【再録】真空アクアリウム


一.


 きれいなみずとかくうきとか。人間が生きていくにはそう云うものが必要だ。
「な、なあ、助けて呉れよ、何でもするから!」
 目の前の縛られた男達の、口をはくはくと忙しなく動かしているのをぼんやりと眺める。多分、絶叫しているんだろうけどあんまりよく聞こえない。何時だって世界は一枚の水を通したように、曖昧模糊で不鮮明に見える。
 人間だって生き物だから、息の根を止めれば死んでしまう。それをわたしは知っている。そして汚れた水の中では魚が酸素を取り込めないように、汚れた空気の中では人間は上手く呼吸が出来ない。息が出来ない。生きられない。
 なのにこの世界の空気ときたら、その尽くが濁っているのだ。少なくとも、わたしの知る限りでは何処もそう。息がし辛くて堪らない。
「で、出来心だったんだよ、判るだろォ!」
「なあ、お前はあの医者野郎のお気に入りなんだろ、何とか取りなして呉れよ……」
 わたしはぼんやりと上を見上げる。剥き出しのダクトとか少し破れた排水管とかが見えて、ありがちな廃工場の光景だ。トタンの屋根の破れた処からは月の光が差し込んでいて、その下に行くとちょっとだけ息のし易いような気がした。しただけ。目の前の男達が口を動かすたびに二酸化炭素が多めに排出されてるんだなあと思うと矢っ張り汚く見えてしまう。こんな任務、疾っとと終わらせて早く帰ろう。
 手軽な木箱にひょいと座って見下ろすのは、組織の金を持ち逃げしようとした莫迦な男の二人組だ。上からは、好きに殺して善いと云われている。詰まり生かす道理は無いと云う訳。全く、面倒を押し付けてくれたものだと思う。上。わたしの所属する組織の首領。森鷗外。先代が無能だった影響でそれなりに期待と信頼を集めてはいるけれど、矢っ張り舐めた連中は居る。それがこう云う末端の綻びとして現れ出るのだ。それを一つ一つ、芽が大きくなる前に丹念に潰していかなければならない。わたしが任されているのはそれだ。
 だから今、気配を失くして――呼吸の音さえも押し殺して周りを固めているのは首領の私兵の数人だ。わたしのものではなく、今は一時的に借りているだけ。行く行くはわたしにも自分の部下を持たせる心算らしいけれど、例え次期幹部候補と謳っていても肩書だけでは人は随いて来ない。中身が伴ってから考えようね、とあの人は笑った。詰まり自分の実力で勝ち取れと云う訳だ。部下を得るに足る信頼を。
 次期幹部候補、太宰治としての実力を見せて。
「頼むよォ! お前の噂は聞いてる、取り入るのは得意だろ、その女顔で色目使ってよお……」
 どん、と手元の銃が暴発した。如何やら未だ自分の立場を判っていないらしい男の頬を掠めて銃弾が飛んでいき、「ヒッ」と云う悲鳴を残して黙る。よしよし。
「……うふふ。おじさま方、そんなに可愛らしく怯えずとも、わたしは何もしませんよ」にこ、と笑う。巷では天使の笑顔と評判の顔だ。びくりと男達が肩を震わせたのを見届けて、わたしはコツリと靴音を鳴らす。「わたしはしない。……ただ貴方方が貴方方のしたことの報いを受けて勝手に死ぬだけでしょう」
「う……」
「こンの糞ガキ、調子に乗んなよ!」
「……そう云う切り替えの早さは嫌いじゃないけど」
 善くもまあ縛られて転がされた状態で吠えられるものだ。奥にちら、と目配せすると途端首領の私兵が一人歩み出て、男の腹を蹴り付ける。鈍い音がして、男が血反吐を吐く音が響く。
 それを尻目に、別の私兵が声を潜めて合図を求める。
 そろそろ終わらせろと。
「太宰さん」
「まあ待って」
 それを制して目を閉じる。聞こえるのは闇に乗じる微かな息遣い。わたしと、呻く男二人と、首領の私兵。それ以外の蠢く何か。
