人魚の命は永遠に

(2014/11/05)


 遠くで銃声と怒号が聞こえる。何処だ、探せ、と荒々しい喧騒が段々と此方に近付いて来る。然し目の前の海はそんな人の事情など何処吹く風で、寄せては返し、寄せては返し、潮の香りを運ぶのみだ。その静けさに、俺達は海とコンテナに挟まれた袋小路に追い詰められたことを、ほんのいっとき忘れた。
「……まあ、でも、此処がバレるのも時間の問題かな」
 あーあ、誰かさんが余計なことするから、と揶揄するような物云いに、「元はと云えば、太宰、手前が間抜けにも捕縛されるのが悪いんだろうが」とその足をぐりっと踏み付けた。ブーツには鉄板を仕込んでいるにも拘らず、聞いているのかいないのか、元相棒は相変わらずへらりと人を馬鹿にしたような笑みを浮かべる。俺はそれが腹立たしくてならなくて、出来ることならば胸倉を掴み上げて思う存分殴ってやりたかった。

 元幹部の太宰治を捕縛した。そんな一報が入ったのは、丁度今から一時間ほど前のことだ。
 『太宰治は殺さず首領の元に連行しろ』。それが幹部会の決定だ。他ならぬ太宰が、小賢しい手紙なんぞを送ってそうなるように仕向けた。その決定に正面切って逆らう愚か者が居る訳は無かったが、逆らわなければ何をしても善いと考える輩ならば五万と居ただろう。太宰の人気はそう云う意味では――そう云う意味『でも』群を抜いていたし、それに他ならぬ首領が云ったのだ。『あっでも、殺さずって云っても難しいだろうから、取り敢えず意識が有って、目と耳と口が動いていれば善いかな、うん』。にこ、と無邪気な笑顔と共に放たれたその言葉を、俺は敢えて通達しなかったが、幹部の誰かしらが広めた可能性は十二分に在った。独断専行で暗殺者を放つ者も居れば、時折こうして捕物紛いが在ることも在る。まあ、裏切って後も五大幹部の一席を占領している男なんざ、鬱陶しくて仕方が無かろう。俺だって、手前の記憶を何年も前からちらりちらりと過ぎるこの影が、邪魔で邪魔で仕様が無かった。
 だから駆けたのだ。誰よりも、真っ先にこの手で。この邪魔な影を掻き消す為に。

 現場に到着して最初に目に入ったものは、大勢の組織の人間に取り押さえられ、地に伏す太宰の姿だった。と云うより、太宰の姿しか目に入らなかったと云っても良い。後は有象無象だ。取るに足りない、南瓜の群れ。それほどまでに、久し振りに見る彼奴の姿は強烈だった。
 じっとその様を見ていると、ばちりと太宰と目が合った。相変わらず、なんにも映さない黒い目をしていた。なんにも映さないものだから、その表面には無表情な俺が映り込んでいた。手前何やってやがる、と云う憤りも、いい様だな、と云う嘲笑も出て来ない、乾いた無表情の俺。太宰はそんな俺をじっと見て、そうして何もかも計算通り、と云う顔ではっとせせら笑ったのだ。
 その余裕を、その計算を崩すのが、相棒の俺の役割だった。或いは、それさえも奴の手中だったのか――
「――手前等。誰のもんに、手ェ出してやがる」
 低い声が、声帯を震わせた。誰の? もちろん、俺のだ。低く周囲を威嚇する。ああ、やっちまった。そう思ったときには遅かった。気付けば手元の銃で太宰を抑えていた人間を撃ち殺し、太宰の体を片手で担ぎ、港の奥へと駆けていた。太宰のその痩身を俺は俵の如く担いだ、だから、太宰がそのとき一体どんな顔をしていたのかは知らない。知りたくもない。どうせ何時ものあの薄ら寒い笑みを浮かべて、「うわあ中也何その恥ずかしい科白、」なんて俺のことを嘲笑しているに違いないのだ。このまま海に捨ててやろうか。
 思考とは裏腹に、俺の足はポートマフィアの本部とは逆方向へ駆けていた。担いだ大きな荷物の所為で如何考えても分が悪い。銃弾が幾つか腹を掠め、防弾ベストに打ち中り、俺の中身に毀損を与えて行く。それでも太宰にだけは中らない。相変わらず、とんだ自殺志願者だ。
 俺達は、這う這うの体で身を隠した。

