何でもない日のように
(2017/04/29)
針金と錠が噛み合ってカチャと軽い音がする。けれどそれだけだ。扉を押し開ける音も、部屋に爪先からそっと一歩を下ろす音も、太宰は一切立てなかった。だって相手はあの、五感が野生の獣に勝るとも劣らない男なのだ。不用意に騒ぎ立て、部屋に入りもしない内に拳を構えられるのは御免だった。
然し侵入を見付かった瞬間に怒声と拳が飛んで来るかに思われた部屋の中は、予想に反して電気がついておらず真っ暗だ。室内が夜の闇にじわりと浸されていて、珍しいな、と太宰は思う。普段なら、日付が変わっても暫くは部屋の電気が煌々とついていて、デスクで書類仕事をするなりソファで一人晩酌をするなりしていると云うのに。
眠っていると云うなら、その方が今の気分的には都合が善いけれど。
夜這いをするような気分のときには。
「中也?」
囁くように呼ぶ。
しんと静まり返った夜の部屋からは何の応えも返ってこない。ただ繰り返す規則正しい寝息だけが夜気を微かに震わせている。
如何やら本当に眠っているのか。
適度に張り詰めた空気に、無意識に舌で唇を湿らせる。
「ちゅーうや。起きて……」
そう云いながら、寝台の方に歩み寄る。少し大きめの声で甘えるように名前を呼んで、寝台の脇で上体を折り曲げるように覗き込むのに、それでも相棒は目を覚まさない。
寝台で、少し体を丸めるようにして眠ったままだ。
色素の薄い髪。少し幼さを残す、けれどひとたび目を覚ませば鋭さを取り戻すのだろう精悍な容貌。それが柔く目を閉じて、寝息を吐くたび微かに睫毛を震わせている。その一本一本まで見えるようで、夜目が利くのがこう云うときは幸いする。
手を伸ばして頬に手を添えると、太宰より少しだけ体温が高くて温かい。無防備に薄く開かれた唇を親指でふにっと押さえる。今無理矢理キスしたら怒るかな。何方にせよ最中は怒らせてしまうのだから構わなくても善いかな。自覚があるかは知らないが、キスして気持ちよくなっていると割と流されて呉れるような感じもするし。けれど敢えてせずにこのプライドの高い相棒の方からキスを強請らせるまでめちゃくちゃにするのも――。
不意に寝息が乱れた。
「ん゛、……」
「中也ぁ?」
「……ん゛ァ……、……太宰か……今何時だ……」
むにゃむにゃと不明瞭に聞かれて笑う。目を閉じたまま判ったのだろうか、今誰が寝室に忍び込んでいるのか。合っているから善かったものの、此処で寝顔を眺めているのが太宰でなかったら一体如何する心算だったのだろう。まあ、こんなに近くに接近することを、太宰以外に許しはしないのだろうけど。その事実に少しだけ優越感を覚えて口角が上がる。
……いやでもこの調子だと女性を抱いた後にも太宰の名前をうっかり出してしまっていないか大層非常に心配だ。そんな面白そうなことをするなら絶対に自分もその場に呼んでからやって欲しい。
いいザマだろうなあと思いながら、ふふっと笑って答える。
「二十九日の零時過ぎだよ」
「んん……」
聞いた眉間に皺が寄る。未だ寝かせろと云うことなのかも知れない。
その反応に、太宰はこれ幸いとぽいぽいと外套を乱雑に脱ぎ捨て、寝台へするりと潜り込んだ。
太宰は中也が抱ければ何でも善かった。態々嫌い合う相棒の部屋に来たのは、半分は人寂しさの為だったが、もう半分は嫌がらせの為だ。相棒にとって特別になるだろう一日の幕開けを、相棒にとって最も忌み嫌う自分が専有して台無しにしてやろうと云う独占欲。
布越しに体温がじわっと伝わって、暫くそうして暖を取る。太宰の体は代謝が悪いのか他人より比較的冷えをよく感じるものだから、体温の高い相棒との接触は嫌いではなかった。心地いい。然し今日は何だか少しゴワゴワする。何かと思ってシーツを捲れば、中也ときたら襯衣の上に何時もの内衣まで着込んでいるのだった。若しかしたら仮眠の心算でそのまま寝てしまったのかも知れない。構わず襯衣をたくし上げ、腰骨の辺りを指の腹でやわやわと撫でるように触る。何度かその形を確かめるように指を這わしていると、不意に「……んぁ、」と声が漏れる。
あ、いい感じだ。今日も萎えずに相棒を抱けそうなことに安堵する。何時もこんなに従順だったら善いのになあ。そう思いながら寝苦しそうな頬にキスをし、するりと下腹部を撫でるように手を伸ばした瞬間。
「あ!?」
冷えた太宰の手に微睡んでいた中也の瞳がカッと見開いた。
ぎょろりと焦点の合う金の瞳。目を剥かんばかりのその勢いに、差し込んでいた手を引いて思わずたじろぐ。
「い、いきなりなに」
「二十九日」
「う、うん」
