【再録】フェアリーテイルの亡骸

――凡ての人間が死に、世界に私だけが残ったら、逆説的にそれは自殺ではないか?
(文豪ストレイドッグス Blu-ray第7巻特典ブックレットより)


  一.


 ばしゃ、と駆ける足下を泥水が跳ねた。雨で泥濘んだ地面に足の裏が僅かに滑る。チッと舌打ちを一つ。スラックスが汚れちまった。替えが少ねえってのに。
 足を止める訳にもいかず逃げる背中を追う。十数米前を必死に逃走する男は今夜の標的の内の一人だ。殺人犯であり――何より異能力者でもある。危険異能力者。自らの異能力を、既定値を超えて暴走させた男。
 携帯型異能力判定鎮圧執行システム<ドミネーター>を構える。
 銃の形を模したそれは、銃口に男の姿を捉えた瞬間、中也の目に男の異能の特性と係数を映し出す。特性は対象を圧縮する異能。そんな能力、手前ん家で食うもんジップロックすんのに使っとけよと思うがその係数は二百五十八。危険値だ。普段生活している分には決して届かない数値。
 手にした特殊銃が中也の網膜をスキャンし、麻酔銃<パラライザー>モードに移行する。
 己の手に余る力を持つと、人間は大抵その力を試したくなるものだった。その結果が犯罪であることも少なくない。例えば強盗であったり、今回のように殺人であったり。
 それを撃って捕らえるのが、中也達の仕事だった。
 然し走りながらでは中々銃の狙いが定まらない。隣を並走するスーツの女が同じく銃を構えながら叫ぶ。
「待ちなさい! 貴方達には複数の殺人事件について嫌疑が掛かっています! 大人しくっ、投降しなさい……!」
「待てと云われて待つ莫迦が居るかァ!」
「うっ……それはそうですが……!」
 遠くからの吐き捨てるような叫びに、口籠る年下の上司には悪いが少し笑ってしまう。それは確かに。
「道理だ」
 足を止めた。差し掛かったのは丁度浄水設備沿いの直線だ。銃では狙いは付け辛いが、然し確実な指向性を持たせることの出来る、或いは広範囲の攻撃なら狙いを外すことは無い。
 そう、例えば自分の異能力なら。
 雨の向こうに、男の姿を捉える。
「中原さん」
「樋口、離れとけ」上司に距離を取らせながら、首に固定された金属製の制御装置を抑えて音声を入力する。告げる内容はこうだ。「本部。コード06、異能犯罪対策課所属、中原中也。異能力の解放を申請する」
『――声紋認証を確認。異能力の使用を承認します』
 機械的な電子音声と共に、首元でピッと微かなロックの解除音が鳴る。途端ふわりと頭から浮く帽子を捕まえる。それまで抑制されていた力が、体の奥底から湧き出る水のように解放される感覚。外套が風に合わせて靡き、それに反して周囲の空気が重みで沈む。性質は重力操作だ。自然法則とは異なるその力を、地を伝わせて男へと伸ばすイメージ。
 雨が止む。
「行くぜ。汚れつちまつた悲しみに――!」

     ◆ ◆ ◆

 この世界には、『異能力』と呼ばれる力を発症する者が少なからず存在する。
 割合にして凡そ人口の〇.二パーセント。決して無視出来る数値ではない。然し不思議なことに、先天的に持ち合わせている場合もあれば、ある日突然発症する場合もあり、そのメカニズムは解明されていない。科学では説明のし切れないその力の特性や強さは人によって千差万別で、少しの切り傷を治す程度の力であることもあれば、災害や疫病を巻き起こし、或いは人を操る力まで持つこともある。科学が発達した現代でさえ未知の力であることに変わりはない。
 そして未知の力であるからこそ、異能力者は異端視される。
 何故なら市民の大半は異能力など持たない『健常な』一般市民だからだ。自分達の理解出来ない強大な力が或る日突然牙を剥くかも知れないことを考えれば、至極当然の帰結だと云えるだろう。異能力者は危険だから凡て殺してしまえとは極論だが、それに近い感情を抱いている市民は少なくない。曰く、野放しにするのは危険である。隣人が異能力者だと知れれば安心して生活が出来ない。隔離した方が善いのではないか。
 事実、異能力者がその能力を利用して犯罪を犯すケースも少なくない。
 そこで作られたのが、異能力統括管理システムだった。
 異能力が行使される際に発生する力場の歪みを異能係数としてドミネーターで測定し――健常な一般人であればその数値はゼロだ――その値が基準値を超えていれば問答無用で気絶させることの出来る特殊銃。
 そして一度基準値を超えた者は、許可無く異能力を使用しないよう制御装置を首に嵌めた上で大幅に行動を制限される。
 中原中也も、そうしたシステムにより危険異能力者と判定された人間の一人だった。
 四年前、周囲を巻き込んで自身の異能力を暴走させたことにより危険異能力者と見做され。
 以来、異能力を封じる枷を嵌められ、更生施設に入らない代わりに異能犯罪を取り締まる最前線に送られている。
 警察庁、異能特務局、異能犯罪対策課に。

