バァドケェジ

(2016/03/06)


「初めまして、中原中也」
 整った顔立ちの男が、此方を覗き込んでいた。髪は黒鳶、白皙の頬は少し痩せている。けれど不思議と不健康そうな印象を受けないのは、笑みを零した唇が綺麗に色付いていたからだろうか。蓬髪が頬の辺りで揺れる。年の頃は二十を少し過ぎたくらい。無邪気に緩められた頬とは裏腹に、鳶色の瞳は理知的な光を浮かべて凝然と此方を見詰めている。
 いまいち状況が掴み切れない俺は、ぱちりと一つ瞬いた。
 瞼を上下させても、男の姿は変わらず其処に在った。腰掛けているのは寝台脇の簡素なスツール。幻ではないようだ。けれど男の輪郭は、俺の視界の中で陽光に曖昧に縁取られ、ぼんやりゆらゆらと揺れている。俺はその揺らぎが、男の浮かべる表情に起因するものだと程無くして気付く。俺に対し向けられる、喜びとも悲しみとも――嬉しさとも寂しさともつかない表情。
 なんだその顔。
 全く初対面の人間に向けるにしては、透ける感情の色があまりに深い。
 然し俺が首を傾げたのは、男の茫洋とした表情の意味を捉え損ねたからだけではない。
「なかはら……?」
 『初めまして』は判る。然しその後の単語が耳慣れない。
 それは何だ、と言外に問うと、男は水面のように不安定に揺れる笑みをより一層濃くした。
「君の名前だよ。中原が姓、名が中也だ。私は中也って呼んでる」
「中原、中也」
「そう」
 男の言葉をなぞるように発すると、上出来、と男は笑った。
「私は太宰治。太宰が姓で、名が治。よろしく」
「……ああ。よろしく、治」
 何気無く発したその言葉に、『太宰治』は僅かに息を呑んだようだった。何か拙いことを云っただろうか。俺は寝台の上から男を見上げる。遠くで鳥の囀りが聞こえる。静かだ。俺たち以外の人の気配は無く、大窓から差し込む陽の光からでさえきらきらと硝子片を零す音が聞こえるようだ。此処は何処だろう。そんなことをぼんやりと思う。
 少しの間、静寂が俺達の間を満たした。
 それを破ったのは、男の張り詰めたような一言だ。
「……太宰って呼んで」声の色に反して、男は矢張り笑っていた。「お願いだよ」
「けど、君……いや、お前……? アンタ、は」辿々しく、男を示す言葉を探す。俺は未だ、この男との距離を測りかねていた。「アンタは俺のことを中也と呼ぶ」
 男は応えない。ただゆっくりと、俺へと視線を向ける。その瞳の中に交じる、揺蕩うような黒。
「じゃあ。中原」
 もぞ、と寝台の上で身動いだ。
 中原、と云うのは俺の姓だ。詰まり男は俺のことを呼んだのだ。
 けれどじっと凝視られる以上に感じる居心地の悪さが有る。何だか原因は判らないが、この男にそう呼ばれることに対する、違和感。
 気持ち悪ィ。
「でしょう? 変でしょう、私が何時もと呼び方を変えると」男は云い含めるように云う。「だから何時も通り、太宰って呼んで。あと二人称は『手前』って」
「手前」
 そいつはちょっと乱暴な二人称ではなかっただろうか。
 あと何時もって何だ。
 『初めまして』じゃねえのか、俺達は。
 ぎゅうと詰め込まれた多すぎる情報に、絡まった思考を整理しようにも何かが邪魔して叶わない。人の体が、真っ暗闇の中で固結びされた糸を解けるようには出来ていないのと同じことだ。訳も分からず手を伸ばした端から、答えがするりと指先を逃れていく感覚。そうしている内にも次々と疑問は湧き上がる。
 一体この男は何者なんだとか。
 俺のことを知っているようだが、俺とは如何云う関係なんだとか。
 そもそも今は何時で此処は何処で俺は誰なんだとか。何なんだ。判らない。息が苦しい。判らないことが、苦しい。
「う……」
「中也」男の悲鳴のような声にはっと顔を上げる。「中也、息して!」
 途端、どっと口から二酸化炭素混じりの息が出て行く。如何やら呼吸を忘れていたようだった。は、は、と肩で息をしていると、男の手が背に添えられて、少し骨張ったそれが存外穏やかな動作で背を擦っていくことにひどく安堵する。「善いから」柔らかい声が俺の耳を打つ。「今はなんにも考えなくて善いから」
 俺は潔く考えることを放棄し、云われたままを口にする。
「手前は、太宰だ……」
「そうそう、そんな感じ」
 男は――太宰は口元を綻ばせたようだった。嬉しそうに俺の手を取り、ぎゅっと握る。まるで長年連れ添っていた友人か――或いは恋人でもあるかのように。
「改めて。よろしくね、中也」
 触れたその手は、ひどく冷たい。

