは私刑の音だった。
「如何したの、中也……」
壁に追い詰められ、それでも太宰が笑っていると、太宰より幾分か小振りな手に、的確に気道を抑えられ頸をぎりぎりと絞め上げられた。然し太宰の意識は落ちない。直ぐに意識を落とすのではなく、極限まで苦しめるのが目的のような絞め方。口をはくはくと喘ぎながら、太宰は朦朧とする意識で笑う。何処でそんなの覚えてきたの。声をはっきり出すことができれば、そう喜んでいた処だ。
あ、しぬ、と意識の途切れる寸前で唐突に手が離される。逆流する急な酸素に噎せ返る。如何やら今日はとことんまで甚振りたいらしい。ぜえはあと喘ぐ太宰の腹に、膝が入ってばきりと折れた音がした。
「め、ずしく……マジギレじゃない……。ふふ、別に私のすっぽかした任務は、君とやるやつじゃなかった筈だけど……?」
「惚けんな」
二人薄汚い路地裏にしゃがみ込む。中也の目はその声と同じく温度を含んでいなくて、鋭く尖った氷のように太宰の体を刺し貫いた。そう、それそれ。そうやって殺して欲しいんだよね。凝然と中也を見つめると、伝わったのか胸ぐらを掴んで引き倒される。
「手前は知ってたんだろ」
そのままばき、と頬を殴られる。一発、二発。
「知っててやりやがった」
痛くて痛くて堪らない。口の端が切れて、左の頬がひどく腫れて、左目で中也の顔をはっきり見るのが難しくなっていく。
「……仮に知っててやったんだとして、それで如何するの?」
ぴた、と中也の手が止まる。ああ、可笑しい。私の言葉になんて耳を傾けずに、さっさとその懐のナイフで喉を切り裂いてしまえば善いのに。
「あの女が中也の気に入りだって、知ってて心中話を持ち掛けた、憎い私を殺すのかい?」
ひゅ、と中也の息を飲む音。戯けたように事実を突き付けられ、金の目が怒りの温度に染まる。
それでも中也はナイフを出さない。
「殺す? 殺せる? 殺せないよね? 私の死はマフィアの損失だし、何より私が喜んでしまうもの」
「……五月蝿え」
もう一発、きついのを食らった。ばき、と派手な音が鳴ったから奥の歯が折れてしまったのかも知れない。それに鉄の味が不味い。そう思ってぺっと血を吐き出すと、案の定泡立ったその中に白い塊が見えた。
それきり中也は動かない。ただ金の瞳に、如何しようも無い遣る瀬の無い光を湛えていた。
太宰はその光を捕まえようと、頬にそっと手を伸ばす。
「ねえ、泣いてるの、中也」
「泣いてねえ」
触れた中也の頬は、驚くほど冷たかった。する、と大した抵抗も無く太宰の指が滑る。
「泣いてるの」
「泣いてねえっつってんだろ!」
胸ぐらを持ち上げられ、次の瞬間がんと地面に打ち付けられた。一瞬視界が暗転する。ぐらぐらと目眩がした。痛い。
暗闇の中で、中也の張り裂けるような声を聞く。
「……もういい。手前の嫌がらせには反吐が出る」
馬乗りになっていた中也の重みがふっと無くなる。なんだ、残念。このまま嬲られて痛い思いをしなくてよかったと思ったのが半分、少し離れがたいなと思ったのが半分。闇雲に手を伸ばすけれど、中也どころか服の裾にも掠りもしない。
ふふっと笑う。
「ねえ中也。あの女、私と寝たんだよ。それだけさ。……それだけ」
「もう、いい」
押し殺した声が耳に届く。ねえ、私を殺せない君は一体どんな顔をしているんだろう。薄目を開けてその目に捉えた立ち去る中也の背中は、何時ものようにすっと伸ばされていた。その後ろ姿は体格に反して大きくて、前に向けられる鋭い視線は驚くほど真っ直ぐだ。
けれどきっと気付いている。あの女が死んだのは太宰が心中未遂なんて方法で殺したからで。そして太宰が殺そうとしたのは、自分があの女に近過ぎたことが原因であること。ああ、莫迦な中也。いっそ太宰を縊ってしまえば楽になれるかも知れないのに、あの女と太宰を天秤にかけて、そんな簡単なことが出来ないでいる。裡に生じた矛盾に耐えるその姿は、あまりにも真っ直ぐに、太宰には見えた。
込み上げる笑いを堪えて、太宰は最後に一声掛けた。
「中也。今晩、鍵、開けておこうか」
中也は振り返らなかった。