     ◆ ◆ ◆

「被疑者を捕らえました! そちらは⁉」
 過ぎた重力を体に受けて芋虫のように地を這い蹲る男に特殊銃を向けながら、樋口がもう一方の犯人を追っている側に連絡を取る声を聞く。
 男の喚き立てる声がやけに耳障りだ。
「くそっ、手前等も同類だろうが狗ども……! 大人しく機械に制御されるだけの傀儡の分際で!」
 その言葉に薄っすらと笑う。
「そうだな。其処の樋口は兎も角、俺は"そう"だ。死にたくなきゃあ大人しくしてな。これ以上係数上げるとマジで王子様のキス待ち状態にすんぞ」
 銃を男の顳顬に押し当てる。表示される係数は二百八十三。三百を超えれば特殊銃は麻酔銃モードから処分<エリミネーター>モードに移行するだろう。少し迷う。エリミネーターで撃てば男は苦痛も無く五体満足のままその生命活動を停止する。
 但し今のまま撃てば麻酔だけで済む。更生施設にぶち込まれ、目出度く"狗"の仲間入りだ。
『スンマセン姐さん、一人取り逃がしました!』
「はぁ⁉」
 思考を遮るように樋口の取り乱す声が聞こえた。中也も眉根を寄せる。それはそうだ。あちらはあちらで広津と立原、それに銀が当たっていた筈だ。真逆ズブの素人犯罪者相手にあの三人が手間取るとも思わない。
 と、パン、と乾いた音が響いた。何事かと見れば樋口が自分の頬を張っている。それから幾分か冷静さを取り戻した声。
「――状況を報告しなさい」
『敵の異能力だ。水を操っている。操作と云うより暴発だがね。……この雨の後で、接近戦が主な我々では少々分が悪い』
「おい樋口、地図出す。街頭スキャナから場所出すぞ」
 支給されている端末弄りながら特殊銃の引き金を無造作に引いた。足下で男がうっと苦しげな呻き声を上げ、びくりと痙攣した後に、糸の切れた操り人形のようにその身体が地に投げ出される。麻酔銃だ。もう一人を追う間、暫く転がしておけば巡回ドローンが回収していくだろう。
 それよりももう一匹の獲物の方だ。表示された浄水施設の地図をなぞって点滅する標的のマーカーを追う。
「被疑者はC区を逃亡中だな。付近はドローンに封鎖させてるが奴の異能力の暴走が収まったら厄介だ。どれだけの精度かは知らねえが、十分にドローンを壊し得る特性だろ。……如何する、樋口」
 測るように問う。年下の上司は地図を見てじっと難しげに考え込んだ後で、「此処からの方が近いですね」と呟いた。
 そこからの決断は早い。
「被疑者を挟み撃ちにします。銀、C2の位置に待機。私と中原さんで標的の追跡。広津さんと立原は浄水設備を迂回して逆側からお願いします。それとは別に、梶井さん、これまでの目撃情報から被疑者の異能力の調査を。真逆無制限に操れる訳でもないでしょう」
『了解』
『りょーかいです』
『……』
 各々思い思いの返事をして持ち場に散っていく。
「……あーあ、どうせなら係数三百超えてて呉れりゃあ善いんだが」
「……上からは、出来るだけ殺すなと云われています」
 咎めるように云われて笑う。今夜の武器はもう特殊銃しか使えないのだから、威力はなるべく高い方が善かった。いや、アナクロな銃や手榴弾も持ってはいたが、何せ使えば経費が掛かる。公務員の辛い処だ。遠慮無く使えるのは電力だけで動く特殊銃と自身の異能力くらいのものだ。
 首元の制御装置を抑える。
 そして今夜の異能力の使用期限はもう疾っくに過ぎていた。最早中也の意志に従って空気の沈む気配は無い。このまま無理に使用許可も無く異能力を使えば係数三百をぶっ千切り、その瞬間に中也の体内には致死量の毒が打ち込まれるだろう。
 この"首輪"に付いているのはそう云う機能だ。
 処分機能。特殊銃と同じ。一度でも危険異能力者と認定されれば強制的に嵌めさせられるこの枷は、宿主が許可無く強力な異能力を使用した瞬間に殺処分装置へと早変わりする。
 この社会において危険異能力者に認定されるとは、詰まりはそう云うことだった。何時だって絞首台の上に立つかのように首を差し出し、システムと云う名の縄を巻きながらその床が抜けるのを待っているのだ。其処にまともな人権は存在しない。危険異能力者は、その危険を振り撒きながら生存することを許されない。
 足下に転がる男の体を爪先で軽く転がしてやる。
 そんなものを付けられて。
 システムに命を握られながら生き長らえるくらいなら。
「……いっそ此処で殺してやった方が、其奴にとっては楽かも知れねえだろ」
「駄目ですよ! ちゃんと今回の事件について事情聴取しないといけないんですから! その後の処遇についてはその……善処させますけど……」
 樋口が迷うように俯く。
 危険異能力者の扱いを職業柄善く知っているからこそ、心優しいこの上司は煮え切らない反応にならざるを得ない。

