苺と檸檬

(2016/08/31)


 飲み過ぎた。
 そう気付いたときには既に遅く、俺の視界はぐるぐると円を描いていた。天動説の縮図のように、俺を軸として星空とアスファルトが回転する。足が地についているのか判然とせず、空を泳ぐようにバーからの帰り道で歩を進める。夜が日付を跨いだ後の静まり返った街中で、シュゥシュゥと微かな瓦斯灯の音が俺に寄り添ったり離れたり。規則的なその並びを頼りに、港の辺りまで辿り着く。
 自覚はあった。最初は、そう、本当にその味に舌鼓を打って楽しもうとワインの封を開けるのだ――けれど酒精を飲み下す度に、奥底に澱みのように溜まった感情が流れ出す。止められるものではなかった。平常時にその澱んだ感情を押し留めている自制や尊厳、それを上回って酒を求めてしまう悪癖の自覚がある。
 然し数ヶ月前までは、そんな醜態を晒すことは滅多に無かった。
 それもこれも、全部。
 あの男の所為だ。
 気付けば海の近くまで来ていた。平日真っ只中の深夜である為か、人の気配は無い。たださざ波の音と海の表面を撫でた風だけが俺の髪を攫っていく。
 静かだ。
 隣からは、何の声も聞こえない。
 耳障りな笑いも、莫迦な自殺の算段も――俺の名を呼ぶ声も。
「……」
 溜め息と共にどかりと近くのベンチに腰を下ろした。何時ものようにコンビニで買った酔いざましを横に並べ、ぼんやりとそれを眺める。煙草、檸檬味の炭酸飲料、苺味の乳飲料、それに付いてきたストローが一本。ペットボトルの向こうに黒い海が映って、しゅわしゅわと泡と共に溶けていく。それを横目にビリッと煙草の箱のビニールを破って一服。ふーっと吐き出した煙が、瓦斯灯の灯りに吸い込まれていく。
 そうして残りの紙パックを手に取ろうとして――俺ははて、と首を傾げた。薄いピンクのパッケージに手を伸ばす。何時も買っていたからつい癖で買ってしまったが、これは如何するんだったか。ふらふらと揺れる頭で考える。
 俺は当然、こんな甘ったるいものは飲まない。
 じゃあ誰が飲むんだ。
 ――君レモンソーダ購うの? じゃあ私、そのいちごオレにしようかなァ。
 聞こえる筈の声を、夜の海の方に視線を投げ出して探した。
 そうしていれば、この数ヶ月が嘘だったように、波の合間からふらりと帰ってくる気がしたのだ。
 何時ものように、御免御免、ちょっと川を流れてたんだ、と云って。