     ◇ ◇ ◇

 君は何か、君自身のことを覚えているの、と太宰は訊いた。
 俺は少し考えて、いいや、と静かに首を振った。
 何の事はない。要は俺が記憶を失くしてしまっただけなのだ。太宰と初対面だと思ったのも、俺の勘違いで、俺が知り合いであることを覚えていなかっただけ。思えば随分と薄情なものだ。こうして食事を用意し、住む処と着るものを与え、今の処俺が生きていく凡てを担っている男。そんな男のことを、俺は何一つとして知らない。
「だいぶ体調も良くなってきたし、そろそろお粥とかお饂飩以外もいけそう?」
「ああ」
「あっ林檎食べる? 林檎」
 太宰が俺に背中を向けて部屋を出る。少しして、「確か昨日貰ったのが此処に……あれえ……」とごそごそと台所を漁る音がする。その方向を、俺は寝台の上で上体を半端に起こしたまま惘乎と眺めていた。相変わらず、大窓から差し込む日差しは春の野のように麗らかだ。部屋のレイアウト全体が淡いクリーム色を基調とした柔らかい色合いで纏められている所為か、甘いミルクセェキの匂い立つ錯覚まで覚える。うつらうつらと、意識まで溶けてしまいそうな感覚。
 俺が三人、縦に収まって漸く届きそうな天井には、ファンの影が無音で淡く揺れて落ちている。視線を落とせば木目の目立つホワイトウッドの無垢材。部屋には家具が二つか三つ。何方かと云えば観葉植物やら何やらの方が多くて、奇妙に生活感の無い、だだっ広い部屋だった。俺はその真ん中で、大人しいお人形のようにただただ寝台に座している。硝子張りのバァドケェジ。寝台の上から無力に窓の外を眺めるしか出来ない俺の、それがこの部屋の第一印象。俺はその中で生きている。不思議と息苦しさは無い。
 聞けばこの部屋は凡て太宰が用意したらしかった。此処は居心地が好い。そう云うと、そう、お気に召したようなら善かったと太宰は笑った。それから君はこう云うのも好きなんだねと。それに対する返答は曖昧な笑みに留める。記憶を失う前の俺が、他にどんなものを好きだったのか――そして今でもそれを好きだと思うかは判らない。
「在った在った。よっと」
 太宰が寝台の側にスツールとゴミ箱を引き摺ってくる。器用なことに林檎とナイフも持ってきて、しゃりしゃりとその皮を剥き始めた。俺はそれしか覚えていない雛のように、その様子を眺める。太宰のほっそりとした手が赤い実をくるくると回し、その目が伏せられて、時折瞬きするのを。その容姿は多分、俺の好みを置いておいても見目の善い方なんだろう。おまけにこの太宰という人間は頗る頭も善い。思考の回転が早く、少し話しただけで言葉の端々に機知が富んでいるのが判る。話していて退屈しない。詰まりは出来過ぎた人間なのだ。それが如何して、俺の世話など。ただただ首を傾げるばかりだ。
 それでも太宰は何も云わず、随分と献身的に俺の世話をして呉れていた。食事も着替えも、凡て任せ切りの俺に嫌味一つ云わず、卒無く。その事実に耐え切れなくなるのに、目覚めてから数日も無かった。男の行為に報いようにも、男と自分の関係すら思い出せないのだ。若し思い出すことを――以前と同じような関係を構築することを期待されているなら、その要望には応えられそうもない。そのことが、俺の心臓を締め付けた。
「……わかんねえか。俺は、手前のことが思い出せねえんだ」
 悪いと思ってる。そう縋り付くように告げた俺の声は、我ながらひどく憔悴していたと思う。
 然し太宰はそんな俺をまじまじと見た後、何だ、そんなこと、とまるで冗句でも聞いた風に心底可笑しそうに笑った。「君から謝罪の言葉を聞くなんて、変な感じ」。そんなことねえだろ、と思う。この状況で謝らねえって、どんなけ太え野郎なんだよ、記憶を失くす前の俺は。
「でも若しかしたら、ねえ、私は君を騙くらかす悪い奴かも知れないのに。君の記憶の無いのを善いことに、『私達知り合いだったんだよ』なんて嘘を吐いて、君に取り入ろうとしているのかも知れないのに」太宰は笑いながらそう云った。「だから、そんな奴に君が後ろめたさを感じる必要、微塵も無いんだ」
 そんな訳無えだろう。
 即座に思ったのは理屈じゃなく感覚でだ。手前はそんな悪意の為に、俺を世話してるんじゃねえだろう。
 そう断じるのは簡単だった。否定の言葉が口の先まで出掛かる。それが嘘であることを知っていると太宰に伝えたかった。判っていると伝えたかった。俺は手前から悪意を感じないと。然し、――太宰はそれを望まないかも知れないと云うその一点だけが、俺を僅かに躊躇させる。
 太宰が悪人ではないと断じることは。
 太宰の感情を白日の下に引き摺り出すと云うことだ。
 引いては俺達の関係性を。
 迷ってじとりと隣を見遣る。判っているのか、太宰は「ねえ見て綺麗に等分出来たよ」と嬉しそうに少し不格好な林檎の切れを見せてくる。それが俺の視線に気付くと、何だろうと首を傾げた後、ああ、と一つ手を打った。
「何、気にしてるの? じゃあ君が記憶を無くす前に私が貸してた二万円、返して呉れたらそれで善いよ」
「それは流石に嘘だろ」
「うん」
 てへ、バレた、と太宰は笑った。「莫迦、」と俺も少しだけ頬を緩めた。あからさまな嘘で、他の嘘を覆い隠した。でも本当は嘘だと判っている。
 だってそうだろう。
 本当に悪人だったなら、俺に向かってそんな顔はしねえんだ。
 その言葉は喉奥に押し込める。しゃり、と齧った林檎の甘酸っぱさだけが口に残った。

