【再録】名もなき柔き茨の枷
1
ぴちゃん、ぴちゃん、と何処かで水滴が天井を伝って落ちている。その雫の落ちる先で形成されているものが、果たして水溜まりなのか血溜まりなのか、薄暗く何とも判別が付かない。ただ、下水の腐った臭いがつんと鼻に付く処を見ると、何方にせよ雨水なんて綺麗なものでないことだけは確かだった。ぴちゃん、ぴちゃん。暗く、闇に塗り潰された地下室で、水音だけが響く。
中也はその暗闇の中を、迷うこと無くカツン、カツンと進んで行く。
職業柄夜目が利く上に、此処には何度も――それこそ下積み時代には頻繁に――訪れたことが在った為、手にした懐中電灯を使う必要も無い。石畳に靴音が反響し、じとりと澱んだ空気を掻き混ぜる。
時折足元を逃げ行く鼠を避けながら、奥へ奥へ。すると段々、絶叫混じりの悲鳴が近付いて来た。それは女の悲鳴でもなければ亡霊の囁きなんて可愛らしいものでもない、もっと生々しい、生きた男の絶叫だ。その音が漏れ出る部屋の前まで来ると、ぎっと血のこびり付いた扉に手を掛けた。
がた、と扉の引っ掛かった感触に、この建付けの悪さはもう少し整備出来ねえもんか、と中也は顔を顰める。「幾ら叫び声を上げても地上に届かないから」と云う理由で拷問部屋を地下に置くのは百歩譲って良いとしても、その道中に灯りくらい付けても良さそうなものだった。予算が無いと云う訳でもないだろうに、不便なことこの上無い。
以前にもそう、ぽつりと零したことが在った。その独り言にも似た中也の愚痴に対して、拷問部屋と云うのはね、雰囲気作りも大事なんだよ、と入ったばかりの同僚が得意気に云ったのを思い出す。
『人はね、判らないと云うことがこの世で一番怖いんだ。昼より夜が怖いのは、暗闇に紛れた一寸先に何が居るか判らないからさ。判らないから、何か潜んでいやしないかと勝手に想像して恐怖する。今から何をされるか判らない方が、人は勝手に想像して、勝手に恐怖するんだよ。間接照明の洒落た拷問部屋なんて、興醒めだ』
まあ、何をされるか判った方が、怖い場合も在るけどね。そう云って食えない笑みの同僚は、実に楽しそうにくつくつ笑った。
その同僚の云う「雰囲気作り」の一環なのか、扉を開け切ると室内にははっきりと血の臭いがこびり付いていて(そして恐らく、臭いだけでなく実物も大量に付着しているのだろう)、それがまた、中也の気分を陰鬱にさせた。
「首尾は如何だ」
「駄目ですね。相変わらず、何も吐きません」
部下の一人が答えた内容は、中也の意に沿ったものではなかった。中也は内心嘆息する。
軍人然としているこの部下だって、専門家ではないにしろ拷問の技術はそれなりに持ち合わせていると云うのに、それでも尚吐かせられないと云うことは、余程不感症の糞野郎なのかそれとも本当に知らないか。
これはハズレを引いたか、と中也は軽く舌打ちをする。その音を自分に向けられたものと思い、部下が深く頭を垂れた。
「申し訳御座いません」
「ああ、良い。頭上げろ。手前を責めてる訳じゃねえ」
そうして懐中電灯で室内を照らすと、まるく描かれた光の中に、血と体液に塗れた男の姿が浮かび上がった。
両の手はだらんと力無くぶら下げられ、壁に打ち付けられた枷に繋がれている。その指先からは爪が全て剥がされ、血がぼたぼたと零れ落ちていた。過剰に鞭打たれた服は最早衣服としての役割を果たさずボロ布と化し、その間から凄惨な痣が覗いている。その状態で、痛みも何も失くなったのか、ぐたりと男は気を失っていた。
何とも気楽なこった、と中也は独り言ちた。気絶を許して貰えているとは、此奴はとんだ果報者だ。
ふと傍らに水の入ったバケツを見つけ、中也は無造作にそれの中身を男に向かってぶち撒けた。中身は水だったろうか、若しかしたら汚物だったかも知れない。途端、男の体が電流を流したようにびくりと跳ねる。
「ひっ……」
「よお。此処の寝心地はそんなに好いかよ?」
ガタン、とバケツを蹴っ飛ばすと、大きな音に驚いたのか男が体を震わせる。がたがたと歯の根が合っていないその様は、完全に神経が参っている様子だった。