     ◆ ◆ ◆

 そんな温情を掛けるべきか如何かの迷いがあったからだろうか、一瞬反応が遅れた。
「……ッ!」
「中原さん!」
 水の散弾で特殊銃が弾き飛ばされる。続けて腹だ。避けようと身を翻すが間に合わずに被弾し痛みに喘ぐ。
 せめて異能力が使えれば。いや、異能力など使えずとも通常の銃弾であれば避けてやったものを、透明で弾速が見え辛い所為で初期対応が遅れた。
 逃げる男の背を追い叫ぶ。
「本部! 異能力の使用を申請する!」
『――規定使用時間を超過しています。二十四時間後に再度申請下さい。規定使用時間を超過しています――』
「クッソ、手前の、異能力くらい、好きに使わせろってんだよ糞が……!」
 走ると傷が引き攣れて血の流れ出す感覚があった。異能力があれば傷の一つや二つくらい、重力を操作して止血出来る。なのに何の権利があって、他人が俺の力を制限しやがんだ。課されるのは手足を縛られたような不自由さだ。社会福祉に殉じて死ねと云うのだ、このシステムは。
 手足を縛られ、海へと突き落とされるに等しい。
 痛みに顔が歪む。致命傷を外しはしたがこれ以上は拙い。塞がねえと流石に無理だ。
「私が追います!」
 樋口が隣から一歩先んじて駆け出す。直ぐに反対側から広津と立原も来る筈だ。「頼む、」足を止めて傷を塞ごうと歯を食い縛る。
「っ……!」
 と、その樋口が、施設の角を曲がろうとした処で同じように足を止めた。その目が大きく見開かれ、口を抑えて僅かに後退るのが、中也の処からも見えた。
 何だ?
 手早く手持ちのガーゼと包帯で傷を圧迫して塞ぎ、蹌踉めくように立ち尽くす樋口の元へと歩み寄って――息を呑んだ。
 其処にあったのは死体だった。
 額を一発撃ち抜かれ。
 無力に崩れ落ちている。
 先程まで追っていた危険異能力者の男の死体。
「……おい、如何云うことだこれは」
 側のフェンスに凭れ掛かりながら呻く。限界だった。腹の痛みがずきずきと傷口を刺すように暴れる。誰が。何の為に。此処に転がるのは明らかに他殺体だ。
 駆け寄って脈を取った樋口が、呆然と呟く。
「……死んで、います」
「防犯カメラ――いや街頭スキャナは! 如何なってる!」
 町中に張り巡らされた街頭スキャナなら、少なくとも異能係数は拾える。例えそれが異能力を持たない一般人であったとしても、係数ゼロのデータが拾える筈なのだ。
 追わなければ。男を殺した人間を。その意志に反して、気付けばその場に膝を突いていた。ばしゃ、と水溜りが膝に跳ねる。「中原さん、中原さん!」聞こえるのは樋口の声だ。腹を抑えてんのは追い付いてきた立原の手か。血が足りねえ。視界が霞んで意識が白む。
『うーん。街頭スキャナ、見てみてますけど……』
 樋口の悲鳴のような叫びが聞こえるだろうに、無線の向こうから聞こえる科学者の声は冷静で、そのことに妙に安堵した。でも、と続けられる無情な声を聞くまでは。
『其処に貴方達以外の係数データ、無いですねえ』
 その声を最後に、中也の意識はぷつりと途切れた。