 自然と口角が上がる。そう、確かに実行犯はこの二人だ。けれど何の力も無い唯の構成員が、果たして何の宛ても無く組織から逃げられると思うだろうか。所属していたからこそ知っていた筈だ、ポートマフィアの強大さを。それでもなお逃げられると思わせる誰かが――背後の組織が在ったに違いないのだ。
 不意に銃声が響いた。味方のものではない。指示を出していないからだ。
「ギャッ」
 甲高い悲鳴が闇に響いて、俄に隊列が乱れる。「! 敵襲――」その声も云い終わる前に途切れる。ドサリと何か重いものの落ちる音。色めき立つ部隊、それを囲む殺気。
 来た。
 狙い通りだ。
「――待機班!」
 兵の動揺を押し留めるように鋭く叫ぶ。それと小柄な影が落ちるのはほぼ同時だった。
「――ああ」
 黒い外套と銀の刃が一閃する。それが、次々と潜んでいた敵兵の首を掻き切っては血飛沫を上げていく。暗がりで何が起こっているのか、誰も判らない内に立っている人間は二分されていく。――生きている味方の兵と、襲撃しようとして立ち尽くしたまま絶命した敵兵とに。
「――これで全員だ」
 そう、影が云い放つのに五分も掛からなかった。音も無く崩折れた敵兵の、新鮮な血の匂いが充満する。その中に立つ毛を逆立てた一匹のけもの。色素の薄い髪が月の光を吸って柔く光る。暗がりから、じっとわたしを見据える碧い目。
 その姿に、においに、如何しようもなく気持ちが昂る。
「満足か? 幹部候補殿」
「上出来」
「そりゃあ善かった」
 動く人間が居ないことを確認して云うと、その少年はにこ、と気取った様子でナイフに付いた血を拭った。わたしと同じくらいの歳だと云うのに、驚くほど身のこなしが軽い。身体能力が高い。戦闘能力に優れている。駒として至極使い易い。
 けれどそれ以上に、惹き付けられる何かがある。
「ああ、いや」そう云いながら不意にくるりと振り返るものだから、じっと背中を見詰めていたことに気付かれたかと、思わずどきりと脈を乱す。「二人忘れてた。其奴等如何する」
 黒手袋の指し示す先を見る。其処には持ち逃げ犯の二人が泡を噴いて倒れていた。助けが来ることも、その助けが惨殺されることも、凡て予想外だったんだろう。これしきで気絶する程度なら、矢っ張り金など持ち逃げしなければ善かったのに。呆れながら、囮としての役目は果たしたから用済みだなと、場を片付け始めていた私兵の一人に目配せをして始末させる。
 これで今日の任務は完了。
 彼の方に向き直る。
「矢っ張り、きみだけ別行動させておいて正解だったなぁ」
 そう、あの二人を囮に、敵兵を釣って全滅させる為に彼を別に待機させておいた。此方が少人数で動けば、必ず襲撃はあるだろうと。口元が思わず綻ぶのは、作戦が上手くいったからと、彼がわたしの思い通りの働きをして呉れたから。
 その靭やかな肢体で、闇の中を駆けてわたしの要求を苦も無く満たすのだ、彼は。
 そしてそれをさせるのが他でも無い自分だと云う事実が、わたしの心をひどく高揚させる。
 多分、彼が居なければこんなに上手くいくことも無かったろうし。わたしでなければ、彼をこんなに上手く、最大限に活かすことも出来なかっただろう。
 それに何より。
「きみと組むと、気分が好いよ。中原中也」
「そうかよ。実はおれもだ、太宰治」
 そう笑う、彼の吐く息。
 戦闘の後の、熱を残した碧い瞳。
 この濁り切った空気の中で、それだけが如何してだか透き通って見えたのだ。

     ◇ ◇ ◇

 けれど何時も、そんなに上手くやっていた訳ではなかった。
「損害は二、だから上々かな。ね」
 同意を求めるように首を傾けた、此処はわたしの執務室だ。
 勿論、未だ何の権限も無い子供のわたしに与えられているのは執務室とは名ばかりの狭い一室で、此処を警護する部下だって居ない。その言葉を向けたのは、一緒に報告書を書くように、と云い付けられて机上を睨んでいた彼だ。
 その彼が、一瞬臍を噛んだように顔を顰める。
 ……あれ?