それを聞いた中原中也の行動は早かった。太宰が頷くや否やバネのように上体を跳ね起こし、シーツを捲り上げたその手で太宰の首根っこを引っ掴んで寝台から素早く引き摺り下ろし一息に扉まで引き摺って、部屋の外へと摘み出す。
摘み出された。
「えっ。えっ?」
尻を廊下についたまま、展開の早さについていけずに思わず間の抜けた声を上げてしまう。
えっだって今完全にセックスOKな流れじゃなかった。
「善いか、今日は絶ッッッ対ェやんねえぞ」立てないままで抗議するように上体だけ振り返ると、其処に居るのは仁王立ちをした中也だ。睥睨されたまま鼻先にピッと人差し指を突き付けられる。「発散してえならその辺で女でも引っ掛けて抱いとけ。俺はやんねえ」
「なんで!?」
臨戦態勢のまま理不尽に行為を中断されたことによる悲鳴は思いの外悲痛な声が出た。問いに答えは返されず、バタンと扉が無情に閉じる。えっこの遣り場の無い熱は如何しろって云うんだ。それにそこまで拒絶されないといけない理由に本気で心当たりが無い。
だって今までだって体の関係を要求して強く拒絶されたことは無かった。中也も気持ちいいことは嫌いじゃない。流して流されるのが暗黙の了解だったじゃあないか。
機嫌を損ねた覚えも無い。と云うか、抑々機嫌は悪くはない筈だ。何時もの刺すような殺気が今は無い。
それに何より。
「君の誕生日くらい快くさせて呉れても善いでしょケチ!!!」
そう叫んだ途端バン、と扉が開いて、
「煩っせえだからだよ!!! 特別な日に手前とセックス♡とかそんな面倒臭え女みてえな真似してえ訳無えだろクソ太宰!!!」
それだけを一息に怒鳴った後に、バタン、と再び閉じたのだった。
◇ ◇ ◇
中原中也は警戒していた。
中也には昨晩の記憶がはっきりとあった。不自然なくらい明確に力強く太宰を拒絶をした記憶が。あの負けず嫌いな元相棒のことだ、絶対に嫌と云われれば何が何でもやってやると、必ず何か仕掛けてくるに違いない。
だから気を張っていて寝不足だった。
昨夜はあのまま帰ったようだったが。
「中原さん、おはようございます!」
「ああ、はよ」
執務室に入るや否や掛けられた部下からの声に、自然背筋が二糎伸びる。寝不足だろうが、部下にみっともない処は見せられない。風を切って部屋を横切り、デスクに座ってざっと書類を確認し、流れるような動作で引き出しから承認印を取り出す。
窓から差し込む朝の日差しに、意識がクリアに覚醒する。
「今日は書類をちょっと片してから外回りだ。十一時半からアポを取ってる」
「承知しました。車の手配をしておきます」
「ああ、頼む」
「それと……」
「?」
何時もならすらすらと報告を読み上げる部下が不自然に云い淀んだのを、何だと書類から顔を上げて胡乱げに見遣ると、後ろから別の部下がひょこ、と顔を覗かせた。
その手にある、見覚えのある洋菓子店の名前がプリントされている箱は真逆。
「あと……その。ささやかながら、これを……」
「中原さんお誕生日おめでとうございまーす! クラッカー鳴らして善いですか!」
「おお。クラッカーは止めとけ」
「はーい」
ぱかりと開かれた箱にみっちり入っていたのは、馴染みの店のホールサイズ限定のショートケーキだ。瑞々しい苺が贅沢に使われていて、如何切り分けようか迷うくらいに美しくケーキの上部を飾っている。たっぷりと塗られたクリームは、あの店の、口に含めばとろけるようなスポンジと合わせれば頬が落ちるに違いない。その上、丁寧にお祝いプレートまで付けられているのを見て自然と顔が綻ぶ。
「何時もホールサイズは食わねえから気になってたんだよな」それから、朝食を取っていなかったことを思い出す。「じゃあ一切れ貰って、後は三時に食うか」
有難うな、と笑うと部下達も照れたように笑いながら、「じゃあ俺皿持ってきますね!」「では私は切り分けを」と各自思い思いに散っていく。
じゃあ俺は珈琲を……と、部屋に備え付けの珈琲メーカーに手を伸ばしかけた処で、中也は何故か嫌な予感がしてぴたりと動作を止めた。
「……」
「如何されました?」
「いや……。ちょっと下の自販機で人数分缶珈琲買ってきて呉れね?」
「? 判りました」
訝しげな部下に、財布から出した千円札を押し付けて半ば無理矢理部屋の外へと押しやる。
今日一日は、買ったもんしか飲まねえ方が善い。
何となくそんな気がして、中也は珈琲メーカーのコンセントを抜き、水の入ったタンクをガタッと取り外す。ぐるりと執務室を見渡し、それから観葉植物の一つにバシャッと中の水をぶちまけた。
パチ、と微かな電気のショート音が聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
「あっ」
突然上げられた驚きの声に、太宰の隣に居た敦はびくりと身を震わせた。