     ◆ ◆ ◆

 病院のロビーは日が差し込んで明るく清潔なものの充満する消毒液の匂いが何処か陰鬱だ。
 患者や見舞客で混雑する待合スペースから少し離れたソファに病院着のままどかりと座ると、気を利かせて缶珈琲を買ってきた樋口が不審なものでも目にしたように眉根を寄せて見下ろしてくる。
「中原さん、もう動いて大丈夫なんですか……」
「あ? んなの過擦り傷だろ」
「いや如何見ても貫通してましたよね⁉」

 あの後、中也は結局意識を失って病院へと運び込まれた。
 腹の傷は樋口の云う通り貫通していたが、幸い内臓も主要な血管も外していたらしく現場での処置が功を奏して事無きを得た。それに一昔ならもっと命が危ぶまれていたのだろうが、現代においては多少の傷は問題にならない。寝かされたままカプセル型の装置に放り込まれれば細胞の活性化だか何だかで一気に回復させられるのだから便利になったものだと思う。何でもそう云う治癒の異能力を参考に開発されたらしい。表層の傷は最早僅かの痕を残すのみで、体内の修復も後数日治療を受ければ治るだろう。
 体の傷は修復された。
 然し胸の奥には未だ小さな傷が引っ掛かっている。
「……二つ気になることがあります」
 樋口が神妙に口を開いたのにああ、と頷く。万が一にも一般人に聞き取られることの無いように声を落とす。
「先ず異能力の発症についてです。今回の件、私達が追っていた二人以外にも、同居住区内で複数の異能発症者が出ていました」すっと差し出された端末を見る。其処には六人分の個人情報が並んでいた。性別もばらばら、居住地以外に特に目立った共通点は無い。「彼等は皆、数日前までは異能力等無かったと証言しています」
「同時に発症してんのは偶然……じゃねえよな」
「異能力発症の引き金となったものが何なのか、これは専門機関に調査を依頼しています」
 そうか、と頷く。異能力発症の原因は解明されていない。なら中也達素人が考えても埒は明かないだろう。専門機関に任せるのが最善だ。端末の表面をなぞるように横へスライドする。
 其処には気になることのもう一つが映っていた。
 殺された男の死体の画像。
「……これ実物未だ見れるか?」
「済みません、もう回収されてしまいました……ラボにデータが残っていますので、退院したらそれで」
「ああ……」
 嘆息しながら画像をスライドする。異能係数が一定値以上に達した状態で死んだ人間は、死後異能力が暴走しないよう民間の葬儀会社ではなく厚生労働省の施設に集められて火葬される決まりだ。今回も例に漏れずだろう。
 樋口が淡々と情報共有を続ける。
「あの後、現場を隈無く捜索しましたが、犯人はおろかその痕跡すら発見出来ませんでした。凶器は小型の自動拳銃です。一般に流通しておらず、密輸されたものを思われる為、現在入手経路からの調査は難航中。後は動機の線ですが、此方も特に……」
 樋口の語調が、奥歯にものの挟まったような云い方になる。それはそうだ。今回の件、動機の有無以外にも不審な点が多過ぎる。
 あの浄水施設は普段一般人が出入り出来ないよう厳重なセキュリティが施されている上、"何故か"逃亡中に被疑者二人が侵入した後は中也達がドローンで封鎖をした。人の出入りは無かった筈だ。誰も男を殺す為に立ち入れる訳が無い。
 それに何より。
「梶井さんにもう一度街頭スキャナの記録を見て貰ってますが、あのときあの場所には我々以外誰も居なかった筈です」
「……街頭スキャナ上はな」
 考える。街頭スキャナは街中で急激な異能係数の上昇があった場合に直ぐに駆け付けられるよう常時道行く市民の異能係数を計測しているシステムだ。人間が其処に存在するだけで計測データは生成される。然し所詮機械だ。今まで前例が無いだけで、騙す方法は何かある。
「例えば――街頭スキャナの中枢システムをハッキングして計測データを改竄したり、何か、電波妨害のようなことをして計測を妨げることは可能じゃねえのか?」
「本気で云ってますか。あれは」樋口が横に首を振る。「街頭スキャナは元々異能力を――他人の異能力を計測する異能力を元に開発された技術です。異能技師によるシステムはブラックボックスですからハッキングは受け付けませんし、計測は電波で行っている訳ではないので、上空であろうと深海であろうと電波が通じなくて計測出来ないなんてことはあり得ません」
「でも異能力が元になってんなら、その『計測する異能力』が効かねえ奴は計測されねえだろ」
 例えば、と本当に存在するかも判らない、一つの思い付きをぽつりと口にする。
「――例えば、異能力の効かねえ異能力者、とか」
「……いえ、真逆、そんな異能力――」
 ある訳が無い、と云い掛けた樋口が口を噤む。
 異能力の全容は未だ明らかになっていない。人によってその能力は様々なのだ。そんな異能力、ある筈が無いとも云い切れない。
 仮に異能力者でないにしろ、何らかの方法で街頭スキャナを回避したのには違いない。
 嫌な感じだった。局所的な異能力の発症、姿の見えない殺人者。あの区域は閉鎖されていたにも関わらず、居たのだ、中也達以外にも。
 あの場に侵入し――中也達を嘲笑うように、その目と鼻の先で男を殺して見せた人間が。
「……まるで見せ付けるみてえだよな」
 それは理屈と云うより直感からの言葉だった。あんな閉鎖された空間で、態々危険を犯してまであの場で男を殺害する合理的な理由など無い。見せ付けなのだ。それは自己の力の誇示であり――同時に認知を迫られているようでもあった。
 己を敵として、認識しろと。
「……巫山戯てやがる」
 手元でベコリと音がなる。力の入れ過ぎで、スチール缶が僅かにへこんでいた。

