地に堕ちたる
(2015/02/27)
今夜の現場は倉庫街だった。銀の円盤が星空に浮かび上がっていて、はっきりと視覚で認識できる夜の静けさが今日は男の怒鳴り声で全部台無しになっていた。仕切っているのは幹部のおっさ……男だ。階級は五大幹部より幾つか下の。態度ばっかり大きく威張り散らして、そのくせちっとも要領が良くない。実際敵の本拠地を囲むのも遅れている。中の奴らに気付かれたら如何する積りなんだろう。僕はひどく憤慨する。
「中原さんが仕切るべきなんじゃないですか」
勢いづいて自分の上司を振り返る。
それを聞いた中原さんは、然し夜気の中に笑うばかりだ。
「いいんだよ、俺は幹部様のサブで。責任者なんざ性に合わねえ」
その気性に似合わずしっとりと湿った声が、暗がりに溶けて行く。僕はそれを聞き漏らさないようぎゅっと目を瞑る。
だって、中原さんの方が状況把握力に長けてるし。指示も的確だし、部下には厳しいけれども理不尽なことはしないし、それに情に厚く懐が深い人なのだ。この人だからついていこうと思う。そう云う人。階級が下だからと云って、決してあのおっさんより劣っている訳では断じてない。
のに。
「不満か?」
とん、と中原さんの人差し指が僕の胸を押した。手袋越しでも判る、綺麗な指だ。心臓が一瞬跳ねる。然しそれで誤魔化される訳にはいかない。憮然とした表情を作って無言で頷くと、彼はまた軽やかに笑った。
深夜にも拘らず、彼の声は陽光を浴びた清流を思わせる。
「何時か上に行くときの為に溜めとけ。聞かれると碌なことにならねえ」
それから彼は、最終確認だと云って手にした地図を広げて、幾つかの地点を指差していく。「此処は」「正面口と同じ部隊で固めてます」「此方は」「指示通り二人で、後は装備を回してます」「上々だ」そしてその靭やかな指が、最後に或る一点を指差す。
「……おい。此処の守備は如何なってる」
「其処は」唸るような問いに、一瞬口篭る。何故なら其処は中原さんの担当区域ではなかったからだ。詰まり僕にとっても管轄外。ええと。一応確認。「其処中原さんじゃなくあのおっさんの担当区域ですよね」
「おっさん云うなよ、アレでも一応幹部だ」
「アッ済みませーん……でも其処、確か壁でしたよ? 其処に居ても意味無えだろって、確か先刻、其処の部隊を二分して正面と裏口に分けてましたよ、あの人」
「ふぅん……」
中原さんが、唇に手を中てる、その仕草。考え事をするときの癖だ。
はちみつ色の瞳が、何処か思案げに揺れる。
そして開く、薄い口。
「……俺の部隊回しとけ。Bの奴何人か」
「え? でも」
「いいから」
何を考えているのか、僕はそのうつくしい双眸をじっと覗き込む。其処に思案の色はもう無い。
当然ぱちりと目が合って、そうして中原さんは口角を上げるんだ。
「俺の責任でいいから」
この人が責任者に向いていないなんて云うのは嘘だと思った。そんなことをこの人に云われてしまったら、この人が責任を取るような事態にならないよう、全身全霊をもって尽くすしかないじゃないか。
「……判りました。B地点から人を回しておきます」
「いい子だ。何も無きゃそれでいい」
ぽん、とまるで子供にするみたいに最後に頭を撫でられて、やっぱりこの人が一番だと、僕は思ったのだった。
「突入!」
鬨の声を聞いても、中原さんは動かない。暗がりでじっと立っている。そう、幹部の男が出した指示では中原さんの部隊は敵を逃がさないよう出入口とかを固めるだけだ。て言うか手柄一人占めしたいだけじゃないか、あのおっさん、と僕は内心口汚く罵る。
「ねえ、中原さ……」
振り返って息を呑む。退屈そうにしているかと思いきや、闇の中でその目はぎらぎらと輝いていて、一瞬ぞわりと怖気が走る。
開いた瞳孔は、獲物を狩る肉食獣のそれ。
ぎらついた瞳の金に、魅入られるように一歩、踏みだそうとした僕の足を――ざわりとした動揺の波が押し止めた。突入した倉庫からの人の声だ。
「い……居ません! 蛻の殻です!」
「何ィ! くそっ、疾っとと探せ!」
幹部の男は何時になく焦っているようだ。あれ、と僕は思う。けれどそれだけにしては、余裕の失くし方が著しい。
何故か。その答えは直ぐに知れた。
「いいか、何としてでも探しだせ、奴が来るまでにだ! あンの忌々しい、五大幹部の……」
「呼んだ?」
男の声を継いだのは、清涼な鈴の音色だった。
或いは新緑から零れ落ちる雨粒の、泉の表面を揺らす音。
そう、錯覚した。
実際は、或る男から発された声だった。ひょろりとした長身。闇に溶ける黒髪。に、反して全身を覆う白い包帯。それが人形じみた無邪気な笑みを浮かべて、何時の間にか其処に立っていた。
まるで空から降ってきたように、つま先から静かに着地する。そうして、ことりと小首を傾げる。
「ねえ、私のこと、呼んだ?」
その仕草はいっそ小悪魔のそれだ。
「だッ……太宰、さん……」
「あれえ、おかしいな。私、愚かにもポートマフィアから新作の薬をかっぱらっていった奴等をふん縛っておくから、確認にだけ来て呉れたらいいって聞いてきたのに」邪気の欠片も見せずに、その生き物は微笑んだ。柔い笑みに反して、声は血の凍るように冷たい。「薬どころか人の影さえ見えないけど気の所為かなァ。ね、其奴等何処に居るのかな?」
その言葉を向けられた男から、冷や汗がぶわっと流れ出るのが見て取れた。
「そ、それが……我々が到着した時には既に居らず……」
「ふぅん?」
笑顔の中で、その漆黒の瞳だけが凍てついたように冷えている。絶対零度の視線が、僕の心臓に莫迦げた考えをぐさりと突き刺す。
これは人間か。――果たして人間なのか?