「『あっ』?」
「……ああ、敦くん。敵の情報を傍受しようとしていたのだけれど、如何やらバレて妨害されたようでね」
うーん、仕方無い音声だけでも……とタッチパッドを叩きソフトの調整をしている姿は真面目そのものだ。敦はひどく感心した。
ただでさえこの先輩がこんなに真剣な顔でパソコンに向き合っている場面は貴重だと云うのに、その上今日は仕事までしているなんて。
……しているのは本当に仕事なんだろうか。
「あの……太宰さん?」
「……ダメだ。仕方無い、直接行ってくるよ」
パタン、とノートパソコンを閉じ、勤労意欲に溢れるにこやかな笑顔で云われ、敦は云い様の無い不安に襲われる。かつて、この先輩がこれほど仕事に精を出したことがあっただろうか。
答えは否だ。
けれど太宰の笑顔には有無を云わせぬ迫力があって、その上彼に非があると云う証拠は何も無かったので、敦はただ、心無しかうきうきと弾んだように出ていく先輩の後ろ姿を、「いってらっしゃい」と見送る他無かったのだ。
◇ ◇ ◇
外回りの後、少し大きめの定食屋に入った。
商談が上手く纏まって、中也の機嫌は頗る善かった。ポートマフィアが庇護する代わりに技術の提供を受ける。よくある交渉事の一つではあったが、然しポートマフィアはそうやって幾つもの企業を味方に引き入れ力を付けてきたのだから疎かに出来ないのも事実だ。これでまた一つ、組織を強固に出来たと喜ぶべきだろう。
何時もならカウンターにでも座る処だが、今日は部下も同伴だから男四人でテーブル席だ。注文を終え、ぼんやりと人で賑わう広い店内や、奥までは見えない厨房の入り口などを眺めていると、不意に部下がぽつりと切り出した。
「……そう云えば中原さん。今日何かあるんですか」
「何?」
心当たりが無くて首を傾げる。
「いえ……少し気を張っていらっしゃるようですから」
「あっ俺もそれ思ってました。朝からちょっとピリピリしてますよね」
「そうか?」
云われて、確かに一息吐くと肩の力が抜ける感覚があった。ずっと力んでいたのかも知れない。今日は何時あの傍若無人な包帯野郎が妨害してこないとも限らなかったから。
けれどその緊張を悟らせてしまうとは不覚だった。
「まあ手前等には被害が行かねえようにするから……」
「はい、お待ちー。A定ひとつと日替わりふたつ、後天丼だよー」
遮るように料理が四人分運ばれてきて、ぐうと腹の虫が鳴った。早い処掻き込んでしまいたい食欲を抑え、いただきます、と手を合わせて割り箸を手に取る。
それをぱき、と割った処で気付いた。
「あれっ手前それ食えんの。生魚苦手じゃなかったっけ」
それと知らずに注文したのだろう、部下の一人が、日替わり定食の刺し身を見下ろしじとっと冷や汗を流している。
「……。いや、俺も、ガキじゃないんで……お気遣い不要ですよ……」
「食えねえんじゃん。俺のA定と交換してやろうか?」
「いや中原さんのお手を煩わせる訳にはいかないので大丈夫、大丈夫です!」
中々に頑なだ。
中也はその態度が気に入らなくて、じいっとその部下を半眼で見遣って唇を尖らせる。
「あーあー、俺急に日替わりが食べたくなっちまったなァー、誰か交換して呉れねえかなァー」
「わかっ……わかりました、わかりましたよお……!」
どうぞ、と恭しく貢物のように交換されて思わず笑う。
「悪ィな」
「俺のセリフです……」
中也は別に嫌いなものは無かったから何でも食べた。肉も魚も好物だ。酒でもあれば尚善かったが、この後も業務なのだから飲む訳にはいかない。それでも箸は十分に進んだ。
ごちそうさまでした、と早々に食べ終わって伝票を手に取り外套を羽織る。
「じゃあ俺、先に本部戻ってっから。手前等は後の外回り宜しくな」
「……中原さん、伝票持っていったな。止める隙が無かった……」
「ちょう格好いいんですけど……俺毎日中原さんに惚れ直してる気がする」
「そうだな」
颯爽と黒外套を翻して去っていった上司の背中を見届け、気の抜けた部下達はもぐもぐと箸を進める。と、もう一人が会話に参加していないことに気付く。
と云うか、頗る具合が悪そうだ。
「お前……大丈夫か」
「い、いや……なんか体が熱いんだけど……ンッ」
ハァハァと、同僚に縋り付くその息が荒くなっている。見られるのは発汗。脈拍の乱れ。サングラスの奥の瞳が潤んで切なげに揺れる。
後は――無視出来ない股間の膨張。
この症状は。
「いや先輩何こんなとこで媚薬盛られたエロ同人みたいになってるんすか。需要無いですよ」
「うわばか昼日中にエロ同人とか云うな! アッ……」
苦しげに熱い息を吐き、その場で崩れ落ちた同僚を放置して、部下二人は食べかけのA定食をそう云えば、と凝視する。