「……そうか。善かったな」
 その云い方が如何にも引っ掛かった。あれ、何だ。思わず彼の顔をじっと見る。何かを書類に書き込む手元、そうしてさらりと流れる柔らかい髪を。
 わたしは作戦が上手くいって――まあ、あんな簡単な任務考えるまでもなく上手くいくのが当然なのだけれど――それを彼と成し遂げられたことに一種高揚を覚えていた。それは彼も同じなのだと思っていた。わたしの指揮下で十分に力を発揮出来た、あの夜の匂い立つ興奮。
 昂った感覚の共有。
 なのに。
「何」
「何が。何でもねえよ」
 まるでそんなもの無かったとでも云いたげに、彼は視線を僅かに逸らす。知っている。それは彼が何かを誤魔化したいときの仕草であること。
 わたしたちの間に、何か云いようの無い齟齬がある。
「ねえ、ちょっと。云いたいことがあるのならはっきり云い給えよ」
「無えっつってんだろうが」
「嘘」
「嘘じゃねえよ」
 思わずその手首をぎゅっと掴んだ。ぎろ、と睨み付けると向こうも反射でガンを飛ばそうとしたのか眦がきゅっと鋭くなる。
 けれどそれも一瞬だった。何か思い直したのか、彼が少し俯くものだから、落ちる沈黙に動揺のあまり思わず彼と掌を重ねてしまう。え、嘘。泣かせた? いや、そんな莫迦な、この男がこんなことで泣く確率より明日槍が降る確率の方が絶対に高い。
 勿論泣いた訳じゃなかった。黙り込み――次に顔を上げた彼が浮かべたのは、眉を下げ、口の端を歪めた笑みだった。わたしは暫し呆然とする。
 なんだその顔。
 言葉を全部、飲み込んで、濁して。
 一枚水を通して見るような、感情を押し込めた歪な笑み。
 その下手な笑顔に、急に腹のむかつきが収まらなくなる。空気が濁って息苦しい。きみ、きみの性質を鑑みれば、気に食わないことには例え後先が如何なろうと構わず噛み付く筈だろうに、なんで選りにも選って、その顔をわたしに向けるんだ。握る手に力が篭もる。
 それともあの夜――興奮を、一夜を共有出来たと思っていたのはわたしだけだったのか。
「わたし。きみのその顔、嫌い」
 気付けば口を開いていた。傷付けようと思ってそう云い放った。傷付いて、そうして怒れば善いと思った。怒って本音をぶち撒ければ善い。わたしに何を思ってるのか。何が云いたいのか。臓腑の底まで全部曝け出せば善い。
 なのに。
「そうかよ」
 彼は表情を崩さなかった。
 ただそう云って曖昧な笑みを維持するだけで、終ぞ、腹の底を明かすことは無かったのだ。

     ◇ ◇ ◇

 彼のその表情の理由を知ったのは、その報告書を提出してから一週間も経とうかと云う頃だった。
 わたしと彼は相変わらず任務を共にしていて、反乱分子を始末して回っていた。不満は無かった。首領に、借りる私兵の面子を変えろとも云っていない。だって彼しか居ないのだ。
「太宰」
 そう、わたしの名前をきれいで透き通った音で呼ぶのは。そうして冷えた夜闇の中を肩を並べて闊歩している間だけは、わたし達の間にある溝の存在を忘れられた。夜の空気の中が生き易いと、気付いたのはその所為だ。彼の隣は、息がし易い。少しばかり不仲だからと云って、手放す心算は無かった。
 そうして今日も、報告書に書かなきゃいけない戦果と損害を指折り数えていたときだった。
「手前なら、もっと犠牲を少なく出来たんじゃねえのか」
 彼の碧色の瞳が、じっとわたしを捉えて揺れた。その手には血に濡れた拳銃。子供の彼が握るのには、少しばかり大き過ぎる。型を見るにうちで取り扱いが多いやつだから、きっと先刻死んだ味方のものなんだろう。
 わたしは首を傾げる。
「犠牲?」
「味方を無駄に殺さずに済んだんじゃねえかってこと」
「え、だってあの方法が一番手っ取り早かったよ。想定の内でしょ」
 今日の損害は五だ。また首領に補充を頼まないといけないけれど、でも幾つかあった策のうち、今日のが一番効率良く短時間で任務を熟せた。死んだ連中だって、マフィアなんて碌でも無い組織に所属しているんだから、死ぬことくらいは判ってるでしょう。
 それとも、同情心でも湧いたんだろうか。
「違えよ、考えろ」そう考えたわたしに向ける彼の表情は、何故か悲痛なほどに険しい。「確かに突撃させた方が、この任務じゃあ効率が善かった。でも長い目で見たら如何だ。兵の育成には金も時間も掛かる。此処で求める効率はそんなに必要か? ……それに、味方に死人が出りゃあ士気も下がる」
 ふむ、とわたしは考える。