『太宰治』。聞いたことが有る。ポートマフィアの中でも最上と云われる、五大幹部のその一隅。最年少でその地位に辿り着いた一種の化物。壊滅させた組織は数知れず、その手を血で濡らした人間の数は星すら凌駕するだろう。曰く鬼才、曰く気違い。マフィアを体現する男。
それが、するりと僕の横を過ぎる。そして近くの人間から抜き取った見取り図をじっと見たかと思うと、無造作にある一点を指さした。
あ。其処は。
「此処。固めて」
「え? いや、然し……」
躊躇う幹部の男に、『太宰治』は苛立ったように靴を鳴らした。
「早くしてよ。私、これでも気が短いんだから」
ひやりと何度か気温の下がった。
その空気の中で。
「……その必要は無えよ、太宰」
中原さんが、暗がりから一歩踏み出した。
僕はびくりと体を震わせる。完全に押し殺されていた気配が、中原さんが歩を進めるにつれ顕になる。圧倒的な威圧感。その場を支配する空気。『太宰治』の登場で飲まれていた意識が、一瞬にして塗り替えられる。その存在を、強制的に植え付けられる。
驚いたのは何も僕だけではないらしい。集中する視線、ごくりと周囲が飲む生唾、そして。
目を見開き、頬を綻ばせる『太宰治』。
身を竦ませながら、変な処が冷静になった僕は思う。
あ。人間だ。
「中也、君も来てたのか! コレの指揮下なんて御苦労様」
「ああ、手前も御苦労なこったな。……其処は俺の部隊が固めてる。手前が動くまでもねえよ」
「な!? 貴様、勝手に……!」
ぎろ、と二つの眼光が、男の喉を容赦無く突き刺したのが見えた。男は喋ることはおろか息も出来なくなったのか、汗を流してぶるぶると震えるのみになってしまった。
そんなものは意にも介さずすい、と優雅に視線を流し、中原さんは『太宰治』に問う。
「そろそろ網に掛かってる頃だ。来るか?」
「行く!」
ぴょん、と『太宰治』が飛び跳ねた。先刻のふわりと宙に浮くようではなく、もっと子供っぽく、稚気に溢れた仕草だ。その彼が、喜色満面のまま幹部の男を振り返る。
「ね、中也のお陰で命拾いしたね!」
恐らくその言葉は、幹部の男に取っては屈辱以外の何物でもなかっただろう――その証拠に、額には青筋が立っていた。けれど『太宰治』がそれを見ることは無い。『太宰治』の興味は、もう疾っくに男からは離れていたからだ。
その視線は、ただ一心に中原さんに注がれている。
「流石中也だよねー、手間が省けて助かるゥ。ね、好い加減、私のものになってよ。君が欲しいの」
「莫ァ迦。誰が手前のモンになんかなってやるかよ」
僕は動けなかった。周りも皆同じだった。僕はその瞬間、ぽかんとその二人の背中を見送る、ただの観衆の一人に成り下がった。
月の下、寄り添って去り行く二人の間には二人だけの世界があって、僕は其処に足を踏み入れるどころか、二人と同じ光景を見ることさえ叶わないのだ。
『太宰治』が中原さんを直属の部下に引き抜いたのは、それから暫くしてのことだった。
実はそれまでも付き合いらしきものは有ったらしかった、と聞いた僕の胸中は、吃驚した……と云うより、信じたくなかったと云う気持ちの方が強かったかも知れない。
中原さん、あの幹部の方と直接のお知り合いだったんですね。あの夜の翌日に世間話のようにそう振ると、視線は書類に留めながら、ああ、とあの人は素っ気無く答えた。「ああ、まあ、それなりにな」と。然し言葉の中身に反して、その横顔はまるで蕾の綻ぶようだったし、それなりなんて言葉では云い表せない程、中原さんと彼は深い間柄に見えた。
「彼奴が苦手か」
僕がそうして悶々と百面相をしていると、中原さんは決まって仕事の手を止めて、顔を上げて微笑むのだ。湧き出る清流がさらさらと音を立てるが如く。
そして僕は、突然の問いに少し考え、それからありったけのオブラートで厳重に包んだ言葉で答える。
「……少し」
「そうだな。誰だって自分の把握し切れないものは怖い」
それなのに、この人は見透かしたように笑う。
「中原さんでもそう云うことが?」
僕はその言葉に首を傾げる。この、自分の脳力に絶対の自信を持っていそうな人でも、把握し切れないことが有って、それを怖いと思うのだろうか。そしてその対象が『太宰治』であると? そう考えると、何だか不思議な気分になる。この人が、常人と同じ感覚を持ち、自分と同じ地面に足を突いて立っていることが、何だか夢みたいにふわふわとした感覚。
中原さんは、問いには答えず肩を竦めて流すのみだった。ぱら、と再び書類を捲る手が再開される。
然しぽつりと呟かれた言葉が、僕の考えを否定した。
「彼奴は存外、単純だよ」
中原さんの出張の予定を告げられたのは、確か日差しも麗らかな午後だった。北方の鎮圧、及び短期的な支部の立て直し。期間は二週間の予定らしい。何考えてるんだろう、と僕は憤慨する。組織の上層部は何を考えているんだろう。中原さんのような優秀な人材を長く本部から遠ざけるなど、愚策にもほどがあるんじゃないかと。