中也はこの、拷問と云う行為があまり好きではない。
勿論、ポートマフィアなんて物騒な組織でも、人の臓腑を抉り出してその痛みに泣き喚く様が好き――なんて変態性癖の持ち主はほんの一握りだ。大抵の者は、凄惨な光景に真っ青になって嘔吐するか、感情を殺して仕事に徹することが出来るかの何方かに二分される。ただ、中也はその何方でもなかった。血は苦手ではなく、精神をやられるほど薄弱でもない。それでも仕事と割り切って淡々と熟せるほどこの行為を得手としないのは、偏にその忍耐力の無さ故だった。何しろこの拷問と云うやつは、ひどく面倒臭いのだ。相手が肝心なことを喋るまで、根気良く聞き役に徹しなければならない。中也にはそれがひどく苦痛でならなかった。例え生け捕りの命令が出ていようとも、質問に十秒待っても答えが返って来なければ、うっかりぶっ殺して了い兼ねない。
こう云った仕事は、通常ならば姐さん――尾崎紅葉あたりに回る仕事の筈だった。彼女の配下に、こう云った荒事に長けた部隊が居る。彼女に任せておけば、間違いは無かった。
然し紅葉は別件が入ったとかで、暫く前から組織を留守にしていた。だからこうして仕方無く、中也が締め上げているのだ。
「で? 『幹部殺し』の犯人、好い加減吐く気になったか」
「お、俺は殺してない! ただ、あの袋を捨てて来いって! まさか人が入ってるとは思わねえだろお!」
「だからァ」あ、やばい。キレそう。ぶち、と何処かで音を立てそうな血管を抑え、己の理性を総動員し、要領を得ない男の言葉に、中也は根気良く質問を繰り返す。「その、捨てて来いって云った奴が誰かって訊いてんだよ。会ったんだろ?」
「あ、ああ……し、知らない……判らないんだ、本当だ、頼む、助けて呉れ……」
かつ、と後ろで部下が一歩歩み寄る。男の目がそちらに逸れ、それから視線が焦点を結ばずにがくがくと震え出した。如何やら余程の恐怖を植え付けられたらしい。「オラ、舌の在る内に疾っとと吐け」近寄って頭を掴み上げると、血と唾液と吐瀉物の混じった臭いがした。
「中也は優しいねえ」
その声と共に、唐突に、ぱん、と短い破裂音が響いた。銃声だ。そう中也が判断すると同時に、手の中の男の頭が弾ける。びしゃっと中也の顔に生ぬるい液体が掛かった。
中也を守ろうと、反射的に銃を構える部下を抑える。暗闇の中で、頭部を一撃。中也は男の体を打ち捨て、持っていた懐中電灯で声のした方を照らした。
その銃弾を放ったのは、蓬髪の男だった。男と云い切って了うには未だ年若く、右目に巻いた包帯の下に鬱蒼と隠れはするものの、良く見ればその顔には少年特有の無邪気な幼さを色濃く残している。確か中也より、幾つか年下だった筈だ。それが、「お、やった、中った」などと巫山戯たことを抜かしながら、ひゅうと手元の回転式拳銃を一回転させる。
「太宰」
自然、口調が苦虫を噛み潰したようになる。その男の姿は、鉄錆と体液の匂いの入り混じった重苦しいこの室内に於いても、羽根のようにふわふわと捉え処が無かった。
太宰は中也の目の前まで来ると、途端詰まらなさそうに足元に転がった男の死体を顎で示した。
「それは駄目だね。ハズレ。多分、本当に何も知らないただのお人形だ。使い物にならない」
「だからって、いきなり殺すことは無かったろうが」お陰で外套が血と脂でべっとりだ、と中也は顔を顰めた。「あと、俺のことは中原さんって呼べっつってるだろ」
「好いじゃない。相棒でしょ」
「相棒ってのは」中也は噛み潰した苦虫を吐き捨てる。「少なくとも、俺の知る『相棒』ってのは、相方を血とゲロ塗れにしようと、撃つタイミングを図ったりはしねえんだよ」
中也がぎろりと睨むと、太宰はにこりと極上の笑顔で笑って、「そう? ごめんね」と心にも無い謝罪を口にした。
そもそも『幹部殺し』とは、一ヶ月に殺された一人目を発端として、ポートマフィアの幹部級の人間が何者かに立て続けに暗殺された――或いはされ続けている――事件だ。
