雨ときどき荒れ模様
(2015/09/25)
「中原さんの調子が悪いんですよね」
そう言い出したのは梶井だった。組織のラウンジで気持ち好く酩酊していた太宰は、その名前を聞いて一気に意識を現実へと引き戻される。げ、と表情筋が限界まで歪むのを自覚する。
「気もそぞろ。細かいミスが多い。まるで寝不足みたいに隈ばかり。あの人にしては、珍しい」
梶井が淡々と、『調子が悪い』点を指折り数える。その反対側の手は、檸檬を弄んでいる。酒は存外、減っていない。太宰にと云うより、まるで独り言のように発せられるそれは、けれど確かに太宰に向けられていた。君も面倒臭いな。ひとつ溜め息を吐いてから、太宰はにこやかに笑う。
「そうかな?」
「僕、貴方のそう云う処嫌いですよ」
そう告げる梶井の口元は笑っていた。然しゴーグルの奥の目が何時になく鈍い光を帯びていて、太宰はうっそりと笑む。
びり、と空気が割けるかと思われた瞬間――そこへふわりと当てられるガーゼのような制止の声。
「私もそう思うよ。太宰君、君なら如何にかしてあげられるのではないかね」
広津がからん、とグラスを傾け、穏やかな視線を此方へ向けていた。太宰はちら、と視線を返す。ラウンジには太宰と梶井と広津の三人しか居なかった。だから会話は筒抜けだったろうが、然し広津がそんなお節介を焼くことが太宰には意外だった。未熟な者に助言こそすれ、この男は中也のことを買っていたから、態々口を挟むようなことは滅多に無い。
「私が? 冗談でしょう」
「君以外に誰が居るのかね」梶井と違って、広津は飽くまで穏やかな口調を保っていた。「首領に感付かれて、厄介なことにならない内に処理し給えよ」前言撤回。きっと彼にとっては首領の不利益にならないことが最優先事項なのだから、そのお節介は尤もだったのだろう。太宰は肩を竦めた。流石、最古参ともなれば、年若い幹部の扱いなどは心得られているようだった。仕方無い。今回ばかりは太宰の所為では無かったが、相棒の誼だ、動いてやることとしよう。面倒な気持ちを抑えて、手元のグラスを飲み干す。
◇ ◇ ◇
がちゃん、と扉を開けて中也が帰って来る。太宰は爪にマニキュアを塗りながら、にこやかにそれを迎え入れた。
「ああ、おかえり、中也。遅かったね、今日も任務に手間取ったの?」顔を見て、付け足す。「うわ、ひどい隈」
「……今俺の一番見たくねえもの何だか中ててみろよ」
「ええー、何だろ。はみ出た腸とか?」
「似たようなもんだな、手前の面だよ」
中也は手に下げていたビニール袋をどさりと台所の床に置き、心底嫌そうな顔をした。こんな美丈夫を捕まえてひどいなあ。突き刺すような苛立ちの視線に、笑いは喉奥で噛み殺す。此処は中也の私室で、中也にとっては誰も居る筈の無い空間だ。マフィアの本部に用意されたものではなく、プライベートの。だから太宰はずかずかと入り込んだ。態々床に座り込んで、荷物を広げて、動く心算は無いと云う意思まで明確に示して。態とらしく、ローテェブルにマニキュアの小瓶などを並べてみる。赤、黒、紫。ピンク。次の指はどれにしようかな。今日の気分はピンクかな。
「本当は寝台の中で『おかえりなさい、ア・ナ・タ♡』と君を出迎える心算だったんだけどさあ」
「死ね」
「君、寝台を如何したの。ぐしゃぐしゃじゃない」
ぴ、と奥の寝室を指差す。居間は平常の中に在ったが、中也の帰宅前に太宰が足を踏み入れた寝室は凡そ人の存在出来る空間ではなかった。家具と云う家具が押し潰され、窓は割れっぱなし。まるで強盗に入られたかのような、或いは――何か大きな超常の力にでも押し潰されたかような。その状態に陥ったのが二週間前なのかつい昨日のことなのか太宰には興味も無かったが、兎に角こんな部屋で日常を過ごしている中原中也は遂に気が触れたに違いないと少し期待もしたものだった。
実際に顔を突き合わせてみれば特段そんなことは無かったが。
中也が面倒そうに目を伏せる。琥珀の視線が太宰から外れる。
「……煩えな。如何でもいいだろ」
