古びた温室にて

(2014/07/27)


「矢っ張り此処に居た。御機嫌よう、中也」
「……ああ。御機嫌よう、太宰」
 お邪魔します、と覗き込んだ古い温室で、探し人は周りの薔薇に埋もれる様にぼんやりと座り込んでいた。差し込んだ夕日が、きらきらと其の色素の薄い髪を透き通らせる。自分では屹度ああはいかない、と私は黒々とした自分の髪を摘み上げた。彼女は其の容貌故に薔薇が善く似合っていたし、中でも特に此の温室で、赤い薔薇をそっと慈しむ様に眺める彼女の双眸と、刺が刺さらない様にそっと手折る彼女の細い指先と、口付ける様に何事かを囁く彼女の薄い唇が、私の大の気に入りだった。其の彼女の茫洋とした目が、今は美しい薔薇ではなく、ちら、と此方の姿を捉える。
 意識を此方に向けもしない内から、御機嫌よう、なんて澄ました挨拶が返って来たのは、屹度反射の力なのだろう。幼稚舎からずっと、十三年と一寸もリリアンで生活していれば、望むと望まざるとに拘らず、嫌でも身に付く習性だ。御機嫌よう、御機嫌よう。今日の彼女のご機嫌は、あまり宜しくないみたい。
 私は其の場の静寂を壊さない様、彼女にそっと歩み寄った。彼女はスカートの汚れを気にするでもなく、土で汚れた花壇の縁に腰掛けている。私も其れを真似て、すとん、と腰を下ろす。座ってから、あれ、これ他の人が来たらスカートの中身が丸見えになってしまうやつじゃないかしら、と云う可能性に思い至ったが、まあ善いか、と次には其の思考を放棄した。構やしない。どうせ誰も来やしないのだ。
 此処は、私と彼女の二人だけの秘密の場所なのだから。

「何してたの」
「見て判らない? 何もしてやしないわ」
「嘘つき」
 私は微かに笑った。彼女の周りには、微かに煙草の臭いが漂っていた。滅多に人の来ない此の場所で、彼女がこっそりと喫煙している事を知っている。其れが高等部一年目の二学期の終わりからである事も、何が彼女をそうさせているのかも、彼女と一年間クラスメイトをして、そうして一部始終を見ていた私は、全て知っていた。
「制服に臭いが付いたら如何するの」
 咎める様に云うと、「そんなもの、今どきカフェでだって付くでしょう」と彼女は相も変わらず、慎ましさを放り出した口調でぶっきら棒に答えた。「ゲームセンターでだって飲み屋でだって、ラブホテルでだって付くわ」
 私は其の言葉を聞いて、今度はあは、と端なく笑ってしまった。彼女らしい物言いだ。同時に、此の学園の生徒とは思えない俗に塗れた発言だ。常の教室での彼女の姿とのギャップが、私にはたまらなかった。
「品行方正な中也さんからそんな俗っぽいお言葉が聞けるなんて、先生方が卒倒してしまうのではなくて」
 中也さん、と敢えて教室での呼び方を口にする。教室ではお互い、リリアンの風習に則って、中也さん、治さん、だ。私達には其れが気持ちが悪くて仕様が無くて、だからこうして二人で居る間は、お互いがお互いを好きな様に呼ぶのだった。
 これも、私と彼女の二人だけの秘密。
「残念ながら、“お姉様”の居ない落ちこぼれですから」
 彼女の手の中で、カチン、カチン、とジッポが鳴る。落ちこぼれ、と云う言葉に、自分を揶揄する響きを感じ取って私が微かに眉を顰めたのに、彼女は気付いただろうか。
「こうしていると、ひどく落ち着くのよ」
 二本目に手を伸ばし掛けた彼女の手を、私は徐ろに掴んだ。何するの、と其の当人に射殺す様な視線を向けられ、背筋の芯からぞくぞくするのを感じる。心清く在らねばならないリリアンの女学生が、してはいけない顔だわ。それでも其の手を離す気にはならなくて、「私が咎めるのは筋違いだけど」と前置いて、もう片方の手を彼女の腹に伸ばした。其の手を制服の下へと滑り込ませる。彼女は眉をぴくりと動かしたが、其れ以外にさしたる抵抗は無かった。
「私達ってほら、何れは卒業して、誰か殿方と結婚して、そうして子どもを産むでしょう? 其の時に、貴女の子どもに悪影響が出たら、其れは少し悲しい哉、と思って」
 制服の下に直接触れる彼女の下腹部は、ひどくすべやかで、あたたかだった。規則正しく上下運動を繰り返していて、彼女の呼吸のしている事が知れる。彼女の命が感じられる。そうして労る様に撫で上げると、「っふ、」と擽ったそうな声が彼女の口から漏れ出た。あ、やばい、一寸愉しくなって来た。私が尚もしつこく触ろうとする其の気配を感じ取ったのか、ぱん、と手が払われた。「気が済んだでしょう」と怒った様に彼女が頬を膨らます。
「余計なお世話って知ってる? 今の処、そんな予定も相手も無いわ」
「でも、考えた事は有るでしょう? 其れ共、殿方とのそう云う関係を夢想出来ない程、あの先輩の子を産みたかった?」
「太宰」
 敢えて見えている地雷を踏みに行った。あの先輩、と禁句を口に上らせるか上らせないかしない内に彼女の目がすっと据わり、そうして彼女は私のリストカット痕を的確に押さえ、私の手を捻り上げた。其の苛立ちは先程腹を触れていた時の比では無く、抵抗する事が出来ない。
「……ったい痛い痛い! 中也、ねえちょっと! 加減してよ!」
「手前が先に喧嘩売って来たんでしょうが……!」
 もう女子高生の慎ましさとか関係無かった。彼女は本気で私の腹を殴り、私はうっと呻いて其の場に崩れ落ちた。