事件だ、とは云っても、ネーミングそのままなので特段何か説明の必要なものではない。と云うより、中也にはそれ以上の説明の仕様が無かった。そのどれもが鮮やかな手口で喉を刃物で切り裂かれており、相当の正規訓練を積んだ者だろうと云う予測以外は誰がやったと云う見当も付かない。外部犯か内部犯かも、その狙いも動機も判らないままいたずらに時は過ぎ、先週の死体で遂に四件目だ。平均すれば、一週間に一人は殺されている計算になる。何もそんなに急いて殺さなくとも良いものを、この犯人は中々如何して勤勉らしい。
聞く処に拠ると、如何やら犯人の遺留品が幾つか現場に残されていたらしいが、管轄ではないからだろうか、生憎と中也の処まで話は回って来ていなかった。
「却説。困ったねえ。折角の手掛かりが死んで了った」
「今手前が殺したんだろうが。上への報告は手前からちゃんとしろよ」
中也がじろりと睨むのも構わず、太宰は「あ、死んだ」と何時の間にか取り出した携帯ゲーム機に眉を顰めた。電子的な光が、茫洋と太宰の顔を照らし出す。こんな拷問部屋くんだりまで来て下らない娯楽に興じていると云うのに、青白く浮かび上がるその顔はひどく退屈そうだった。
「……まあ、何でも良いけどよ。無能が幾ら死のうが、別に俺が困ることは無えし」
そう云うと、太宰は意外そうに顔を上げた。「意外と冷たいんだね、中也って」と、まるで人がさも慈悲深い善人であるかのように云う。「てっきりもっと、『仲間を殺しやがって』とかって、怒るかと思ってた」
「仲間、ねえ」
中也はその言葉を、ふんと鼻で笑った。同じ組織に所属していると云う点では確かにそうなのだろうが、それ以上の関係は無かったし、関係が在るとも思われたくなかった。
ポートマフィアの幹部ともあろう人間が、何処の馬の骨とも知れない輩に寝首を掻かれ、殺されるなど言語道断だ。これが一般構成員なら未だ中也も哀悼の意を示したかも知れなかったが、殺されたのが他人を踏み台にし、食い物にし、そうして組織内を伸し上がった血も涙も無い幹部連中ばかりと来れば、同情心など湧く筈も無い。中也は静かに目を閉じる。
「……俺が彼奴等の死を悼む義理は無えよ。ポートマフィアの糞面汚しが」
おまけに殺された幹部はどれも、下らないことで中也に突っ掛かって来るような能無しばかりだった記憶が在る。
「そんなこと云って、若し君自身が狙われたら如何するの」
「そりゃあ」何を当たり前のことを、と一瞬戸惑う。「探す手間が省けて助かるだろ」
あっちから来て呉れるってんなら、願ったり叶ったりだろ、と中也は首を傾げた。狙われたら、返り討ちにするだけだ。
それを聞くと、太宰が呆れたように溜め息を吐いた。
「何とも勇ましいことで。君のそれは、決して慢心じゃない処が何とも嫌味だよね。……まあ、君が狙われることは先ず無いと思うから、どの道そんな仮定は無意味だけど」
「何?」
聞き捨てならない科白だった。その口振りだと、まるで犯人の意図を明確に知っているように聞こえる。事実、この男が思わせぶりに嘯くのであればそうなのだろう。中也は太宰の胸倉を掴み上げる。
「手前、何か掴んでやがるのか」
「さあ? その足りない頭で考えてみれば。中也じゃ判んないかも知れないけど」
今度こそじゃき、と銃を構えた部下の手を抑える。これが太宰と二人きりであったならば間髪入れず中也が殴り掛かった処だろうが、自分より怒りに冷静さを失った者が傍に居ると、案外冷静さと云うのは失われないもののようだった。
◇ ◇ ◇
中原中也は、この太宰治と云う男のことを良く知らない。
首領が或る日突然、幹部候補として連れて来たのだ。聞けば川を流れていた処を拾ったと云う。拾ったってそんな、犬猫じゃあるまいし、と当時中也は思ったものだった。恐らく中也以外の幹部も内心そう思っていただろうが、「と云う訳で、今日から仲間になった太宰くんです。皆仲良くするように」と小学校の先生よろしく笑う首領に、逆える人間が居よう筈も無かった。たかが新入り一人の人事に口を出し、職位的にも物理的にも、首を飛ばされては堪らない。