「まあねえ、君の調子が如何だろうが、私にとっては如何でもいい」
肩を竦める。大体、太宰は知っていた。相棒の調子が悪いことなど誰に云われるまでもなく、太宰の目を以ってすれば一目瞭然だった。寧ろ太宰が一番に気付かずに一体誰が気付くのか。今だって、嫌味は云うものの食って掛かってこないのだ。判り易過ぎて失笑ものだ。
ただその原因が判らなかった。だから放置していた。面倒臭かったし、何より中也であれば、体調の管理くらい一人で始末を付けるだろうと思っていた。そこまで互いに依存している心算は無い。
なのに太宰が中也の不調に気付いてから二週間、梶井と広津との飲みから三日。一向に治る気配が無い。
仕事にだって支障が出るし。
「首領に云われたんだよ。中原君が使いものにならないって」
少しして、冷蔵庫にビールを並べていた中也から「……あぁ、そう」と気の無い返事が返って来る。信じたかな。信じなかったかな。ぺたぺたと爪先に刷毛を滑らせながら考える。流石に太宰でも、目を見ながら話すのでなければ相棒の二、三言でその考えを正確に読める訳ではなかった。いや、仕事中ならそれも可能だったかも知れない。けれど今はオフで、そして中也の調子はひどく平坦だ。
「君、最近世間で何て云われてるか知ってる」
「……あァ?」
ひら、と手の平を返す。うん、中々佳く出来た。太宰は薄桃付いた自分の爪先を眺めながら、ふっと指に息を吹き掛ける。乾くまで、暫く動けない。
「『中原中也は、近頃牙を抜かれて家畜に成り下がったようだ』」
がしゃん、と目の前のローテェブルが引っ繰り返った。ばちゃ、と広げていたマニキュアの瓶が散る。絨毯が、染まるのを、じっと眺める。
それから溜め息。
「あーあ、酷いね」
「煩え」
衝動的にテェブルを蹴り飛ばした張本人が、唸るように云った。「煩え、全部手前の所為だろうが……」
「え、何それ如何云う意味」
聞き捨てならなかった。今回ばかりは太宰の所為ではない筈だった。中也のお気に入りの部下を殺してもいなければ、女子供を鏖なんて任務を態と中てた覚えも無い。中也がこう云う荒れ方をするときは大抵その二つだ。けれど此処二――いや、三ヶ月の間でそう云うことはしていない。その筈だ。指折り数える。
……うん、してない。
太宰の仕草を尻目に当の本人はチッと舌を打ち、それからふいと目を逸らす。
「失言だ。……忘れろよ」
「……あ、そ。何が原因なのか知らないけど如何にかしなよ、生理前の女性じゃあるまいし」
そう云うとギロリと睨まれた。何が気に入らないのか苛々と毛を逆立てて、まったく、これだから嫌なんだ、この男は。「どの口が、」と怒鳴り声が出るかと思われた処で、ぴたりとその口が閉じられる。「……止めだ」そうして、ハンガーに掛けた筈の外套に再び手を伸ばす。
「手前もその、下んねえ自殺癖を好い加減如何にかしろよ」
「『その』って何? 私今日は何もしてな……ねえ、何処行くの!」
「手前の居る空間で寝れる訳無えだろうが」
それはそうだ。太宰は深く頷き、バタンと扉が閉まるのを見送った。窓の外は、そろそろ月が高くなろうとしていた。
次に向かったのは、ポートマフィアの本部に用意された中也のプライベートルームだった。両の指とも綺麗に塗料が発色していて、ひどく気分が好かった。
「だからさあ、そう云うの止めなよ」
化粧を施した指先に反して、ドアノブを回した先の部屋の中は酷い荒れようだった。棚や机の類は全部グシャリと潰れていて、窓は凡て罅が入っていた。寝室と似たようなものだ。そうして部屋全体が今もびりびりと細かく、まるで何かに怯えるように震えているのだ。太宰はその現象の原因を知っている、過剰な重力操作で起こり得る事象であることを知っている。今もこの部屋全体に、重力に因る負荷が掛け続けられているのだ。こんな中で、無事に立っていられる者など、人間失格くらいのものだろう。それ以外の例外は無い。
例え本人でも。