然し優秀であるからこそ、白羽の矢が立ったのには違いない。
「おら、太宰。これで今来てんのは全部だ。くれぐれも仕事溜め込むなよ」
「ありがと。はいこれチケット。ホテルは何時ものとこだから」
「ああ」
執務室の中央では、中原さんと彼が書類の束を交換し合っていた。中原さんの足元にはスーツケース、その中には旅支度。中原さんはこれから出立だ。そして僕はお留守番。『太宰治』も。僕の業務は、暫くは彼のサポートになる。遣り甲斐がなきゃ仕事じゃないなんて青臭いセリフを云う積りは無い。仕事は仕事だ。徹するまでだ。
聞けば今回の中原さんの出張は、彼直々の指名だったらしい。それを聞いて、僕の中のもやもやとした「組織の上層部」のイメージ図は見事に彼の顔一色に塗り替わってしまった。何考えてるんだろう、この人。中原さんが居なきゃ、通常業務を碌に回せもしないくせに。現に今中原さんが彼に手渡したのは、今朝彼の執務室の引き出しの奥深くから発掘されて、中原さんが激怒しながら昼食の時間も惜しんで処理した束だ。
けれど彼は元より、中原さんも納得の上の出張らしい。部屋の中央でそっと二人腰を絡め合い、甘やかな言葉を交わしている。
「約束どおり、隙が合ったら掌握して来てね……」
「どのくらい要る。餌撒く程度か?」
「出来れば私無しでは機能しないくらい骨抜きに」
「ああ」
口付けこそ交わさないものの、唇が合わさってないかどうかの議論なんて一体何の意味が有るんだろう。交わる吐息が孕んだ熱なんて、触れてみなくても火傷を負いそうと判るのだ。僕は執務室の隅で、ただひたすら心を鉄にする作業に徹した。これで本人たちはお互いのことを嫌いだと主張しているらしいから驚きだった。
◇ ◇ ◇
「はーあ。中也が居ればなあ」
ぐたり、とソファに寝転んでいる幹部殿の様子は長く中原さんと別れたような雰囲気を醸し出していたが驚くべきことに中原さんが出立してから未だ三日目だ。更に驚くべきことに一日目からこの様子だ。どれだけ自堕落な生活を堪能する積りなんだこの人は、と僕は部屋の掃除と洗濯と幹部の今日のスケジュールの調整と今朝方までの仕事をすべて終え、長々と溜め息を吐いた。それでも僕は、この男が重要な仕事は何時の間にか凡て熟していて、昨日も裏で組織を一つ壊滅させたことを知っている。その所為で少し寝不足なのも。
「中也が居ればあんなに書類も溜まらないし細かい仕事は全部やって呉れるし美味しいご飯が毎日食べれるし私は自殺趣味に勤しめるのになあ……」
注文が多い。
それに残念ながら、僕は中原さんじゃない。
「太宰さん。書類を揃えておきましたよ」
「うん、ありがと。其処置いといてェ……」
此方を見ずに、ひらひらとその包帯に包まれた手が振られる。この不躾な態度にももうそろそろ慣れてきた。そうは云ってもその優秀さ故、五感に入ってくる情報を無碍に切り捨てられない人だ。この態度でも報告には支障無い。
「これとこれとこれは、私の判断で処理しましたので後で報告を見ておいて下さい。こちらは太宰さんに判断を仰ぎたいものです。それから」
「……きみ」
鋭い声音に、どきりとする。目を上げると何時の間にか『太宰治』が身を起こしていて、予想外に近いその距離にもう一度どきりとした。高鳴るなんて生易しいものじゃない。冷や汗が滲み出る、心臓の嫌な軋み。不快にさせただろうか。
然し『太宰治』は僕の不審な動きになど気にも留めず、じっと此方を観察している。唇に手を中てる仕草。見慣れた、考えごとをするときの癖。
「きみは中也に似て佳く働くね」
心臓は相変わらずばくばくと嫌な音を立てていたが、頭の中の冷静な部分が、基準は飽くまで中原さんなんだなと思っていた。彼にしてみれば一般構成員にかける最上級の褒め言葉なんだろう。中原さんの部下としては、喜ぶべきか複雑だった。
然し『太宰治』からの自分の印象はそれほど悪くはないらしい。そう気付いて、好奇心がぐるりと頭を擡げた。
「ひとつお伺いしてもいいですか」
「なに」
『太宰治』は手元の書類に目を通し、ぱら、ぱら、と捲っている。目を伏せている所為で、長い睫毛がはっきりと視認できた。寝不足で隈こそ出来ているものの、それがこの男を損なうことは無い。窓から差し込んだ陽光に、蓬髪の切れ目から透き通った睫毛が二、三度瞬いて。
「太宰さんと中原さんって、何なんですか」
ぱた、と書類を捲る手が止まった。視線を落としていた黒玉が、じっと此方を見る。
「『何』って? 中也から聞いてないの?」
「貴方の口から聞きたいんです」
首を切られるかな、と思った。物理的に。だって、幹部に対してあまりにも恐れ多い物云いだ。