 成る程、最後が本音なんだろうけど、確かに彼の言葉にも一理ある。例えその差し引きの結果が今日の損害だったとしても、士気の低下は無視出来ない。そこは常日頃から首領に云われている、わたしの欠点、悪い処。
 でも。
「……きみ、この前からずっと云いたそうだったのはそれなの?」別の部分が引っ掛かった。考え事をするときの癖で、ふいと顎に手を中てる。背丈が同じくらいだから、彼の方を見るとぱちりと目が合う。必死に訴え掛けるような、碧玉の瞳と。「ずっと、わたしのやり方に納得していなかったのに従ってたの」
「あ? そりゃあ……いや」
 わたしの咎めるような口調に、彼ははっと息を飲んだようだった。まるで、今しがた自分が口にしていた言葉が無意識のものだったかのような――今初めて、自分が何を口にしていたか認識したような瞠目。それから恥じらうように帽子を目深に被る。金の髪が揺れる。何時だったか、姐さんに新しく購って貰ったんだ、と笑っていた帽子だ。それで彼の表情が見えなくなる。
 きれいな音を紡ぐ、彼の口元が。
「手前が考えるんだから、最適解なのは知ってんだよ」彼の声に滲んでいるのは後ろめたさだ。その様子に、何だか凄く苛々する。きみがわたしに対して、そんな態度、取る必要無いのに。「それに策は、おれが口を出すことじゃねえんだ」
 彼の手がわたしの外套を掴む。わたしだって彼の手を握りたかった。きっとわたしも、彼に負けず劣らず必死な顔をしていたに違いない。彼と組めば、何だって出来ると思っていた。夜の空気が、心地好いと。
 なのに今は、きみの考えが判らない。
「けど、それでもおれは……」
 おれは。何。
 その続きを聞こうとして――けれどそれは、すっとわたし達の間に音も無く差した影に邪魔された。
「やあ、太宰君。上手くやっているかい?」
「げっ森さん……」
 顔を上げれば、居たのは見慣れた黒衣の男だった。思わず顔を顰めて後退る。彼と二人きりになっていた世界から一歩出て辺りを見回せば、其処には忙しなく動き回る構成員達の姿があった。死体の片付けの大半が終わっていたけれど、矢っ張り未だ薄汚い路地裏だ。組織のトップがほいほいと来て善い処じゃない。
 て云うか別に来なくて善いし。
「何でこんなとこに……」
「いや、何。少し様子を見に来ただけだよ。最近佳くやって呉れているようだしね」
 にこ、と笑った男はわたしが嫌がることを知った上で来たんだろう。趣味が悪い。その上骨張った大人の手で頭を撫でられて、わたしは頬の力を駆使して目一杯、顔を歪めるのに腐心した。子供扱いは止めて欲しい。格下だと教え込むのも。
 けれどそれより嫌なのは。
「如何だい、中也君。太宰君と上手くやっているかい」
 男が彼に言葉を向けたことだった。ざわりと背筋の毛が逆立つ。拒絶を示す余裕も無く表情筋が固まる。いや、首領が声を掛けるのは当然なのだ。彼はわたしがただ一時的に借り受けているだけの、首領の私兵の一人なんだから。
 それでも。
「中也」
 思わずぽろりと、彼の名を零した。その意は制止だ。
 なのに彼は、帽子を脱いで頭を差し出す。
「はい、首領」
 その様子に、先刻とは比にならない苛立ちが胃の中で暴れ回った。思わず腹を掻き毟りたくなる。彼に誰も、触れられたくない。それが例え首領でも。
 その上、わたしと同じく頭を撫でられ――にこりと笑ったその彼の笑みに、わたしは思わず目を瞠った。
 ――太宰。
 それは、彼がわたしの名前をそう呼ぶときに見せる無邪気な笑みと、あまりにもそっくりだったのだ。彼の真っ直ぐな瞳が相手を捉え、彼のきれいな声が相手の名を呼ぶ。
 そう云う顔を、わたしだけでなく首領にも向ける。
 いや、違う――首領に向ける顔を、わたしにも向けていただけなのか。
 彼がわたしの指示に、納得の行かない部分を曖昧に濁して従っていたその理由。その信用が何処から来ていたのかを、わたしは瞬時に理解する。
 吐き気がした。う、と口を抑えて蹲る。空気の濁る錯覚があった。息がし辛い。自分が呼吸をしていた現実に、不純物の混じっていた事実を突き付けられる。
 手前が考えるんだから、最適解なのは知ってる。
 その信頼は、わたしの実力で勝ち取ったんじゃない。
「云い付け通り、仲良くやっています」
 ――このひとに、指示されていたからなのか。 
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