狭い路地の天辺で、ビルヂングの縁と縁が水色の空を切り取っている。その隙間を雲が右から左に流れゆく様を何と無しにぼんやり眺めていると、視界の端からにゅっと手が伸びてきた。太宰を助け起こそうとする手。視線だけでそちらを見ると居たのは見知った顔だった。織田作だ。
「やだな、見てたの」
「今度こそ、お前が殺されるんじゃないかと冷や冷やした」
「視えたら止めようと思って?」
「ああ」
素直に手を借りて助け起こされる。体の節々が痛くてまともに立っていられない。ふらふらしていると、織田作が肩を貸して呉れる。ありがとうと告げると、今度はどういたしましてと返って来た。
「お前は中原のことが嫌いなんだろう」躊躇いがちに、切り出される。「なのに如何して構うんだ。こんなの、お前の為にも、中原の為にもならない」
「珍しいね、織田作が私のことに口出すの」
そう揶揄するように云うと、「済まない」と謝罪が返って来た。如何考えても悪いのは太宰なのに。態々助けに来て呉れた友人に、嫌味のように撥ね付ける言葉を選んだ太宰の不躾な態度にも、織田が気を悪くした様子は無い。ただ少し、友人は踏み込み過ぎることを悪く思っている仕草を見せた。
「……傲慢だが。お前が傷付くのを見ていられない」
「そして中也が傷付くのを?」
今度は本当に、斬り付けるように問うた。織田作は肩を竦めて「お前が中原を傷付けるのを、だ」と少し申し訳無さそうに答えた。それでも太宰を放り出さずに我慢強く体を支えて呉れる友人に、御免御免と笑う。如何にもこの感情は、コントロォルの加減が難しい。
「厭だな」
自分でも、驚くほど冷えた声が出た。隣の友人が、至極微かに息を飲む。
「中也は私の相棒なんだよ」
思わず笑みが零れ出た。あの相棒を、誰に渡す心算も無かった。誰かに渡すくらいなら、自分の手で縊ってしまった方が余程マシだし。その為に、手段を選ぶ心算も無かった。
「そう簡単に、逃してあげる訳無いじゃない」
呟くように太宰が漏らした欲望を煮詰めた一言に、聡い友人は何も云わない。ただ何処か遠くを見て、「……そうか」とだけ呟いた。
「殺す」
ばりん、と医務室中の窓硝子が外側に弾け飛んだ。みしりと柱が嫌な音を立て、効果範囲に居た人間は突然掛かった重力に倒れ伏して骨の折れる音に悲鳴を上げる。そう、それは彼の――中原中也の能力だった。無差別に向けられた加重の異能、その地獄絵図の中を、太宰はひらりと外へと飛び出す。足元で割れる硝子の破片。ばきばきと床が割れ大災害でも起きたかのようだったが、太宰にはてんで関係が無かった。太宰の前には、その兇悪な異能さえ意味が無い。
それよりも厄介なのは、追ってくる中也本人の方だ。太宰は廊下を駆け抜ける。残念ながらそれはひらりひらり、舞うようにとは行かなかった。ぼたぼたと落ちる水滴。びしゃびしゃと床を濡らす外套。太宰の纏う川の水は、太宰から容赦無く体力と体温を奪っていた。ただでさえ心中未遂の帰りだって云うのに、勘弁して欲しいなあ。太宰は駆けながら、自分の頬が自然と緩むのを感じる。太宰にとっては心中未遂だったが、一緒に居た女にとってはそれはただの自殺になってしまった。可哀想に。未だ若くて、綺麗なお嬢さんだったのに。
水の中で掻き抱いた柔らかい体を懸想しながら駆ける自分の後を、中也が追って来るのが判る。何時もの怒鳴り声は伴っていない。その代わりにばきばきと建物の破壊音が迫って来る。その音を聞くだけでまた笑ってしまう。如何考えても中也が怒りの余り我を忘れているのは歴然で、このままではマフィア本部のビルヂング全部が倒壊してしまうだろう。それはそれで愉快だった。首領の狗なのに善いのかな。この後責任取って自害でもする心算なのかな。
「そう怒んないでよ」
ふふ、と背後を振り返って笑うと混凝土塊を投擲された。間一髪で避ける。危ない。
「……簡単に逃す訳ねェだろうが!」
ばき、と目の前の出口までの道に罅が行く。中也の異能は太宰自身には効かないが、太宰の退路を断つには非常に有用なのだ。ああ、拙い拙い、捕まってしまう、と笑っていると、ちらと目の端に見知った顔を捉えた。織田だ。珍しい。首を傾げるが、直ぐに彼が首領から下されたであろう命令を理解し太宰は一人得心して頷く。