奥の寝台の――辛うじて寝台の名残を残した木組みの中で、凡ての元凶が己の体を抱き締めるように小さく其処に蹲っていた。
「中也」
名を呼ぶ。
虚ろな視線が、太宰を映した。
「……だ、ざ……」
「ここ最近、寝不足だったのはこの所為かい」
苦しそうだなあ。ふふ、と側にしゃがんで頬に手をつき、中也の顔を覗き込む。ぎし、と床が軋んで、この生き物を中心に膨大な重力が掛かっていることが知れる。自分の体にもきっと相当な負荷を掛けているんだろう。そして制御出来てない。
莫迦じゃないの。
「中也。助けてあげようか」
「……ッ」
声にならない悲鳴によって、齎されるのはひどい気分の良さだ。不調の原因は知らない。異能の暴走は今夜が初めてなのかここ二週間ずっとなのかも知らない。この男が何を思い、何を考え、何にストレスを感じて異能に不調を来たしているのかなど知りもしない。
それでも太宰には中也を助けることが出来た。
その指一本で。
「ほら、私に縋って、助けて呉れって云いなよ。私に全部預けてさあ」
「だれ、が……」
「強情屋。死にたいの」
笑った。と、ふと自分の声が二重にぶれたような錯覚に陥る。あれ、と首を傾げる。自分の漏らした笑みと、もう一つは目の前から。
「手前に」蹲った体躯、その乱れた髪の隙間からちらと伏せた目が覗いてばちりと太宰と目が合った。苦しげに呻き、床に頬を押し付け、嫌な汗をにじませながら、それでも中也は笑っていた。「手前に縋るくらいなら、死んだ方がマシだ……」
聞こえてくる声はそれきり途絶える。
「……中也?」
呼ぶ。返事が無い。
「ちゅうや」
ぜいぜいと、苦しげな呼吸の音と、みしみしと壁の悲鳴だけが響く。
太宰は少し、考える。先程までの気分の良さは、何時の間にか何処かに飛んでしまっていた。
「……君がさあ、死んだら」考え、考え、口を開く。「困るんだよね。いや、別に私は君の異能が無くたって困らないんだけど、君が死んだら誰か別の異能無効化が必要な人間と組まされるだろうし、その人が君よりマシだって保証は無いし、君はまあ、相棒としては多少マシな部類じゃないかと思うんだよ」
ぴた、と黙る。
聞く者の居ない口上が重力でぐしゃりと潰れた。この調子だと部屋だけでなく本部も崩壊しそうだ。そうなったらこの男如何するんだろうか。太宰はぼんやりと、目の前で蹲る男を見る。何が不調なのかは知らない。全部手前の所為だろうが。その言葉の真意も判らないままだ。
ああ、そうだ。
「判らないまま、君を死なせるの、後味悪いからさあ……」
そう、誰に聞かせるでもなく云う。だから仕方無い。
ぎゅ、と目を閉じて、薄桃付いた指先で。
その体に、触れた。
◇ ◇ ◇
「で? 今度は何に苛々してたの」
漸く落ち着いた呼吸を取り戻した中也に、太宰は心底嫌そうに問い掛けた。
「手前に教える義理は――」
「有るでしょ?」マァ別に私は何だって善いんだけど。「私が助けてあげたんだからさあ」
その言葉に、中也ががしがしと頭を掻く。「頼んでねえよ」そうは云っても義理堅いこの男のことだ、太宰の言葉に一理有れば、正直に理由を吐くんだろう。太宰はその金の瞳をじっと見る。伏せられたそれが微かに動く気配を見せた。こうして正面向かって話せば嘘を吐けないのは判ってるでしょう。それはどちらも、お互い様。
「……手前が」
「うん?」
「手前が。毎日毎日、夢ん中でほいほいくたばってただけだよ」
ぽつりと呟かれた言葉に太宰の言語中枢が停止した。その間に、ばたん、と扉を閉めて小柄な影がさっさと部屋を出て行く。
「……はァ!? えっちょっと何それ!? 勝手に殺さないで呉れる!?」
え、て云うか私が死ぬ夢って万々歳なんじゃないの? 何で部屋壊してんの? そんなに苛々するほどすごい死に方したの私? 訳が分からない。先刻まで優位に立っていたのは此方の筈なのに、何だこれひどく腹立たしい。
「ねえ、ちょっと待ちなよ! 説明!」
太宰はソファに引っ掛けていた外套を引っ掴み、中也の後を急いで追った。
「中原さんの調子が悪いんですよね」