けれど『太宰治』は不機嫌にはならなかった。ただ少し、好奇の光を目に宿らせた。澄んだそれはまるで星を内包した宇宙みたいだ。思わず魅入っていると、『太宰治』は口元にうっすらと愉快そうな笑いを乗せ、たっぷりと間をあけて焦らした後――云った。
「ただの相棒だよ」
恋人だよ、とも聞こえるその響きに一瞬唖然する。その隙に、ばさっと胸の辺りに書類の束を押し付けられる。僕が手渡したものの、五分の一程度。
「はい。ここミス有るから直しといて。これは添付が足りないかな。あとは見ておきます」
そう云って『太宰治』が僕に向けたのは、常に無い極上の笑顔だった。それを見て、ああ、しまった、と僕は思う。しまった、見るんじゃなかった、と。
その類の笑みが湧き起こすのは、部下としての矜持だ。この人の為ならば、自分は例えその身を焼かれ灰になろうと、この人に尽くしてみせよう。そう云う類の、部下の矜持。それを湧き立たせる力が、太宰さんの笑みには有った。
不覚にも中原さんに感じるのと同種の感情を抱いてしまった、それが何だか悔しかった。
◇ ◇ ◇
「帰った」
何だかもう何ヶ月も会っていなかったような気がして、僕はその声にじんわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。実際は予定より少し早めの帰還。中原さん、と飛び付きたい衝動を、然し間一髪の処で抑える。中原さんがかつかつと、脇目も振らずソファに歩み寄って行ったからだ。
其処には太宰さんが居る。
「あれ、おかえり中……ぐは」
問答無用で鉄拳が落とされる。悶える太宰さん、少し不機嫌そうにする中原さん。
「手前何サボってやがる」
「だあって中也が居なかったんだもん」
そして太宰さんは、ひら、と執務机の上を指差した。
「あれお願い」
その上には、書類の山。
案の定、中原さんが眉間の皺を抑える。
「……三時間寄越せ」
「えーそんなに」
「一週間で出来なかった奴がナマ云うんじゃねえよ」
中原さんはそのまま書類の束を引っ掴み、ばたんと乱暴に執務室を出た。太宰さんは動く気配を見せなかったから、慌てて僕が追いかけた。中原さんが居たのは彼自身の執務室。遠慮がちに叩敲をして扉を開けると、書類を所狭しと広げ、処理を始めている中原さんの姿が在った。
「中原さん、お帰りなさい、……あの」
「なんだ」
云い淀んでいると、中原さんの方から促す言葉が有った。僕はなんだっけ、と云いたかったことを必死に思い出す。別に、何か云わなきゃ、と思った訳じゃない。ただ、誤認が有ってはいけないと思ったのだ。中原さんの判断材料に、誤りが有ってはいけないと。だから。
「太宰さん、ああ見えてここ一週間フルで働いて――」
「知ってる」
さら、と僕の言葉を遮った中也さんの手は止まらない。がっさがっさと書類を淀みなく仕分けしていく。直ぐにサインしても良いもの、確認事項の有るもの、否認の上様子見が必要なもの。多分、大体そのみっつ。
「知ってるよ。最低限大事なやつは抜いて先にやってんだろ。残してるのは俺が帰ってきてからでも間に合うやつ」
端的に、斬り込むような言葉に僕は黙り込む。その通りだ。その通りだったし、態々僕が云わなくても善いことだった。そうだ。この二人に、余計な言葉は必要無い。如何してそんな、単純なことを忘れていたんだろう。
「正確には、この三時間で済まさないと間に合わねえやつだ……くそ彼奴ぶっ殺すぞ」
その悪態にさえ、奥底に横たわる太宰さんへの感情が見え隠れする。
「太宰さんと中原さんって、何なんですか」
僕がぽろ、と思わずそう聞くと、中原さんの流れるような作業が不意にぴた、と止まった。そしてふいと伏せられた目が上げられる。その瞳に浮かぶのは、何時もの清流のような涼やかさではなく、何方かと云えば天の川を覗き込んだような。星をめいっぱい内包した、澄んだ宇宙が其処には在った。
誰かの黒い瞳と同じ。
「それ、彼奴にも訊いたのか?」
「はい」
正直に答えると、「そうか」と中原さんは頷いた。それから少し考えて、「そうだな」とたっぷりと間をあけて焦らした後――ふ、と柔らかい笑みを漏らした。
僕にはそれだけで十分だった。
「ただの相棒だよ」
今夜の現場は倉庫街だった。銀の円盤が星空に浮かび上がっていて、はっきりと視覚で認識できる夜の静けさが今日は男の怒鳴り声で全部台無しになっていた。仕切っているのは幹部のおっさ……男だ。階級は五大幹部より幾つか下の。態度ばっかり大きく威張り散らして、そのくせちっとも要領が良くない。実際敵の本拠地を囲むのも遅れている。中の奴らに気付かれたら如何する積りなんだろう。僕はひどく憤慨する。
「中原さんが仕切るべきなんじゃないですか」
勢いづいて自分の上司を振り返る。
それを聞いた中原さんは、然し夜気の中に笑うばかりだ。
「いいんだよ、俺は幹部様のサブで。責任者なんざ性に合わねえ」
