こゆびの赤

(2017/01/28)


「いてっ……」
 或いはそれは、虫の知らせだったのかもしれない。
 首筋に、ざりっと紙で肌を切ったときのような反射的な痛みを覚えた。チョーカーを着けようとした手を止める。痛い? 昨日の襲撃じゃあ傷一つ負わなかった筈だ。あんな雑魚共相手に、俺が太宰と居て傷など負おう筈も無い。俺は少し考えて、後ろ向きのまま数歩下がった。其処に在る鏡を覗き込む。
「なんだ……?」
 痛みを感じた首筋に手を這わせると、赤く細い引っ掻き傷のようなものが横に一閃伸びていた。心当たりなど勿論無い。爪の痕のようにも見えるが、チョーカーを外した上で他人にそんな行為を許すくらいなら舌を噛み切って死んでいる。とすれば、寝ている間に自分で無意識に引っ掻いたのか。す、と赤い筋に乗せて指を滑らせると、まるで首を切るような動きになってぞわりと背筋を悪寒が走る。縁起でもない。それに単純に少し痛い。我慢出来ないほどじゃあないが。
 却説、如何するか。俺は少しだけ目を伏せて、チョーカーを手の中で遊ばせる。これの着用は最早習慣になっていたから、無いと落ち着かないだろうことは容易に想像が付いてしまう。けれどこれでは傷に擦れる。嫁入り前の生娘じゃああるまいし、体に傷の残ることは問題じゃあなかったが、然し痛みで集中の途切れるのは職業柄なるべく避けたいモンだ。如何かな。この程度なら気にならないかも知れない。着けるべきか、着けざるべきか。迷う俺を急かすように、ピリリ、と端末が鳴る音が遠くで聞こえる。
「あーはいはい、今出るよ……」
 取り敢えずチョーカーを乱暴に衣囊へと捻じ込み、端末を起きっぱなしにしていたリビングへと向かう。
 何となく、嫌な予感がした。

     ◇ ◇ ◇

 俺の嫌な予感と云うやつは、大抵の場合で大当たりを弾き出すことを自負している。野生の感ってやつだね、私の一番嫌いなやつだ、何せ理解がし難いから、とは善く行動を共にする相棒の言だ。
 その相棒が、今は目の前で横たわっていた。
「手前これ何回目だよぶっ飛ばすぞ……」
 知らされた場所に駆け付ければ、河原に仲良くロープで結ばれごろんと転がった体が二つ。一つは見知った男だ。頭部と全身にめちゃくちゃに包帯を巻いた、黒い蓬髪の男。それを爪先で軽く蹴り飛ばす。
「ああ、中也……」
 太宰は痛みで漸く気が付いたのか、錆びた機械仕掛けのように首を此方に傾けたかと思うと、ぼそりと陰気に名前を呼んだ。それでも起き上がる気配は無く、ただぼんやりと宙に視線を彷徨わせるばかりだ。確か首領に仕立てて貰ったんじゃあなかったか、上等な衣服が残念ながら水を吸って泥を付けてぐちゃぐちゃになっている状態を、然しまったく気にした様子も無い。本人の体も同じようなものだ。泥水の色と肌の色との境の見極めがむつかしい。
 組織の構成員の何人かが、迎えである俺の姿を視認して礼を寄越した。それに鷹揚に手を振って、善い、気にするな、と無言で返す。黒服が数人彷徨いている以外は、何てことのない、麗らかな春の午後だ。川のせせらぎ、頭上に広がるのはすきとおった晴天の青。何処からか子供の遊んでいる声まで聞こえる。
 其処に転がる死に損なった哀れなマフィア幹部の体。周りに市警の姿は無いから、如何やら幸運にも一般人より先に見付けられて手際良く回収されたらしい。部下にまで迷惑掛けやがって。怒鳴りそうになる声を押し殺す。
「俺は手前の保護者じゃねえんだぞ……」
「……彼女は?」
 然し太宰は聞いちゃあいない。茫洋とした無表情のまま繰り返す。
「あァ?」
「彼女は如何なったの」
 囁くようなその問いに、チッと白けながら太宰の横へと目を向ける。転がっている体のもう一つは、見知らぬ女のものだった。それは正しく水死体だ。水を吸って体はぶよぶよに膨れ、色素の薄いロングの髪には藻が似つかわしくなく絡まって。薄紅に染まっていただろう爪は欠け、中まで泥に塗れている。生前美しかっただろう面影は見る影も無い。いや、美しかったかは知らねえが。でもどうせ太宰のことだ、この男は存外面食いだから、その太宰が心中しようとしたんならそうなんだろう。
 如何でも良い。太宰が誰と死のうとしようが。
「死んでるが」
 だからぞんざいにそう答えた。
 その瞬間。
 ぽろ、と太宰の目から大粒の涙が溢れ落ちた。思わずぎょっと身を固くする。見間違いではない。小粒の硝子玉のようにぽろぽろと、滲んでは落ち、滲んでは零れ落ち。この妙に人形じみた、目的の為なら女子供を嬲り殺すことも厭わない冷酷無比な男の目から、涙なんてものが流れ出ることに驚いた。それも演技ではないらしい。透明な雫がはらはらと、横顔を伝って水たまりに交じる。人の心なんて、持ち合わせてもいないくせにそう在るべきと涙を流す。
「善くやるぜ。愛した女でもねえだろうに」
「愛していたんだ。本当に、愛していたんだよ……」
 その目から零れ落ちる雫は、本当に涙なのだろうか。舐めて確かめれば判るのかも知れない、と中也はぼんやりと思う。手袋を取り去り、その頬に指を這わせ、掬い取って口にすれば判るのかも知れない。どうせ味のしないただの水だろう。それを確かめたかった。
 なのに太宰は痛々しげな声を上げる。
「彼女こそ、運命のひとだと思ったのになあ。運命の赤い糸で繋がれたまま、今度こそこの世界の外にまで逝けると思ったのに――」
 心中に失敗すると、太宰は決まってそう云った。
 この合理主義の権化のような男が赤い糸だなどと、そんなものに縋っている事実にぞっとする。バカバカしいと思ったし、若しこの男の小指に結ばれたそれが存在するのだとしても、それは暴虐だとか、殺戮だとか、そういうものに繋がっているに違いなかった。運命と呼ばれる強制力が仮に存在するとしても、此奴のそれがどこぞの女と心穏やかに結ばれるようなものである筈もない。
「あーあ、運命の赤い糸で結ばれた女性と心中できれば、それは嘸や幸せなことだろうなァ」
 だのに太宰はその糸の存在を夢を見るように語るのだ。
「一体何本あんだよ手前の赤い糸とやらはよ」
 或る日、連日の心中未遂に耐えかねて聞いたことがある。確か太宰の病室でだ。つい先日、自宅の浴槽で女と自分の手首を切り、気を失っている処を運ばれたばかりだった。手首には包帯が巻かれていた。女は死んだらしかった。
「嫌だなあ中也、何本とか、数えられるわけないじゃない」
 太宰はうふふと笑った。包帯の巻かれた手をひらひらと踊らせて云った。
「赤い糸はね、誰にでも繋がっているんだよ。あの娘にも、あの娘にも、あの娘にだって! ああ、ただ今は赤くなっていないから見えないんだ。私と心中するときに、それはきっと赤くなるんだ……」
「……女にとっては恐怖以外の何物でもねえだろそれ」
 それを聞いた瞬間、喉に詰まった感情が怒りだったのか苛立ちだったのか判別がつかず、辛うじてそれだけを返した。戦場では悪魔のように笑うくせに、平常時には恋にうつつを抜かす年頃の女のように恥じらう太宰のその横顔が、心底嫌いだった。
 何せ理解が出来ないから。