本来なら、自分達の上司が食べる筈だった定食を。
◇ ◇ ◇
その後も運がいいのか野生の勘が働いたのか、盛った薬は口にされず唆して差し向けた敵対組織は全滅怪我する程度に仕組んだ事故は空振りと、中也へと差し向けたトラップはその尽くを退けられて太宰の苛立ちは頂点に達していた。いや、尾崎紅葉との食事会の最中には流石に手を出さなかったのだけれど。そんなことをすれば殺される。
自殺は好きだが夜叉になます切りにされるのはちょっと、かなり嫌だった。
時刻は短針が十一の位置を過ぎた処だ。
昨日と違って、今日は部屋の電気は煌々と付いている。
「……中也」
呼ぶと、ソファに身を沈めて本を読んでいた相棒が顔を上げた。その傍らのグラスに、不思議な色をした瞳が映り込む。
「何か用かよ、太宰」
「何か用、とは白々しいね、今日一日逃げていたくせに。……逃げないの?」
「……そうだな」溜め息とパタン、と本を閉じる音。「別に逃げる必要なんざ無かったんだよな」
中也がすっくと立つ。その静かな佇まいに嫌な予感を覚える前に、腰の辺りを黒い風が過ぎり反射で思わず飛び退った。中也の蹴りが空を切った音だと気付いたのは数秒後だ。
目の前の男はぎらりとその目を凶暴に光らせて、ち、外した、と低く唸った。
「……手前のタマ潰しちまえば善い話だった」
「待ーって待って待ってちょっとストップ! 嘘でしょ!? それ、それは君」あと半歩ズレていれば凶悪な蹴りが太宰の局部を刈り取っていただろうと云うその事実に今更ながらヒュッと喉の奥が引き攣って、背筋を悪寒が走り抜けた。力で敵わないことは百も承知だ。口で丸め込まなければ命が無い。「君、君っ……は、面倒臭い女性のような真似は、出来ないって」
「ああ」
「男の股間を蹴り上げる行為は、君の中では面倒臭い女性のような真似には入らない訳? 嘘でしょ?」必死さの滲まないように訴える。「君も男なら正々堂々と殴り給えよ。君、あの痛みを知りながらそんな卑怯な真似をする男がある?」
女性はその痛みを知らないから軽率に蹴り上げなどするけれど。
様々な過去の経験等も思い起こされ、自然苦虫を噛み潰したような顔になるのは致し方無い。噛んで含めるように滾々と説くと、中也は少し考えた後、「それもそうだな」と構えていた脚を下ろして頷いた。
かくして太宰の命は守られたのだ。
「善かったあ……もう、君だって私が不能になったら困るだろうに止めてよね」
内心冷や汗びっしょりのまま中也に寄り掛かる。丁度いい位置に頭があったから顎を乗せると、下からふん、と鼻を鳴らして別に困んねえよと云う声が聞こえた。それから退け、と体を払われ、腹に一発来そうな気がする。そう思ってぐっと腹に力を入れた。
然し思っていたような攻撃が、何時まで経っても一向に来ない。
太宰と中也は密着したままだ。
あれ? これは。
「……中也?」
試しにとん、とソファに押し倒してみると、中也の体は簡単に倒れた。
挙句、覆い被さる太宰の首に自分から手を回してくる始末だ。誘われるままに口づけを交わす。
……あれ?
思考を介さずに舌を口内でゆるりとまさぐり、名残惜しげに離す。唾液の引き切らない距離で、太宰は淡い光を湛える瞳をじっと見た。
「……記念日セックスは」囁くように訊く。「嫌なんじゃあなかったの」
「そうだな」
淡々と頷く相棒の、その目の奥の感情が今はひどく読み取り辛い。
絶対セックスしたくないと云うから、絶対抱き潰してやると今日一日息巻いていた。なのにこんなにもあっさり受け入れられると困惑する。
じゃあ今日一日、太宰がしていたことは一体何だったんだ。
顔を顰めるのがわかったのか、そこで漸く中也が笑みを覗かせた。
「でも手前がこれから俺を抱くのは、別に今日が何の日かなんて関係無く、ただ拒む俺を組み敷きてえってだけだろ」見透かしたような中也の低く囁く声が、太宰の鼓膜をそっと震わせる。「仕方無えから抱かせてやるよ。ばーか。ざまあみろ」
自分の嫌がらせを逆手に取られたのだと気付き、太宰はくらりと陶酔のような目眩を感じた。怒りとは別の熱が、腹の奥から沸々と沸き立つのを感じる。
「……君、その言葉、今から後悔するくらい目一杯祝ってやるから覚悟しなよ」
「ハ。手前が"祝う"だ? やれるもんならやってみろよ」
挑発的に笑うその頬をゆっくりと撫で、唇を落としながら思案する。祝うとか本当に柄じゃない。口にする前からぞわぞわと立つ鳥肌を抑えながら。
至極厳かな口調で。
云った。
「ハッピーバースデー、中也」
「きっしょくわる」
けれど相棒が満更でもない笑みを零していたから、たまにはこう云うのも悪くはないのかも知れなかった。
