さよなら俺の愛しい相棒

(2014/12/09)


 ぱちりと目が覚めた。部屋は未だ夜の暗さの下りたままだ。なのに目の端にはぼんやりと映る電球色の光が在る。
 かちゃ、と遠くで食器の擦れる音がして、それが自分の意識を覚醒に導いたのだと理解した。
 隣へと無造作に手を伸ばし、其処に寝ている筈の人間が居ないことを確認する。求めた手は空を切るばかりだ。在った筈の熱がもうすっかり冷め切っていて、ぱちりともう一度瞬いた後、太宰は漸く体を起こした。時計を見れば午後十一時。脱ぎ散らかされた衣服を、軽く羽織る程度に纏う。シャツだけは二枚落ちていたから、手に取るべきを少し迷ってしまった。まあ、太宰と彼との体格差では、間違えることはそう無いのだけれど。キッチンから漏れ出る光に、太宰は浮かされた虫のように誘われる。
 果たして其処には中也が居た。太宰の気配に気付いたのか、その小柄な背中が振り返る。「如何した。眠れねえのか」相も変わらず、この男は太宰の気配には敏感だ。「それとも、何かあったのかよ?」そしてその心の機微にも。何処か愉快げな声音に、太宰は薄く笑う。
「そうだねえ、何かあった方だよ」
「へえ」
 自分から訊いておきながら、中也はまるで興味が無い、と云った風に笑うのみで、作業の手を止めようとはしなかった。淀み無く、マグカップからドリッパーを外し、冷蔵庫からパックの牛乳を取り出す。キッチンには珈琲の匂いが充満していた。其処に注がれる、冷えた牛乳。くるくるとスプーンでかき回された黒と白が混ざる。出来たカフェオレを、カップを傾けて飲む。
 太宰は引き戸の枠に寄り掛かって、その様子を眺めていた。
 中也はシャツも羽織らずに、隆起したしなやかな筋肉を惜しげも無く夜気に晒している。それが気怠げに、シンクの淵へと寄り掛かる。カップを傾けると、チョーカーに捕らわれた喉が顕になる。喉仏が上下して、こくりと微かに音を立てる。ぺろ、と唇を舐める舌が赤い。寝台の中では、そのくちで、甘い声で、彼は太宰の名を呼ぶのだ。その熱に浮かされる瞬間はまるで夢でも見ているかのようだった。毎晩、毎晩。
「――明日、五大幹部に昇進するんだ」
 密やかに告げたその言葉に、す、と一筋の沈黙が落ちた。細い糸の形をしたそれは、ゆっくりと太宰と中也の二人を絡め取る。
 太宰は中也を見た。中也はマグカップの中身に視線を落としたまま、顔を上げなかった。牛乳と混じり合う珈琲の匂いだけが、室内を満たしていく。
 先に糸を断ち切ったのは、中也の方だった。
「ああ、そう」
 ひどく簡潔な答え。
「驚かないんだ?」
「驚く要素が何処にも無えだろ」
 かた、とマグカップが中也の手を離れてそのまま机に置かれてしまう。代わりに食器棚を開けた中也が手にしたのは、一組のワイングラスだった。二つで一組。中也のものと、太宰のもの。
「強いて云うなら、ちっとばかし遅過ぎたくらいだ」
 それはどうも、と太宰は笑った。けれどそれを云うなら、この男だってもう疾っくに幹部になっていてもおかしくはなかった。それだけの功績を、自分達は残してきていた。その筈でしょうとそう告げると、「向き不向きってもんが在るんだろ」と事も無げに返される。それが太宰には不満でならない。それなら幹部なんてものは尚更、自分ではなく中也が成るべきものだった。義務感やら責任感やらは、相棒の方がずっと強いのに。上から下から雁字搦めの地位なんて、独りでやるには面倒臭くて堪らない。
「……まあ、納得はしたがな」
「納得?」
 ぼんやりと、不思議に思ったままを口にすると、一瞬、中也の目が射竦めるように太宰を見た。ぴく、と太宰はその殺気に片眉を上げる。本気ではない。本気では無かったが、それが逆に、太宰を不安たらしめた。何か怒らせるようなことをしたっけ。無い心当たりに太宰が首を傾げると、中也が少しの苛立ちを見せて、とんとん、と自分の首筋を叩いた。その白い首筋に浮かび上がるのは、太宰の残した鬱血痕。
「手前が今日、やけにしつこかったことへの納得だよ」
 ああ、なんだ。太宰は腹に込めた力を緩める。「そんなもの、君には何時だって付けていたいのに」「徴が無けりゃあ不安か?」「とてもね」そう答えると、は、と鼻で笑われた。「好い気味だ」。太宰は自分の背中に付けられた、無数の爪痕の存在を思い出した。中也の言葉に、それがやけに疼く。
 軈て中也が出してきたのは、未だ空気の味を知らないワインボトルだった。そのラベルには外つ国の言葉で、随分と過去の年代が刻まれている。太宰にも見覚えの在る数字だ。それをくるりと弄びながら、中也は事も無げに笑った。「開けるか」「好いね」。太宰は軽く頷きながら、それは中也が後生大事に取っているものだと知っていた。それを開けることの意味を太宰が知っていると云うことを、果たして中也は知っているのだろうか。グラスにワインを注ぐ音だけが響く。
「却説」
 赤く透き通った液体で満たしたグラスを、目の高さに持ち上げる。それを通して見る相棒は、何処と無く歪んで見える。太宰も自分のものを手に取る。
 中也が静かに、口を開いた。
「新しい幹部様に、乾杯」
 かちん、と。
 グラスが清涼な音を鳴らした。
「ねえ中也」
 こくりと一口、口に含んで、舌先で味を転がす。何にも代え難い美味しさだ。それから溜めに溜め込んでいたその言葉を、太宰はぽろりと発した。
 まるで愛の告白みたいだ、と太宰は思った。云おう云おうと思っていると、中々云えないものだけれど、ふとした切欠、或いは何気無いタイミングで、ぽろりと零れ落ちてしまうのだ。きっと恋心とはビー玉の形をしているに違いない。そんな転がり落ち方だった。止めるには、制御が利かない。
 彼が好い感情を持たないのは判っていた。
 それでも云わずにはいられなかった。
「私の部下になってよ」
 するりとその言葉が、口を突いて出た。
 中也は何も答えない。ただ、今度はグラスの中身に落ちる視線をこちらに向けることに成功した。
 無色透明の瞳が、じっと太宰を射る。
「君も知ってのとおり、幹部には自分直轄の部下を自由に雇い入れる権限が与えられる。外部からでも――勿論、内部からでも善い。一国の議員にも等しい幹部の直下に就けるとなれば、それこそ今よりは格段に動き易くなるし、様々なものが望むまま手に入る。損は無いよ」
「様々なものってのは」黙っていた中也が、静かに口を開く。「金や地位や。名誉や?」
「そう」
 太宰は、何故自分がこんなに喋らされているのか判らなかった。酒の一口や二口で酔うほど弱い体質を持ち合わせている覚えは無かった。緊張でくらりと眩暈がする。嗚呼、これは緊張なのか?
「ねえ、ちゅう――」
 言葉は続かなかった。続きは中也にぺろりと食べられてしまった。
 気付けば綺麗な顔が目鼻の先から離れていく処で、ぺろ、と唇を舐めるその舌がやけに赤かったことを覚えている。
「太宰」
 低く掠れた声が、夜を震わせる。
「俺がそんなものを望んでんじゃねえことは、手前が一番良く知ってんだろうが」
「……そうだね。私だって、そんなものを望む君を望んじゃいない。――中也」
 顔が熱い。
 太宰には、何を云うべきか判らなかった。ただ、この男を自分の元に引き留めておきたい一心だった。或いは、自分をこの男の元に引き留めておきたかったのか。
「一緒に世界を征服しようよ」
 稚拙な物云いに、然し真意は確かに伝わったのだろう、中也の呆れたような、それでいて何処か柔らかい溜め息が聞こえた。
「俺が手前の部下になったら、手前の隣に並べねえだろうが」
 いい子だから、と甘い声が太宰の耳朶に溶けていく。
「其処で大人しく待ってろ」
 口付けが、今度は額に落とされる。