 と云うか、全員殺してしまえば善かったのではないか。はたとそう気付いたのは、太宰と二人物陰に隠れてからだ。全員殺してしまえば、目撃者も出ない、敵対者も出ない。太宰は逃げ、太宰を逃したことは首領にバレない。それが一等、良策のように思えた。
 思えたが、何となく自分の体に違和感を感じて、俺は僅かばかり腹を抑える。
「で? これから如何すんだ」
「そうだねえ、私ひとりなら逃げる算段は在ったんだけど、今は中也が居るからなあ」
 未だ云うか。その言葉を飲み込んで――ごほ、とひとつ咳き込んだ。
 その拍子に、血を吐いた。
「中也!?」
 太宰の悲鳴のような叫びが聞こえた。手で受け止めきれなかった分が、ぱたぱたと地面に赤い染みを作る。
 見ると、手袋に血がべっとりと付いていた。黒の手袋なので、何となくその色は見え辛い。体に痛みの無いのも相まって、何処か夢心地だ。ただ、ああ、またかと思った。またこれか。でも今日はなんだか量が多いな。
「中也、君、内臓をやったのか!」
 ぼんやりと手を眺める俺とは対照的に、先ほどまで巫山戯ていた太宰の声音が急に真剣味を帯びた。手首を乱暴に掴まれて、じっと正面から向き合う。なんにも映さないその黒い瞳が、今は真っ直ぐに俺を映していた。
「莫迦、そう云うのは直ぐに云い給えよ。まったく、君は昔から世話の焼ける……」
 いや、世話を焼いてたのは如何考えても俺の方だろ。頭には浮かんだが、それを云う間も無く肩を担がれる。数年前までなら俺の重さで太宰の方がふらついていただろうに、今はしっかりと支えられているのが腹立たしい。
「如何する積りだ」
「治せるひとを知ってる。……それまで死ぬなよ」
「はは」
 無理だ、と口には出さなかった。太宰も多分、それは十分承知していた。なんとなく、二人の間に沈黙が降りる。波の音が、それをかき消す。
「おい、太宰……」
「断る」
 取り付く島も無かった。見上げた横顔は、ひどく感情を欠いていた。
「……未だ何も云ってねえだろ」苦笑ひとつにも腹が痛くて、ふう、とひとつ溜息を吐く。「あの太宰が。随分と甘くなったもんだ」
「誤解しないで欲しいんだけど、君を此処に捨て置くより、君をこのまま連れて行った方が私の生存確率が上がるからそうするの」感情の篭もらない声が、太宰の口からぽつりと溢れた。「……君がもう、異能が遣えないんだとしてもね」
 その言葉は今までのどんな罵倒よりも冷たく俺の心臓を刺した。ざ、と血の気の引くのを感じる。引く血など、もう僅かしか無いと思っていたのに。
「……何でそれを知ってる」
「ああ、本当にそうなの? カマを掛けただけだよ、莫迦中也。あの頃の君ならのあんな敵なんて物ともしなかったろうし、それに」云いながらとん、と少し乱暴に腹を叩かれる。分厚い感触。「この防弾ベストで、その内臓毀損は無いでしょう」
 お互い餓鬼じゃないんだから、自重して欲しいよほんと……とぶつぶつと耳元で呟く声がする。此奴の考えるときの癖は相変わらずだ。ぶつぶつぶつぶつ呟きながら、きっと頭の中はフル回転して考え出しているんだろう、俺達二人の助かる道を。数年経った今も少しも変わっちゃいねえ。それがなんだか妙に嬉しくて、ああ、いいか、と思った。あの頃と変わっていないのなら、いいか、と。
「太宰。二度目は無いと云ったな」
「? ああ、内股歩きのお嬢様口調で?」
 随分と昔の話を持ち出す、と顰め面をした太宰に、あれは手前が遣らせたんだろうが、とぴき、と血管の割れる感触が在る。まったく、最後まで癪に触る野郎だ。けれど太宰も同じように苦虫を噛み潰したような顔をしていたからお互い様だった。沈思黙考の邪魔をするとすぐ苛々と八つ当たりを返す、そんな性質も変わっていない。
 だから黙って海を指した。
「首領に嬲り殺されるか、今此処で俺と海に飛び込むか。好きな方を選べ」
 太宰の表情が固まった。考えていない訳でもなかっただろう、この敵の只中で、命の助かる道と云えばこのまま捕まって首領の元に連行されるか、目の前の海を泳ぎ切って逃げるか、二つに一つだ。俺よりも多分に聡明な此奴なら、それを判らない筈も無い。
 無論、その成功率の低さも。
「念願の『美人と心中』だ、嬉しいだろ? 喜べよ」
 俺が云っても聞かない雰囲気を察したのだろう、今度は太宰がはあと溜め息を吐く番だった。俺は勝ち誇る。ざまあみろ、全部が全部、手前の思うとおりに行くと思うな。
 俺の体を抱く太宰の手に、ぐっと力が入る。
「……冬の海は冷たいよ」
「だろうな」
「心中相手はもう一寸慎重に選んだ方が善いんじゃない」
「しってる」
「知ってるって、君」
 なんにも判ってないでしょう、心中の一つもしたこと無い癖に、適当に返事しないで呉れる。そう不機嫌そうに鼻白む太宰の口を、そっと人差し指で封じる。俺がこんな、此奴みたいな馬鹿げた仕草をするとは思ってなかったんだろう、目を白黒させる太宰の顔が少しおかしくて、俺は薄く笑う。
「……知ってンだよ、太宰。お前が焦がれてる、心中相手なんて、疾っくに」

 そう、誰よりも、俺が。
 一番良く、識っていた。

 一瞬、時計の針が止まった。長い長い沈黙の後、太宰が微かに身動ぐ。太宰が目を伏せると、睫毛が瞬くのが間近で見えた。
「――そう」
 それだけだった。太宰の薄い唇から漏れたのはそれだけで、俺の口からももう浅い呼吸しか出なかった。濡れた吐息が交わる。シガーキスの出来る距離だ。そう思って、けれど煙草はもう止めてしまっていたから、何となく唇を重ねた。舌を這わせた口の中は血と、それから煙草の味がした。懐かしい味だ、変わってない、蝙蝠の味。躰の奥が喜びに震える。俺達は、一瞬だけ何もかもを忘れて互いの熱を貪った。ぎゅうと目を閉じ爪を立て、その甘さを乞うように互いの熱にしがみついた。この永遠のようなひとときが、ずっと続けば良いと思った。
 人の声が近くなる。名残惜しげに、唇が離れる。
 こつ、と額同士が中って。にこりと俺の目に太宰の笑みが映った。今まで見た中でも、一等悪どい笑みだった。きっと太宰の目にも、同じような表情を浮かべた俺が映ったに違いない。
 俺達は笑っていた。これ以上無く、気分が良かった。
「……じゃあね、中也。運が良ければ向こう岸で落ち合うか――」
「――来世で逢おうぜ。太宰」



 後に残ったのは、どぼん、と一つ大きく響いた、鈍い海の音のみだった。
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