     ◇ ◇ ◇

「……うや。中也!」
 誰かの叫ぶ声が聞こえる。折角気持ちよく寝ていたと云うのに、無遠慮に叩き起こされる。んだよ煩えな。誰だよと目を開けようとするが開かない。光を認識することが出来ない。あれ。おかしいな。体も何だか、重い。糸の切れたように動かない。
「何で待たなかった! 君、こんな、こんな異能の使い方……体が、」
 煩え。こうでもしなきゃ、手前が死んでたろうが。それは勿論、死んでも云わない。
 だってそれだと、まるで俺が此奴の為に命を張ったみてえで嫌だ。
 みてえじゃなく実際そうなんだが。
 でも云わなきゃ藪ん中だ。
 彼奴は俺が助けなきゃ生きていけない訳じゃなかったし、俺だってそうだ。寧ろ不要で、大きなお世話。それでも相棒と云う体を取って利用し合っているのは、その方が効率が善いからと云うだけ。俺達の命は互いに依存しない。その前提を壊すことは出来ない。
 ――俺達って、誰だ?
「太宰さん、揺さぶっては駄目です! 一番負担が掛かっているのは脳だ、下手に動かすと拙い!」
 拙い、と云われているのに、無遠慮に誰かが揺さぶってくる。名前を呼ばれる。必死に、繋ぎ止めるみたいに。
「中也、中也……ッ」
 けれど俺はもう、意識を其処に留めてはおけなかった。
 少しだけ、悪いな、と思った。
 でもそれだけだ。
 後は何も無くなって、真っ暗闇の底まで落ちていく感覚。
「中也!」
 煩え。
 少し、寝かせろよ……。