「おやァ珍しい」
 うつらうつらと夢に漕ぎ出そうとしていた俺の意識を引き止めたのは、嫌と云うほど耳に馴染んだ声だった。
 或いはそれは、俺の願望が見せた幻だったのかも知れない。
 そう思うほどに、その声は普段と何等変わりない色をしていた。俺はそっと目を開く。夜の海だって変わらずに広がるばかりだ。隣でぱかっとパックを開く軽い音がして、ストローでちゅう、と乳飲料を飲む音。
 見上げると、其処に立っていたのは見慣れた姿の相棒。
「何をしているのだい、中也。風邪引くよ」
 それがストン、と俺の隣に腰を下ろした。空気が揺れて、慣れた感覚が俺の肌を撫でる。其処で漸く、何だか色味が違うなと云うことに気がついた。何時もの黒外套ではなく、其奴が纏っているのは明るい砂色の外套だ。
 似合わねえの。顔を顰める。
「『何をしているの』、だと? 見て判んねえかよ……」
「エッ、質の悪い酔っぱらいが一人寝こけてる以外の情報は読み取れないんだけど……」
 太宰が小首をそっと傾げる。服は変わっても中身は変わらないまま、何時ものように俺の金で贖ったいちごオレを片手に、だ。
 けれどその姿が、俺にはひどく自然に思われた。或いはこの数ヶ月が夢で、俺は今目を覚ました処なのかも知れない。
 俺はただ、太宰が居なくなる夢を見ていただけなのかも知れない。
「……て云うか君さァ、いい加減前後不覚になるまで飲むの止めなよ……」太宰が呆れるように云うが、手前だって酒を飲めば似たようなものなくせに、と俺は鼻白む。ただその無駄に高え警戒心を発揮して俺以外の前で飲むことが少ないだけで。だから云われる筋合いは無い。
「大体、何もかも手前の所為だろうが」
 吐き捨てるように云うと、太宰がぴたりと動きを止めた。ぴん、と空気が張り詰める。
 太宰の肩が強張るのが判った。当然だ。云う積りの無い言葉だった。云われる心算の無い言葉でもあっただろう。まるで責めるみたいな。しかも、俺は太宰の選択を恨んでいる訳じゃあないのだ。強いて云うなら、如何でも善い。太宰のことを責めたい訳ではない。責める理由が無い。俺達はただの相棒だ。結婚式の前夜に他所の馬の骨と駆け落ちされた恋人じゃあねえんだ。相棒が姿を消したって、俺の人生には一分の狂いも生まれない。
 だから太宰が組織を抜けたことと俺が酔って醜態を晒すことは、無関係でなければならなかった。俺達は自分が相手に影響を与え得ない存在であったからこそ、互いに隣に立てていたのだ。太宰が俺を理由に生き様を変えたのではないように、俺が太宰を理由に弱ることなどあってはならない。
 それは俺達の間の暗黙の了解だ。
 それを破る俺の言葉に、太宰は一瞬、言及を迷ったようだった。
「……私の?」
「手前が、勝手に居なくなるから……」
 呂律が回らなくなって俯く。
 なんだかひどく、喉が渇いた。
「中也」太宰の声に警戒が滲む。「そのことだけど、私……」
 慎重に言葉を選ぼうとしている様子の太宰にゆっくりと視線を遣り、俺は――その頭にヘッドロックを掛けた。
「へ!? あっちょっと」
「て・め・え・が、勝手に居なくなるから此方は手前が山と積んで残していった業務で徹夜続きなんだよオラァ! 何だあの溜め込んだ量はァ幹部職舐めてんのか!!!」
 御蔭で力んで思わず煙草のフィルターを噛んでしまった。
 静かな夜に、太宰の情けない悲鳴が響き渡る。
「痛ったい痛い痛い! 御免って! 後でなんか奢るから!」
「そう云って手前払ったこと一回も無えじゃねえか!」
「あッバレてた!?」
「当たり前だ!」
 黒い蓬髪を引っ掴んでぎりぎり締め上げると、悲鳴と同時に「ギブギブギブ! 溢れる! 溢れるから!」と手に取った紙パックを盾に取られてはっと我に返る。俺の冷静な理性が判断を下す。
 そうか、溢れんのは駄目だな。
 勿体無えし。
「あーいや、でも善かった」
「何がだよ」
 そうして手の力を緩めた瞬間、ぴたりと冷えた銀の刃が首筋に吸い付いた。
 懐が軽くなっていることに気付く。
 腕の中の太宰の、にこりと微笑む昏い瞳。
「ポートマフィアの次期幹部候補様がさあ……暴漢に襲われて殺される恐れのあるくらい、理性を失くすまで飲んでいるのではなくて」
「手前が物云ってる相手が誰だか云ってみろ」
 ふん、とその殺気を軽く押し退けると、案外太宰はあっさりと引いた。「何処でその話聞きやがった」「Aが随分と荒れていたから盗聴器には気を付けるように云っておいて」「あの間抜け」片手でにやにやとナイフを弄ぶ、その煩い視線を黙らせる為に、咥えた煙草を太宰の口に押し込む。
「大体、手前は何よりそれが許せねえんだろう……」代わりに、太宰に押し付けられた紙パックを力の限りぐしゃぐしゃに丸めてビニール袋に突っ込む。「俺がそんな無様を晒す前に、殺しに来るんだろう」
「うん」
 衒いも無く満足気に頷かれて、は、と呆れた声が出た。短刀を取り上げようと立ち上がったが、足元が覚束無い。ふらついて太宰の体にしがみつくと、「おっと」と体を支えられる。
 俺より余裕で上背があるのがむかつくし。
「そう云う、手前の身勝手な処が、ほんとう……。……」
 ぴた、と俺は動きを止めた。奥底の澱みのような、胸からせり上がってくる何かがあった。
 止められない。
 う、と口元を押さえて――俺は盛大に太宰の足元に嘔吐した。
「うおええぇ……!」
「――うわ、君ちょっと嘘でしょあり得ない!!! ゲ……吐くの止めて……止めろ!!! 最ッ低君莫迦か!?」
 夜闇に響く太宰の悲鳴のような声と共に、俺はふいと意識を失った。

     ◇ ◇ ◇

「……あ?」
 気付けば自宅のリビングで転がっていた。頭がひどく痛む。バーを出てからの記憶が無い。見れば外套はハンガーに掛けられ、ご丁寧に首元も緩められていたから、記憶が無いながら適当に部下を呼んだのかも知れない。嘸かし酷い有様だったろう、誰だかわからないが後で謝っておこう。
 ふと見ると、傍らにビニール袋が転がっていた。覗き込むとくしゃくしゃになった苺の乳飲料の紙パックがある。何だこれ。俺こんなもん飲まねえだろ。他にもっとマシなもんは無えのか、と袋をがさがさ弄っていると、もう一つ、炭酸飲料のペットボトルを袋の底に見付ける。まあ何にも無えよりかはマシか。無造作にペットボトルの蓋を開け、中の液体を呷る。
 抜けた炭酸の檸檬の味が、なんだかぬるく口の中に広がった。
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