その気性に似合わずしっとりと湿った声が、暗がりに溶けて行く。僕はそれを聞き漏らさないようぎゅっと目を瞑る。
だって、中原さんの方が状況把握力に長けてるし。指示も的確だし、部下には厳しいけれども理不尽なことはしないし、それに情に厚く懐が深い人なのだ。この人だからついていこうと思う。そう云う人。階級が下だからと云って、決してあのおっさんより劣っている訳では断じてない。
のに。
「不満か?」
とん、と中原さんの人差し指が僕の胸を押した。手袋越しでも判る、綺麗な指だ。心臓が一瞬跳ねる。然しそれで誤魔化される訳にはいかない。憮然とした表情を作って無言で頷くと、彼はまた軽やかに笑った。
深夜にも拘らず、彼の声は陽光を浴びた清流を思わせる。
「何時か上に行くときの為に溜めとけ。聞かれると碌なことにならねえ」
それから彼は、最終確認だと云って手にした地図を広げて、幾つかの地点を指差していく。「此処は」「正面口と同じ部隊で固めてます」「此方は」「指示通り二人で、後は装備を回してます」「上々だ」そしてその靭やかな指が、最後に或る一点を指差す。
「……おい。此処の守備は如何なってる」
「其処は」唸るような問いに、一瞬口篭る。何故なら其処は中原さんの担当区域ではなかったからだ。詰まり僕にとっても管轄外。ええと。一応確認。「其処中原さんじゃなくあのおっさんの担当区域ですよね」
「おっさん云うなよ、アレでも一応幹部だ」
「アッ済みませーん……でも其処、確か壁でしたよ? 其処に居ても意味無えだろって、確か先刻、其処の部隊を二分して正面と裏口に分けてましたよ、あの人」
「ふぅん……」
中原さんが、唇に手を中てる、その仕草。考え事をするときの癖だ。
はちみつ色の瞳が、何処か思案げに揺れる。
そして開く、薄い口。
「……俺の部隊回しとけ。Bの奴何人か」
「え? でも」
「いいから」
何を考えているのか、僕はそのうつくしい双眸をじっと覗き込む。其処に思案の色はもう無い。
当然ぱちりと目が合って、そうして中原さんは口角を上げるんだ。
「俺の責任でいいから」
この人が責任者に向いていないなんて云うのは嘘だと思った。そんなことをこの人に云われてしまったら、この人が責任を取るような事態にならないよう、全身全霊をもって尽くすしかないじゃないか。
「……判りました。B地点から人を回しておきます」
「いい子だ。何も無きゃそれでいい」
ぽん、とまるで子供にするみたいに最後に頭を撫でられて、やっぱりこの人が一番だと、僕は思ったのだった。
「突入!」
鬨の声を聞いても、中原さんは動かない。暗がりでじっと立っている。そう、幹部の男が出した指示では中原さんの部隊は敵を逃がさないよう出入口とかを固めるだけだ。て言うか手柄一人占めしたいだけじゃないか、あのおっさん、と僕は内心口汚く罵る。
「ねえ、中原さ……」
振り返って息を呑む。退屈そうにしているかと思いきや、闇の中でその目はぎらぎらと輝いていて、一瞬ぞわりと怖気が走る。
開いた瞳孔は、獲物を狩る肉食獣のそれ。
ぎらついた瞳の金に、魅入られるように一歩、踏みだそうとした僕の足を――ざわりとした動揺の波が押し止めた。突入した倉庫からの人の声だ。
「い……居ません! 蛻の殻です!」
「何ィ! くそっ、疾っとと探せ!」
幹部の男は何時になく焦っているようだ。あれ、と僕は思う。けれどそれだけにしては、余裕の失くし方が著しい。
何故か。その答えは直ぐに知れた。
「いいか、何としてでも探しだせ、奴が来るまでにだ! あンの忌々しい、五大幹部の……」
「呼んだ?」
男の声を継いだのは、清涼な鈴の音色だった。
或いは新緑から零れ落ちる雨粒の、泉の表面を揺らす音。
そう、錯覚した。
実際は、或る男から発された声だった。ひょろりとした長身。闇に溶ける黒髪。に、反して全身を覆う白い包帯。それが人形じみた無邪気な笑みを浮かべて、何時の間にか其処に立っていた。
まるで空から降ってきたように、つま先から静かに着地する。そうして、ことりと小首を傾げる。
「ねえ、私のこと、呼んだ?」
その仕草はいっそ小悪魔のそれだ。
「だッ……太宰、さん……」
「あれえ、おかしいな。私、愚かにもポートマフィアから新作の薬をかっぱらっていった奴等をふん縛っておくから、確認にだけ来て呉れたらいいって聞いてきたのに」邪気の欠片も見せずに、その生き物は微笑んだ。柔い笑みに反して、声は血の凍るように冷たい。「薬どころか人の影さえ見えないけど気の所為かなァ。ね、其奴等何処に居るのかな?」
その言葉を向けられた男から、冷や汗がぶわっと流れ出るのが見て取れた。
「そ、それが……我々が到着した時には既に居らず……」
「ふぅん?」
笑顔の中で、その漆黒の瞳だけが凍てついたように冷えている。絶対零度の視線が、僕の心臓に莫迦げた考えをぐさりと突き刺す。
これは人間か。――果たして人間なのか?