そう言い出したのは梶井だった。組織のラウンジで気持ち好く酩酊していた太宰は、その名前を聞いて一気に意識を現実へと引き戻される。げ、と表情筋が限界まで歪むのを自覚する。
「気もそぞろ。細かいミスが多い。まるで寝不足みたいに隈ばかり。あの人にしては、珍しい」
梶井が淡々と、『調子が悪い』点を指折り数える。その反対側の手は、檸檬を弄んでいる。酒は存外、減っていない。太宰にと云うより、まるで独り言のように発せられるそれは、けれど確かに太宰に向けられていた。君も面倒臭いな。ひとつ溜め息を吐いてから、太宰はにこやかに笑う。
「そうかな?」
「僕、貴方のそう云う処嫌いですよ」
そう告げる梶井の口元は笑っていた。然しゴーグルの奥の目が何時になく鈍い光を帯びていて、太宰はうっそりと笑む。
びり、と空気が割けるかと思われた瞬間――そこへふわりと当てられるガーゼのような制止の声。
「私もそう思うよ。太宰君、君なら如何にかしてあげられるのではないかね」
広津がからん、とグラスを傾け、穏やかな視線を此方へ向けていた。太宰はちら、と視線を返す。ラウンジには太宰と梶井と広津の三人しか居なかった。だから会話は筒抜けだったろうが、然し広津がそんなお節介を焼くことが太宰には意外だった。未熟な者に助言こそすれ、この男は中也のことを買っていたから、態々口を挟むようなことは滅多に無い。
「私が? 冗談でしょう」
「君以外に誰が居るのかね」梶井と違って、広津は飽くまで穏やかな口調を保っていた。「首領に感付かれて、厄介なことにならない内に処理し給えよ」前言撤回。きっと彼にとっては首領の不利益にならないことが最優先事項なのだから、そのお節介は尤もだったのだろう。太宰は肩を竦めた。流石、最古参ともなれば、年若い幹部の扱いなどは心得られているようだった。仕方無い。今回ばかりは太宰の所為では無かったが、相棒の誼だ、動いてやることとしよう。面倒な気持ちを抑えて、手元のグラスを飲み干す。
◇ ◇ ◇
がちゃん、と扉を開けて中也が帰って来る。太宰は爪にマニキュアを塗りながら、にこやかにそれを迎え入れた。
「ああ、おかえり、中也。遅かったね、今日も任務に手間取ったの?」顔を見て、付け足す。「うわ、ひどい隈」
「……今俺の一番見たくねえもの何だか中ててみろよ」
「ええー、何だろ。はみ出た腸とか?」
「似たようなもんだな、手前の面だよ」
中也は手に下げていたビニール袋をどさりと台所の床に置き、心底嫌そうな顔をした。こんな美丈夫を捕まえてひどいなあ。突き刺すような苛立ちの視線に、笑いは喉奥で噛み殺す。此処は中也の私室で、中也にとっては誰も居る筈の無い空間だ。マフィアの本部に用意されたものではなく、プライベートの。だから太宰はずかずかと入り込んだ。態々床に座り込んで、荷物を広げて、動く心算は無いと云う意思まで明確に示して。態とらしく、ローテェブルにマニキュアの小瓶などを並べてみる。赤、黒、紫。ピンク。次の指はどれにしようかな。今日の気分はピンクかな。
「本当は寝台の中で『おかえりなさい、ア・ナ・タ♡』と君を出迎える心算だったんだけどさあ」
「死ね」
「君、寝台を如何したの。ぐしゃぐしゃじゃない」
ぴ、と奥の寝室を指差す。居間は平常の中に在ったが、中也の帰宅前に太宰が足を踏み入れた寝室は凡そ人の存在出来る空間ではなかった。家具と云う家具が押し潰され、窓は割れっぱなし。まるで強盗に入られたかのような、或いは――何か大きな超常の力にでも押し潰されたかような。その状態に陥ったのが二週間前なのかつい昨日のことなのか太宰には興味も無かったが、兎に角こんな部屋で日常を過ごしている中原中也は遂に気が触れたに違いないと少し期待もしたものだった。
実際に顔を突き合わせてみれば特段そんなことは無かったが。
中也が面倒そうに目を伏せる。琥珀の視線が太宰から外れる。
「……煩えな。如何でもいいだろ」
「まあねえ、君の調子が如何だろうが、私にとっては如何でもいい」