「ありがと、織田作」
「……勘違いするな。別にお前の為じゃない」
「ヤァ、それは今どき流行りのセリフだね」
無論、この友人がツンデレなんてものを解している筈も無い。その返答は、中也の暴走を止めろという首領の命令を受けてのことだからだろう。案の定渋面を作ったまま首を傾げた織田作に、太宰は何でも無いよと無邪気に笑ってその横をすり抜けた。
背後から問答の声がする。
「止まれ、中原」
「退け、織田」
中也の声は、何時にも況して冷え切っていた。彼が自分以外にその声を向けているのを、太宰は今の今まで聞いたことが無かった、と思い返す。声だけで人が殺せそうだ。殺して貰ったことは無いけど。
「邪魔をするなら例えお前でも殺すぞ織田。ミンチになりたかねェだろ」
「首領の命令だ。止まれ、中原」
その一言は、中也にとっては銀の託宣に等しい。
何時もの中也にとってはその筈だった。
「織田。もう一度云う。退け」
殺気立った声に、太宰の気分が高揚する。織田作では中也を止められないだろう。中也を殺しても善いのであれば、織田作にも止める手段くらい幾らでも有る。然し首領がそれを許すとは思えなかったし、織田作も自分にそれを許さない筈だった。首領はどうせそれを見越して、織田作を寄越したのだ。友人をみすみす殺したくなければ、相棒の暴走は太宰が止めろと。
どの道中也相手に太宰が逃げ切れる筈も無い。本部のビルヂングを出て、駆け込んだ人気の無い路地裏で、遂に背中に蹴りを入れられて、太宰は盛大に頭を打ち付けた。
暫くは、お互い無言だった。然し無音だった訳ではない。どかっ、ばき、と乾いた音が路地裏内に響き渡る。一方的に中也が太宰を殴り付ける、それは私刑の音だった。
「如何したの、中也……」
壁に追い詰められ、それでも太宰が笑っていると、太宰より幾分か小振りな手に、的確に気道を抑えられ頸をぎりぎりと絞め上げられた。然し太宰の意識は落ちない。直ぐに意識を落とすのではなく、極限まで苦しめるのが目的のような絞め方。口をはくはくと喘ぎながら、太宰は朦朧とする意識で笑う。何処でそんなの覚えてきたの。声をはっきり出すことができれば、そう喜んでいた処だ。
あ、しぬ、と意識の途切れる寸前で唐突に手が離される。逆流する急な酸素に噎せ返る。如何やら今日はとことんまで甚振りたいらしい。ぜえはあと喘ぐ太宰の腹に、膝が入ってばきりと折れた音がした。
「め、ずしく……マジギレじゃない……。ふふ、別に私のすっぽかした任務は、君とやるやつじゃなかった筈だけど……?」
「惚けんな」
二人薄汚い路地裏にしゃがみ込む。中也の目はその声と同じく温度を含んでいなくて、鋭く尖った氷のように太宰の体を刺し貫いた。そう、それそれ。そうやって殺して欲しいんだよね。凝然と中也を見つめると、伝わったのか胸ぐらを掴んで引き倒される。
「手前は知ってたんだろ」
そのままばき、と頬を殴られる。一発、二発。
「知っててやりやがった」
痛くて痛くて堪らない。口の端が切れて、左の頬がひどく腫れて、左目で中也の顔をはっきり見るのが難しくなっていく。
「……仮に知っててやったんだとして、それで如何するの?」
ぴた、と中也の手が止まる。ああ、可笑しい。私の言葉になんて耳を傾けずに、さっさとその懐のナイフで喉を切り裂いてしまえば善いのに。
「あの女が中也の気に入りだって、知ってて心中話を持ち掛けた、憎い私を殺すのかい?」
ひゅ、と中也の息を飲む音。戯けたように事実を突き付けられ、金の目が怒りの温度に染まる。
それでも中也はナイフを出さない。
「殺す? 殺せる? 殺せないよね? 私の死はマフィアの損失だし、何より私が喜んでしまうもの」
「……五月蝿え」
もう一発、きついのを食らった。ばき、と派手な音が鳴ったから奥の歯が折れてしまったのかも知れない。それに鉄の味が不味い。そう思ってぺっと血を吐き出すと、案の定泡立ったその中に白い塊が見えた。