『太宰治』。聞いたことが有る。ポートマフィアの中でも最上と云われる、五大幹部のその一隅。最年少でその地位に辿り着いた一種の化物。壊滅させた組織は数知れず、その手を血で濡らした人間の数は星すら凌駕するだろう。曰く鬼才、曰く気違い。マフィアを体現する男。
それが、するりと僕の横を過ぎる。そして近くの人間から抜き取った見取り図をじっと見たかと思うと、無造作にある一点を指さした。
あ。其処は。
「此処。固めて」
「え? いや、然し……」
躊躇う幹部の男に、『太宰治』は苛立ったように靴を鳴らした。
「早くしてよ。私、これでも気が短いんだから」
ひやりと何度か気温の下がった。
その空気の中で。
「……その必要は無えよ、太宰」
中原さんが、暗がりから一歩踏み出した。
僕はびくりと体を震わせる。完全に押し殺されていた気配が、中原さんが歩を進めるにつれ顕になる。圧倒的な威圧感。その場を支配する空気。『太宰治』の登場で飲まれていた意識が、一瞬にして塗り替えられる。その存在を、強制的に植え付けられる。
驚いたのは何も僕だけではないらしい。集中する視線、ごくりと周囲が飲む生唾、そして。
目を見開き、頬を綻ばせる『太宰治』。
身を竦ませながら、変な処が冷静になった僕は思う。
あ。人間だ。
「中也、君も来てたのか! コレの指揮下なんて御苦労様」
「ああ、手前も御苦労なこったな。……其処は俺の部隊が固めてる。手前が動くまでもねえよ」
「な!? 貴様、勝手に……!」
ぎろ、と二つの眼光が、男の喉を容赦無く突き刺したのが見えた。男は喋ることはおろか息も出来なくなったのか、汗を流してぶるぶると震えるのみになってしまった。
そんなものは意にも介さずすい、と優雅に視線を流し、中原さんは『太宰治』に問う。
「そろそろ網に掛かってる頃だ。来るか?」
「行く!」
ぴょん、と『太宰治』が飛び跳ねた。先刻のふわりと宙に浮くようではなく、もっと子供っぽく、稚気に溢れた仕草だ。その彼が、喜色満面のまま幹部の男を振り返る。
「ね、中也のお陰で命拾いしたね!」
恐らくその言葉は、幹部の男に取っては屈辱以外の何物でもなかっただろう――その証拠に、額には青筋が立っていた。けれど『太宰治』がそれを見ることは無い。『太宰治』の興味は、もう疾っくに男からは離れていたからだ。
その視線は、ただ一心に中原さんに注がれている。
「流石中也だよねー、手間が省けて助かるゥ。ね、好い加減、私のものになってよ。君が欲しいの」
「莫ァ迦。誰が手前のモンになんかなってやるかよ」
僕は動けなかった。周りも皆同じだった。僕はその瞬間、ぽかんとその二人の背中を見送る、ただの観衆の一人に成り下がった。
月の下、寄り添って去り行く二人の間には二人だけの世界があって、僕は其処に足を踏み入れるどころか、二人と同じ光景を見ることさえ叶わないのだ。
『太宰治』が中原さんを直属の部下に引き抜いたのは、それから暫くしてのことだった。
実はそれまでも付き合いらしきものは有ったらしかった、と聞いた僕の胸中は、吃驚した……と云うより、信じたくなかったと云う気持ちの方が強かったかも知れない。
中原さん、あの幹部の方と直接のお知り合いだったんですね。あの夜の翌日に世間話のようにそう振ると、視線は書類に留めながら、ああ、とあの人は素っ気無く答えた。「ああ、まあ、それなりにな」と。然し言葉の中身に反して、その横顔はまるで蕾の綻ぶようだったし、それなりなんて言葉では云い表せない程、中原さんと彼は深い間柄に見えた。
「彼奴が苦手か」
僕がそうして悶々と百面相をしていると、中原さんは決まって仕事の手を止めて、顔を上げて微笑むのだ。湧き出る清流がさらさらと音を立てるが如く。
そして僕は、突然の問いに少し考え、それからありったけのオブラートで厳重に包んだ言葉で答える。
「……少し」
「そうだな。誰だって自分の把握し切れないものは怖い」
それなのに、この人は見透かしたように笑う。
「中原さんでもそう云うことが?」
僕はその言葉に首を傾げる。この、自分の脳力に絶対の自信を持っていそうな人でも、把握し切れないことが有って、それを怖いと思うのだろうか。そしてその対象が『太宰治』であると? そう考えると、何だか不思議な気分になる。この人が、常人と同じ感覚を持ち、自分と同じ地面に足を突いて立っていることが、何だか夢みたいにふわふわとした感覚。
中原さんは、問いには答えず肩を竦めて流すのみだった。ぱら、と再び書類を捲る手が再開される。
然しぽつりと呟かれた言葉が、僕の考えを否定した。