連れて来られた方も連れて来られた方で、中々に常軌を逸していた。通常、堅気から組織に入り、いきなり幹部級と対面ともなれば、緊張で今にも喉から心臓を出しますと云った風な顔をする奴の方が多い。それがこの男と来たら、へらへらと薄ら笑いを浮かべて「宜しくお願いしまーす」などと頭を下げる傍らで、逆に幹部連中を値踏みしていたのだから驚きだ。
幹部連中の何人がその視線に気付いていたかは知らないが、その阿呆みたいな人好きのする笑顔の底で、此方側に並ぶ人間を端から見定め、量っていたあの猛禽類を思い起こさせる冷たい視線を、中也はこの男と顔を突き合わせる度思い出す。嗚呼、油断をしていたら、きっとこの男にぺろりと食われて了うのだろう。そんな予感に、ぞくぞくと背筋が冷えた。
そんな風に凝視していたからか、其処でちら、と目が合って了った。それがそもそもの間違いだったのかも知れない。
結局、幹部の中では中也が一番年が近いから、と云う理由で、太宰は中也と行動を共にすることが多くなった。曰く、「幹部の仕事振りを勉強させて欲しい」とか何とか。今にして思えば、あの太宰が、年が近いからなんて可愛らしい理由で自分に近付く筈も無いことを、中也は重々承知していた。
「あの男、心底気に食わないです」
とは、中也の部下の一人である佐久間と云う男の言だ。幹部候補への暴言など、誰かの耳に入ればただでは済まないものを、普段寡黙に任務を果たし、忠実に従う部下がそんなことは委細構わず感情を露わにするのが珍しくて、中也には少しおかしかった。佐久間はそれを同属嫌悪だと云う。急に現れて自分達の上司を横取りされるのは気分が悪い、とのことらしい。直截にではないが、大分オブラァトに包まれたそれを聞いて、中也は判った、と頷いた。判った、気を付ける。
太宰ばかりに感けている積りは無かったが、部下のことを蔑ろにしていると思われるのは心外だった。
然し、太宰が自分の元に居るのは、一時的なものだと中也は考えていた。今の太宰は、小鳥が休むのに丁度好い枝を見つけて、一時的に留まっているようなものだ。時が経てば、また直ぐ飛び立って行くんだろう。
一度、訊いたことが在る。
「手前はなんで、俺なんかと行動してんだよ」
「それは年が――」
「そんな建前が、俺相手に通用すると、まさか本気で思ってねえよな、相棒」
反吐が出そうな御託を遮ると、太宰はうーんと首を傾げた。答えるべきか如何か、それを迷っているようだった。だって君、怒りそうだから、と云う言葉に、今更だろと返せば、それもそうかとにこりと笑って食えない男はこう云った。
「君の相棒って立ち位置が、一番組織内で力を持てて、且つ余計な派閥争いにも巻き込まれない、自由に動き易そうな位置だったから、かな」
「……そうかよ」
如何にも太宰らしい理由だったので、腹が立ちもしなかった。寧ろ、そんな下心も無く近付かれた方が悍ましい。
「あれ? まさか期待した? 期待しちゃった? 私が何か特別な感情を寄せて中也を選んだんじゃないかって、若しかして期待させちゃったかな?」
「煩え! 手前みてえな唐変木相手にそんなモンする訳無えし寧ろ此方から願い下げなんだよ! あと中也じゃなくて中原さんって呼べ!」
そう云うとへらりと笑って、「御免ね中也、中也が年上で先輩だって実感が中々沸かなくて」といけしゃあしゃあと宣うものだから、その時ばかりは本気で殴った。中也の打拳をまともに受けた太宰は、体を折って暫く再起不能になっていた。好い気味だ。
肉弾戦では、中也の方に分が在った。
然しそれでも、太宰の実力は折り紙付きだと云って良い。
◇ ◇ ◇
「そう云や手前、俺のカフス知らねえか」
「知らないよ。なんで?」
「いや、数日前から無えんだよな……。ハンカチも一枚、見当たらねえし」
「珍しいよね、中也、そういうのの管理きっちりしてそうなのに。遂に痴呆が始まったのかな?」
「死ね」
拷問部屋を出れば、もう日の傾く頃合いだった。見れば西の空が橙色に燃えていて、思わず中也は目を眇める。あの地下室はまったく、窓が無い為に時間が判らなくていけない。