肩を竦める。大体、太宰は知っていた。相棒の調子が悪いことなど誰に云われるまでもなく、太宰の目を以ってすれば一目瞭然だった。寧ろ太宰が一番に気付かずに一体誰が気付くのか。今だって、嫌味は云うものの食って掛かってこないのだ。判り易過ぎて失笑ものだ。
ただその原因が判らなかった。だから放置していた。面倒臭かったし、何より中也であれば、体調の管理くらい一人で始末を付けるだろうと思っていた。そこまで互いに依存している心算は無い。
なのに太宰が中也の不調に気付いてから二週間、梶井と広津との飲みから三日。一向に治る気配が無い。
仕事にだって支障が出るし。
「首領に云われたんだよ。中原君が使いものにならないって」
少しして、冷蔵庫にビールを並べていた中也から「……あぁ、そう」と気の無い返事が返って来る。信じたかな。信じなかったかな。ぺたぺたと爪先に刷毛を滑らせながら考える。流石に太宰でも、目を見ながら話すのでなければ相棒の二、三言でその考えを正確に読める訳ではなかった。いや、仕事中ならそれも可能だったかも知れない。けれど今はオフで、そして中也の調子はひどく平坦だ。
「君、最近世間で何て云われてるか知ってる」
「……あァ?」
ひら、と手の平を返す。うん、中々佳く出来た。太宰は薄桃付いた自分の爪先を眺めながら、ふっと指に息を吹き掛ける。乾くまで、暫く動けない。
「『中原中也は、近頃牙を抜かれて家畜に成り下がったようだ』」
がしゃん、と目の前のローテェブルが引っ繰り返った。ばちゃ、と広げていたマニキュアの瓶が散る。絨毯が、染まるのを、じっと眺める。
それから溜め息。
「あーあ、酷いね」
「煩え」
衝動的にテェブルを蹴り飛ばした張本人が、唸るように云った。「煩え、全部手前の所為だろうが……」
「え、何それ如何云う意味」
聞き捨てならなかった。今回ばかりは太宰の所為ではない筈だった。中也のお気に入りの部下を殺してもいなければ、女子供を鏖なんて任務を態と中てた覚えも無い。中也がこう云う荒れ方をするときは大抵その二つだ。けれど此処二――いや、三ヶ月の間でそう云うことはしていない。その筈だ。指折り数える。
……うん、してない。
太宰の仕草を尻目に当の本人はチッと舌を打ち、それからふいと目を逸らす。
「失言だ。……忘れろよ」
「……あ、そ。何が原因なのか知らないけど如何にかしなよ、生理前の女性じゃあるまいし」
そう云うとギロリと睨まれた。何が気に入らないのか苛々と毛を逆立てて、まったく、これだから嫌なんだ、この男は。「どの口が、」と怒鳴り声が出るかと思われた処で、ぴたりとその口が閉じられる。「……止めだ」そうして、ハンガーに掛けた筈の外套に再び手を伸ばす。
「手前もその、下んねえ自殺癖を好い加減如何にかしろよ」
「『その』って何? 私今日は何もしてな……ねえ、何処行くの!」
「手前の居る空間で寝れる訳無えだろうが」
それはそうだ。太宰は深く頷き、バタンと扉が閉まるのを見送った。窓の外は、そろそろ月が高くなろうとしていた。
次に向かったのは、ポートマフィアの本部に用意された中也のプライベートルームだった。両の指とも綺麗に塗料が発色していて、ひどく気分が好かった。
「だからさあ、そう云うの止めなよ」
化粧を施した指先に反して、ドアノブを回した先の部屋の中は酷い荒れようだった。棚や机の類は全部グシャリと潰れていて、窓は凡て罅が入っていた。寝室と似たようなものだ。そうして部屋全体が今もびりびりと細かく、まるで何かに怯えるように震えているのだ。太宰はその現象の原因を知っている、過剰な重力操作で起こり得る事象であることを知っている。今もこの部屋全体に、重力に因る負荷が掛け続けられているのだ。こんな中で、無事に立っていられる者など、人間失格くらいのものだろう。それ以外の例外は無い。
例え本人でも。
奥の寝台の――辛うじて寝台の名残を残した木組みの中で、凡ての元凶が己の体を抱き締めるように小さく其処に蹲っていた。