「彼奴は存外、単純だよ」
中原さんの出張の予定を告げられたのは、確か日差しも麗らかな午後だった。北方の鎮圧、及び短期的な支部の立て直し。期間は二週間の予定らしい。何考えてるんだろう、と僕は憤慨する。組織の上層部は何を考えているんだろう。中原さんのような優秀な人材を長く本部から遠ざけるなど、愚策にもほどがあるんじゃないかと。
然し優秀であるからこそ、白羽の矢が立ったのには違いない。
「おら、太宰。これで今来てんのは全部だ。くれぐれも仕事溜め込むなよ」
「ありがと。はいこれチケット。ホテルは何時ものとこだから」
「ああ」
執務室の中央では、中原さんと彼が書類の束を交換し合っていた。中原さんの足元にはスーツケース、その中には旅支度。中原さんはこれから出立だ。そして僕はお留守番。『太宰治』も。僕の業務は、暫くは彼のサポートになる。遣り甲斐がなきゃ仕事じゃないなんて青臭いセリフを云う積りは無い。仕事は仕事だ。徹するまでだ。
聞けば今回の中原さんの出張は、彼直々の指名だったらしい。それを聞いて、僕の中のもやもやとした「組織の上層部」のイメージ図は見事に彼の顔一色に塗り替わってしまった。何考えてるんだろう、この人。中原さんが居なきゃ、通常業務を碌に回せもしないくせに。現に今中原さんが彼に手渡したのは、今朝彼の執務室の引き出しの奥深くから発掘されて、中原さんが激怒しながら昼食の時間も惜しんで処理した束だ。
けれど彼は元より、中原さんも納得の上の出張らしい。部屋の中央でそっと二人腰を絡め合い、甘やかな言葉を交わしている。
「約束どおり、隙が合ったら掌握して来てね……」
「どのくらい要る。餌撒く程度か?」
「出来れば私無しでは機能しないくらい骨抜きに」
「ああ」
口付けこそ交わさないものの、唇が合わさってないかどうかの議論なんて一体何の意味が有るんだろう。交わる吐息が孕んだ熱なんて、触れてみなくても火傷を負いそうと判るのだ。僕は執務室の隅で、ただひたすら心を鉄にする作業に徹した。これで本人たちはお互いのことを嫌いだと主張しているらしいから驚きだった。
◇ ◇ ◇
「はーあ。中也が居ればなあ」
ぐたり、とソファに寝転んでいる幹部殿の様子は長く中原さんと別れたような雰囲気を醸し出していたが驚くべきことに中原さんが出立してから未だ三日目だ。更に驚くべきことに一日目からこの様子だ。どれだけ自堕落な生活を堪能する積りなんだこの人は、と僕は部屋の掃除と洗濯と幹部の今日のスケジュールの調整と今朝方までの仕事をすべて終え、長々と溜め息を吐いた。それでも僕は、この男が重要な仕事は何時の間にか凡て熟していて、昨日も裏で組織を一つ壊滅させたことを知っている。その所為で少し寝不足なのも。
「中也が居ればあんなに書類も溜まらないし細かい仕事は全部やって呉れるし美味しいご飯が毎日食べれるし私は自殺趣味に勤しめるのになあ……」
注文が多い。
それに残念ながら、僕は中原さんじゃない。
「太宰さん。書類を揃えておきましたよ」
「うん、ありがと。其処置いといてェ……」
此方を見ずに、ひらひらとその包帯に包まれた手が振られる。この不躾な態度にももうそろそろ慣れてきた。そうは云ってもその優秀さ故、五感に入ってくる情報を無碍に切り捨てられない人だ。この態度でも報告には支障無い。
「これとこれとこれは、私の判断で処理しましたので後で報告を見ておいて下さい。こちらは太宰さんに判断を仰ぎたいものです。それから」
「……きみ」
鋭い声音に、どきりとする。目を上げると何時の間にか『太宰治』が身を起こしていて、予想外に近いその距離にもう一度どきりとした。高鳴るなんて生易しいものじゃない。冷や汗が滲み出る、心臓の嫌な軋み。不快にさせただろうか。
然し『太宰治』は僕の不審な動きになど気にも留めず、じっと此方を観察している。唇に手を中てる仕草。見慣れた、考えごとをするときの癖。
「きみは中也に似て佳く働くね」
心臓は相変わらずばくばくと嫌な音を立てていたが、頭の中の冷静な部分が、基準は飽くまで中原さんなんだなと思っていた。彼にしてみれば一般構成員にかける最上級の褒め言葉なんだろう。中原さんの部下としては、喜ぶべきか複雑だった。
然し『太宰治』からの自分の印象はそれほど悪くはないらしい。そう気付いて、好奇心がぐるりと頭を擡げた。
「ひとつお伺いしてもいいですか」
「なに」
『太宰治』は手元の書類に目を通し、ぱら、ぱら、と捲っている。目を伏せている所為で、長い睫毛がはっきりと視認できた。寝不足で隈こそ出来ているものの、それがこの男を損なうことは無い。窓から差し込んだ陽光に、蓬髪の切れ目から透き通った睫毛が二、三度瞬いて。