針金と錠が噛み合ってカチャと軽い音がする。けれどそれだけだ。扉を押し開ける音も、部屋に爪先からそっと一歩を下ろす音も、太宰は一切立てなかった。だって相手はあの、五感が野生の獣に勝るとも劣らない男なのだ。不用意に騒ぎ立て、部屋に入りもしない内に拳を構えられるのは御免だった。
然し侵入を見付かった瞬間に怒声と拳が飛んで来るかに思われた部屋の中は、予想に反して電気がついておらず真っ暗だ。室内が夜の闇にじわりと浸されていて、珍しいな、と太宰は思う。普段なら、日付が変わっても暫くは部屋の電気が煌々とついていて、デスクで書類仕事をするなりソファで一人晩酌をするなりしていると云うのに。
眠っていると云うなら、その方が今の気分的には都合が善いけれど。
夜這いをするような気分のときには。
「中也?」
囁くように呼ぶ。
しんと静まり返った夜の部屋からは何の応えも返ってこない。ただ繰り返す規則正しい寝息だけが夜気を微かに震わせている。
如何やら本当に眠っているのか。
適度に張り詰めた空気に、無意識に舌で唇を湿らせる。
「ちゅーうや。起きて……」
そう云いながら、寝台の方に歩み寄る。少し大きめの声で甘えるように名前を呼んで、寝台の脇で上体を折り曲げるように覗き込むのに、それでも相棒は目を覚まさない。
寝台で、少し体を丸めるようにして眠ったままだ。
色素の薄い髪。少し幼さを残す、けれどひとたび目を覚ませば鋭さを取り戻すのだろう精悍な容貌。それが柔く目を閉じて、寝息を吐くたび微かに睫毛を震わせている。その一本一本まで見えるようで、夜目が利くのがこう云うときは幸いする。
手を伸ばして頬に手を添えると、太宰より少しだけ体温が高くて温かい。無防備に薄く開かれた唇を親指でふにっと押さえる。今無理矢理キスしたら怒るかな。何方にせよ最中は怒らせてしまうのだから構わなくても善いかな。自覚があるかは知らないが、キスして気持ちよくなっていると割と流されて呉れるような感じもするし。けれど敢えてせずにこのプライドの高い相棒の方からキスを強請らせるまでめちゃくちゃにするのも――。
不意に寝息が乱れた。
「ん゛、……」
「中也ぁ?」
「……ん゛ァ……、……太宰か……今何時だ……」
むにゃむにゃと不明瞭に聞かれて笑う。目を閉じたまま判ったのだろうか、今誰が寝室に忍び込んでいるのか。合っているから善かったものの、此処で寝顔を眺めているのが太宰でなかったら一体如何する心算だったのだろう。まあ、こんなに近くに接近することを、太宰以外に許しはしないのだろうけど。その事実に少しだけ優越感を覚えて口角が上がる。
……いやでもこの調子だと女性を抱いた後にも太宰の名前をうっかり出してしまっていないか大層非常に心配だ。そんな面白そうなことをするなら絶対に自分もその場に呼んでからやって欲しい。
いいザマだろうなあと思いながら、ふふっと笑って答える。
「二十九日の零時過ぎだよ」
「んん……」
聞いた眉間に皺が寄る。未だ寝かせろと云うことなのかも知れない。
その反応に、太宰はこれ幸いとぽいぽいと外套を乱雑に脱ぎ捨て、寝台へするりと潜り込んだ。
太宰は中也が抱ければ何でも善かった。態々嫌い合う相棒の部屋に来たのは、半分は人寂しさの為だったが、もう半分は嫌がらせの為だ。相棒にとって特別になるだろう一日の幕開けを、相棒にとって最も忌み嫌う自分が専有して台無しにしてやろうと云う独占欲。
布越しに体温がじわっと伝わって、暫くそうして暖を取る。太宰の体は代謝が悪いのか他人より比較的冷えをよく感じるものだから、体温の高い相棒との接触は嫌いではなかった。心地いい。然し今日は何だか少しゴワゴワする。何かと思ってシーツを捲れば、中也ときたら襯衣の上に何時もの内衣まで着込んでいるのだった。若しかしたら仮眠の心算でそのまま寝てしまったのかも知れない。構わず襯衣をたくし上げ、腰骨の辺りを指の腹でやわやわと撫でるように触る。何度かその形を確かめるように指を這わしていると、不意に「……んぁ、」と声が漏れる。
あ、いい感じだ。今日も萎えずに相棒を抱けそうなことに安堵する。何時もこんなに従順だったら善いのになあ。そう思いながら寝苦しそうな頬にキスをし、するりと下腹部を撫でるように手を伸ばした瞬間。
「あ!?」
冷えた太宰の手に微睡んでいた中也の瞳がカッと見開いた。
ぎょろりと焦点の合う金の瞳。目を剥かんばかりのその勢いに、差し込んでいた手を引いて思わずたじろぐ。
「い、いきなりなに」
「二十九日」
「う、うん」
それを聞いた中原中也の行動は早かった。太宰が頷くや否やバネのように上体を跳ね起こし、シーツを捲り上げたその手で太宰の首根っこを引っ掴んで寝台から素早く引き摺り下ろし一息に扉まで引き摺って、部屋の外へと摘み出す。