 あの先輩、とは、苗字を森と云う。名前迄は私は知らなかった。知らなかったけれど、其の先輩から貰ったロザリオを、私は常日頃から首に掛けていた。
 彼女も同じく、其のロザリオを後生大事に持っていた。彼女は特に、先輩から可愛がられていたと云う。
 気の多い人だったのかと云えばそうでも無く、唯其の先輩が心に決めた娘が、先輩が高等部に在籍する三年の間に、一緒に高等部に入れる年齢ではなかったと云うだけだ。だったら、其の娘にあげられないのなら、誰にあげても善いじゃない、と云う軽いノリで(本当に、あの人のそう云った性質はノリと云う他無かった)、気に入った娘全てに一山幾らのロザリオを配って回る様な、そんな先輩だった。だから私の持っているロザリオと、彼女の持っているロザリオとは、色も規格も購入日も、全て一緒の筈である。其れはリリアンの制度上の姉妹と云うより、お気に入りの娘に唾を付ける感覚に近かった様に私には見えた。其の『誰でも善いや』精神は留まる処を知らず、既に姉妹の居る娘や同学年の娘にまで配って回っていたのだ。先生方にバレれば風紀の乱れとして大問題になる処を、然し如何云う風にしてかあの先輩は上手くやってのけていた。あの先輩からロザリオを受け取る様な娘達は、皆そう云う先輩の性質を理解した上で受け取っていたから、余計な痴情の縺れだとか、破局騒ぎだとかも、特段無かったのだと思う。
 此処に気分を沈めている彼女だって、頭では理解している筈だった。
「そう言えば貴女、あの後輩を妹にするんじゃあないの」
「うん?」
 突然変わった話題に、ついて行けずに私は思わず聞き返す。あの後輩? あの後輩とは、どの後輩の事だろう。
 彼女は結局煙草を吸うのは諦めたのか、ジッポを仕舞いながらそっと一つの名を出した。
「芥川さん」
 彼女に一つ下の後輩を名前を呼ばれ、私は不覚にも一瞬息を詰めた。貴女があの後輩の事、知ってるとは思わなかった。そう言うと、「結構有名だけど。貴女達」とさらっと云われてしまったものだから、ええ、嫌だなあ、と反射的に思ってしまう。「ああー……ええー……あれは……うん……」と一頻り呻いた後、やっと絞り出した答えが、「あれは違う、かな」だった。
「違う?」
「うん。なんか違う」
 違うのだ、彼女は。一つ下の後輩を思い浮かべ、私は渋面を作る。此方にひどく懐いて呉れているのは知ってはいるけれど、だからと言ってアレに「お姉様」と呼ばれるのは、如何にもしっくり来なかった。アレに自分のロザリオを渡す自分の姿の、想像が出来なかった。ロザリオとは、他では如何か知らないが、此処、リリアン女学園高等部では、自分の心、魂の分身に相当する。其れを託すには、あの後輩では些か不足だった。
「ふぅん。そう」
 興味無さげにそう呟いた彼女の口が、かわいそうだな、と形取るのを、私は見た。そうして、彼女がはっとして自分の胸元のロザリオを押さえるのも。
 果たして彼女は、気の無いのに期待を持たせる様な事をして、はっきり断ってあげないのがかわいそうとでも云いたかったのだろうか。そう云う彼女は、まるで首輪を嵌められて主人の帰りを待つ犬の様に、其の首のロザリオに縛られているのだ。どっちが可哀想なんだか、と私は嘆息した。
 嗚呼、かわいそうな中也。