「中也」
名を呼ぶ。
虚ろな視線が、太宰を映した。
「……だ、ざ……」
「ここ最近、寝不足だったのはこの所為かい」
苦しそうだなあ。ふふ、と側にしゃがんで頬に手をつき、中也の顔を覗き込む。ぎし、と床が軋んで、この生き物を中心に膨大な重力が掛かっていることが知れる。自分の体にもきっと相当な負荷を掛けているんだろう。そして制御出来てない。
莫迦じゃないの。
「中也。助けてあげようか」
「……ッ」
声にならない悲鳴によって、齎されるのはひどい気分の良さだ。不調の原因は知らない。異能の暴走は今夜が初めてなのかここ二週間ずっとなのかも知らない。この男が何を思い、何を考え、何にストレスを感じて異能に不調を来たしているのかなど知りもしない。
それでも太宰には中也を助けることが出来た。
その指一本で。
「ほら、私に縋って、助けて呉れって云いなよ。私に全部預けてさあ」
「だれ、が……」
「強情屋。死にたいの」
笑った。と、ふと自分の声が二重にぶれたような錯覚に陥る。あれ、と首を傾げる。自分の漏らした笑みと、もう一つは目の前から。
「手前に」蹲った体躯、その乱れた髪の隙間からちらと伏せた目が覗いてばちりと太宰と目が合った。苦しげに呻き、床に頬を押し付け、嫌な汗をにじませながら、それでも中也は笑っていた。「手前に縋るくらいなら、死んだ方がマシだ……」
聞こえてくる声はそれきり途絶える。
「……中也?」
呼ぶ。返事が無い。
「ちゅうや」
ぜいぜいと、苦しげな呼吸の音と、みしみしと壁の悲鳴だけが響く。
太宰は少し、考える。先程までの気分の良さは、何時の間にか何処かに飛んでしまっていた。
「……君がさあ、死んだら」考え、考え、口を開く。「困るんだよね。いや、別に私は君の異能が無くたって困らないんだけど、君が死んだら誰か別の異能無効化が必要な人間と組まされるだろうし、その人が君よりマシだって保証は無いし、君はまあ、相棒としては多少マシな部類じゃないかと思うんだよ」
ぴた、と黙る。
聞く者の居ない口上が重力でぐしゃりと潰れた。この調子だと部屋だけでなく本部も崩壊しそうだ。そうなったらこの男如何するんだろうか。太宰はぼんやりと、目の前で蹲る男を見る。何が不調なのかは知らない。全部手前の所為だろうが。その言葉の真意も判らないままだ。
ああ、そうだ。
「判らないまま、君を死なせるの、後味悪いからさあ……」
そう、誰に聞かせるでもなく云う。だから仕方無い。
ぎゅ、と目を閉じて、薄桃付いた指先で。
その体に、触れた。
◇ ◇ ◇
「で? 今度は何に苛々してたの」
漸く落ち着いた呼吸を取り戻した中也に、太宰は心底嫌そうに問い掛けた。
「手前に教える義理は――」
「有るでしょ?」マァ別に私は何だって善いんだけど。「私が助けてあげたんだからさあ」
その言葉に、中也ががしがしと頭を掻く。「頼んでねえよ」そうは云っても義理堅いこの男のことだ、太宰の言葉に一理有れば、正直に理由を吐くんだろう。太宰はその金の瞳をじっと見る。伏せられたそれが微かに動く気配を見せた。こうして正面向かって話せば嘘を吐けないのは判ってるでしょう。それはどちらも、お互い様。
「……手前が」
「うん?」
「手前が。毎日毎日、夢ん中でほいほいくたばってただけだよ」
ぽつりと呟かれた言葉に太宰の言語中枢が停止した。その間に、ばたん、と扉を閉めて小柄な影がさっさと部屋を出て行く。
「……はァ!? えっちょっと何それ!? 勝手に殺さないで呉れる!?」
え、て云うか私が死ぬ夢って万々歳なんじゃないの? 何で部屋壊してんの? そんなに苛々するほどすごい死に方したの私? 訳が分からない。先刻まで優位に立っていたのは此方の筈なのに、何だこれひどく腹立たしい。
「ねえ、ちょっと待ちなよ! 説明!」
太宰はソファに引っ掛けていた外套を引っ掴み、中也の後を急いで追った。
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