汚れた衣服を部下に任せ、中也は気晴らしに太宰と酒を引っ掛けていた。酒は良い。陰鬱な気分は、酒で吹き飛ばすに限る。そうして明日も仕事だと云うのに二軒三軒と重ねて了い、何時の間にやら二人揃ってへべれけに酔っていた。
時刻は深夜。僅かに欠けた月が、薄っすら雲に隠れる頃。
気付けば人気の無い路地を歩いていた中也と太宰は、音も無く忍び寄って来た黒服の男達に囲まれていた。
「うーん、黒い人達が八人見える」太宰が酒臭い息で、ひい、ふう、みいと数える。「あれ、本当は一人なんじゃない? 残像が見えるなんて、酔ってるのかな」
「馬鹿云え、俺には十人に見えるぞ」
「それは本当に酔ってるんじゃない?」
太宰があは、と無邪気に笑い、流れるような動作で持っている銃の弾倉を確認した。かちゃん、と回転式拳銃のシリンダーが元の位置に収まる。
「ところで中也。一応訊くけど、あの人達って中也のお友達だったりする? だったら半殺しに留めるけど」
「深夜に短機関銃でお出迎えして呉れるお友達は、大抵殺しても善いお友達だよ」中也はナイフを構える。銃や異能を使わずとも、これ一本で十分だった。「あと中原さんって呼べって云ってンだろ」
背後で太宰が一歩、下がる気配が在った。ぴりりと空気が張り詰める。きゅっと口を引き目を見開くと、幽かな月の光だけでも十分、敵の配置を把握することが出来た。
ああ、これで好く見える。
がちゃ、と敵が構えるのと、中也が地面を蹴り付けるのとはほぼ同時だった。目にも留まらぬ早さで飛び込む。
「遅え」
一人目、懐に滑り込み頸動脈を掻き切る。二人目、銃を撃てないよう手首を切り落とす。敵が射撃体勢に入る前に敵の只中に突っ込めば、短機関銃なんてものは使い物にならない。狙いを付け難く掃射範囲の広い短機関銃では、同士討ちの危険性が在るからだ。それに気付き短機関銃から手を離し、拳銃、或いは刃物を取り出そうとした奴の首から切り裂いていく。敵に狙撃手が居ないのならば楽勝だ。
四人目を切った処で、中也は一旦刃を引き、援護射撃に徹していた太宰の手を引っ掴んだ。
「誘い込むぞ」
「りょーかい」
へら、と太宰が上機嫌に笑う。その足取りは確りしているので酔いは冷めているのだろうが、如何せんその表情筋の緩みは緊張感に欠けていた。手袋の上からでも伝わる、熱い体温。ガキかよ、と毒突きながら建物の影に回り込む。
「あれ、『幹部殺し』と同じひとたちかな?」
「……いや、違うだろ。『幹部殺し』の野郎は」太宰の問い掛けに、中也はナイフの血を拭いながら、「若しくは女は」と訂正する。
「使う凶器は刃物だった筈だ。それも市販の。あんな、組織単位で一式揃えるような得物じゃなかった筈だろ。それに、上の見立てじゃ単独犯だって聞いてる」
「何でだろうねェ」シリンダーに弾を込めながら、太宰がぼんやりと呟く。その疑問は、既に目の前に居る敵を通り越して、『幹部殺し』の犯人に向けられていた。「銃の方が楽なのに。矢っ張り、線条痕とか調べられたら困るからかな」
その言葉に、何か引っ掛かるものが在って、中也は一瞬動きを止めた。
線条痕を調べられたら困る。それは詰まり、銃弾と銃を照合して、自分の銃が幹部殺害に使用されたものだと特定されては困ると云うことを意味する。犯人は、何らかの理由でその「自分が所持している銃を調べられる」可能性を懸念していることになる。
けれど、弾と銃身の照合など、そうそう出来るものではない。何故なら、弾丸の方は現場に残っている為に調べられるが、銃の方はそうはいかないからだ。まさかこの世に存在する銃の一つ一つを、片っ端から調べる訳にもいかない。仮に他の組織の人間が『幹部殺し』だったならば、既にその時点で照合は絶望的だろう。
それでも用心深い犯人は、その可能性を捨て切れなかった。
詰まり犯人は、ポートマフィアが調べようと思えばその所持する銃を容易に調べることの出来る、内部の――。
だだだだだん! と地面が破裂した。短機関銃だ。先程とは異なり、十分な距離を保った上での一斉掃射。地面の破片が飛び、中也の頬を掠る。
「あーもう、七面倒臭え!」