「……あーあ、振られちゃったなあ。如何しよう」
「臭え演技は止めろよ」
 態とらしくしなを作る太宰に、中也は毒を含んだ笑みを浮かべる。
「手前はどうせ、俺が受け入れねえと思っていた。よくて五分だと」
 善く判っている、と今度は太宰が苦笑する番だった。乗って呉れれば善いと思った。その方が二人昇進するには手っ取り早かったから。然しそれが自分達の在り方として適切か如何かには疑問が在ったし、そんな状態でこの男が乗って来る筈は当然無かった。この男は、太宰の疑念やなんやを本能的に掬い取るのだ。まったく、彼に掛かれば何もかもがお見通しなのだから嫌になる。
「宛てはあんだろ。あの」中也が一瞬、思案する。「織田とか」
「織田作は」
 言い淀んだ。あれ、違ったか?と中也が首を傾げたものだから、益々笑顔の苦さが深まるばかりだ。考えなかったと云えば嘘になる。然し、直ぐに放棄した考えであることもまた事実だ。それを説明しようとして――まあ善いか、と喉の奥に押し留める。
「彼は友達だから、そう云うんじゃないの」
「へえ」
 それだけで、何となく本意が伝わるのだから、この距離が何より心地好かった。
 伊達に相棒を、長くやっている訳ではない。
 其処まで考えて、太宰はふと立ち上がった。ことりとグラスを置く。中也は何も云わず、じっと太宰を見るのみだ。その視線を感じながら、力まず、気取られず、緊張を他所にやって。何でも無い風を装って。さらっと。
「あと、そう云えば、君に別れを告げなきゃいけなくって」
 云った。
 必死に装われた自然な笑みに、中也も「まあ、当然だな」と軽く頷いた。これからは幹部と一般構成員だ。気軽に会える立場ではなくなる。太宰も中也も、それは承知していた。それの、本当に意味する処も。
 太宰は肩の力を抜いて、君は相変わらず薄情だねと破顔した。中也が、手前にだけは云われたくねえよと云わんばかりに顔を顰めるのも見越した上だ。
 そうして一頻り中也を莫迦にする言葉を口にした後、太宰は中也のグラスを持つ手に、ひっそりと自分の手を絡めた。冷えた手だ。若しくは自分が熱いのか。そのまま顔を寄せれば、中也の蜂蜜の色をした目がじっと此方を見つめている。その目に映る太宰の姿は、ゆらゆらと酒の色を含んで濡れていた。何方とも無く、頬を寄せ合う。
 軽く口付けようとして、止める。息のかかる距離。互いの瞬きを瞼に感じる。
 湿った空気を震わせぬよう、そっと囁き合う。
「……じゃ、暫くバイバイだね。中也」
「……ああ、そうだな。太宰」
 けれど、太宰も中也も、疑っていなかった。時計の長針と短針が一度別れてもまた出会うように、冬の終わりには必ず春が訪れるように、当然にそのときがまた来ることを信じて疑わなかった。
 自分達が、また相棒として肩を並べる日が来ることを。
 だから、告げるのは束の間の別れの言葉。
「さよなら、俺の愛しい相棒」
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