     ◇ ◇ ◇

「ずっと訊きたかったんだが」
 俺がそう切り出したのは、太宰と初めて会ってから――正確には、記憶を失った後に太宰と初めて会ってから、二週間も経とうかと云う頃だった。
 太宰は少しおかしそうに、「なあに? と云うか、君、目が覚めてから私に質問ばかりだよ」と笑った。「まあ、疑問を解消しようにも、君自身その足じゃあ動けないから、仕方無いとは思うけれどね」
 俺の疑問とはまさにそれだった。俺はシーツを捲る。其処には、ギプスは取れたものの未だ痛々しい筋断裂の色を残した足が二本、生えている。こいつを動かせればこんな、太宰の手を煩わせることなど無いのだろうに、歩行どころか直立さえ困難だと云うのだから今日も俺は太宰に着替えを手伝わせている。情けねえ話だ。
「……俺の記憶が無えのは、この怪我が原因なのか」
 俺の問いに、太宰は鷹揚に頷く。
「大まかに云えばね。本当はもうちょっと細かい経緯が有るけど……まあ、云っても詮の無いことさ。君だって、脚の怪我が直接脳に響くとは思ってないでしょう」
「……。俺には医学は判んねえが、そう云うことも有るかもだろ」
「まあ。そう云うことも有るかもだね」
 太宰はそれ以上は答えなかった。云いたくない、と云うよりも、云っても判らないだろう、と云う風な切り捨て方だった。その仕草が、俺の胸をちくりと刺す。若しかしたら、記憶を失わなければその続きを話すことが出来たのではないか。そんな思いが茨になって心臓をきつく締め上げる。ぎゅうと拳を握る。爪が手の平に食い込む。俺が俺であれば、この男と対等に話せたのかも知れない。そのもどかしさが、身を焦がす。
 何故だか如何しようもなく焦がれた。
 男の隣に、並び立つことに。
 その表情の変化だけは目敏く読み取ったのか、太宰が少し眉尻を下げて笑う。
「……不安かい」手元の作業を止めて、太宰はぽつりと零す。「自分の記憶が無いのは……。いや、訊くまでもないことだよね。自分が何者か、判らないのは、きっと不安だろう……」
「いや」そうじゃねえよ、と思った。そうじゃねえ。俺は別に不安になんか思っちゃいねえんだ。「今は手前が居るから、別に不安じゃねえよ」
 がちゃん、と急に派手な音がして、見れば太宰が手入れをしていた銃の弾倉を取り落とした処だった。然しそれにも気付いていないようなぽかんと口を開けた表情に、逆に此方が吃驚する。何だ急に。「おい、落ちたぞ……?」一応、一言。そう云えば、此奴は普通に銃を携帯しているが、確か銃の所持は違法ではなかっただろうか?
「き、君さあ……天然って良く云われない? 或いはタラシ野郎とか」
「知らねェよ。手前の方が知ってんじゃねえのかよ」
「ああ、そうだね、そうだった……」漸く動揺から立ち直ったのか、パーツを拾い直した太宰はうーん、と思案げに頬に指を中てる。「私に対してはそうじゃなかったけれど、部下のことはねえ、君、手当たり次第に善く誑し込んでいたよ。君に惚れた子たちは可哀想に。叶わない恋に身を焦がして、命まで捧げて莫迦みたい……」
 ぼんやり、太宰は遠くを見て楽しげに話す。
 俺は所在無く、太宰の視線を追った。
 其処にはただ、窓の外に木々が広がるのみだ。
「……俺には部下が居たのか」
「うん。今はもう居ないけどね」
「死んだのか」
 無意識に訊いてから自分で驚いた。死? 如何して「死んだのか」なんて訊いたんだ。太宰の黒々とした目が、此方をじっと見詰めている。変なことを訊いたからだろう。普通、異動とか退職とか。別れの理由とは一般にそう云うものである筈だ。死ぬ、なんて何処か遠い世界の出来事だった。何か不幸な事故に巻き込まれでもしなければ遭わないような。
 いや――。本当にそうか?
「中也。覚えてないなら、無理しないで」
「手前だって」痛む頭を押さえる。何かがずれている。思い出せないことがひどく苦しい。「手前だって、俺の記憶が戻った方が善いだろう」
 何故そんなことを訊いたのかは判らない。訊くまでもないことだ。先程の太宰の言葉を反芻して自嘲する。知り合いである俺の記憶が無いのは、きっと不便だろう。若しかしたら、太宰に責められたかったのかも知れない。如何して覚えていないんだと。何でそんな、訳の分からない変なことを訊くんだと。
「ううん」
 然し、意外にも太宰は首を横に振った。今度は俺が息を飲む番だった。記憶を思い出すことを求められていると思っていたから、予想外の言葉であったこともある。
 じゃあなんで俺の世話なんかしてんだ。
 疑問の目を向けると、太宰はにこりと、またあの笑みで笑った。
 水面のように不安定に揺れる、茫洋とした笑み。
「大丈夫。失くしたものは、二度と戻らないから。……無駄なことに、期待はしない」