「そうだ、ロザリオを交換しましょうよ」
 ぽん、と私は手を打った。そうだ、そうしてしまえば善い。我ながらナイスアイディアだ。心の踊る一方で、彼女からの訝しげな視線が隣から突き刺さるのを感じる。
「其れに一体何の意味が有るって云うのよ」
「あら、こんな市販品のやっすいロザリオに、元々意味なんて無いでしょう」
 絡め取る様に揚げ足を取る。深い意味は無いわよ、と付け加えて笑う。其の反面で、私は如何しても彼女から彼女の持っているロザリオを引き離さなければならない、という使命感を強くしていた。今直ぐ取り上げる、と云う事は難しいだろう。そんな事をすれば、彼女は屹度死んでしまう。だから一寸ずつ、まずはロザリオを替え、思い出を替え、そうしてあの先輩に関する想いを替えてしまえば善いのだ。どうせ私達はクラスメイトなのだから、姉妹になんてなれないのだ、一寸くらい交換したって構やしないだろう。こんな、飾り物のロザリオ。
 ねえ、と私は彼女の手を取ってねだった。
「貴女のロザリオを、私に頂戴。代わりに私のロザリオを、貴女にあげるわ」

 彼女は、随分と長い間迷っていた様だった。夕日は何時の間にか沈んでしまっていて、灯りの無い温室内に、光の名残が薄ぼんやりと残るのみになっていた。嗚呼、もうそろそろ帰らないと、と立ち上がった私の背後で、ちゃり、とロザリオを外す音が聞こえた。
「中也」
「動かないで」
 鋭い指示が飛ぶ。彼女の顔の見えない侭、私が其の侭立ち尽くしていると、そっと首に手を回された。かちゃかちゃ、と私の胸元で二つのロザリオが中たる。首筋に中たる彼女の手が、吐息が、擽ったい。そうしている内に、私が付けていたもう一つのロザリオを、彼女の手が攫って行った。
「……付けてよ」
 囁く様に云われ、そっと其のロザリオを受け取る。また二人だけの秘密が増えたなあ、と思いながら、私は彼女の首に手を回した。彼女は髪が長いものだから、挟まない様に金具を留めないと……と悪戦苦闘していると、ん、と彼女が髪を持ち上げて、其の白い首筋が顕になる。たまらなくなって唇を落とすと、「こら」と怒られてしまった。けれど特段抵抗もされなかったので、金具を留め終えて彼女の体を抱き締めて、其の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。彼女の体からは、いつもシャンプーのいい匂いがする。然し其れにしても華奢な体だ。私はあーあ、と思った。あーあ、私がこのひとに子をあげられれば善かったんだけど。
 流石に思った侭を口に出すのは憚られたので、もう少し控えめに言い直しておく。
「私達、学年が違ったら善かったのかもしれないね」
「莫迦ね」くす、と彼女が薄暗闇の中で笑う気配がした。「私と貴女が姉妹だったら、何方が姉であれ、妹を正しく導くどころか、揃って道に迷ってしまうに違いないでしょう」
 擽ったそうにもぞもぞと動く彼女の体を、くる、と正面から抱き締めて、彼女の唇を柔らかく食む。日は沈み切っていて、外には夜の静寂だけがひっそりと佇んでいた。私達二人の胸の間で、ロザリオがかちゃりと鳴った。
「私は、貴女と二人、迷える子羊も悪くないと思うけど」
 どう? と私が少し戯けて見せると、彼女は私の腕の中で、「……そうね。其れも悪くないわ」と、密やかに笑った。
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