それきり中也は動かない。ただ金の瞳に、如何しようも無い遣る瀬の無い光を湛えていた。
太宰はその光を捕まえようと、頬にそっと手を伸ばす。
「ねえ、泣いてるの、中也」
「泣いてねえ」
触れた中也の頬は、驚くほど冷たかった。する、と大した抵抗も無く太宰の指が滑る。
「泣いてるの」
「泣いてねえっつってんだろ!」
胸ぐらを持ち上げられ、次の瞬間がんと地面に打ち付けられた。一瞬視界が暗転する。ぐらぐらと目眩がした。痛い。
暗闇の中で、中也の張り裂けるような声を聞く。
「……もういい。手前の嫌がらせには反吐が出る」
馬乗りになっていた中也の重みがふっと無くなる。なんだ、残念。このまま嬲られて痛い思いをしなくてよかったと思ったのが半分、少し離れがたいなと思ったのが半分。闇雲に手を伸ばすけれど、中也どころか服の裾にも掠りもしない。
ふふっと笑う。
「ねえ中也。あの女、私と寝たんだよ。それだけさ。……それだけ」
「もう、いい」
押し殺した声が耳に届く。ねえ、私を殺せない君は一体どんな顔をしているんだろう。薄目を開けてその目に捉えた立ち去る中也の背中は、何時ものようにすっと伸ばされていた。その後ろ姿は体格に反して大きくて、前に向けられる鋭い視線は驚くほど真っ直ぐだ。
けれどきっと気付いている。あの女が死んだのは太宰が心中未遂なんて方法で殺したからで。そして太宰が殺そうとしたのは、自分があの女に近過ぎたことが原因であること。ああ、莫迦な中也。いっそ太宰を縊ってしまえば楽になれるかも知れないのに、あの女と太宰を天秤にかけて、そんな簡単なことが出来ないでいる。裡に生じた矛盾に耐えるその姿は、あまりにも真っ直ぐに、太宰には見えた。
込み上げる笑いを堪えて、太宰は最後に一声掛けた。
「中也。今晩、鍵、開けておこうか」
中也は振り返らなかった。
狭い路地の天辺で、ビルヂングの縁と縁が水色の空を切り取っている。その隙間を雲が右から左に流れゆく様を何と無しにぼんやり眺めていると、視界の端からにゅっと手が伸びてきた。太宰を助け起こそうとする手。視線だけでそちらを見ると居たのは見知った顔だった。織田作だ。
「やだな、見てたの」
「今度こそ、お前が殺されるんじゃないかと冷や冷やした」
「視えたら止めようと思って?」
「ああ」
素直に手を借りて助け起こされる。体の節々が痛くてまともに立っていられない。ふらふらしていると、織田作が肩を貸して呉れる。ありがとうと告げると、今度はどういたしましてと返って来た。
「お前は中原のことが嫌いなんだろう」躊躇いがちに、切り出される。「なのに如何して構うんだ。こんなの、お前の為にも、中原の為にもならない」
「珍しいね、織田作が私のことに口出すの」
そう揶揄するように云うと、「済まない」と謝罪が返って来た。如何考えても悪いのは太宰なのに。態々助けに来て呉れた友人に、嫌味のように撥ね付ける言葉を選んだ太宰の不躾な態度にも、織田が気を悪くした様子は無い。ただ少し、友人は踏み込み過ぎることを悪く思っている仕草を見せた。
「……傲慢だが。お前が傷付くのを見ていられない」
「そして中也が傷付くのを?」
今度は本当に、斬り付けるように問うた。織田作は肩を竦めて「お前が中原を傷付けるのを、だ」と少し申し訳無さそうに答えた。それでも太宰を放り出さずに我慢強く体を支えて呉れる友人に、御免御免と笑う。如何にもこの感情は、コントロォルの加減が難しい。
「厭だな」
自分でも、驚くほど冷えた声が出た。隣の友人が、至極微かに息を飲む。
「中也は私の相棒なんだよ」
思わず笑みが零れ出た。あの相棒を、誰に渡す心算も無かった。誰かに渡すくらいなら、自分の手で縊ってしまった方が余程マシだし。その為に、手段を選ぶ心算も無かった。
「そう簡単に、逃してあげる訳無いじゃない」
呟くように太宰が漏らした欲望を煮詰めた一言に、聡い友人は何も云わない。ただ何処か遠くを見て、「……そうか」とだけ呟いた。
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