     ◇ ◇ ◇

「恐らく目が覚めても、後遺症は残るだろうね。彼の異能は強力な分、負担も大きい」
「……そうですか」
 誰かが喋っている。聞き覚えの無い声だ、何方も。そして俺の体は相変わらず動かない。全身が痺れるようで、自分の体ではないようだ。
「君は如何するのかね」
「……如何、とは」目を覚ませずにいると、年若い男の声の方がはっと笑った。喉が引き攣れて、無理矢理鼻で笑ったような声だった。「おかしなことをおっしゃる。私は今まで通り、仕事を続けるだけですよ。何が変わる訳でもないでしょう。寧ろ清々する。……やっと解放されるんだから」
「……そうかい」
 少し草臥れた男の声が、溜め息混じりに呟く。
「なら、彼の身柄は此方で預からせて貰うことにするよ。大事な構成員だ。攫おうとする輩が居るとも限らない」
「どうぞお好きに。私には関係有りませんし」
「君ね」若い男の莫迦にしたような物云いに、年嵩の男は何かを云い掛けて――諦めたようだった。「……変な気は起こさないで呉れ給え。君を殺すことを考えると、少し憂鬱だ」
 バタン、と重い扉の音。遠ざかる跫音。重なる溜め息混じりの笑い声。随分と疲れている、と思う。
「……煽られてるのかな。押すなって云われたら、押したくなっちゃうタイプなんだけど」
 閉じた瞼の向こうに影が差した。男が近くに立ったのだ、と判る。
「……ねえ、中也」
 祈りのような囁く声。ぎゅう、と手を握られた。
 ああ。
 聞いてる。
 判ってる。
 その意志を示す為に冷えた手を微かに握り返せば、微かに息を飲む音が聞こえた。撫でる手に、躊躇いが混じる。
 軈て、男は決心したように、一つ、ぽつりと呟いた。
「私……」

     ◇ ◇ ◇

「ただいま」
 玄関から、太宰の声が聞こえた。俺は素早く椅子の背から手を放し、勢い寝台へと倒れ込んだ。それでも汗だくだったから、ごまかせるかは微妙に怪しい。見られないようシーツに念入りに潜り込み、寝ていた体を装う。
 一日も早く歩けるようになるようにリハビリをしていることを、別に太宰に隠す必要は無かった。特に太宰には生活の何もかも知られているのだ。今更何を見られた処で、何も変わりはしなかった。
 それでも、今は黙っておきたい。
 あの男に、無様を少しでも見せたくはなかったから。
「よお、太宰……」
 部屋に入ってきた太宰に、悟られないだろうか、と感情を押し隠して平静に声を掛ける。その顔色を伺う。
 太宰は応えない。
「太宰?」
 ただ足早に中也に近付いてきたかと思うと、ぎゅうと強く抱き締められた。その表情は読めない。けれど煙草の匂いに混じって、微かに嫌な匂いがする。
「手前、この、臭い」
 懐かしい匂い。
 血の匂いだ。