中也は頭をがしがしと掻き、だん、と苛立ち紛れに地面を踏み抜いた。ばぁん、と足元の舗装が砕ける。
中也の突然の奇行に隣で太宰がびくっと体を震わせるが、そんなものには構っていられない。帽子を脱ぎ、太宰に被せる。
「うわ、ちょっと中也」
「こう云う諺がある」銃撃が止んだタイミングで、ばさりと外套を脱ぎ捨て、物陰から躍り出る。正面切って向かい合うと、弾を補充しているのか異能を警戒しているのか、直ぐに撃って来る気配が無い。莫迦か此奴等。「人の酒の邪魔をする奴ぁ、馬に蹴られて死んじまえ」
「何人か生け捕りにしとかなくて良いの?」律儀に帽子を被り直した太宰の、呆れたような声が聞こえた。「まあ、中也のそう云う処、私結構好きだけど」
云うが早いか、太宰が建物の影から頭を覗かせ、立て続けにぱん、ぱん、ぱん、と発砲した。その銃弾は的確に敵の手元を撃ち抜き、銃の使用を不可にしていく。その銃声を背に中也は駆けた。射撃に十分な距離が在ろうと、手が使えなければ結果は同じだ。中也のナイフがぎらりと閃き、順に肉薄した敵を裂く。
正面に居た三人を始末した処で、んん? と中也は違和感に気が付いた。
太宰は八人だと云っていた。それに対して斬ったのは七人。
一人足りない。
そう気付くのと、背後に敵の気配を感じるのとはほぼ同時だった。嗚呼、と中也は嘆息した。嗚呼、しくじった。中也は振り返ること無く、静かに目を閉じる。
ぱぁん、と銃声が夜の街に木霊した。
どさ、と背後の男が倒れた。
「……中也、君さあ」
からんからんと薬莢を蹴飛ばしながら、太宰が物陰から出て来る。
「無計画に突っ込んで行くのは好いけど、今私が撃たなかったら如何する積りだった訳。せめて異能使いなよ異能」
「手前は撃つだろうが」
何を当たり前のことを、と中也は肩を竦めて外套を拾った。此奴は如何しようも無く協調性が無かったが、戦闘に於いてはそんなものは問題にならない。太宰は常に、合理的に最大の利益を求めて動く。であれば、戦闘の中でその思考を読み、その動きを読むことは、そう難しくはなかった。
己の帽子を、律儀に被ったままだった太宰から掠め取る。抑え付けられていた太宰の黒髪が、ふわりと風に踊った。
「手前にとって、俺は未だ利用価値が在る。なら、撃つだろ?」
「……とんだ自惚れ野郎だ」
吐き捨てられた言葉に反して、太宰の口元が楽しげに歪むのが月明かりの下で見えた。同時に、自分の頬も同じように緩んでいるのが判る。
ひどく気分が良かった。それはきっと、酒の入っているだけではない。このままナイフを仕舞うのが惜しいくらいに、自分達は同じ匂いに酔っていた。嗚呼、このままいっそ夜明けまで、覚めない夢に微睡んでいたい。
相棒とは斯くも気持ちの良いものなのか。だったら、悪くない、と中也は思った。背を預けるのも、悪くない。
願わくば、目の前のこの男も、同じ気持ちで在れば良い。
「嗚呼、今夜は月が綺麗だねェ」
気持良く意識を酩酊させて帰路に就いていた中也の、目を覚まさせたのは太宰のその一言だった。嫌な予感がした。振り向く間も無く、どぼんと重い水音がする。自分達は何時の間に川辺に来ていたのか。中也は慌てて、阿呆の体を引っ張り上げる。
「馬鹿野郎、死にてえのか!」
「だから死にたいんだって……」
折角良い気分だったのに、如何して邪魔をするかなあ。太宰はそう口を尖らせる。それからはたと、何かとても重要なことに気付いたように目を瞠った。
「若しかして助けて呉れるってことは、中也にとっても私は利用価値が在るってこと? そっかそっか、嬉しいなあ」
「煩え! 目の前で死なれたら胸糞悪いからだよ! あと、俺のことは中原さんって呼べって云ってンだろ!」
中也は殴り掛かったが、太宰はへらへらと笑うばかりで、一向に中也の言葉が響く気配は無かった。
この自殺癖さえ無ければ、と中也は思う。この男のこの自殺癖さえ無ければ、自分達は案外、上手く相棒をやれるのかも知れなかった。
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