「で? 今度の女は出会って何日目だよ」
 何時迄も河原で寝そべっている訳にもいかず、俺は女の死体の処理は部下に任せ、太宰を引き摺って近くの飲み屋に来ていた。酒の一杯か二杯、奢らせないと割に合わなかった。頼んだ日本酒を飲ませると、太宰はけろりと機嫌を直した。
「んー、三日? いや満三日じゃないな、二日半くらい」
「ああ、そお……」
 相変わらず引っ掛けんのが上手い。女も女だ、こんな碌でなしに何だって随いて行くのだか。
 しかもそれが後を絶たないと云うのだから世の中判らない。
「ああ、また死に損なってしまったなあ……誰か居ないかなあ、糸はついてる筈なのになあ……」
 糸、と云う言葉に顔を顰める。また始まった。そんな運命論などもう聞き飽きたものだから、呆れを示すように首を振る。
「だから、そんなもん手前にある訳が……」
「中也」
 太宰が遮った。半ばぼんやりとした様子で、俺の首を指す。
「それ、如何したの」
 それ? 反射で手をやり、そこで漸くいつものチョーカーをしていなかったことを思い出す。最早習慣と化しているそれを今日していないのは何故だっただろうか。ああそうだ、痛みの所為だ。今朝に鏡の中に見た、首に走った奇妙な傷。
「ああ、気付いたら付いてたんだよな、なんか引っ掻いたみてえで……」
 反射でその傷を押さえる。手袋と擦れた所為かまたずきりとした痛みがあって、俺は無意識に眉根を寄せる。
 然し自分で訊いたくせに、太宰はもう俺の言葉を聞いてはいなかった。自分の左手の甲をしげしげと眺め、まるで何かを辿るように視線を俺の首筋へゆっくりと移し――。
 うふ、と笑ったのだ。
 いつもの顔で。
 いつも通りの笑みを浮かべて。
「君にもついてるんだ。そっか、そっかあ……」
「……何の話だ」
 普段通りの筈のその声音に、薄っすらと背筋が寒くなる。傷が、と云って呉れれば善かった。
 単に太宰も何か怪我を負っていて。それでああ、君も怪我をしているの、と。
 なのに太宰は答えない。
 答えないまま、まっすぐ中也へと手を伸ばす。
「ねえ、中也。これから私の部屋に行かない? 来週の作戦の打ち合わせがしたいの」
 ね? と笑って太宰が俺の首の傷に触れた。チョーカーが無いから直接に触れられる。ひやりとした感触。傷に指を這わせるその仕草がすっと横へ線を引くような動きになって、いよいよ持って脳が警鐘を鳴らし始める。俺の嫌な予感と云うやつは、大抵の場合で大当たりを弾き出すことを自負している。行くべきじゃない。けれどぐっと気道の辺りを軽く押され息を詰める。体が鉛を纏ったように動かない。ただ触れられた部分から太宰の氷のように冷えた熱が伝わって、囁くような「お願いだよ」が耳から脳を揺さぶった。
「お酒も贖っていってさ。ね?」
 思考が痺れたように停止したまま、俺はゆっくりと太宰の提案に頷く。
「……そうだな」
「やったあ! じゃ、ね、早速行こう?」
 まるで生娘のように華やかに笑い、喜々として俺の手を取る太宰。その小指に、鮮血のように真っ赤な糸が、ちらと見えた気がした。
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