 一度訊いたことが有る。
「俺と手前は如何云う関係だったんだ」
 だって疑問に思わない筈が無いだろう。血縁でも何でもない男が、ずっと身動きの取れない自分に甲斐甲斐しく世話を焼く、その理由。俺は、太宰が俺にとっての何であるのかすら知らない。
 なのに太宰は薄っすら笑うばかりだ。
「如何云う関係だったと思う? 中ててご覧よ」
「……そうだな。仲が良くはなかった気がする」
「へえ? 何故」太宰は気分を害したと云うよりも、寧ろ面白がったようだった。「私はこんなにも甲斐甲斐しく君の世話を焼いているのに?」
「そう云うとこだ」
 ぴ、と指差すときょとんとする太宰と目が合った。
「俺が訊いたことに、ぜってえまともに答えねえ。必ず一度は話を逸らかす。そう云う婉曲なの、俺は好かねえ」と、思う。記憶を失くす前だって。「だから判んねえんだ。手前が何で俺にこんなに親切にすんのか」
「成る程。野性的な勘は相変わらずだ」
 褒めているのか貶しているのか、太宰は喉を鳴らして笑う。矢張り肯定せずに逸らかす。
 一頻り愉快がった後、太宰はゆっくりと俺の頬へを手を伸ばした。何だ。疑問に思いながらじっと見ていると、ほっそりとしたその指先が、俺の顎をくいと持ち上げる。そのまま顔を寄せられる。
 まるで口づけをするような距離。
「……例えばさあ」
 息の掛かる囁きに、漸く脳が熱を持ち始める。おい恥ずかしくないかこれ。整った顔がすぐ間近に在って、俺の脈を乱す。
「私と君が、セックスする仲だったって云ったら驚く?」
 は。
「は?」
 そのときの俺は、自分が如何云う表情を浮かべていたのか判らなかった。乱れていた脈が一斉にぴたりと止まった錯覚。表情筋を緩めきって、その力を思考に全部振っていた。盲点だった。セックスが何かまで忘れた訳じゃない。でも男と、と云うのはあまり一般的ではなかったから、その可能性が完全に抜け落ちていた。
 然しそう云うことも、有るのかも知れない。
 仲が良くはなかったろうが、この距離は不思議と不快ではなかったから。
「冗談だよ」
 俺の表情を、如何受け取ったのかは判らない。ただ、太宰は首を振って、俺の体を離した。

 多分、そんなやりとりをした所為だ。
 血の臭いを纏って興奮した様子の太宰に抱き締められて、ひどく心がざわついた。
「太宰?」
 息が荒い。少し体を引き剥がして目を覗き込む。其処には何時もの理知的な光は無く、居るのはただ衝動に駆られた獣だけだ。人でも殺してきたのだろうか。俺は無意識にそう思う。殺し、なんざ物騒な話だが、何となくそんな気はしていた。太宰の身のこなしには隙が無い。銃なんて普通手に入らない。死んだのか、その問いを一笑に付さない。生と死の間を生き抜いてきた獣。
 その本能が、今は俺に向けられている。
「太宰。俺を、殺すのか」
「中也」
 首を掴まれ、乱暴に顔を上向けられた。俺は抵抗しない。この男から与えられるものを拒む理由が無い。
 例えそれが痛みであっても。
「キスして善い」
 形だけの問いだった。目を瞠って、答えようと開いた口に無理矢理唇を押し当てられる。止める間も無く舌が割り入ってくる。無意識に舌を押し出そうとしてしまったのは反射だからノーカンだ。結果的にざら、とお互いの舌を確かめ合う形になる。
「っ……ん、ぅ……」
 声が漏らすと、ぐっと首を絞められる。苦しい。舌先で口内を弄られ、何をされているのか判らないまま一瞬意識が飛びそうになる。太宰の腕を握ると、ますます深く口づけられて息が出来なくなる。
 食い尽くされる。
 でもそれも悪くないと思った。この男になら、何をされても。
「ッふ……っぅ……」
 けれど爪を立てた瞬間、はっと太宰は我に返ったようにキスを止めた。何だよ。意識が半分蕩けたままで見上げると、鳶色の瞳と目が合う。「私、君にこんなことする為に連れてきたんじゃない」呟きが落ちる。太宰は何時の間にか理性を取り戻していて、そしてそれを後ろめたさとして顔に表れ出していた。
「記憶を失った君を、いいようにする為に連れてきたんじゃない……」
「善いんだ」離れようとするその袖を、反射的に握り締める。此処で手を離したら、太宰を永遠に引き止められない気がした。「手前がしたいんなら、俺は善い」
「君は私が何をしたか――何をしなかったか知らないから、そんなことが云えるんだ」
 震える声。そう云うのが精一杯らしかった。俺の手を引き剥がし、ばたんと部屋を出て行く。俺は一人取り残される。
 如何かな、と唾液で汚れた口を拭った。太宰は俺と体の関係が有ったと云った。記憶を失う前の俺は、太宰に体を許していたのだ。太宰のことを知っていた俺は。だったら、太宰が何をして何をしなかった知った処で、俺からの感情は揺るがない。例え記憶を失っていたって。
 そんな確信が在った。