摘み出された。
「えっ。えっ?」
尻を廊下についたまま、展開の早さについていけずに思わず間の抜けた声を上げてしまう。
えっだって今完全にセックスOKな流れじゃなかった。
「善いか、今日は絶ッッッ対ェやんねえぞ」立てないままで抗議するように上体だけ振り返ると、其処に居るのは仁王立ちをした中也だ。睥睨されたまま鼻先にピッと人差し指を突き付けられる。「発散してえならその辺で女でも引っ掛けて抱いとけ。俺はやんねえ」
「なんで!?」
臨戦態勢のまま理不尽に行為を中断されたことによる悲鳴は思いの外悲痛な声が出た。問いに答えは返されず、バタンと扉が無情に閉じる。えっこの遣り場の無い熱は如何しろって云うんだ。それにそこまで拒絶されないといけない理由に本気で心当たりが無い。
だって今までだって体の関係を要求して強く拒絶されたことは無かった。中也も気持ちいいことは嫌いじゃない。流して流されるのが暗黙の了解だったじゃあないか。
機嫌を損ねた覚えも無い。と云うか、抑々機嫌は悪くはない筈だ。何時もの刺すような殺気が今は無い。
それに何より。
「君の誕生日くらい快くさせて呉れても善いでしょケチ!!!」
そう叫んだ途端バン、と扉が開いて、
「煩っせえだからだよ!!! 特別な日に手前とセックス♡とかそんな面倒臭え女みてえな真似してえ訳無えだろクソ太宰!!!」
それだけを一息に怒鳴った後に、バタン、と再び閉じたのだった。
◇ ◇ ◇
中原中也は警戒していた。
中也には昨晩の記憶がはっきりとあった。不自然なくらい明確に力強く太宰を拒絶をした記憶が。あの負けず嫌いな元相棒のことだ、絶対に嫌と云われれば何が何でもやってやると、必ず何か仕掛けてくるに違いない。
だから気を張っていて寝不足だった。
昨夜はあのまま帰ったようだったが。
「中原さん、おはようございます!」
「ああ、はよ」
執務室に入るや否や掛けられた部下からの声に、自然背筋が二糎伸びる。寝不足だろうが、部下にみっともない処は見せられない。風を切って部屋を横切り、デスクに座ってざっと書類を確認し、流れるような動作で引き出しから承認印を取り出す。
窓から差し込む朝の日差しに、意識がクリアに覚醒する。
「今日は書類をちょっと片してから外回りだ。十一時半からアポを取ってる」
「承知しました。車の手配をしておきます」
「ああ、頼む」
「それと……」
「?」
何時もならすらすらと報告を読み上げる部下が不自然に云い淀んだのを、何だと書類から顔を上げて胡乱げに見遣ると、後ろから別の部下がひょこ、と顔を覗かせた。
その手にある、見覚えのある洋菓子店の名前がプリントされている箱は真逆。
「あと……その。ささやかながら、これを……」
「中原さんお誕生日おめでとうございまーす! クラッカー鳴らして善いですか!」
「おお。クラッカーは止めとけ」
「はーい」
ぱかりと開かれた箱にみっちり入っていたのは、馴染みの店のホールサイズ限定のショートケーキだ。瑞々しい苺が贅沢に使われていて、如何切り分けようか迷うくらいに美しくケーキの上部を飾っている。たっぷりと塗られたクリームは、あの店の、口に含めばとろけるようなスポンジと合わせれば頬が落ちるに違いない。その上、丁寧にお祝いプレートまで付けられているのを見て自然と顔が綻ぶ。
「何時もホールサイズは食わねえから気になってたんだよな」それから、朝食を取っていなかったことを思い出す。「じゃあ一切れ貰って、後は三時に食うか」
有難うな、と笑うと部下達も照れたように笑いながら、「じゃあ俺皿持ってきますね!」「では私は切り分けを」と各自思い思いに散っていく。
じゃあ俺は珈琲を……と、部屋に備え付けの珈琲メーカーに手を伸ばしかけた処で、中也は何故か嫌な予感がしてぴたりと動作を止めた。
「……」
「如何されました?」
「いや……。ちょっと下の自販機で人数分缶珈琲買ってきて呉れね?」
「? 判りました」
訝しげな部下に、財布から出した千円札を押し付けて半ば無理矢理部屋の外へと押しやる。
今日一日は、買ったもんしか飲まねえ方が善い。
何となくそんな気がして、中也は珈琲メーカーのコンセントを抜き、水の入ったタンクをガタッと取り外す。ぐるりと執務室を見渡し、それから観葉植物の一つにバシャッと中の水をぶちまけた。
パチ、と微かな電気のショート音が聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
「あっ」
突然上げられた驚きの声に、太宰の隣に居た敦はびくりと身を震わせた。
「『あっ』?」
「……ああ、敦くん。敵の情報を傍受しようとしていたのだけれど、如何やらバレて妨害されたようでね」