 取り敢えず、今回の件は保留ですねと云って樋口は帰っていった。男は通常の銃で殺されていたから恐らく異能犯罪対策課の管轄外だ。加えてもう暫くはきっと安静を云い渡される。詰まりお役御免だ。
 被疑者を殺されたままで終われるかよ、とも思うがこればかりは如何しようも無い。獲物を横取りされたわだかまりだけが宙に浮いていたが、素直に諦めるのがこの場合賢い選択だろう。酒が飲みてえなあ、とぼやきながら差し入れの缶珈琲をちびちびと飲む。
「おや、ご苦労様です」
 そのとき、初夏の涼風を思わせるような爽やかな声が背後から掛けられた。
 ソファの座面に手を突き、首だけで振り返る。
 其処に立っていたのは、やたらと顔の綺麗な男だった。
 砂色の外套に黒い蓬髪。男にしては整った容貌。異様なのはその右目だ。まるで覆い隠すように包帯が巻かれていて聡明さを滲ませる鳶色は欠片も見えない。包帯は首元にも隙間無く巻かれており、白い肌を一層病的に見せている。
 この病院の患者だろうか。けれど親しく声を掛けられるような覚えは無い。
 缶から唇を離して片眉を上げる。
「……俺と手前は知り合いだったか?」
「いいえ、一方的に存じ上げているだけですよ、803号室の……ええと、中原さん? 私も外来に善く来るものですから。それにしても、先程御見舞に来ていらした方、すごく美人な方でしたね。彼女さんですか?」
「違ぇけど……」
 美人、と云われて一瞬考え込むが直ぐに樋口のことかと思い至る。激務に髪を振り乱して走り回っている姿を見慣れている所為で善く忘れ掛けるが、中也の上司は割とそういう分類をされがちな容姿をしている。
 然しべらべらと善く喋る男だ。
「善いなあ、ああ云う美人と心中したいなあ……」
 そしてその、爽やかな容貌に反して絡み付く毒のような声に一瞬ぞわりと首筋に嫌な悪寒が走る。
 気に食わねえ。
 反射的に感じたのは生理的な嫌悪。
「……で? 俺に未だ何か用か」
 さっさと立ち去れと言外に云うと、男は困ったように眉尻を下げ、まるで自分には害意が無いとでも云いたげに、ひらひらと衣囊から出した両手を振る。
「いえ。ただやっと回復されたようなので、ご挨拶でもと。……ふふ。お腹の傷、お大事になさって下さいね」
「……手前に云われなくてもそうするよ」
 嫌味が通じたのか、男は至極上機嫌な様子で蓬髪を揺らし、中也に背を向けて病院を後にした。

 却説、俺も病室に戻るか。ソファから立ち上がって、飲み終わったスチール缶をガコンと自販機脇のゴミ箱に放り込み――。
「……待て」
 何で知ってる。
 男の言葉を反芻し、昼下がりの待合室の気温が二度ほど下がる感覚がした。
 あの現場は立ち入り規制が敷かれていて誰も入れなかった筈だ。その後、中也は即座に運び込まれて治療を受け、翌朝には傷口を塞いでいる。医者が患者の傷の状態などの個人情報を自主的に漏らすとは思えない。
 なら今擦れ違ったあの男は。
 俺が"腹を"怪我したことを何故知っている?
「――おい待て手前!」
 ガッと病院の自動ドアを半ば抉じ開けるように外に出る。
 然し涼し気な容貌の男の影は、その残り香を残して鮮やかに消え去っていた。
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