     ◇ ◇ ◇

 太宰は街中を、買い物袋を下げて帰路に着いていた。未だ日は高くて、往来は人の行き交いで賑わっていた。商店街なんて特に活気付いている。その光景にも、大分馴染んできたなと太宰はぼんやり思う。中也を連れて這々の体で辿り着いてから、何ヶ月が経ったのだっけ。「あら、太宰さんこんにちは。お花は如何?」「ああ、こんにちはお嬢さん。……そうだね、一本頂こうかな」なんて挨拶が出来る程度の顔見知りも出来た。
「何時もの恋人さんに差し上げるの?」
「そうなんだけど、恋人って云うと怒られそうなんだよね。腐れ縁の相手とでもしておいて……」
 可愛らしくラッピングされた淡い色のスイートピーを受け取って、花屋のお嬢さんに別れを告げる。横濱とは少し雰囲気が異なるが、此処も善い街だった。出来れば定住したいくらいには。
 けれどそれも今日限りだ。
 先日、遂にポートマフィアからの追手に見付かってしまった。
 勿論全員始末したけれど、本当は今直ぐにでもこの街を離れた方が善かった。場所が割れているのに留まる莫迦は居ない。それでも離れ難く思ってしまったのは事実。街に入った追手は全員始末したし、首領直属でもなさそうだったから情報が本部に行くまでには数日掛かるだろう。その見立てでもって、今は未だ動かないでいる。
 何より、中也に話さなければならないし。
 中也とはあの後――衝動的にキスしてしまった後、気不味くて面と向かっては話していない。ただ首に包帯を巻いてあげたら、「揃いだな」と笑うものだから、浮かべる表情に困った。そんな顔をされる謂れはなかった。手当てをしたのではなくて、自分の為出かした失態を直視したくなかっただけだったから。
 人集りの側を通り過ぎる。パトカーが止まっていて、黄色いテェプが張られている。その奥に在るのは身元不明の複数人の遺体だ。太宰が始末した。
「殺人事件ですって……」
「怖いわねえ……あら、太宰さん、聞きまして?」
 声を掛けられて、足を止めた。両手の荷物を抱え直す。笑顔の準備は万端。
「ああ、奥様方。昨日から何か騒がしいと思って――」
 そのとき。
 道の向こうが俄に騒がしくなったかと思うと、一人の男が人混みに向かって突進してきた。「退けェ!」と唾を飛ばして怒鳴っている。穏やかでない。その男の進路上に丁度太宰は立っていた。一歩ズレようとするが、背後に人混みが在って叶わない。
 どん、と突き飛ばされると同時に腹に奇妙な感覚が在った。
「う……ッ?」
「誰かその男を捕まえて! 強盗よ!」
 確かに、男は太宰を見ていなかった。太宰を狙った訳ではなく、ただ行き掛かり上、太宰を刺しただけのようだった。
 刺された。そう、引き抜かれて初めて、ナイフを腹に突き立てられていたのだと理解する。男が走り去りざまに抜いていった刃物を見て、あああの刃渡りだと内臓はやったなと冷静に思う自分が居る。腹が熱い。荷物を取り落として、手を中てるとぬるりとした感触が在る。
 しまった。
 考える間も無く痛みが全身を駆け巡った。姿勢を保っていられない。膝を突いて道に倒れ伏すと、ぐしゃりとスイートピーを散らしてしまった。ピンク色の花弁が血に染まる。
 死ぬんだ、と直感的に理解した。
「いやぁー! 人殺しぃー!」
「太宰さん、太宰さん! しっかりなさって!」
 早々に視界が霞む。我ながら間抜けな終わり方。こんなんじゃあ君に笑われちゃう。薄れる意識の中で、太宰は初めて味わう名状し難い感情に襲われる。
 死にたくない。
 だってそうだろう。
 私が死んでしまったら。ポートマフィアでの地位も失くして、異能も失くして、記憶も失くした彼を、こんな誰も知らない遠い土地に残したまま、ここで私が死んでしまったら。
 彼は一体、如何なるんだ。
 けれど太宰の意志に反して、体からは力が抜けていく。じわじわと、視界に映る赤が広がっていく。
「ちゅう、や……」
 でもきっとだいじょうぶだ。
 口の中の血の味に顔を顰める余力も無く、太宰はゆっくりと意識を手放す。脳裏に蘇るのは、何時かの相棒の言葉。
『俺は、手前の助けがなきゃ生きていけねえ訳じゃねえ。手前だってそうだろ』
 私達の命は、互いに依存しない。それが暗黙の了解だった。
 その言葉に縋ることを、今は少しだけ、許して欲しい。
 眠りに就くその間だけ。