うーん、仕方無い音声だけでも……とタッチパッドを叩きソフトの調整をしている姿は真面目そのものだ。敦はひどく感心した。
ただでさえこの先輩がこんなに真剣な顔でパソコンに向き合っている場面は貴重だと云うのに、その上今日は仕事までしているなんて。
……しているのは本当に仕事なんだろうか。
「あの……太宰さん?」
「……ダメだ。仕方無い、直接行ってくるよ」
パタン、とノートパソコンを閉じ、勤労意欲に溢れるにこやかな笑顔で云われ、敦は云い様の無い不安に襲われる。かつて、この先輩がこれほど仕事に精を出したことがあっただろうか。
答えは否だ。
けれど太宰の笑顔には有無を云わせぬ迫力があって、その上彼に非があると云う証拠は何も無かったので、敦はただ、心無しかうきうきと弾んだように出ていく先輩の後ろ姿を、「いってらっしゃい」と見送る他無かったのだ。
◇ ◇ ◇
外回りの後、少し大きめの定食屋に入った。
商談が上手く纏まって、中也の機嫌は頗る善かった。ポートマフィアが庇護する代わりに技術の提供を受ける。よくある交渉事の一つではあったが、然しポートマフィアはそうやって幾つもの企業を味方に引き入れ力を付けてきたのだから疎かに出来ないのも事実だ。これでまた一つ、組織を強固に出来たと喜ぶべきだろう。
何時もならカウンターにでも座る処だが、今日は部下も同伴だから男四人でテーブル席だ。注文を終え、ぼんやりと人で賑わう広い店内や、奥までは見えない厨房の入り口などを眺めていると、不意に部下がぽつりと切り出した。
「……そう云えば中原さん。今日何かあるんですか」
「何?」
心当たりが無くて首を傾げる。
「いえ……少し気を張っていらっしゃるようですから」
「あっ俺もそれ思ってました。朝からちょっとピリピリしてますよね」
「そうか?」
云われて、確かに一息吐くと肩の力が抜ける感覚があった。ずっと力んでいたのかも知れない。今日は何時あの傍若無人な包帯野郎が妨害してこないとも限らなかったから。
けれどその緊張を悟らせてしまうとは不覚だった。
「まあ手前等には被害が行かねえようにするから……」
「はい、お待ちー。A定ひとつと日替わりふたつ、後天丼だよー」
遮るように料理が四人分運ばれてきて、ぐうと腹の虫が鳴った。早い処掻き込んでしまいたい食欲を抑え、いただきます、と手を合わせて割り箸を手に取る。
それをぱき、と割った処で気付いた。
「あれっ手前それ食えんの。生魚苦手じゃなかったっけ」
それと知らずに注文したのだろう、部下の一人が、日替わり定食の刺し身を見下ろしじとっと冷や汗を流している。
「……。いや、俺も、ガキじゃないんで……お気遣い不要ですよ……」
「食えねえんじゃん。俺のA定と交換してやろうか?」
「いや中原さんのお手を煩わせる訳にはいかないので大丈夫、大丈夫です!」
中々に頑なだ。
中也はその態度が気に入らなくて、じいっとその部下を半眼で見遣って唇を尖らせる。
「あーあー、俺急に日替わりが食べたくなっちまったなァー、誰か交換して呉れねえかなァー」
「わかっ……わかりました、わかりましたよお……!」
どうぞ、と恭しく貢物のように交換されて思わず笑う。
「悪ィな」
「俺のセリフです……」
中也は別に嫌いなものは無かったから何でも食べた。肉も魚も好物だ。酒でもあれば尚善かったが、この後も業務なのだから飲む訳にはいかない。それでも箸は十分に進んだ。
ごちそうさまでした、と早々に食べ終わって伝票を手に取り外套を羽織る。
「じゃあ俺、先に本部戻ってっから。手前等は後の外回り宜しくな」
「……中原さん、伝票持っていったな。止める隙が無かった……」
「ちょう格好いいんですけど……俺毎日中原さんに惚れ直してる気がする」
「そうだな」
颯爽と黒外套を翻して去っていった上司の背中を見届け、気の抜けた部下達はもぐもぐと箸を進める。と、もう一人が会話に参加していないことに気付く。
と云うか、頗る具合が悪そうだ。
「お前……大丈夫か」
「い、いや……なんか体が熱いんだけど……ンッ」
ハァハァと、同僚に縋り付くその息が荒くなっている。見られるのは発汗。脈拍の乱れ。サングラスの奥の瞳が潤んで切なげに揺れる。
後は――無視出来ない股間の膨張。
この症状は。
「いや先輩何こんなとこで媚薬盛られたエロ同人みたいになってるんすか。需要無いですよ」
「うわばか昼日中にエロ同人とか云うな! アッ……」
苦しげに熱い息を吐き、その場で崩れ落ちた同僚を放置して、部下二人は食べかけのA定食をそう云えば、と凝視する。
本来なら、自分達の上司が食べる筈だった定食を。
◇ ◇ ◇