「太宰さんと中原さんって、何なんですか」
ぱた、と書類を捲る手が止まった。視線を落としていた黒玉が、じっと此方を見る。
「『何』って? 中也から聞いてないの?」
「貴方の口から聞きたいんです」
首を切られるかな、と思った。物理的に。だって、幹部に対してあまりにも恐れ多い物云いだ。
けれど『太宰治』は不機嫌にはならなかった。ただ少し、好奇の光を目に宿らせた。澄んだそれはまるで星を内包した宇宙みたいだ。思わず魅入っていると、『太宰治』は口元にうっすらと愉快そうな笑いを乗せ、たっぷりと間をあけて焦らした後――云った。
「ただの相棒だよ」
恋人だよ、とも聞こえるその響きに一瞬唖然する。その隙に、ばさっと胸の辺りに書類の束を押し付けられる。僕が手渡したものの、五分の一程度。
「はい。ここミス有るから直しといて。これは添付が足りないかな。あとは見ておきます」
そう云って『太宰治』が僕に向けたのは、常に無い極上の笑顔だった。それを見て、ああ、しまった、と僕は思う。しまった、見るんじゃなかった、と。
その類の笑みが湧き起こすのは、部下としての矜持だ。この人の為ならば、自分は例えその身を焼かれ灰になろうと、この人に尽くしてみせよう。そう云う類の、部下の矜持。それを湧き立たせる力が、太宰さんの笑みには有った。
不覚にも中原さんに感じるのと同種の感情を抱いてしまった、それが何だか悔しかった。
◇ ◇ ◇
「帰った」
何だかもう何ヶ月も会っていなかったような気がして、僕はその声にじんわりと胸の奥が熱くなるのを感じた。実際は予定より少し早めの帰還。中原さん、と飛び付きたい衝動を、然し間一髪の処で抑える。中原さんがかつかつと、脇目も振らずソファに歩み寄って行ったからだ。
其処には太宰さんが居る。
「あれ、おかえり中……ぐは」
問答無用で鉄拳が落とされる。悶える太宰さん、少し不機嫌そうにする中原さん。
「手前何サボってやがる」
「だあって中也が居なかったんだもん」
そして太宰さんは、ひら、と執務机の上を指差した。
「あれお願い」
その上には、書類の山。
案の定、中原さんが眉間の皺を抑える。
「……三時間寄越せ」
「えーそんなに」
「一週間で出来なかった奴がナマ云うんじゃねえよ」
中原さんはそのまま書類の束を引っ掴み、ばたんと乱暴に執務室を出た。太宰さんは動く気配を見せなかったから、慌てて僕が追いかけた。中原さんが居たのは彼自身の執務室。遠慮がちに叩敲をして扉を開けると、書類を所狭しと広げ、処理を始めている中原さんの姿が在った。
「中原さん、お帰りなさい、……あの」
「なんだ」
云い淀んでいると、中原さんの方から促す言葉が有った。僕はなんだっけ、と云いたかったことを必死に思い出す。別に、何か云わなきゃ、と思った訳じゃない。ただ、誤認が有ってはいけないと思ったのだ。中原さんの判断材料に、誤りが有ってはいけないと。だから。
「太宰さん、ああ見えてここ一週間フルで働いて――」
「知ってる」
さら、と僕の言葉を遮った中也さんの手は止まらない。がっさがっさと書類を淀みなく仕分けしていく。直ぐにサインしても良いもの、確認事項の有るもの、否認の上様子見が必要なもの。多分、大体そのみっつ。
「知ってるよ。最低限大事なやつは抜いて先にやってんだろ。残してるのは俺が帰ってきてからでも間に合うやつ」
端的に、斬り込むような言葉に僕は黙り込む。その通りだ。その通りだったし、態々僕が云わなくても善いことだった。そうだ。この二人に、余計な言葉は必要無い。如何してそんな、単純なことを忘れていたんだろう。
「正確には、この三時間で済まさないと間に合わねえやつだ……くそ彼奴ぶっ殺すぞ」
その悪態にさえ、奥底に横たわる太宰さんへの感情が見え隠れする。
「太宰さんと中原さんって、何なんですか」
僕がぽろ、と思わずそう聞くと、中原さんの流れるような作業が不意にぴた、と止まった。そしてふいと伏せられた目が上げられる。その瞳に浮かぶのは、何時もの清流のような涼やかさではなく、何方かと云えば天の川を覗き込んだような。星をめいっぱい内包した、澄んだ宇宙が其処には在った。
誰かの黒い瞳と同じ。
「それ、彼奴にも訊いたのか?」
「はい」
正直に答えると、「そうか」と中原さんは頷いた。それから少し考えて、「そうだな」とたっぷりと間をあけて焦らした後――ふ、と柔らかい笑みを漏らした。
僕にはそれだけで十分だった。
「ただの相棒だよ」
1/1ページ