     ◇ ◇ ◇

「……っしゃ!」
 俺は部屋の真ん中に立っていた。何の支えも無しに、だ。振り返る。手を伸ばす距離に寝台は無い。
 歩けたのだ。自分一人で、太宰の助けを借りずに。この弱った足で、床を踏み締めている。
 思わず頬を緩めたのも束の間、汗が玉になって木目の床にぽたぽたと落ちて染みを作った。足に力を入れ続けられなくて、その場にぐしゃりと崩折れる。それでも疲労より、やり遂げた達成感が全身に充足していた。これでやっと、彼奴に顔向け出来るんだ。ごろりと行儀悪く仰向けに寝転がる。太宰、太宰。思えばずっと、俺の怪我をじっと無表情に眺めていた。その怪我、私の所為なんだよと云っていた。私は悪い奴かも知れないとも。
 それが真実だろうが虚言だろうが、俺にとって最早それは問題ではなかった。太宰にあの、感情の抜け落ちたような顔をさせずに済む。それだけで、俺の心臓が沸き立つように跳ねる。この窮屈な鳥籠から飛び出して、外の空気を胸いっぱい吸い込んでやりたい衝動に駆られる。
 記憶は戻らない。彼奴の望む関係を――昔と同じ関係を築くことなど出来やしない。
 けれど、また関係を新しく積み上げることなら出来る。
 昔の俺に較べりゃあ、少し役者が足りてねえかも知れねえが。
「……それでも太宰。俺は、手前と……」
 俺は、太宰と。その先の呟きを喉奥に留め、天井をぼんやりと眺めた。それは多分、直接彼奴に云うべき言葉だ。窓から差し込む光に、手の平を透かす。ファンがゆるゆると、部屋の暖かな空気を掻き混ぜていた。それからちらと時計に目をやる。短針が三から少し落ちた処。何時もなら、太宰は一旦返ってきている時間だ。
「……彼奴、今日は遅えなァ」
 朝に聞いた言葉を思い出す。「昨日のことは、忘れてね」。昨晩の、ひどく取り乱した様子を恥じているようだった。然し記憶喪失の人間に、これ以上忘れろ、などとはひどい男だ。何もかもを失ったすっかすかの俺の脳には、太宰と過ごした日々を仕舞っていくしかないのに。俺の記憶から太宰が居なくなってしまったら、本当に何も失くなってしまう。太宰が居たから、絶望せずに前を向けた。怪我も治せた。こんなにも穏やかな日々を過ごせた。
 これからだって、きっと。
「……未だかな」
 穏やかな春の日差しが、硝子越しにきらきらと降り注いでいた。
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