その後も運がいいのか野生の勘が働いたのか、盛った薬は口にされず唆して差し向けた敵対組織は全滅怪我する程度に仕組んだ事故は空振りと、中也へと差し向けたトラップはその尽くを退けられて太宰の苛立ちは頂点に達していた。いや、尾崎紅葉との食事会の最中には流石に手を出さなかったのだけれど。そんなことをすれば殺される。
自殺は好きだが夜叉になます切りにされるのはちょっと、かなり嫌だった。
時刻は短針が十一の位置を過ぎた処だ。
昨日と違って、今日は部屋の電気は煌々と付いている。
「……中也」
呼ぶと、ソファに身を沈めて本を読んでいた相棒が顔を上げた。その傍らのグラスに、不思議な色をした瞳が映り込む。
「何か用かよ、太宰」
「何か用、とは白々しいね、今日一日逃げていたくせに。……逃げないの?」
「……そうだな」溜め息とパタン、と本を閉じる音。「別に逃げる必要なんざ無かったんだよな」
中也がすっくと立つ。その静かな佇まいに嫌な予感を覚える前に、腰の辺りを黒い風が過ぎり反射で思わず飛び退った。中也の蹴りが空を切った音だと気付いたのは数秒後だ。
目の前の男はぎらりとその目を凶暴に光らせて、ち、外した、と低く唸った。
「……手前のタマ潰しちまえば善い話だった」
「待ーって待って待ってちょっとストップ! 嘘でしょ!? それ、それは君」あと半歩ズレていれば凶悪な蹴りが太宰の局部を刈り取っていただろうと云うその事実に今更ながらヒュッと喉の奥が引き攣って、背筋を悪寒が走り抜けた。力で敵わないことは百も承知だ。口で丸め込まなければ命が無い。「君、君っ……は、面倒臭い女性のような真似は、出来ないって」
「ああ」
「男の股間を蹴り上げる行為は、君の中では面倒臭い女性のような真似には入らない訳? 嘘でしょ?」必死さの滲まないように訴える。「君も男なら正々堂々と殴り給えよ。君、あの痛みを知りながらそんな卑怯な真似をする男がある?」
女性はその痛みを知らないから軽率に蹴り上げなどするけれど。
様々な過去の経験等も思い起こされ、自然苦虫を噛み潰したような顔になるのは致し方無い。噛んで含めるように滾々と説くと、中也は少し考えた後、「それもそうだな」と構えていた脚を下ろして頷いた。
かくして太宰の命は守られたのだ。
「善かったあ……もう、君だって私が不能になったら困るだろうに止めてよね」
内心冷や汗びっしょりのまま中也に寄り掛かる。丁度いい位置に頭があったから顎を乗せると、下からふん、と鼻を鳴らして別に困んねえよと云う声が聞こえた。それから退け、と体を払われ、腹に一発来そうな気がする。そう思ってぐっと腹に力を入れた。
然し思っていたような攻撃が、何時まで経っても一向に来ない。
太宰と中也は密着したままだ。
あれ? これは。
「……中也?」
試しにとん、とソファに押し倒してみると、中也の体は簡単に倒れた。
挙句、覆い被さる太宰の首に自分から手を回してくる始末だ。誘われるままに口づけを交わす。
……あれ?
思考を介さずに舌を口内でゆるりとまさぐり、名残惜しげに離す。唾液の引き切らない距離で、太宰は淡い光を湛える瞳をじっと見た。
「……記念日セックスは」囁くように訊く。「嫌なんじゃあなかったの」
「そうだな」
淡々と頷く相棒の、その目の奥の感情が今はひどく読み取り辛い。
絶対セックスしたくないと云うから、絶対抱き潰してやると今日一日息巻いていた。なのにこんなにもあっさり受け入れられると困惑する。
じゃあ今日一日、太宰がしていたことは一体何だったんだ。
顔を顰めるのがわかったのか、そこで漸く中也が笑みを覗かせた。
「でも手前がこれから俺を抱くのは、別に今日が何の日かなんて関係無く、ただ拒む俺を組み敷きてえってだけだろ」見透かしたような中也の低く囁く声が、太宰の鼓膜をそっと震わせる。「仕方無えから抱かせてやるよ。ばーか。ざまあみろ」
自分の嫌がらせを逆手に取られたのだと気付き、太宰はくらりと陶酔のような目眩を感じた。怒りとは別の熱が、腹の奥から沸々と沸き立つのを感じる。
「……君、その言葉、今から後悔するくらい目一杯祝ってやるから覚悟しなよ」
「ハ。手前が"祝う"だ? やれるもんならやってみろよ」
挑発的に笑うその頬をゆっくりと撫で、唇を落としながら思案する。祝うとか本当に柄じゃない。口にする前からぞわぞわと立つ鳥肌を抑えながら。
至極厳かな口調で。
云った。
「ハッピーバースデー、中也」
「きっしょくわる」
けれど相棒が満更でもない笑みを零していたから、たまにはこう云うのも悪くはないのかも知れなかった。
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